骨の在処は海の底 | ナノ
 儚き獣たち

「お久しぶり、ヨゼファ先生。」


呼び出されては校長室へと入ってきたヨゼファを、ダンブルドアは笑って出迎える。彼女は愛想よくそれに応え、二人は自然な動作で抱擁を交わした。


「随分と細くなってしまって。」

「髪が伸びたでしょう、そっちに養分を吸われたんですよ。ほらね。」

「球根みたいな身体をしておられるのう…。」

「生憎花は咲かないんですが。」


そう言って明るい声で笑うヨゼファは、痩せた所為か前に増して 笑い皺が際立っているように思えた。

ダンブルドアは内心の寂寞を悟られないように合わせて笑ってから、自分の向かいの椅子を彼女へと薦める。


「ああ、相変わらず良い椅子ですね。ずっと座っていたくなる。」

「そうかね。………まあ、アズカバンの椅子よりは良いものだと思うが。」

「あそこに椅子なんて贅沢なものありませんよ、作業中に座ったら殴られるし。」

「それは大変なことだった。」

「ご心配なく。こっそり座ってましたから。」


あははとヨゼファはまた笑い、長く伸びた髪をかきあげた。

そうして仕切り直すように「それで…ご用事はなんでしょうか。」と相変わらずの人の良さそうな笑顔を浮かべて尋ねてくる。


「ふむ……。その前に、フォーシーズンスのガトーは如何かな。」

「素晴らしい!是非いただきます。」

「相変わらず甘いものに目がないようで。」


ダンブルドアはなんだか懐かしい気持ちになって目を細めた。

青い釉薬で瀟洒な装飾が施された磁器の皿とカップ、そして銀のフォークを揃えてやれば、ヨゼファはまるで少女のように素直な喜びを表現する。

しかし、それを受け取る際にローブから覗いた腕の細さが嫌が応にも目に留まった。皮膚を覆う長い手袋の生地が手首の周りで随分余っている。一体何ポンド体重が減ってしまったのだろうか。


「君は…ハリー・ポッターをご存知かな。」


フォークで香ばしい色の焼き菓子を小さく切り取ったヨゼファへと、ダンブルドアは言葉を切り出す。

彼女は手を止め、視線をこちらへ寄越しては「もちろん。」と答えた。


「知らない方が不思議でしょう。彼は有名人ですから。」

「その有名人の彼が今どうしているかも知っているかね。」

「まあそうですね、マグルの親戚の元にいることくらいは。……というか先生が私に話してくれたことじゃないですか。」

「会いに行ってみたいとは思わんか。」


ヨゼファは言葉の代わりに訝しそうな表情で応える。そんな彼女へと、ダンブルドアは肘掛に体重を預けては今一度ニコリと笑ってみせた。


「君がよくよく知っているように、彼は魔法界にとって非常に意義深く重要な人物だ。十一歳、安定した魔法が使える齢になってこちらへ帰ってくるまで…心身に危険がないかどうか、様子を見守る必要がある。」

