◎ 始まりの歌
------------------------ 狂おしいほどの時を経て、私の時間は動き出す。
私を見つけてくれてありがとう。
私はずっと………、ずっと。本当に。貴方に会いたかったのよ。そこは時間と埃が雪のように降り積もった部屋だった。
幾十年も人間が立ち入った形跡はなく、室内全てのものに色褪せた白い布が被せられている。
その、静寂が地層のように重なった木の床の上にポツリと光の粒が湧き上がった。
やがて光は複数集まり線状になって、水紋に似た模様を静かに形作る。
円形の中心から黒い影として中空に吐き出されたヨゼファは、しばらくそのまま部屋の中をぐるりと見渡し…音も無く地面へと着地した。その際に、白い埃がフワリと舞い上がる。
「ひどい埃だこと。」
彼女は苦笑してから、目当てのものを探して室内に置かれた家具類を見て回る。
歩く度に床は軋み、ぎちりと悲鳴のような音が鳴った。ひとつずつを覆う布を避けて中身を確かめ、ヨゼファはついに目的へと辿り着く。
背の高いそれを覆っていた布をバサリと一度に剥ぎ取れば、中からは巨大な鏡が現れた。
「綺麗な鏡ね…。」
ヨゼファは独り言ちて、やや曇った鏡面へと掌を滑らせ埃を除く。
氷のように滑らかで冷たい質感に一度身体を震わせ、改めて鏡へと視線を戻す。中には一人の女性が映ってはこちらを覗き込んでいた。
最初は自分の姿だろうと思っていたが、どうも違うらしい。
作られて以来これだけの年月を経た鏡が曰く無しとは思っていなかったヨゼファは別段驚かず、それが誰かを探ろうとローブの袖で更に鏡面を拭ってみる。
「付喪神でもついてるのかしら。」
含み笑いをしてそんなことを言いながら、より鮮明に見えるようになった女性へと対面した。
だが、それはどうやら女性ではないらしい。切れ長の青い瞳の美しさから成人した女性だと思っていたが、顔立ちや身体のつくりは明らかに少女と言える年代だった。
彼女もまたヨゼファの顔を認めてにこりと好意的に笑う。相当に整った顔立ちをした少女だった。黒い髪に引き立てられるようにして肌は白く、笑う度に深い青色の大きな瞳がキュッと優しい形を描く。
「可愛いわね。」
感想をそのまま口にしてから、軽く頭を下げて初めましてと挨拶をする。
ヨゼファは職業柄このくらいの年の子供に気安かった。向こうも特にそれを気にする様子はなく、むしろ嬉しそう大きく頷いて応えてくれた。
そうして手招きをして、こちらに来るように促してくる。
「鏡の中に入るのはちょっと難しいわね…、うふふ。私はね、ダンブルドア先生のご指示で貴方を私たちの学校へと迎えにきたの。」
少女は少しきょとりとして首を傾げる。ヨゼファは「ダンブルドア先生、ご存知ない?」と尋ねた。
「知らなくても大丈夫よ。とっても優しくて善い魔法使いだから。……ちょっと食えないけれど。少しの間だけ、貴方の力が私たちに必要なのよ。」
一緒に来て、くれないかしら。
そう尋ねると、彼女は二つ返事で首を縦に振る。ヨゼファは「ありがとう。」と礼を述べてから、金色の鏡の縁をそっとなぞる。
今一度そこへ布をぱさりとかけ、達筆に魔法陣が描かれた羊皮紙を一枚胸元より取り上げた。
「良いところよ、ホグワーツは。私は大好き。」
穏やかに呟き布越しに鏡を撫で、ヨゼファはそっと中空へ魔法陣を手放していく。魔術が結ばれた証として、陣は白く烈しく光って薄暗い室内の闇をひと時だけかき消した。
そうして光が失せた時、埃が降り積もった室内からヨゼファと鏡の姿は跡形もなく消えていた。
*
零時を過ぎた頃の校長室、ダンブルドアは机に頬杖をついて中空を眺めていた。
やがて、そこに白い光で静かに流線形が描かれていく。
ダンブルドアはゆっくりと瞬きをして満足そうに微笑んだ。彼の予想通りに、やがて宙に浮かんだ光の円形から馴染み深い顔が現れる。
「先生、ダンブルドア先生。ああ良かった、まだおやすみじゃなかった。」
ノックも無しにごめんなさい、とヨゼファは軽く謝罪しながら、白い魔法陣の縁を乗り越えて床に敷かれた絨毯にストンと着地する。
