◎ 負うべき傷
「先生、買い物に行きません?」
与えられたばかりの魔法薬学の教室で、ヨゼファは生徒用の椅子に腰掛けては机に頬杖をついて言う。
スネイプが無視を決め込んでいたので、「ここに来たばかりで色々と足りないものがあるでしょう?」と付け加えて述べる。
「先生まだ授業無かったですよね。もし暇だったら今日にでも行きませんか。」
「…………何故私個人の買い物にお前がついてくる。」
「いえ…まあ。荷物持ちにでもして頂ければ。それにダイアゴン横丁もここ最近の色々で大分街の様子も変わりましたよ、一緒に行った方がきっとすぐに目的のものを購入出来るはずです。」
「その必要は無い。」
ピシャン、と一際言葉の端々に棘を作ってスネイプは彼女の申し出を断る。
ヨゼファは「オゥ、」と声を上げては肩を竦めてみせた。
「……………。まあ。余計なことしてすみませんでした。でも分からないことあったら遠慮なく聞いて下さいね。」
相変わらず脱力したような笑い方をして、ヨゼファは椅子から立ち上がりスネイプの元へと歩を進める。
なんだ、と思い彼は身体を強張らせてヨゼファの出方を伺った。
彼女はそっと手を伸ばしてスネイプの頭部、髪へと指を滑らせるようである。やめろ、とその手を素早く振り払おうとした。
しかしその手は空を切った。………ヨゼファは不思議そうな表情で、「どうしましたか?」と尋ねてくる。
「………。髪についてましたけれど。熱心にご研究していらっしゃる。」
にこりと笑って、ヨゼファは乾燥した月桂樹の葉をそっとこちらに差し出し掌中へと握らせた。
「お邪魔しましたね、スネイプ先生。」
穏やかに微笑んで、ヨゼファはさっさと魔法薬学の教室を後にした。
………………。彼女が出て行った扉に、スネイプはロータスの実を計量するのに使っていた真鍮のカップを無言で思いっきり投げつけた。
鈍い音を立ててカップは扉、それから床に激突して静かになる。
「わっ、先生どうしました?」
そしてその扉から再度ヨゼファが戻っては心配そうに訪ねてきた。
「なんでも無い…!!用が無いのにいちいち構ってくるな!!!」
「オゥ……申し訳ないです。」
最高に苛立っていたスネイプが声を荒げて言えば、ヨゼファはまたすぐに扉を閉めて姿を消す。
くそ、とスネイプは悪態をついた。
そして自分で投げたカップを回収する為に立ち上がり、なんだか情けない気持ちになりながらそれを拾う。………幸い、変形したり壊れたりしている様子は無かった。
溜め息をひとつ吐く。
……………彼女と関わるうち、記憶の中にあったヨゼファの姿は徐々に鮮明に思い出された。
しかし思い出せば思い出すほどに、現在のヨゼファを知れば知るほどに記憶との乖離を覚える。同姓同名の別人かと思うほどである。
ヨゼファと言えば、話しかけても耳を済まさないと聞こえないくらいの声でしか答えないほどの消極的な人間だった筈だ。だから特に懇意で無かったスネイプは、さして話しかけようとも思わなかった。
ふと…この地下牢教室唯一の明かり取りである小さな窓を見上げた。外では金色の光に照らされた木立が緩やかに揺れて、ロサンジュの窓からひし形の光を運んでくる。
…………平和だった。失われた年月を、世界は取り戻しつつある。
(だが、僕だけは……)
取り残されたまま。
十年以上も前にリリーに出会ったあの日から、時間はピタリと止まって石のように動かない。
*
…………確かにダイアゴン横丁はヨゼファが言っていたように店の位置や通りの造りが大幅に変わって、自分が知っているものとは趣を違えていた。
だがやがて元のように戻るだろう。ここに店を構える老舗の数々の人気は根強いし、生粋の商売人である彼らが自分の店を手放すとは思えなかった。イギリスという石と霧で形成されたこの国では、全ての変化が静かで緩やかなのだ。
あの………闇で覆われていた日々が異常だっただけで。
行き交う人の数は多かった。
幾年かぶりの光が注ぐ街中を、皆銘々の晴れ晴れとした表情で闊歩している。
(……………………。)
