◎ 言葉にできなくて
「うっ…………、うぅう………………。」
席に戻るなり泣き出すアリシアへと、ミチルが「大丈夫?」と半ば呆れたように言葉をかける。
座席で待っていたユディトは「結局どうだったの、ヨゼファ先生だった?」と読んでいた本から視線を上げずに尋ねた。
「まあ…これが答えよ。」
ミチルが泣きじゃくる親友を親指で示す。「そう、」とユディトは大した感慨を抱かない様子で返した。
「テレサ、ごめんね。アリシアはヨゼファ先生にずっと片思いをしてて。」
ミチルはアリシアの背中をさすってやりながら四人の中で唯一ヨゼファと初対面だった後輩のテレサへと説明する。
テレサは「そうなんだ…。」とそれに応えるが、やや不思議そうな表情で続けた。
「でもアリシア。好きな人に会えたんでしょ、嬉しいことなのになんで泣くの?」
「まあ…今アリシアは喋れる状況じゃないから私が推測で応えるけど。」
それにはミチルが言葉を返す。
「五年前のヨゼファ先生は今よりもずっと健康的だったし。別人みたいにやつれていて私もちょっと胸が痛かったかな………。」
五年間、先生は本当に何してたんだろね。
ミチルは独り言のように呟いた。
「あとはテレサ。……アリシアは懐かしかったんじゃない、ねえ。」
隣に座ったアリシアの肩を軽く抱きながら、ミチルは困ったように笑って言う。
「懐かしい…」とその部分をテレサは繰り返し、「ああ…うん。少し分かったかも。」と頷いた。
「ヨゼファ先生はママに似ている気がしたよ。だから私もなんだか懐かしかったかな。」
「テレサのお母さんに?あの有名人の。」
「そう。」
「マリア・チェンヴァレンがヨゼファ先生に?全然似てないと思うけれど。」
掌中の本に集中して会話に参加してこなかったユディトが言葉を挟む。感極まって泣いているアリシアを除いた二人は彼女の方を見た。
「ヨゼファ先生は彼女みたいに鬼の如くの美貌の持ち主じゃないし。雰囲気や性格だって全然違うでしょう。少なくともマリア・チェンヴァレンは学校に迷い込んだ犬に眉毛を描いて大喜びしたりしない。」
「ユディト、よくそんな下らないこと覚えてるね……。」
「下らないことだからよく覚えてるのよ。」
「あ、違うの……。そういうことじゃなくて…なんて言えば良いのかな。」
テレサは苦笑しながら、少し考えるように斜め上を見た。そうして自分と良く似た色の瞳を持った教師のことを思い出す。
「うまく言えないんだけれど。優しいところ…かな。似ている気がするよ。」
呟いてから、テレサは未だしゃくりあげているアリシアの手を取った。
「アリシアの恋、叶うと良いね。」
心から思うことを笑顔で言えば、アリシアは濡れた瞳でテレサを暫く眺めてはまた泣き出してしまう。
ユディトはその有様に溜め息を吐き、「さっさと泣き止みなさいよ、水分不足で死ぬわよ。」と小さく零した。
*
「無理をするな。」
席に戻り再び向かい合うと、開口一番にスネイプがヨゼファへと言葉をかけた。
「何年も人とまともに接触していないのだろう。」
「それはそうだけれど。無理をしてはいないわよ…、どちらかというと彼女たちに元気をもらったわ。」
気遣ってくれてありがとう、とヨゼファは礼を述べて笑う。それから暫し窓の外を眺めていたが、ポツリと「綺麗な子だったわ……。」と一言零す。
スネイプが反応して視線だけをこちらに向ける気配がした。
「母親のマリア・チェンヴァレンそっくりね。………驚いた。」
ヨゼファは小さな声で囁き、背もたれに深く身体を預けては細く長く息を吐く。
「確かに…今はまだ疲れやすいみたい。ちょっと、寝るわ。」
おやすみと微笑み、ヨゼファは瞼を下ろす。
……しかし草臥れているのに関わらず、どう言う訳か眠気が訪れない。
そのままで暫くいると、床板が鳴る音と布ずれの気配でスネイプが立ち上がるのが分かった。
