◎ 戦う君よ
「あ…………!!!!」
思わずハリーが声を上げるので、隣に座っていたロンが不思議そうな顔を向けてくる。
最も今はホグワーツ新年度初めの祝賀会の最中である。大広間は生徒たちの話し声や笑い声で溢れ、新入生である彼の声は周囲の数人にしか気が付かれないようだった。
「僕……。あの人、知ってる。」
ハリーは
生徒たちの座席からはほど遠い教員席に腰掛けている黒衣の魔女…ヨゼファのことを指差す。
………ふと彼女の皿の上を見て、ケーキばかりが五つほど乗っかっていることにも驚いたが。
「知っているのも当然だわ。」
傍に座っていたハーマイオニーにもハリーの発言が届いていたらしく、彼女は得意そうな顔をして話し出す。ロンが小さな声で「また始まったよ…。」とぼやいた。
「魔法図象学のヨゼファ先生は魔法陣の第一人者ですもの。若いのに沢山本も出していらっしゃるの。すごく分かりやすかったから、私はもう入門編と基本編の二冊を読んだわ。」
「でも魔法陣ってもっとずっと昔からあるもんだろ。ママやパパだって子供の頃描いてたって言ってたよ。」
ロンが頬杖をつきながらそれに応える。ハーマイオニーは自分の発言が遮られたことが不満だったらしく、彼へと睨むような視線をぶつけた。
「そうね。ヨゼファ先生が再発見するまで魔法陣は子どもの遊びとしか考えられていなかったわ。図象をきちんと整理して、学問にまで高めたのは彼女の功績よ。」
「でもさー…、魔法陣っていちいち描かないといけないんだぜ?普通の魔法なら杖振って呪文唱えるだけなのに。いらなくない?」
「魔法と魔法陣では役割が違うの。そうやって選り好みして視野を狭めるのは心が貧しい人間がする行為よ。」
ロンはハーマイオニーの弁論の鋭さに「うへえー、」と信じられないくらい嫌そうな表情をする。
その顔を見てハリーは思わず吹き出すが、ハーマイオニーもまた同じくらい嫌そうな表情をロンへと返した。
今一度ハリーがヨゼファへと視線を向けると、その皿の上のケーキは跡形も無くなっていた。
彼女はグラスをゆらゆらと揺らしつつ時々中身を飲みながら、隣のこれもまた頭から爪先まで黒い衣服に身を包んだ魔法使いとの会話に興じている。
「…………………。先生だったんだ…。」
ハリーは思いがけない再会への驚きが未だ収まらないまま、ポツリと呟いた。
その声が聞こえたわけでもないのに、ヨゼファがこちらへと視線を寄越すので二人の瞳はぴたりと合う。
ハリーとヨゼファは互いのことを見つめてパチパチと数回瞬きするが、やがて彼女は愛想良く笑ってこちらへと軽く手を振ってくれた。
その穏やかな対応に安心して、ハリーも笑って手を振り返す。
ヨゼファは隣の黒ずくめの魔法使いの肩に掌を置き耳元に唇を寄せ、そっと何事かを耳打ちした。……親しい間柄のようである。
それに促されたのか、彼もまたハリーへと視線を向けた。
闇色の瞳でこちらを探るように見据えられた瞬間、ハリーの額の傷跡が鋭く痛んだ。
思わず手にしていたフォークを取り落とし、そこを抑えて喘ぐ。それにいち早く気が付いたロンが焦ったように大丈夫かと訪ねてくれた。
…………痛みはすぐに引くので、心配しないでと新しい友達である彼に伝える。
そしてハリーは…今一度ヨゼファと黒衣の魔法使いの方を見た。
ヨゼファは彼ではなく、逆の隣に腰掛けていた魔女と笑いながらまた何事かの会話を交わしていた。
そんな彼女のことを、彼は黒い瞳を細めて眺めている。ヨゼファはそれには気が付いていないようだったが。
*
豪奢な晩餐会を終えて生徒たちが皆ぞろぞろと寮へと帰って行く間、ハリーはふと思い立って人の流れから外れては足早に歩を進める。
ヨゼファもまた、ちょうど大広間から立ち去って行く最中だったのが目に入ったからだ。彼女は生徒たちとは異なる出口へと足を運び、薄暗い廊下へと歩んで行く。
歩く速度は速かった。