「それは…そうですね、はい。でも私は生まれも育ちも魔法界ですから、マグルの世界でうまく彼らに擬態できるとは思いませんけれど。」

「なに、公けの場に行く必要はない。君の魔法は少年少女の夢と想像の狭間に入り込むことが得意だったろう。」

「夢の中は人間にとって最も無防備な領域ですよ……。それだけの理由で覗き見るのは気が進みません、少年とはいえプライバシーの侵害では。」

「儂がこんなに頼んでもか。」

「いやらしい頼み方しますね…。」


ヨゼファは呆れてしまったらしく、肩をすくめて苦笑いをした。そして小さな声で「私じゃなくても、方法がないわけじゃないでしょう。」と続ける。

ふと視線を彼女の手元に落とすと、干した葡萄を使用した皿上のガトーは全く減っていなかった。以前ならば五分と経たず、その空間は綺麗に何も無くなっていたというのに。


「…………セブルスは。まだハリーに向き合うことができない。彼に一任することも考えないわけではなかったが、酷な話だ。」

「私に頼むことも酷だとは考えてくれないのですか…?」

「そうチクチクと攻撃するでない。」

「ごめんなさい、先生。」

「いや構わない、冗談だ。だが…君は必ずこれを引き受けてくれると儂は確信している。」

「嫌な予感がしますよ、貴方がそう・・言うんならそう・・なってしまうんだから。」

「勘が冴えていらっしゃる。」

「それは………どうも、ありがとうございます。」

「どういたしまして。」


次第に二人の頭はローテーブルを挟んだ互いの方へと近付き、声を潜めて会話するに至る。

ヨゼファは弱った、というなんとも言えない表情をして、反対に老齢の魔法使いはどこか楽しげであった。


「話を聞いてくれるかね、ヨゼファ。」

「ここまで聞いておいて嫌とは言いませんよ……。」

「ありがとう、儂は君のそう言うところを実に良い・・と思っている。」

「都合が良い・・の間違えでしょう。」

「まさか。ありえない。」


ダンブルドアは可笑しそうに笑い、声を潜めたままで語り始める。

ヨゼファは指先を口元へと持っていき、時折頷きながらその言葉に耳を傾けていた。やがて彼女は何かを考えるようにして視線を中空へと向けていく。

そしてやはり、その手元のガトーが減る気配は全く希薄であった。







痛い、と声をあげそうになってヨゼファは口を抑えた。

今は深夜である。眠っているこの家の住人が起きると厄介なことになってしまう。

…そうでなくても、今の自分の行為は普通に不法侵入だ。マグルの警察と揉めて、アズカバンの釈放からこうも日を空けずに再び御用になるのだけはごめんだった。

ヨゼファは足下で静かに消えていく自らの魔法陣を確認してから、低い、低すぎる天井を睨みつける。

これに強かに頭をぶつけたのだ。未だジンジンと痛む頭を左右に弱く振り、彼女は溜め息を吐いた。


(それにしても…………)


真っ暗で狭く黴臭い空間で、ヨゼファは腕を組んだ。


通路パサージュは確かにハリーの寝室へと通じた筈なんだけれども。間違えたかしら。……となると、ここがダーズリー家かどうかも怪しいわね。前もロンドンに行く筈がサハラ砂漠のど真ん中に現れて死にそうになったことが)


ブツブツと口の中で呟きながら、ヨゼファは漂う暗闇を指先でなぞって弱い光の線で魔法を描く。

中空にオレンジ色の光を灯した彼女は、とりあえず出口を探そうとそれを頼りに再び部屋を見渡し……驚いて、息を呑んだ。


死んでいるのかと思ったのだ。


眼下の少年の細い身体に慌てて触れ、どうやら生きていることを理解して安堵の息を吐く。死んでいるように眠っているだけだ。

しかし生きているとは言え、こんなまるきり物置きでハリーが熟睡している理由がよく分からなかった。………確か、この家には年が同じくらいの従兄弟がいた筈だ。彼と遊んで隠れたりしているうちに眠ってしまったのだろうか。


(いや、それにしても叔父叔母のどちらかが探して見つけるわよね。夜になっても姿が見当たらなかったら普通心配する筈だし……。)


ハリーはバネが飛び出した古色蒼然たるマットに身体を横たえては、薄くスライスされたハムのようにペラペラの毛布の下で眠っている。

その傍へと腰を下ろし、ヨゼファはダンブルドアが語った小さな英雄ハリーの現状…それ以外の、他の可能性を探ろうと懸命に試みた。


ふと、無造作に積まれた箱の上に小さな兵隊の人形がいくつか転がされているのが視界の中に入る。

どれも片腕や足、顔が欠損して、普通ならば捨てられる程度にはボロボロだった。その脇には箒にまたがった魔法使いの人形も。角がすっかりと丸くなり塗装が剥げた積み木がたったふたつ。


(………………………。)