彼は扉の方へと向かうが、外に出るわけではないらしい。カラカラと乾いた音を伴って、どうやら廊下へと通じる飴色の扉の窓に日覆いを下ろしたようだった。
それからヨゼファは、自分が腰掛けた座席の隣が人の体重で沈んで行くのを感覚する。
肩を抱かれて、スネイプの方へと引き寄せられた。元より40ポンド近く体重が削られていたヨゼファの脱力した身体は、呆気なくその腕の中へと収まっていく。
体重を預けていると、自分よりも高い彼の体温がジワリと皮膚から沁みてくる。その心地良さに、思わず声を漏らしそうになった。
(ああ……まるで愛されているのだと錯覚してしまいそうだわ。)
温もりに感じ入りながら、ヨゼファは少しだけやめて欲しいと思った。
だが今、ほんの僅かだけ夢を見させて欲しいとも考えてしまう。
しかしそれは所詮夢で、現実の彼は自分を愛してくれはしない。……………。
(何故、人生は思い通りにいかないのかしら。)
五年間、分厚い灰色の雲に覆われたアズカバンの檻の中にいた間は外の世界に強く憧れた。
この苦しみから解放されるならば何でもしようと思い、懸命に役に服し暴力に耐え看守の機嫌を取った。努力の甲斐あって見事に模範囚となったヨゼファの刑期は削減され、今ここに至る。
しかし外の世界には外の世界の苦しみが、どこにいても人間と痛みは道を分かつことが出来ない。
そんな当たり前のことを今更思い出した自分に呆れて……少し、可笑しい気持ちになる。
しっかり生きようと思った。
自分のことを覚えていてくれた、美しく成長した生徒たちの姿をヨゼファは今一度考える。
いつか彼女たちから軽蔑される未来が訪れるのだとしても。
帰る家を永遠に失い、前科者としての証明が焼印と共に自分の皮膚と人生に新しく刻まれても。
隣で肩を抱いてくれている愛しい人間が自分以外の人間を愛していても。
毎日ちゃんと食べて、寝て起きて。精一杯に仕事をして……、…………。
*
絢爛でいて年始めの定例、大広間での夕食を終えた深夜ほど近い時間帯である。
スネイプと並んで廊下を歩くヨゼファは自分の肩をトントンと軽く叩きながら、「ああ…緊張した。」と呟いた。
「久しぶりだからっていきなり一人で喋らされるなんて聞いてなかったわよ、貴方が就任した時は無かったのに。」
「それは…御愁傷様でしたな、先生。」
「もっとお洒落してくるんだったわ…。折角髪も伸びたんだから縦ロールにでもすれば良かった。」
「正気か。狂気の沙汰だ。」
「そこまで言わなくても良いじゃない、冗談よ。」
ヨゼファは明るい表情で笑い、小さく「ああ、」と呟く。
「大広間のご馳走を見れば少しは現実感が増すかと思ったけれども、まだ不思議な気持ちがするわ…。本当にホグワーツに帰ってきたのかしらね、私。」
独り言のような彼女の言葉を聞き流しながら、スネイプは暫し考えを巡らしては石造りの廊下に漂う薄闇を眺めた。
新学期の興奮冷めやらぬ生徒たちの笑い興じる声が、消灯時間が近付く今もなおここまで聞えて来る。
しかし生徒が生活する寮から離れたこの場所に二人以外の人影はなかった。
広い階段へと差し掛かった。踊り場の巨大な窓からは青白い月影が斜めに落ち込んでいる。
かつて…ここからいつも、ヨゼファは自身の部屋が据えられた階上へ、スネイプは階下の地下室へと挨拶を交わしては別れていた。
今も、ヨゼファは軽い夜の挨拶を別れの為に告げようとしている。
スネイプは彼女のことをじっと眺めては緩く首を振った。ゆっくりと掌を伸ばし、ヨゼファの痩せ細った腕を掴んだ。
掴んだままでそこを引いて、自身の領域へと続く石壁に覆われた冷たい螺旋階段を降りていく。
*
後ろ手で扉を閉めた掌でヨゼファの頬に触れると、彼女は瞬きを数回してから小さく笑った。
「相変わらず手が大きいのね……。」
そして目を細め、懐かしそうに呟いてはスネイプの手の甲に自分の掌を重ねる。
スネイプは少しの間その低い体温に感じ入ってから指先を滑らせ、長く伸びた灰色の髪に通しては青白いヨゼファの顔を眺めた。
