◎ いつものドアを
地平線が白くなり、光の波が徐々に広がっていく。
やがて紫の空色が夜と朝の狭間に現れ、水色へと変化した。
太陽の光は透明な金色となり、伸びやかに地面へと落ちる。それが朝露に反射するので、草木は風に吹かれては硝子玉のような光の粒を落とした。
いつもの朝で、変わらない風景だった。
この国の早朝の空気はひどく冷たい。未だ九月とはいえ吐いた息は白色へと変化する。
自らの息が無色へと再び変化していく様子を眺めながら、ハグリットは少しだけ目を細めた。
ふと、遠くから名前を呼ばれたような気がする。
その方へ顔を向けると、一人の魔女が黒いローブを翻しながらこちらへと走ってくる最中だった。
彼女は笑顔で自分の名前を呼んでは手を振っている。
ハグリットはキョトンとしてその様を眺めるが、ヨゼファが何かに蹴つまずいて盛大に転けるので驚き、あっと声を上げては思わず走り寄った。
「先生、体調が万全でないのに走っちゃいけねえよ。」
「そうかしら、別に元気なんだけれど。」
「馬鹿言っちゃいけねえ、歩いてられるのが不思議なくらいだ。俺はてっきり
幽霊か何かかと…」
「せっかく幽霊になるならもっとすごい見た目になるわよ。今のままじゃ誰も怖がってくれないわ。」
ハグリットが手を貸してその細い身体を起こしてやる最中、ヨゼファは冗談を言って転んだ気恥ずかしさをごまかすらしい。
緊張感なく笑う彼女の長く伸びた髪を冷たい風が煽って揺らした。どうもそれが鬱陶しいらしく、ヨゼファは溜め息を吐いて髪をかき上げる。
「ハグリット、早起きね。なにかすることがあるの?」
「いや、俺はいつもこのくらいに起きてます。チェンヴァレン…いや、ヨゼファ先生は?」
「私は夜に仕事があったのよ。貴方とは逆で今から寝るところ。」
ヨゼファは口に手を当ててあくびをした。
お疲れ様です、とハグリットは苦笑しながら労わるようにその背中を叩いた。が、どうも力が強すぎたらしくヨゼファは前につんのめって再び地面へと倒れ臥す。
「でも貴方が起きていて良かったわ……。草臥れて帰ってきたのに、迎えてくれるのが冷たい校舎だけなんて寂しかったから。」
今度は自分で身体を起こしながら、ヨゼファはポツリと呟く。ハグリットは「そうですか、」と相槌をした。
「それにしても先生、本当に…随分と痩せちまいましたね。」
「普通痩せるでしょ、あんなところにいたら。」
「俺はそこまでは痩せませんでしたが。」
「何回か飢餓室に入れられたのが大きいのかもしれないわね……。」
「それはひでぇことだ。先生はなにも悪くないのに。」
「ありがとう、優しいわね。」
ヨゼファは静かに礼を述べた。そして自分の髪を指先で弄びながら、「あそこでの記憶を共有できる人がいるのは良いことね。ちょっと気持ちが楽になるわ。」と言葉を続ける。
「色々事情があったのよ。でもここまでやつれた直接の原因はそこじゃないわ。むしろ飢餓室では飢えよりも乾きが苦しくて……死ぬかと思った。」
溜め息混じりに零しては、ヨゼファは「愚痴ってごめんなさい。」と謝罪した。彼は「いえ、全然。」と出来るだけ軽快に返す。「愚痴りたくもなるでしょう。」と続けて。
「ハグリットは今忙しい?」
「いいや、まったくです。」
「頼みごとしていいかしら。また髪、切ってくれない?」
「お安いご用で。」
ヨゼファは眩しそうに目を細めて昇っていく太陽の姿を眺めるようだった。
ハグリットは彼女のための椅子を小屋の中から出してやりながら、「今回はどのくらい切りますかね。」と尋ねる。
「前と同じくらいサッパリさせてもらおうかしら。美人にしてね。」
「先生は元から別嬪さんじゃないですか。」
「あらやだ、そんなこと言ってくれるの貴方だけよ。」
ヨゼファは明るい声でカラリと笑った。ハグリットもつられて笑い、「なんにせよ…お帰りなさい。ヨゼファ先生。」と改めて言う。
「ただいま、ハグリット。」と返事をする彼女の顔は笑い皺がくしゃりと刻まれていて、相も変わらず清々しく笑う人だとハグリットは思った。
*
「いっっったい!!!!」
苛立ちがピークに達していたスネイプが自室に帰ってきたヨゼファの頭を分厚い本で容赦無く殴ると、彼女は感想をそのまま口にしてはうずくまる。
「なっ……なんでいちいち殴られなくちゃいけないのよ………。このままじゃ頭蓋骨の形が変わるわ…。」
頭を抱えて死にそうな声で呟く彼女の襟首の辺りを、スネイプは掴んで立たせた。
一晩まんじりともせずにヨゼファの部屋で帰りを待っていたのである。この時の彼は、眠気も相まって相当頭にきていた。