ヨゼファは四角い積み木の上にピンク色の三角の積み木をそっと重ね、胎児のように身体を丸めて寝ている少年へと再び視線を落とした。


「そう…………。」


彼女は小さな声で囁き、こちらに顔を背けているハリーの黒い頭髪を掌で撫でた。まるで彼が起きる気配はないが、数回続けると僅かにその身体が身じろいだ。


「ここ、貴方の部屋なのね。」


ポツリと呟き、ヨゼファは少年を取り巻く環境の粗悪さを認めざるを得なかった。遣る瀬無い気持ちになって眉根を寄せる。

ゆっくりと呼吸をして、胸中に浮かび上がる黒い気持ちを鎮めようと努めた。


(今から使う魔法にはハートの清らかさが重要だから……。)


ヨゼファは右手の小指に巻いていた包帯を解き、指にぐるりと描かれた細かい魔法陣に軽く唇を寄せる。

人体に魔法陣を描くことは禁止されている術のひとつだった。だから、この魔法も本来認められているものではない。


「ハリー、少しだけ貴方の夢にお邪魔してもいいかしら。勿論貴方にはそれを拒否する権利があるわ。嫌ならば、それを遠慮なく伝えてね。」


ヨゼファは出来得る限り優しい声色で夢の中の少年に話しかけ、細く白いその小指へと魔術を帯びた自分の指を絡ませる。

そうしてゆっくりと時間をかけて、瞼を下ろした。







列車にカタカタと揺られている。真っ白い列車だった。

シート、扉、床や天井も全てが白色で、窓の外もただただ茫漠とした白色が広がるだけである。前に進んでいるか後ろに退がっているかも分からない。ただどこかに運ばれていることだけは、弱く振動する車体が教えてくれていた。


ヨゼファは腰掛けたシートの隣に置かれていた新聞を手持ち無沙汰に取って広げてみる。これもまた真っ白だった。(しかし白いなあ。)としみじみ思いつつ彼女は紙上を眺めた。


ふいとヨゼファは顔を上げる。そして自分に向かい合う形で配置されたシートの上を、目を細めて凝視した。


『……………………ハリー?』


どういうわけか自分の声は全く響かず、薄い膜の向こうにいるかのように不確かである。

しかしその呼びかけに応じて、視線の先の空間で何かが揺らめくのが分かった。


『そこにいるのかしら……。ごめんなさい、ハリーの存在はきっと今とても朧げなのね。私には貴方の姿がうっすらとしか見えないわ。』


ヨゼファは脚を組み直しては『ひとまず初めましてかしら。』と言って笑った。


『私の名前はヨゼファ。………覚えなくていいのよ。どちらにせよ、貴方は目を覚ませば私のことを忘れるから。』


車窓から吹き込む風が自分の灰色の髪を揺らして行く。それをかき上げて、ヨゼファは独り言のような会話を続ける。


『貴方は今……私になにか話しかけてくれているのかしら。聞き取ることができないのは残念だわ。色々なこと、話してみたいと思うのだけれど。』


ヨゼファは今一度自分の向かいに腰掛ける不安定な存在へと語りかけては、その名前を呼ぶ。確かに彼はいるらしい。しかしそこから幾分かの戸惑いと怯えが伝わるので、苦笑しながら『安心して、』と声をかける。


『私は貴方の味方よ。怖がらなくていいの。』


それから自分の近くへと招く仕草をした。ハリーは暫時躊躇するらしいが、やがてそろりと立ち上がってはこちらへ近付いてくる。

彼の小さな手を取り、傍へと寄せては隣の席に導いた。自分の呼びかけに素直に応じてもらえたことが嬉しくて、ヨゼファは思わず『可愛いわね…。』と素直な感想を漏らす。


『貴方みたいな特別な人のことを頼まれて…私はなんだか少し緊張しているの。……………。私のことを受け入れてくれてありがとう、嬉しいわ。』


姿が見えない少年の存在を隣に感じながら、ヨゼファはゆっくりと語りかける。


『私はね、今の貴方の辛い状況を知っているの。夢の中でかたちも保てないほどに心をすり減らしてしまって。』

本当に、可哀想………。


ヨゼファはハリーの掌を握ったままで言葉を囁きに変えて漏らす。自分のことのように身に染みてこの少年の苦境が辛かったのだ。愛情が満たされない子供時代がどれだけ惨めなものなのか、ヨゼファはよく知っている。