暫時二人は見つめ合うが…やがて彼女は瞳を伏せて斜め下の方、黒い床へと視線を落とした。ほとんど白色の髪がパサリと落ちてまたその表情を隠す。
こちらを見ろ、と囁けばヨゼファは困ったようにしながらも素直に従う。
掌を彼女の肌をなぞらせて降ろしていく。細い首を包み、肉の気配の無い肩や腕に触れて掌へと。
毎度の夢の中と同じように、スネイプは彼女に触れることに逡巡を覚えていた。掌をゆっくりと掴み、そこに自分の体温が移っていくことにただただ感じ入る。
息を吐き、時間をかけて抱き締めた。
想像しないわけではなかったが…やはり、彼女の身体を抱いた感触が五年前とは随分と異なることが胸に痞える。思わず抱く力を強くするが、余計にその肉体の脆弱さを思い知るだけだった。
それでもヨゼファは応えて腕を回し、子供を落ち着かせるように背中を軽く叩いては「久しぶりね、セブルス。」と耳元で囁いてくる。
女性にしては低く、静かな声だった。それは記憶の中のものと違わずにいてくれたらしい。
頬を寄せると、ヨゼファの髪が皮膚に触れる。
彼女は笑い、「少しくすぐったいわ…。」と可笑しそうにした。
(ヨゼファ、)
腕の中の痩せ細った女がヨゼファなのだとようやく実感出来て、スネイプは安堵する。
衰弱し切っているにも関わらず、自分を愛情深く思い遣ってくれる彼女の有様がひどく懐かしい。
だがこの気持ちをどう表現するべきかは分からなかった。それをいつも、申し訳ないと思う。
身体を離し、傍の机上に置かれていた薬瓶を取り上げた。中には紙で出来た粗末な花がたったひとつ収まっている。
ヨゼファはどこかぼんやりとした表情でそれを見下ろすが、何であるのか気が付いたらしく「あれ……、」と微かに呟いた。
「…………待っていた。」
ずっと、
たった少しの言葉で、ヨゼファへと伝える。
彼女は薄闇の中に浮かぶ色褪せた紙の花をただただ眺めていたが、やがて今一度スネイプの方を見上げた。
しかしその曖昧な笑顔からは微妙な心理しか読み取ることが出来ず、スネイプは少しの訝しさを覚える。
「あ、ああ……。私の魔法…、取っておいてくれたのね、………わざわざ、」
だがヨゼファはすぐに仕切り直して明るい表情に戻り、自分の顔へと落ちてくる髪をかきあげて礼を述べてきた。
スネイプは眉根を寄せてその様を観察する。………何かがおかしいと思った。
瓶を机の上に戻し、「ヨゼファ、」とその名前を呼ぶ。
「…………どうした。」
ヨゼファの肩を掴み身体を引き寄せ、ごく近しい距離で尋ねる。
彼女は困惑した様子で何かを言いかけるが…結局言葉にすることはなく、口を噤んだ。
段々と苛立ってきたスネイプは「言いたいことがあるならば、ハッキリと言え。」と低く言う。
彼女はそれを受けて躊躇いつつも再び口を開いた。
「…いや、ごめんなさい………。ただ驚いただけ…と言うか。」
ヨゼファは言葉につかえながら、スネイプの腕から逃れる為に身体を退こうとした。それを阻止する為に肩を掴む力を強くすれば、彼女はまた曖昧な表情で笑う。
「あ、その………、なんて言えば良いのかな。……本当に待っていてくれるなんて思って…無かったから。」
「………………。お前は何を言っている?」
スネイプはヨゼファへと僅かな威圧を込めて言葉を返した。
どう言うことだと半分は憤りを込め、もう半分は本当に彼女の真意を分かり兼ねて追求を重ねる。
そうしてスネイプは不安になった。ヨゼファの気持ちが分からなかったからだ。
(こんなことは今までに無かった。)
喜んで受け入れてくれるとばかり思っていた。自分は待っていると五年前確かに伝えたのだ。そうして彼女も了承を……
『貴方の好きにして、良いのよ。』……ヨゼファの言葉を思い返し、ハッとする。
(了承したわけでは無かった。)
(では、なにを。)
(ヨゼファは一体、私になにを求めていた…?)