ヨゼファは何か言いたげに彼へと向き合うが、憤慨しているその表情に怖じ気ついたのか苦笑いして宥めようと試みてくる。
「毎度毎度…………!!肝心なときに………っ!!!」
「ううん……、ごめんなさい。よく分かんないけれど私が悪かったわ…。」
「よく分かりもしない癖に謝るな!!!」
「は、はい!!その通りです!!!!」
スネイプの恫喝にヨゼファは思わず敬語になって応じた。
ふと…彼は今更ながらヨゼファの髪が随分と短くなっていることに気が付く。そこが湿っているのと顔の化粧気の無さから、軽く入浴したらしいことも理解した。
「切ったのか、」と尋ねれば、ヨゼファは「そうよ。」と返事をする。
………元と同じように少年のような短さにまで髪を切り結んだその姿が、随分と懐かしく思えた。
(だが…………。)
スネイプは考えながら、掴みっ放しだったヨゼファの襟首を離しては未だ濡れている灰色の髪に触れる。
「目立つな。」
感想を簡潔に口にした。しかしやや言葉が足りなかったらしく、彼女は不思議そうな表情をこちらに向ける。
「髪が…短くなると………。」
髪から手を離し、薄い肩と腕へと掌を滑らせていく。
「身体の細さが。」
やはり、痩せた。と呟くと、ヨゼファは苦笑した。
しかしやがて笑みを穏やかにしては「安心して。」と応える。
「私はね…五年間一度も大好物のケーキが食べられなかったの。だからこれから五年分食べないと。すぐ元通りになるわ。」
ヨゼファは上機嫌に言っては欠伸をひとつする。どうやら彼女も一晩どこかで用事があったようだ。
なんの用事かとスネイプは追求したかった。
五年間離れていたのである。彼が与り知らないヨゼファやヨゼファの事情が出来上がってしまっているのかもしれない。
「なにか私に用事があった?」
しかし尋ねる前に、先にヨゼファに質問されてしまう。
スネイプは口を閉ざしたままだった。彼女は何故か小さな笑みを漏らす。
「用事がなかったら朝食まで少しの間、一緒に寝る?」
「は……?」
「冗談よ。ちょっとだけ冗談じゃないけれど。」
ヨゼファはスネイプの脇を通り過ぎ、椅子に引っかかっていたタオルを手に取っては濡れた短い髪をカシカシと拭いた。
平素より幾分か楽そうな服装の彼女はリラックスした様子で、ゆったりと言葉をかけてくる。
「とりあえずこのまま部屋にいたら私寝ちゃうわ、話なら散歩でもしながら聞くわよ。」
憑き物が落ちたようにスッキリとした表情でヨゼファは言う。
暫しスネイプは逆光に照らされた彼女の顔の輪郭を眺めていたが、やがてゆっくりと頷いた。
*
ヨゼファはまるで姉のようにスネイプの掌を引いて、朝露に濡れそぼった草上を歩んでいた。
短い髪はすぐに乾いていくらしく、最早水分の気配は希薄である。
彼女がどこに行くのかスネイプには大体の見当がついていた。
あの場所は少女の自分にとって唯一の安らぎだった、といつかヨゼファは話してくれた。
そのささやかな秘密を共有出来るのは喜ばしいことなのだろうか。少なくとも信頼されていることは確かで、その事実に安心はするのだが。
彼は一晩…いや本当はもっと長い時間をかけて考え続けたことを、歩みを進める間も考えていた。
ヨゼファは別段それに気が付く素振りも見せず、「朝が冷えるようになったのね…もう霧が出てる。」と白い靄が渦巻く湖上を眺めては言う。
彼女はスネイプの手を離して自分のストールを巻き直した。冷えた風が二人の黒い衣服をパタパタと靡かせていく。
「足元に気を付けてね。滑りやすくなっているわ。」
やんわりと言ってから、ヨゼファはまた彼へと掌をかざして繋ぐようにと促す。
スネイプはそれを見下ろすが、彼女の手を取ることができなかった。
そのままで少しの時間が経過する。
辺りは静寂で、湿っぽい朝風が薄い霧を運んでいた。活発に樹々の間を行来する小鳥の囀りが遠くの方で高く響く。
瑞々しい森林の緑に天空から弱い光が注がれ、それが彼女の掌にも溢れ落ちていた。視線をそこに落としたままで、スネイプは口を開く。
「やはり……もう、終わりにしないか。」
ゆっくりと紡がれた彼の言葉に、ヨゼファは少し首を傾げて応える。
「ヨゼファ…が姓を失って…、…失ったお前に……与えることを、考えなかったわけでは無い。」
そして続けた発言は非常にぎこちない。幾度もつかえては言い直す。
それは彼女がいなくなってしまった間に幾度か、いや幾度も考えたことだった。
喜ばせてみたかったのだ。