『でもね、貴方の世界は来るべき時に大きく開けるから。今は出口がない場所で足踏みをしているようにしか思えないかもしれないけれど……それは必ず終わるの。絶望しないで欲しいなあ。どうか貴方が信じる善いものと美しいものへの憧れを失わないで。』


規則的に鳴る車軸の音を背景にして、ヨゼファは返答のない呼びかけを続けていく。

じっと動かないで、ただただ自分の言葉へと耳を傾ける彼は素直で優しい少年なのだろう。

そこが自分との決定的な違いだった。だから、ハリーに少女時代の自分を重ねてはいけない。彼はきっと間違わずに歩いていけるのだから。

それでも、ヨゼファはまるで過去の自らへと話しかけているような気分になった。人から認めてもらえることを求め、その反面他人の視線がこの上なく恐ろしく。

誰からも必要とされない自分が生きている理由が分からなかった。いつも、消えてしまいたいと思っていた。


(生まれてこなければ良かったんだ。)


『………………。貴方は確かに望まれて生まれて来たのよ。祝福された男の子なのだから。ハリーは自分の存在を誇りに思っていいの。』


ヨゼファは……隣にいる少年の身体から愛情深く母性的な魔術の痕跡を確かに感じ取っていた。それに敏感すぎるほどに反応してしまうのは、恐らくこの身体が闇の魔術と随分と馴染んでしまっている所為なのだろう。自分にとっては些かの毒である。


さあ、とヨゼファはハリーへと向き直り、ゆっくりと腕を広げた。

明るい表情で笑って、『こっちにおいで。』と言葉をかける。

少しの間を置いて、自分の腕の中に心地良い重さと温もりを感じた。


『あら軽いのね。ご飯…ちゃんと食べてる?』


呟きながらヨゼファはハリーの身体に腕を回し、その黒く柔らかな髪の上へと顎を乗せてはしばしその感触に感じ入った。


(可愛い………。)


改めてそう思い、ヨゼファは瞼を下ろす。

そして、この心優しい男の子を腕に抱くことが永遠に敵わないリリーを想って胸が痛くなった。


(貴方たち、愛し合っていたのに。)


無慈悲に奪われた多くの魂のことを思うといつもヨゼファは堪らなくなる。自分は奪う側の人間だった。高々五年の服役程度で償えるものでは決してない。

しかし…彼女リリーが命と引き換えに息子へと残した愛情のかたちは、これからのハリーを正しいものへと導く清いものに違いない。

失うから与えられて、喪ったから与えられる喜びをようやく理解する。人生は辛く優しく悲しくて、とても複雑だ。


ヨゼファはそっと少年のつむじへと口付けを落とし、名残惜しく思いながらも姿がおぼろげなハリーを腕の中から解放してやる。


ゆっくりと真っ白いシートから立ち上がった。

車軸の音が止んでいる。風の気配もない。


ヨゼファは列車の出口へと歩を進め、ハンドルを上へとひねる。呆気なく扉は開かれ、茫漠とした白が果てしなく続くプラットホームが姿を表した。遠くの方で街灯がひとつだけ点って、寒々しい色の光を周囲へと落としている。


袖が引かれる気配がして、ヨゼファはその方を振り向く。

微笑して、『ハリー、貴方が降りるのはもう少し先よ。』と言葉をかけた。

しかしハリーは自分の服を掴んだまま離そうとしない。ヨゼファは膝を折り、彼へ視線を合わせる為に身を屈める。そのかたちは幾分かハッキリとして、ヨゼファはようやく彼の姿をまともに認めることができた。