辛かった。自分だけが、この明るさの中で黒く重たく浮き彫りになったような感覚を覚える。
(目的のものは……)
早く帰ろうと思った。
しかし目当ての薬問屋もフローリシュ・アンド・ブロッツ書店も見当たらなかった。
確かに馴染み深い地理の筈なのに、少し街並みが変わっただけでこれだ。まるで別の国に放り出されたような不安に襲われて、焦れる。
どういう訳か呼吸が乱れてまともに息ができなかった。
(苦しい、)
学生時代にひとしお応えた疎外感が蘇るようで、スネイプはどうにかそれを思い出さない為に早足となる。とにかく馴染みがあるものをひとつだけでも見つけようと思った。
呼吸は乱れ続ける。体内の酸素が明らかに許容値を超えて脳髄を痺れさせていく。
(誰か…)
遂にスネイプは踵を返して走り出す。
この場所に、もうこれ以上いることは出来なかった。
*
「ああ先生、お帰りなさい。」
学校へとフルパウダーで帰りつき、教室に戻ったらこれである。
ヨゼファはのんびりとした口調で彼のことを出迎えてはヒラヒラと手を振る。
「大部灰被っちゃってますね。お召し物が黒いから目立っちゃって。」
あはは、とヨゼファは明るい声で笑った。
「…………街はどうでしたか。」
「別段、どうもしない。」
「そうですか。それじゃ、夕飯はもう食べました?まだだったら一緒にいかが。」
「……………気分が優れない。」
「そうですか、残念。」
スネイプがヨゼファの誘いを一蹴すると、彼女は少し残念そうに笑った。
そして頬杖を付いていた机上、布を被せてあった皿からひとつサンドイッチを取り出しては食べる。
「………………。もしかして、待っていたのか。」
「いいえ、私もついさっきまで生徒の補修で。食べそびれたんですよ。」
お水だけでもいかがです。
銀のゴブレットにガラス瓶から水を注ぎながら、ヨゼファはスネイプへと目配せをする。
パチリと瞳が合うと愛想よく微笑まれた。
差し出されたゴブレットを受け取る為、手を伸ばす。
しかしそれを掴もうとした瞬間、指先が強張って取り落す。ゴブレットは鈍い音を立てて斜めに組まれた木の床へと落下した。
(あ…………?)
目眩を覚えて、額の辺りを掌で抑える。
「先生、スネイプ先生?」と自分を心配するヨゼファの声が遠くから響くように聞こえた。
「先生、大丈夫ですか!?」
一際大きな声で呼びかけられて、ようやくグラついていた意識が定まる。
自分は立つことすら覚束なくなっていたらしい。床に膝をついて浅い呼吸を繰り返すままに…だが、こう言ったことは初めてでは無かった。少しこのままでいれば、回復する。
ふと、顔を上げる。ヨゼファは非常に焦った表情をしてこちらを眺めていた。……予想以上に、近い距離で。
脆弱そうな身体の作りに反して、自分を抱き留める力は強かった。
よろよろと手を伸ばし、落としたゴブレットを拾おうとする。しかし「大丈夫ですよ、後は私がやっておきますから。」とヨゼファがその手をやんわりと握って留めた。
「先生……ごめんなさい。まだこちらに来て日にちも経っていないのに、無理に買い物なんかさせてしまって…。」
疲れているんですよ、
そう言って、ヨゼファは「立てます?」と声をかけてはゆっくりと肩を貸してスネイプの身体を起こした。
「必要なものは私が揃えておきますから。…紙か何かに書いて、渡して下さいね。」
医務室と自室、どちらが良いですか。とヨゼファが尋ねるので、自分の部屋へと至る扉を視線で示す。
彼女はスネイプの体を支えながら扉へと近付き、ポケットから古びたメモ帳を取り出した。パラパラとページが静かに独りでに捲られ、小さな魔法陣が書かれた一枚がスッと空中に浮かび上がって鍵穴に貼りつく。
カチ、と音を立てて解錠がなされたのが分かった。
「よく使うものは描き溜めて持ち歩くんですよ、いちいちの手間を省く為に。」
ヨゼファは呟くようにそう言った。
更に地下へと続く暗い階段へと至ると、魔法陣が綴られた別のページがチラチラとその身を燃やしては浮かび上がり、辺りを照らしてくれた。