与えられるのではなく、与えることを行ってみたかった。なによりもそうすれば…もう、ヨゼファはどこにも行かずに傍にいてくれるだろうと思った。
「だが、出来ない。………不誠実で、不毛だ。傷付けることしかしていない。」
………彼の言葉を聞き届けたヨゼファは瞼を下ろし、軽く溜め息をするようだった。
それから朝日を隙間から覗かせて白く光る湖上の霧を眺めながら、「そう……。」と応える。
「それなら、そうしましょう。私も貴方が望まないことをするのは本意じゃないわ。」
落ち着いた声色で言い、ヨゼファは繋がらなかった手を下ろし湖畔に沿って歩を進めていく。
立ち止まったままのスネイプと彼女の距離が徐々に広がっていくので、彼は思わずその背中に手を伸ばしかけて…やめた。中空に浮いたままの掌を握り、下ろしてそこへ視線を落とす。
色が悪く、いかにも不健康な体質を体現している指だった。これで一体なにを掴み取ることができたのだろうか。なにも無いことに、今更ながら思い至る。
色々なことを思い出し、辛くなって瞳を固く瞑る。
こういった居た堪れない気持ちになる夜、心配性が過ぎるヨゼファが駆けつけてくれるのを待ち望んでいた五年間だった。
それにも関わらず呆気なく終わってしまった。いや。終わらせてしまった……。
身体を包まれる感覚に瞳を開く。
ヨゼファがすぐ傍まで戻ってきていた。
彼女は「少し肌寒いから羽織ってると良いわ。」と呟いて自らのストールをスネイプに巻きつけて託す。
「…………………………。」
その際に彼の顔を覗き込んだヨゼファは、なんとも言えない表情で苦笑する。そうして手を伸ばし、彼の黒い髪をくしゃりと撫でた。
「自分から言い出したのに、随分としんどそうな顔してるわね…。」
あはは、と軽い笑い声を上げた彼女は再びスネイプの掌を取り、並んで歩き出す。
弱い光の中で、緑と樹木の匂いが漂ってくるのを感覚した。ヨゼファは気持ち良さそうに「良い天気になるわよ、今日。」と言って目を細める。
「ねえ…セブルス。聞いて欲しいわ。」
彼女はスネイプの方へと斜めに視線を上げ、穏やかに発言する。
「私、貴方が好きよ。……どうしても諦められなかったの。ごめんね。」
そう言うと、繋がった掌に力がこもる。静かな声と相反して痛いほどの強さだった。
「全部承知の上だわ……。貴方がリリーだけを愛して忘れられないことだって、ずっと…分かり切っていたことよ。一体何年貴方のことを見ていたと思ってるの。」
ヨゼファは少し悪戯っぽく言って流し目をする。
「でも私…きっと、セブルスのそう言うひたむきさとか真摯さを尊敬していて、好きなんだと思うわ。貴方の一番素敵なところよ。」
彼女は立ち止まり、空いている方の掌でスネイプの冷たい頬へと触れる。
しかし、触れてきた指先の方がもっと冷たかった。冷え冷えとした温もりに感じ入り、スネイプは逆らわずに頬を寄せて瞼を下ろした。
そうやってじっとしていると、少しずつ自分の体温がヨゼファへと移って彼女の掌が暖かくなっていく。
頬を優しい手付きで撫でられた。思わず嘆息して瞳を開けると、深い青色の瞳と真っ直ぐに視線が合う。彼女はただ一言、いつもと同じ言葉を囁いた。思わず目を伏せて、視線を逸らす。
「……セブルス、辛かったでしょう。」
ヨゼファは言葉を続けた。その声の背景で、草木が風に煽られて畝るささやかな音が聴こえる。
「報われないことはとても苦しいことだわ。貴方はたった一人で…本当に…頑張ったのよ。」
彼女は声を囁きに変えて零した。
弱く透明な太陽の光が、ヨゼファの柔らかそうな髪を白く光らせている。
その白い光に覚えがあった。あれは今のような明け方ではない。夜だった。青く透明な闇の中に、針のように鋭い光を星々が撒き散らしている。
その焼け付くような烈しい光が忘れられない。目を疑うような美しい夜景の中で、この世で最も醜悪なものを見たのだ。
この学校で、人生の最中一番に惨めな時代を過ごした。
自分にとっての美しく善いもの全てを汚された。
それでも彼女のために生きようと…そのために、なんでもしようと思っていたのに。その結果が今で、この様だ。血色の悪い指でなにひとつとして救えず、掴めないままでいる。
(私は。…僕は……、
彼女にとって一体何だったのだろうか。)
何にもなれなかった。
(彼女にとっての…特別になりたかった……。)
今でも鮮明に、リリーの艶やかな赤い髪と新緑色の優しい瞳を思い出せる。その度に胸がひどく痛んで、息ができなくなった。
(僕を、選んで欲しかった………!)