思わず小さく笑ってしまう。


『お母さんにそっくりね。』


ハリーの言葉はやはりこちらに届かない。けれどヨゼファは声を扱えない人間の心理をよくよく心得ていたので、少年が伝えたいことを焦らさずにゆっくり理解しようと努めた。

切羽詰まった表情で、ハリーは首を横に振っては懸命に何かを訴えていた。ヨゼファは弱く首を振り、『ごめんなさい、』と謝る。


『私はもう行かなくてはいけないの。もうじき夜が明けるわ…。』


少年はそれでも両の掌を使ってヨゼファの服を強く掴み、決して力を弱めない。どれだけその細い指に力を込めているのだろうか。指先が白くなってしまっている。

ヨゼファはハッとした。

ハリーの緑色の瞳から涙が垂れている。どういうわけか、その光景に胸の内側を強く痛いほどに締め付けられた。

微かに震える指先を彼の頬に伸ばし、触れると涙の熱を確かに感じる。

ヨゼファはそこに膝をついたまま、自分のことを懸命に行かせまいとする少年の両の頬を包み込んでから、今一度強く抱きしめた。


『そうね……。ひとりは、とても心細いわよね。』


掠れた声で呟く自分の身体にも、か細い腕が回されていく。

ハリーの髪から太陽の匂いがする。子供たち、生徒たちからはいつも日向のような匂いがした。

それを感じる度に、体温が低くていつも冷たいこの身体を内側から温めてもらっているような心地がするのだ。


『ねえハリー……こんなこと、気休めにしかならないと思うけれど。私はこれからも貴方を見守っているわ。ハリーのことを見ているから。辛い時や苦しい時、いつでも私に会いに来て。……いつでも呼んでいいの。私はこの夢の道を通って必ず貴方に会いにくるから。』


耳元で囁き、ヨゼファは少し身体を離して彼の顔を覗き込む。白い頬にポタポタと涙が筋を作っていく様がいじらしく、思わず心弱く笑みを漏らした。

涙が止まる気配がない少年の目尻に口付ける。


ハリーは今から、また。あの低い天井の物置で目を覚まし、現実と戦わなくてはいけない。この真っ白い車内にひとりぼっちにしたくなかった。彼の手を引いて連れて行ってしまえたならばどんなに良いだろうか。


(でも私たちが降りる駅、至る場所は一人ずつ違うから。)


『いつかまた会えるわ。真実に出会える日が訪れる。………私はそれを楽しみにしているの。』


またね、


ヨゼファは穏やかに笑い、ぽっかりと開いた扉の向こうに降り立つ。ドアは音も無くスライドして車内のハリーとヨゼファの間を隔てる壁になった。

窓からこちらを覗き込む少年へ、唇だけで再度別れを告げる。手を振り、動き出す列車によって明日へと連れて行かれる彼のことを見送った。


(本当に………。)


瞼を下ろし、ハリーの姿と抱き締めたときの温もりを今一度思い出す。どうしてもそれに彼の母親のかたちが重なっては浮かんだ。


「…………綺麗な人。」


改めて、ヨゼファは心からそう思った。温かな笑顔と綺麗な声、新緑の森を思わせる優しい色の瞳について考える。


「貴方は素敵だわ。」


きっと自分はリリーに憧れていた。そしてその憧れの彼女に向き合うことに、一体どれだけの歳月を要したのだろうか。


「貴方だけだったのよ……。声を失った私の言葉を聞き取ろうとしてくれた友達は。私に優しくしてくれて、どうもありがとう。」


ハリーを、彼女リリーを愛しく思えるのはヨゼファにとって幸せなことだった。

人を思いやって心が優しくなる瞬間が好きで、恨むことも憎むことも本当は嫌いだった。出来ることならば誰とでも分かち合い、分かり合いたかった。


(人を信じて、愛する勇気がずっと欲しかったの。)

(それと同時に、愛されたいという願いを捨てきれなかった。)