「ごめんなさい……。」
ヨゼファは再三度謝り、一歩身体を後退させて…力を失っていたスネイプの腕からようやく逃れた。
「貴方を傷付けたり…貶めるつもりはなかったの。」
彼女は、机の上にポツンと置かれた透明色の薬瓶とその中の白い花を見下ろして小さな声で言った。
その痩せた顔には、部屋を漂う濃紺の闇が深々と影を落とし込んでいる。
「私はね……。実を言うとあまり人を信じていないの。正確に言えば、人に何かを期待しないことにしているのよ。」
ヨゼファは単調に言葉を続けた。
青い瞳が暗闇の中で揺らいで光り、再びスネイプのことを捉える。目が細く優しい形になるが、どこか虹彩の色は寒々しい。
「人間なんて不安定なものを信じるなんて私には恐くて出来ない。自分の気持ちでさえ常に移り変わって定まらないのに。他人を、人の気持ちをたかが言葉なんかで留められるわけないじゃない………、私には無理。」
弱く溜息する表情と声は初めて接するものだった。
いつかこの…同じ場所で自分へと詰め寄った烈しいものとはまた異なるが、それと同等に頑なである。
そして、淡白なその言葉がヨゼファの口から出たとは俄かには信じ難かった。
「語弊があるかもしれないわね。……でも、いつもそうして良かったと思う結果になるわ。だって私は彼や彼女たちに何も与えることが出来なかった。それなのに、
してもらうことを期待するなんて。我ながら烏滸がましい……。」
ヨゼファは小さく笑う。それからまた、長い髪をかきあげた。
灰色の髪はサラサラと揺れて、痩せた彼女の姿はまるで
幽霊のようだった。
「口約束なんて無いものと同じだわ。私は……別に貴方が私を忘れても良いと思ってた。それは決して悪いことじゃない。貴方は私がいてもいなくても、自分の力で次へと進んでいける人だと知っていたもの。」
ゆっくりと言葉を紡ぐヨゼファの唇が微かに震えているのが分かる。
「でも……………。貴方、」
そうして理解した。彼女は笑顔だが、笑っているわけではない。
「貴方は、待っててくれたのね……。」
スネイプを真っ直ぐに見据えてポツリと呟いたヨゼファの青い瞳から、涙が一筋垂れた。
私なんかを、ほとんど声にならない言葉で続けて、ヨゼファは眉を寄せて片掌で目元を覆う。
しかし頬には透明色の涙が幾重にも連なって伝っていくのがよくよく分かった。
ヨゼファは歯を食いしばり、喉の奥で引きつった音を立てる。
立っていられなくなったらしく、黒い床へと膝をついて蹲った。痙攣する自身の肩を抱き、彼女はひどく苦しそうに呼吸して嗚咽した。
……………泣くことに慣れていないのか。
今まで何人かが涙するのを見たことはあるが、ここまで辛苦を伴った涕泣を見たことはなかった。
スネイプは静かに混乱しながらも、彼女の言葉をどこか理解出来ると思っていた。
それはかつての自分の気持ちと近しいものだったからだ。
(ヨゼファ……、)
だが、そればかりではないと教えてくれたのは他でもない彼女だというのに。
今、ヨゼファは床に蹲って泣いている。
(………まるで、気が付かなかった。)
スネイプは手を差し伸べてやることも出来ずに呆然と立ち尽くす。
自分にその資格がないことくらい分かっていた。
今ヨゼファを抱き寄せ慰めることが出来るのは、彼女が一番欲しいものを与えてやれる人間だけだ。
だから…ただただ身体を震わせるヨゼファを、長い髪の間から覗く垂れた真っ白な首、そこにはっきりと浮かび上がった脊椎を見下ろしていた。ずっと………
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