「勿論。元より君が帰ってくるまで休むつもりはなかった。」
「すみません、お待たせして。」
「気にしなくてよろしい。それだけ今回君に頼んだ用事は…非常に重要なのだよヨゼファ。魔術を用いた全ての移動方法は魔法省に認知される危険を有し、魔術を用いずにあの部屋に至る術もないのだから。」
「私に出来ることならばいつでも喜んで…と言いたいのですが。最近は魔法省もまた今までのように魔法陣を軽視せず、調査へと乗り出しましたよ。私の魔術に制限がかけられる日も近いのでは。」
「まだそれには至らんよ。心配する必要はない。」
ダンブルドアはヨゼファの右胸の辺りを軽く指し示す。彼女はそこに掌を置き、曖昧に笑った。
「いつの間にか、この学校も半分以上が私の血液の魔法陣が及ぶ範囲ですよ。それは一体、吉と出てくれるのでしょうかね。」
「儂はそう信じておる。」
「しかしこの魔法陣の完成が間に合わずに彼の方が復活して、ここを戦場にしてしまう可能性を考えると。私はいつも…ひどく不安になります。」
「完成させるのじゃよ。自分の魔法を信じなくては。」
「貴方がそう言うなら、そうですね…。信じてみましょうか。たったひとつの私だけの魔法ですから。」
ヨゼファは彼の傍までゆったりと歩み、耳元に軽く唇を寄せる。
「鏡の移動は首尾良く終わりましたよ。ご安心を。」
「ご苦労様。今夜はゆっくりと休まれるとよろしい。」
「お言葉に甘えます。」
彼女は一度老齢の魔法使いの身体を抱き、頬に親愛の口付けを行った。
少し毛足が長くなった灰色の髪が、彼の皮膚へ柔らかく触っては遠ざかっていく。
「………ヨゼファ。ひとつ余計なことを聞いてもよろしいか。」
「断りを入れてくれるなんて珍しいですね。どうぞ?」
「君は鏡面を見たかね。」
「ええ。埃は被っていましたが傷も入っていない、綺麗なものでしたよ。」
「そこには何が映っていた?」
「一人の女の子が。私に笑いかけてくれましたね。」
「その子には見覚えは。」
「いいえ。」
ヨゼファの返事に、ダンブルドアは訝しげな表情を浮かべて「本当かね。」と聞き返す。
「……本当に、一度も見覚えは無かったのかね。」
「どうしたんです、校長先生。確かに彼女とは初対面です…いたく整った容姿をしていましたから、一度見て忘れることもないでしょう。あれは誰です?鏡の付喪神ですか。」
「それは…分からない。あの鏡は人によって写すものを違えるから。」
「なるほど?」
「心当たりのないものが写されることは有り得ない。みぞの鏡は覗き込んだ人物の真実の望みを写し出す。必ず記憶のどこかでその光景を想い描いたことがある筈だ。」
ダンブルドアとヨゼファは暫し見詰め合う。
彼女は深い青色の瞳を数回瞬きしては、きょとりとした表情で首を傾げた。
「………………え?」
*
『俺は用事があるからお前さんは少し待っとれ』
とハグリットに言われ、ハリーは漏れ鍋に一人ポツンと残されていた。
パブの中は非常に賑わっているのだが。……皆、好奇心が溢れた瞳でハリーのことをチラチラと伺っている。しかし彼へと近付くことはせず、ハリーの周辺だけがぽかんと人口密度が薄くなっていた。
今まで生きて来て、人に注目される経験を彼はほとんどしたことがなかった。
むしろ誰からの注目も浴びないために、出来るだけ目立たないように過ごして来た十一年間である。だから今…彼らが向けてくる視線に敵意はないと既に分かり切ってはいたが…それでも居心地が悪いものは悪かった。
気持ちを紛らわすために欠けたコップに入れられていた水を飲む。しかし先ほどからずっとそれを繰り返している所為か、既に中身は空だった。
弱ったな、と思っていた時である。ハリーのテーブルに新しいガラスのコップがコトリと置かれる。
見ると、中には琥珀色の冷たそうな液体が満たされていた。レモネードらしい。
コップの底から炭酸が連なる泡になって浮かび、小さな音を立てて表面で弾ける。いかにも無造作に入れられた真っ赤なチェリーがひとつ、その中でプカリと浮かんでいた。
「あちら様からでございます。」