ハリーはほとんど走ってしまいながら、その距離をどうにか縮めようと試みる。
青い月光が大きな窓から斜めに差し込む中、ヨゼファは長々とした廊下を黒いローブの裾を翻して歩んでいた。光沢があるピンヒールが石の床を叩く度に、硬質な音が辺りへと響く。
「あの、先生………。」
いつまで経っても二人の距離の隔たりが小さくなることがないので、ハリーはついに声を上げてヨゼファを呼び留めた。
しかし彼女は黒い廊下の突き当たりを折れ、その向こうへと姿を消してしまう。
ハリーは走ってそこまで辿り着き、同じように突き当たりを右折した。
右折した先で、小さく息を飲む。
二人の背の高い魔法使いが、すぐそこに立っていたからだ。
ハリーも驚いたがヨゼファとスネイプも驚いたらしく、少々面食らった顔でこちらを見下ろしてくる。
「ヨゼファ先生……」
「小僧」
ハリーはヨゼファへと言葉をかけようとするが、それは低く冷たい声で遮られる。
今一度、ハリーはスネイプのことを見上げては瞳を交えた。黒く寒々しいその色は、洞窟の奥を漂う漆黒の闇を連想させる。
「新入生だな…?」
「は、はい。」
「消灯時間は迫っている。ホグワーツの造りをろくに理解していない貴様が…監督生の指示に従わず夜に出歩くことがどれほど危険か理解できないのか。」
「……………。どういうことですか?」
「迷った挙句どこぞの開かずの間に閉じ込められ、数ヶ月後白骨になって発見されるやもしれぬ。危機管理があまりにも出来ていない、グリフィンドール十点減点。」
淡々と告げられていく彼の言葉に場の空気は凍てついて硬直する。
ヨゼファはそれを解くように深々と溜め息をして、スネイプの肩を軽く叩いた。
「セブルス。まあ…貴方も落ち着きなさい。」
「充分落ち着いている。」
「そう…。そうね、うん。とっても落ち着いてるわね。」
「馬鹿にしてるのか。」
食ってかかるようなスネイプの発言をヨゼファは苦笑して受け流した。そうしてハリーに視線を合わせる為に膝を折って屈む。
薄闇の中で、彼女の真っ青な瞳が不可思議にチラリと光った。
「ハリー、私になにか用事?」
「用事っていうほどでは…でも、この前会ったヨゼファさんが先生だとは思わなくて…」
「ヨゼファ
先生だ。」
スネイプが冷ややかにハリーの発言を牽制するが、ヨゼファは気にしないようにと目配せをして続きを促す。
「あの時…良くして頂いたので。お礼がしたくて。」
「………………。貴方本当に十一歳?」
「え?」
「いえ、その年で随分気遣いがしっかり出来るなあ…って思って驚いただけ。……お礼なんて別に良かったのよ。でも、どうもありがとう。」
ヨゼファはハリーの頭を軽くポンポンと撫でてから、「これからよろしくね。」と和やかに言う。
ハリーもそれに軽くお辞儀をして「よろしくお願いします。」と返した。
「さて……。わざわざお礼と挨拶をしに来てくれるなんて礼儀正しくてびっくりだわ、すごく嬉しい。グリフィンドールには十五点あげましょうか。」
彼女は少し肩を竦めてスネイプへと目配せする。彼は分かりやすく表情を険しくするが、ヨゼファは特に気にした様子は無いようだった。むしろ楽しそうにしている。
「帰り方、分かる?寮への行き方。」
「はい。同じ寮の友達が待ってくれているので。」
「もう友達ができたの、良かったわね…。それじゃあ待たせたら申し訳ないわ。おやすみなさい、ハリー。」
「おやすみなさい、ヨゼファ先生…と、スネイプ先生……。」
ヨゼファは笑顔でハリーの挨拶に応じるが、スネイプには当たり前のように無視された。
ハリーは再び廊下の角を折れ、光が漏れる大広間へと戻ろうとするが…思い留まって、今一度突き当たりへと戻ってはそろりと顔を覗かせる。
先ほどよりも少し奥へと進んだところで、ヨゼファとスネイプは未だに立ち止まって何事か言葉を交わしている。勿論それが聞き取れるほどの距離では無かったが。