口元に手を当てて、嗚咽を必死で飲み込んだ。
ヨゼファはスネイプの頬を伝った涙を見て驚いたらしく、小さく息を飲んで目を見開く。
………しかしすぐにいつものように笑って、自然な動作で彼の身体を抱き寄せた。
「よく頑張ったわね……。」
偉いわ、
そう呟きながら背中を撫でてくる彼女の肩に頭を預けると、懐かしい…インクと華の芳香が混ざったような匂いを覚えた。
細すぎる体躯を抱き返し、早くその身体が元のように戻らないかと落涙を滂沱と下らせながら考える。
前のように、ヨゼファにはもっと強い力で抱いてもらいたかった。
彼女の豊かな胸に頭を預けたい。なだらかな肩の曲線を撫でて柔肌に唇を寄せながら、自分に向かう愛情深い言葉の数々にずっと耳を傾けていたい。
身体を少し離して改めて向き直るが、その間も涙は止まらず頬から顎へと生温さを伴って垂れていく。
彼女それを指で拭ってやってから、小さな声で「ねえセブルス、」と呼びかける。
「こう言うことってきっと、離れたからってどうにかなるわけじゃないと…私は思うの。」
ヨゼファは彼の青白い指を取り、手を引いてまた湖畔をゆっくりと歩き出す。重なった彼女の掌もまた血色が悪く、幽霊のように不気味な有様だった。
「一緒にいましょうよ。これからのことは、それから少しずつ考えれば良いんだわ……。」
振り向いたヨゼファは彼へと笑いかける。その顔には笑い皺がくしゃりと浮かび、相も変わらず年齢より幾分か草臥れて見える様相だった。
「………それで良いのか。」
「なにが?」
「また、傷付けるのでは……と…。」
「傷付くことよりも、きっと楽しいことの方が多いわよ。……私はね。貴方といると。」
なんだか恥ずかしいわね、とぼやいたヨゼファは照れ隠しのためか笑みを深くした。
スネイプはようやく涙の気配が失せる目元を些か乱暴に擦り、繋がっていた手を握り返して一歩踏み出し、彼女の隣に並ぶ。
冷たい空気が青い湖から漂ってくるが、彼女が押し付けるようにして巻いてくれたストールのおかげでそれも気にならなかった。
寒くはないか、とヨゼファに尋ねる。別に、と簡単に返された。
そうして………自分は、これからこの冷たい掌の持ち主に一体なにをしてやれるのかとスネイプは考える。
一番に望むものを与えることが出来ないにも関わらず、結局のところ手放せない。傍にいて、触れていて欲しかった。
ストールを返そうとするが、「寒いんでしょう、使ってなさいよ。」とそれを断られる。
だからヨゼファの肩を抱き、腕の中に招いた。間近に迫った青い瞳に吸い込まれるようにして唇を重ねる。彼女の身体が幾分か強張る気配を覚えるので、咄嗟に離れられないように抱く力を強くした。
辛抱が出来ず、すぐに舌を口内に入れる。ヨゼファの舌を掬い取って弱く吸い上げる最中、自身の首の後ろへと彼女が掌を回していくのがわかった。
髪をくしゃりと撫でられ、口付けの最中に頬や額、鼻を合わせて様々な場所を愛でられる。そうして角度を変えて最早どちらからとも分からず幾度も求め合い、何度も名前を呼んだ。
「貴方を愛しているわ。」
望み続けていたその言葉を聞き届けながら、次に生まれ変わるなら魚が良いと唐突に思う。ヨゼファの瞳は海底に広がる青の色だと気が付いたからだ。
この瞳と同じ色をした海の中をどこまでも泳ぎ、水底に抱かれて呼吸がしたい。深く。深く………
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