カラフルなセロハンに包まれた飴玉を机上に置きながら、運んで来た腰の曲がった老人が嗄れた声で呟く。
彼が指し示した先を見ると……カウンター席に脚を組んで腰掛けていた黒衣の魔女が一人、こちらを見つめてにこりと微笑んだ。
深い青色の瞳が、ハリーの緑色の瞳を捕らえてそっと優しい弓形になっていく。
その時、額の傷にズキリと電影のような痛みが走った。……それはすぐに鳴りを潜めるが。
こういう時にどうすれば良いのかよく分からなかったハリーは、とりあえずおずおずと灰色の髪の魔女へと一礼して感謝を伝える。
しかし既に彼女は隣にいた紫色のターバンを身に付けた男との会話に戻っており、ハリーのことを見てはいなかった。
甘い刺激を伝えてくるレモネードをストローで飲みながら、ハリーはセロハンに包まれた飴を見下ろす。……そうしてふと、自分はお礼をする手段をもうひとつ有していることに気が付く。
自分自身の財産…金銭…を持たなかった今までの自分であれば全く思いつかなったことだが。
先ほどの腰が曲がったバーテンが傍を通りすがった際、ハリーは口早に言葉を伝えた。慣れていない所為で、ところどころ口ごもってしまったが。彼はかしこまりました、と愛想なくそれに応えては承る。
やがて黒衣の魔女の元へと白いカップがひとつ供された。
彼女は不思議そうな表情をしてカウンター越しにそれを受け取っている。その様を、ハリーはひどく緊張しながら見守っていた。
魔女はバーテンといくつか言葉を交わしてから、彼に示されてはハリーの方へと振り向く。
彼女は少し驚いたようにしてこちらをじっと眺めてから……やはり、先ほどと同じようににっこりと笑った。
(あ………。)
その笑い皺が深く刻まれる笑顔が、何故か懐かしいものだと思えた。(何処かで)と考える最中、灰色の髪の魔女はスルリとカウンター席から立ち上がり、受け取ったカップを手にしてハリーのテーブルまでやってくる。
「ご一緒しても良いかしら?」
そうして人の好さそうな笑みを浮かべたまま彼へと尋ねてくる。ハリーが無言で頷けば、彼女は「ありがとう。」と礼を述べて向かいの席へと腰掛けた。
「私、ココア大好きよ。どうもありがとう。」
そう言って彼女はハリーが頼んだココアが入ったカップを軽く持ち上げて、もう一度礼を述べてくる。
「あの…えっと。こっち、来ても良いんですか?」
「うん?」
「いや…。人と一緒だったから……。」
そう言ってハリーは先ほどまで彼女と会話をしていた、神経質そうな紫色のターバンの男性へと視線を向ける。彼はハリーには気が付いていない様子だったが。
「良いのよ、別に一緒じゃないわ。知り合いだったからちょっと声をかけられただけ。」
話ももう終わったしね。
そう言って彼女は軽く肩をすくめた。
「
漏れ鍋に貴方みたいな男の子が一人でいるなんて珍しいわね。貴方こそ一緒の人は?まさか一人?」
「いえ……、いましたが…今はその、ちょっと用事があって。ここで待っているように言われたんです。」
「そう、お行儀よく待ってて偉いわ。もうひとつ飴を進呈して差し上げましょうね。」
彼女はハリーの手を取って、綺麗な色のセロハンに包まれた飴をまた握らせてくる。
「私はヨゼファよ。お節介焼きだから、どうも貴方のことが気になって。レモネードは好きだった?」
「はい、美味しかったです。僕の名前はハリー。……ハリー・ポッターです。」
「ハリー・ポッター。そう、道理で……お店の中がなんだか色めきだっていたのね。」
納得したわ、とヨゼファは頬杖をついてハリーの顔を覗き込む。
今までの人々とは異なり随分と落ち着いた対応である。彼女は長い指を伸ばしてハリーの黒い髪を分け、額の傷へ確認するように触れた。あまりにも自然な動作だったので、思わず反応が遅れてしまう。
その際に、またじくりと微かな痛みが走っていく。しかしこちらに触れてくる彼女の手付きは優しく、その痛みもどこか切ない痺れに似た感覚を伴っていた。
「大変だったわね…。辛かったでしょう。」
彼女は吐息交じりの言葉で述べ、ハリーの前髪をゆっくりと整えては元へと戻す。