二人が来ている衣服がほとんど真っ黒だった為に、双方共に首だけが中空に浮かんでいるようにも見える。
暗闇に溶けていくようなふたつの青白い横顔を眺めながら、ハリーは言い知れず不思議な気持ちを覚えた。
*
「…………………。分かりやすい人ねえ…ちょっと大人気ないわよ。」
「黙れ。」
各自の私室へと戻る道すがら、ヨゼファは溜め息交じりに零した。スネイプはそれへとぴしゃりと言葉を返す。彼女は片眉を上げて苦笑しては応えるが、切り替えるように言葉を続ける。
「それと……今年から闇の魔術に対する防衛術を担当されるクィレル先生。貴方の顔見て相当驚いてたわよ。まさか自分の他にも元死喰い人が教員やってるなんて思いもよらなかったようね。」
「自分のことを棚に上げるな。」
「私がいなくなった後に加わった人だもの。知らないわよ。」
「魔法省から強引に
学校へとねじ込まれた人物が元死喰い人とは……色々な事情が垣間見得ますな。」
「安心して、彼きっと悪い人じゃないわ。」
「悪くない人間が死喰い人になるのか?馬鹿げている。」
「ああ……その言葉、胸に深く刺さるわね。」
ヨゼファは大袈裟に胸へと手を当てて息を吐く。スネイプはその様を横目で見て、フンと鼻を鳴らした。
「というのも…性質はとっても神経質で大それたことなんて本来は出来ない人よ、少し話してすぐに分かった。だから私のこともよくよく信用してくれたわ…若しくは利用してやろうと演技してたのかは知らないけど。なんにせよ、すごく不安だったんでしょうね。色々と。」
彼女は喋りながら長い手袋を左手から引き抜き、腕の内側に浮かぶ黒々とした文様をスネイプへと軽く見せる。クィレルにしてみせた時と同様に。
「………隻眼の樹の薬が効かなくなったわ。貴方もそうでしょう?」
スネイプもまた袖を捲って自分の腕の内側の印を眺めては無言で頷いた。
「人間の形を保つのは未だ不可能なようだけれど。確実に何かに宿ってあの人がお戻りになったのね……。そしてクィレル先生の狙いはやっぱり賢者の石よ。今年のホグワーツはちょっとだけ…騒々しくなるかもね。」
「
有名人のハリー・ポッターも入学なさったことですし?」
「…………本当に分かりやすい人だわ。まあ…でも。それは仕様がないことよね。」
ヨゼファはスネイプの背中に腕を回して、広いそこをポンと一度叩いてみせる。彼はそれを拒否せず、ヨゼファに抱かれるままにしていた。
「これからどうする。」
「クィレル先生とはこのまま
良い関係を続けてみるつもりよ。もしかしたら被害を最小限に留められるかもしれない。」
「回りくどい方法を。強請るか痛めつけた方が早い。」
「エレガントじゃない方法ね。貴方北風と太陽っていうマグルの童話知ってる?」
「知らん。」
「じゃあ今度枕元で読み聞かせしてあげましょうね。」
あはは、とヨゼファが小さい声を上げて笑うので、スネイプは彼女へと冷え冷えとした視線を送る。
彼女はそれを見つめ返してから、顔を上げて…大きな窓から差し込む青色の月明かりの方を眺める。
いつもの階段に差し掛かったらしい。毎度この階段を境にして彼女は階上へ、スネイプは地下へと各自の私室へ別れていくのだ。
窓の外では落ちてきそうなほどに巨大な満月を黒い空が支えては浮かべていた。ヨゼファはそれを見上げて嘆息をする。
「月が綺麗ね……。」
月の逆光を背景にして呟いたヨゼファへと、スネイプは言葉をかけようと口を開きかけた。しかし途中で思い留まり、結局彼は薄い唇を閉じるに至る。
ゆっくりと彼女が掌に触れて握ってくる気配を覚える。瞳を合わせると、少し首を傾げて微笑まれた。
「………震えてるわね。寒い?」
スネイプは無言のままで黒い石床へと視線を落とした。
そして少しの力を込めて彼女の冷たい掌を握り返す。ヨゼファは空いている方の手で彼の首の後ろ…首筋に触れてからその黒い髪をくしゃりと撫でた。
後頭部に掌を回したまま、ヨゼファはスネイプの額と自らの額を合わせる。