「足元気を付けて下さいね、大丈夫です…。お医者さんの方が必要なようなら私のことを呼びつけて下さい、すぐにマダムに連絡を取りますから。」
ヨゼファは一貫してスネイプを気遣う言葉を欠かさなかった。
それを遠い場所から流れてくる音楽のように聞き流しながら、スネイプはぼんやりとこの人間はどこまで自分のことを知っているのだろうなと考えた。
…………ダンブルドアはスネイプの事情をどこまでヨゼファに話しているのだろうか。
死喰い人であったことも知っているのか。なった理由は?自分の学生時代、そして今。一貫して惨めなこの姿を見て、何を思うのだろうか。
(やめよう……。)
今はそう思った。彼女が自分を支える腕の力は相変わらず強い。妙な逞しさすら感じて安堵してしまうほどに。
スネイプの自室の扉前に至り、ヨゼファはそこで足を留める。
「…………。それでは、私はこれで。」
ゆっくり休んで下さいね。
ヨゼファは静かに目を細め、夜の挨拶をした。
中空に留まっていた炎が彼女の灰色の髪を照らして、その顔へと妙に色濃い影を落としている。
彼女は最後にこちらを一瞥して、足早に元来た階段を昇って行く。
足音はまるで無く、黒い影だけがスルリと滑るようにして眼前から消え去る。
残されたのは、スネイプと彼女の魔法陣が形作った小さな灯のみ。
…………魔法の効果が随分と長いらしく、それはまだまだ消えそうにない。
*
「はあー…………。」
床に落ちたゴブレットと溢れた水の始末を終え、ヨゼファは盛大に溜め息を吐いた。
(しっかし…。)
憂鬱な気持ちを吐き出す為に、またしても溜め息。それでも気持ちは晴れず、「やれやれ…」と呟いた。
思い出されるのは、脂汗を流して床へと崩れたスネイプの姿だった。
(………。部屋までついて行った方が良かったのかしら。)
………心配も心配である。
彼の様子は明らかに普通では無い。だが…体調の異常さに反して彼はひどく落ち着き払っていた。慣れた様子から察するに、あの発作は初めてでは無いのだろう。
(………………………。)
ヨゼファにも似た経験があった。あの対処は、自分自身が一番よく分かっているものなのだ。
彼の場合は一人にしておくべきなのだろう。それに知り合って間もない…かつての寮友とはいえ…異性の部屋に入ってしまうのは不躾も良いところである。
ヨゼファは瞳を瞑り、自分の額の辺りに軽く握った拳をゴツ、とぶつけた。
(あの人、ずっとリリーさんが好きなままね。)
そんなことは分かり切っていた。
彼が彼女を忘れる筈がない。それ故に、精神に負った傷も…計り知れないほど深いものに違い無い。
「ああ、ダンブルドア校長…。私は貴方を恨みますよ。」
皿に乗っかっていたサンドイッチのうち、胡瓜とハムのものを取り上げてモグモグと口に含みながらヨゼファは脱力した声を上げた。
(全く……。彼の傷心のクッションなんて損な役回りだわ。美味しいところがひとつもないじゃない。)
サンドイッチは中々に良い味をしていた。
今度、これを持ってどこかに出かけたいと場違いに呑気なことを考えるながら…チラ、と地下へと続く扉を眺めた。
杖を取り出し、スッとかざして二言三言呪文を唱える。
しかしそこからは何の反応も無かった。
「相変わらず言葉を使った魔法は下手くそだこと。」
我ながら呆れ返って、思わず笑ってしまう。
手持ちのメモ帳を取り出して、青いインクがたっぷりと満たされた万年筆を手に取る。よく掌に馴染んだこれは、少女の自分が初めて人からもらったプレゼント。
スルリと図形を描く。描き終わった側から薄い紙は手元から離れ、中空で小さな魚の形に変化して室内の薄闇を泳ぐ。そうして扉へと辿り着き鍵穴付近から向こうへと通り抜け、そして戻って来てはカタンと静かに錠を下ろした。
「おやすみなさい、スネイプ先生。良い夢を。」
役目を終えて、ポッと青い炎で自らを燃やした紙の塵をそっと掌で受ける。既に形を留めなくなっていたそれは、ヨゼファの掌中に収まることなくどこからか吹く風に流されて消えた。
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