愛されない魂に、生きる意味などあるのだろうか。


自分のことを待っていて……ただ、純粋に望んでくれた人の姿を思い出す。


彼は私を愛さないわ。


今まで大抵の物事を我慢して諦めることができたのに、彼だけはそれが適わないのは何故だろう。


(好きで、愛していて、どうしても浅ましく執着してしまった。)


適わない想いなど不毛でしかないと骨身に沁みてわかっているのに。学べなかった。どこまでも自分は馬鹿で、うまく生きることなど出来そうにない。


(好きで、大好きで………。…本当に。)


『待っていた。』


その低い声を思い出す。

彼のただ一言で、獄中での長考の末想いを手放そうとした誓いを一瞬にして忘れてしまった。あれほどに強い決心だったというのに。


(だって、私の帰りを待っていてくれる人なんて今まで誰もいなかった。迎えに来てもらったことも一度もない……。)


どれだけ嬉しかったのだろうか。全てが報われたと思えるほどに。


それでも・・・・、生きることはきっと素晴らしい。


胸が痛むのでそこに掌を置いた。浮いた肋骨が服越しに指へと触る。

弱く笑い、痛いなと改めて考えた。


(でも、これはそうでなければいけないものだから。)


人生を横切る堪え難い痛みが、美しいものはより美しく、愛しいものはより愛おしいのだと教えてくれている。


(私の明日に光を与えるものだと、信じている。)


白い靄の向こうで滲む光の粒となってしまった列車を、ヨゼファは今一度手を振り見送った。

やがて彼女は周囲の白さと対象的に真っ黒なローブを翻してその場から歩き出した。明日へと………







夢から覚めたハリーが起き上がると、瞳からパタパタと涙が溢れては草臥れた寝巻きへと沁みていった。


(?)


彼は不思議に思いながらそれを汚れた袖で拭っては眼鏡の行方を指先で探る。

その間も涙は留まらないのだが、自分は余程恐ろしい夢でも見たのだろうか。


ようやく涙の気配が失せるので、今一度瞼をこすってから眼鏡をかけた。

時刻は朝の五時である。自室兼物置を後にして、朝の支度もそこそこに彼はキッチンへと向かう。


十歳に満たない少年にも関わらず、ハリーは自分が台所で毎朝行うべき仕事を心得ていた。

夜明けの白く鈍い光が窓枠から滲んでくる。それを顔へと斜めに受けながら、彼は今日の夢の内容をどうにか思い出そうと試みた。


そうしていると、珍しく早く起きたらしい叔母が台所を素通りしてリビングへと入ってくる。

そっと彼女の様子を伺い、毎度のことながら返事が返ってこない朝の挨拶を一応。ソファに身を沈めた叔母の視線は、白い朝日を滲ませる四角い窓へぼんやりと注がれていた。

寝起きの彼女は機嫌が悪い。なるべく関わらないでいることが正解だとハリーはよくよく知っていたが、今朝は何とは無しに声をかけてみる。


「ねえ叔母さん。」


まだ眠気で充血している叔母の瞳が鬱陶しそうにハリーのことを捉えた。しかし構わずに言葉を続ける。


「………僕のお母さんは、小説家とか新聞記者とか…ライターをしている人だった?」

「は?」

「いや、少し気になっただけ。……です。」

「違うけど。働きもせずに遊ぶばかりのどうしようもない女だったよ。」

「そっか……。違うのか。」


ハリーは彼女の言葉を繰り返し、窓の外、太陽の光によって朧げに姿をくらませる月輪の名残へと視線を向ける。


「インクの匂いがしたから。」


呟くと、叔母は訝しげな表情を自分へと向けた。

ハリーはもう何も言葉にせず、自分がやるべき仕事へと戻る。


しばらく、ではあれは誰だったのだろうかと考えていた。インクと共に微かに香水の気配が漂っていたような気がする。

しかし叔父と従兄弟が下に降りてくる頃には、朧げな夢の記憶などすっかり忘れてしまっていた。



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