「安心して。最後には必ず貴方の思う通りになるわ。」
「………………そんな、」
少しの沈黙の後、スネイプは言葉を続ける。
「そんな保証が…どこにある。」
しかし連ねた言葉は我ながら情けないほどに弱々しく、掠れていた。
ヨゼファは小さく笑うらしく、吐息が皮膚を軽くかすめる。
「私には分かるわよ、だって貴方すごく頑張ってるじゃない。その姿に必ず心動かされる人がいるわ…。貴方は一人じゃないのよ。それを覚えていてね。」
彼女は軽く触れるだけのキスをしてスネイプの身体を解放する。
それから今一度満月を見上げ、青色の光が溢れてくるのを眩しそうに掌を翳した。
やがてヨゼファは月へと続く階段に一段ずつ足をかけ、無言で登って行く。
階段半ばで彼女はようやくこちらを振り向いた。
先ほど手袋を外した為に素肌を晒していた腕をスネイプへと差し出し、ヨゼファは「おいで。」と囁く。
「今夜は月がこれだけ美事だもの。私は貴方と一緒にいたいわ。」
その場所から動かずに見上げるだけのスネイプのことを、彼女はただ待っていた。
………彼は、自分と同じように蒼白な掌へそろりと腕を伸ばして手を重ねる。
それを待ち構えていたように、ヨゼファは強い力で握り返して彼を自分の傍まで一気に引き上げた。
そしてバランスをやや崩しかけたスネイプの身体を抱き留めると、耳元で「ありがとう、嬉しい。」と小さな声で囁いてくる。
私室に続く階段を登っていく彼女に手を引かれたまま、スネイプはそれに続いた。
馴染み深い階段で、時間帯だった。もう何度、堪えられない深夜にこの階段を昇って彼女の部屋へと通ったのだろうか。
踊り場に至り、彼は足を留めた。ヨゼファもそれに合わせて立ち止まって隣に並ぶ。元より身長が高い上にピンヒールを履いた彼女はスネイプとほとんど身長差が無かった。
「ヨゼファ………、」
青い瞳をごく近い距離で眺めながら名前を呼ぶ。自然に彼女の頬へと指先を滑らせた。
しかし、続く言葉が戸惑って中々出てこない。
ヨゼファはそれを急がせず、頬へと触れている彼の掌に手を重ねて目を細めた。
「……………………。一緒に、戦って欲しい。」
ほとんど囁いて言葉を零すと、辺りは静寂する。
しかし、すぐに恐ろしいほど強い力で抱き締められた。
息が支えるほどに力強い抱擁に身を委ね、彼は嘆息を喉から漏らす。
力が抜け、ヨゼファへと自分の身体が預けられていく。
それを難なく受け止める彼女へと、スネイプは時間をかけて腕を回した。
「その言葉を……私は待っていたわ。」
ヨゼファの低い声が耳へと触る感覚に、思わずスネイプは瞼を下ろす。
「私はいつでも貴方の味方よ。貴方が必要として呼んでくれるなら。いつでもすぐに、……どんなところからでも。」
更に抱く力を強くされる中、まだ自分の身体が僅かに震えていることに気が付いた。堪えるように、こちらもヨゼファへと回した腕の力を強くしてその首筋に頬を擦らせた。
いつからか彼女の身体に触れることを戸惑わなくなった。そうして…彼女に抱かれた時、腕の中にいる時の絶対的な安心感を信じるようになった。……信じているのだ。
ヨゼファと今一度名前を呼び、一粒の真珠で飾られた耳へと唇を寄せる。
「…………傍にいてくれ…。………ずっと…、ずっと。」
「勿論よ。私の喜びだわ。」
ヨゼファからの愛情を一身に覚えながら、スネイプは弱く声を漏らした。
貴方を愛しているわ、セブルス。
幾度聞いても、その言葉を求める心情は満たされずにいる。
窓の外の暗闇に浮かび上がる巨大な満月を見上げて、涙が一筋頬に垂れていくのが分かった。
きっと何千回でも足りることはない。
だから億でも、兆でも、那由多の彼方の回数に至るまでも繰り返し、自分が一人ではないことをヨゼファに知らしめて欲しかった。
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