不思議なことに、彼女の周りだけはパブの喧騒が届かずに静寂だった。人々の話し声がひどく遠くからに聞こえる。
「………………。記憶がないくらい昔なんで、よく…覚えてないです。」
「そうやって弱音を吐かない強かさはお母さん譲りかしら。貴方は男の子だけれど母親の面影が強いように感じるわ。」
「え?僕の…お母さんを知ってるんですか……?」
「知ってるわ、なんと彼女と私はホグワーツの同級生。貴方のお父さんもよ。」
「本当ですか?あの、良ければ…もう少しその。父さんと母さんのことを教えてもらえたら……」
「そうねえ……。………貴方のお父さんは勉強も運動もよくできる人で…明るくて。周囲に人が絶えない人気者だったわ。お母さんもとっても優秀だった。首席じゃない時が珍しいくらいで…そう、とても思い遣りがある女性ね。二人のお付き合いは学生の時だったから。お似合いで、憧れのカップルだって皆が噂していたのよ。」
ヨゼファは何かを思い出すように軽く瞼を下ろしながら話を続ける。
ハリーの目には、それが昔を懐かしんでいる様子に写った。恐らく……彼女はハリーの父や母と随分仲が良かったのだろう。穏やかで優しい表情をしている。
「僕の…父さんと母さんが好きだったんですね。」
その感想をそのまま口にすれば、ヨゼファはニコリと微笑んで応えた。
「……勿論。だから、その二人が一番に愛した子に会えて嬉しい。今日、私が貴方と会えたのはきっと運命だわ。」
そう言って彼女は白いカップを優雅に持ち上げてココアを飲む。
ハリーはぼんやりと、自分の父母が眼前の女性と並んで過ごしている学生時代を思い浮かべてみた。
とは言っても、ハリーは父母に関する記憶がほとんどない上に彼女とも初めて会ったばかりだから、その
想像は不確かなものだったが。
(初めて……?)
違和感を覚えた。
彼女は持ち上げたカップを軽く揺らしながら、黒いココアへと視線を降ろしている。
そう、確かに初めての筈だ。決して印象の薄い女性ではない。会ったことがあるならば決して忘れない筈なのに。
「…………あの。もし良ければ貴方の…ヨゼファさんの連絡先とかって、教えてもらえませんか。」
「あら、連絡先なんて聞かれるのいつぶりかしら。見かけによらず積極的ね。」
「そういうわけじゃ、」
「分かってるわよ、ちょっとからかっただけ。可愛いわね。」
ヨゼファは上機嫌な様子で銀のコインを三枚テーブルに積み上げる。不思議そうな表情をするハリーの頭を、彼女はポンと軽く撫でた。
「ココア代よ。貴方に奢らせたなんてニュースになったら私、イギリス国民全員に恨まれちゃう。」
小さく笑みを漏らしてから、ヨゼファは万年筆と円形のメモ帳を取り出す。慣れた手つきでそこへと簡単な図形を描いて行く様子をハリーは見守った。
「私の連絡先よ。伝えたいことを紙に記したら、結びにこれを描いてね。」
ピッとメモ帳から切り離し、ヨゼファは軽く片目を瞑って「なんでも相談してちょうだい。」との言葉と共にそれを渡してくる。
「そう言えば…、ハリーは今年からホグワーツに入学するのよね。」
「え?まあ、はい。」
受け取りながら、ハリーはヨゼファへと答えた。
「それはとっても楽しみね。」
「楽しみっていうよりも……僕は、魔法のこととか全然知らないし分からないので。」
「それを勉強しに行くんでしょう。心配する必要ないわ。」
「魔法って難しいですか?」
「不安なの?」
「それは勿論…。」
「安心して、全然難しいことじゃないの。耳を貸して。魔法のコツを教えてあげるわ。」
ハリーが素直にヨゼファへと身体を寄せると、彼女も顔をこちらへと近付けてくる。
その時に、ふわりと香水の匂いが漂ってきた。それだけではない、よくよく覚えがある香りと共に。
(……インクの匂い?)
ハリーがハッとして息を飲むのと、ヨゼファが静かに言葉を紡ぐのはほとんど同時だった。
『大切なのは信じること、卑屈にならないこと、そして愛しいものを想う心の在り方よ。』prev|
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