◎ 光の結晶
「ヨゼファ!」
広大な図書室に列を成して聳える本棚の間に栞のように挟まれては読書に耽っていた少女のことを、スネイプはようやく見つけ出した。
気持ちが逸っていた為に自然と早足になっていたらしく、少しだけ息が上がってしまっている。
しかしそのままで名前を呼ぶと…その時ようやく気が付いたのか…彼女は顔を上げた。
彼の姿を認めるといつものように優しく目を細め、口の動きと少しの所作で『なに?』と尋ねてくる。
「いや…驚いた。…………髪を切ったのか。」
スネイプは少しつかえながら言った。ヨゼファは肩の上くらいまでに揃えられた髪を指先で触り、遠慮がちにこちらを見る。それに彼は「もちろん……」と応えた。
「もちろん……似合っている。」
かわいい、とか綺麗だとかをここに付け加えるべきなのだろうかと少年の彼は一瞬迷った。しかしそれを言わずとも、ヨゼファは頬を軽く両掌で包んで若干の照れと共に嬉しくて堪らない様を表現する。
「………それよりも、探した。また妙な嫌がらせを受けてはいないかと……」
心配した…。と呟いては、窓の下の狭いスペースにコンパクトに収まっていたヨゼファの隣に腰を下ろす。
この休日は雨である。
生徒たちの多くは皆寮に引きこもってはそれぞれの団欒に興じているらしい。
だから静かだった。
雨の音だけが、石造りの
城の中でサラサラとしめやかに響いている。
少しの沈黙の中、ヨゼファがこちらをじっと見つめてくる気配を覚えた。
若干ドギマギしながら彼女の方を再度見ると、ヨゼファは可笑しそうにしながら唇だけ動かして言葉を伝える。
「そんな……。」
それを読み取って、どうにも座りの悪い心地になったスネイプは自身の後頭部へ手をやっては髪を弄った。
「…………そんな、優しくなんか…ない。」
彼女は膝に頬杖をつき、落ち着きない様子のスネイプをただ楽しそうに眺めるだけである。
気恥ずかしさに耐えてチラと視線を合わせると、満面の笑顔を返された。
ヨゼファは今…その声帯をほとんど機能させることが出来ない。だから彼女の周囲はいつも静寂が漂っている。
その所作もまたゆっくりとしていて足音も無く、音という音を立てない人間だった。
今日のような雨の日はそれが身に沁みて思い出される。
ヨゼファへと掌を差し出した。彼女はスネイプの青白い手とその顔を交互に見比べる。
「なにか、話をしてくれ…。」
ポツリと呟くと、彼女は頷いて手を取り、その指先でゆっくりと言葉を記した。
「いや……。大丈夫だ、心配しなくていい。」
それへと相槌を打ちながら、スネイプはこちらに少し体重を預けてくるヨゼファの冷たい体温に感じ入る。
「元より僕はやかましいのが嫌いだ。だから、そんなことを気にする必要はない…。」
小さな声で会話しながら、自分の掌のうちにあったヨゼファの指先を軽く握った。
彼女はまた唇だけで同じことを繰り返す。それに『ありがとう。』と付け加えて。
そうして取り留めもないことを続けて質問してくる。
「朝は……、十時くらいに。………休みなんだから別に良いだろう。」
「笑うな、朝は苦手なんだ。」
「え?そうだな……、…パンとフルーツをいくつか。」
ヨゼファはスネイプが言葉を返す度に顔を上げ、こちらをじっと覗き込んでくる。真っ青なその瞳の中にはいつでも自分の所在無さげな顔が映り込んでいた。
「ん、パンは1枚だった…かな。朝はそんなに食欲が無いから…。………余計な心配をするな、昼と夜はちゃんと食べているのを知ってるだろう。」
ポツポツと尋ねられるままに自分のことを話しながら、空いている方の手でヨゼファの髪に触れた。
彼女は少し驚いたようだが、すぐに幸せそうな笑みを取り戻して『もっと、』と声なき声で要求する。
「なんというか…お前って、話してみると結構自分の欲求に正直だな…。」
「いや、そんなことはある。この前だって……」
「最初からそうやって堂々としていれば良かったんだ。変にビクビクしてるから面倒な連中に目を付けられる。」
「え?なんでだよ。」
「それは……、…そうなのか。」
「いや、良い。礼を言われるようなことはなにも………」
目を伏せて言葉を区切ると、掌を握られる感覚があった。彼女は握ったままのそれを自分の方に寄せ、頬にそっと触れさせる。
ヨゼファは瞼を下ろしていた。そうして唇だけで『貴方の手が好き。』と零す。
「手…だけなのか?」
呟くと、彼女は瞳を開いて意味深げな微笑みをした。………しかしそれだけで、言葉を伝えてくることはしない。
なんだか癪な気持ちになり、「ふん、」と声を漏らしては顔を背ける。
ゆっくりと抱き締められる気配を覚えた。
頬に、切り結んだばかりのヨゼファの柔らかい髪がふわふわとして触ってくる。
逡巡してから、何度も躊躇い…本当に時間をかけて腕を回した。
力を入れて抱き締め返してから、眉根を寄せて「ヨゼファ、」とその名前を低く呼ぶ。
「心配なのはこちらの台詞だ……。好みはあるのかもしれないが、肉も菓子類も全く食べないのは…どうかと、僕は思う。」
服の上からでも骨の形が分かってしまうほどに痩せぎすの身体を抱き直しながら言う。
ヨゼファは言葉の通りに口を閉ざし、沈黙していた。
「僕は……もっと、ヨゼファと色んなことを一緒に楽しみたい…と、思う……。」
ヨゼファは…最早手紙の一通も寄越さなくなった母親が定めた生活の規則に、前にも増して固執するようになっていた。
そんなことを遵守するくらいで母の愛情を得られるわけがない。それくらいはもう、彼女もきっと理解している。
(けれど、理解しているからといって……事実を受け入れられるほど。)
「人間は簡単じゃないよな……。」
呟いて、彼女の薄い肩に頭を預けた。
また辺りは沈黙する。細い長雨の音だけが、絶え間ない音楽のように静かに周囲を満たしていた。
ヨゼファがスネイプの肩口を指でなぞって、そこからまた言葉を伝えてくる。
彼は頷き、「そうか…。」と相槌を打った。
「次の週末…ホグズミードに行こう。」
「よく知らないが、女とかそこら辺の類が喜びそうな店がある噂を聞いた。」
「いや…良いんだ。確かにあの街の俗っぽい雰囲気は好きじゃないし浮き足立った連中も癪に触る。」
「でも…ヨゼファが喜んでくれるならそれで良い。」
「きっと、それが一番良いことなんだ…。」
言いながら、これが自分の発言とはほとんど信じることが出来なかった。
いつから…こんな、まるで
善い人のようなことを自然と言えるようになったのだろうか。
ヨゼファが自分を抱き締める力が少し強くなる。
応えて更に強く抱き直し、頬を寄せてその冷たい体温を更に近くに感じようとした。
(そうだ……ヨゼファに声が無い。)
(自分を思うように表現出来なくて、いつも一人だった。)
(だから、僕が守らないと……。)
どんな人間も、生きる理由や必要とされる理由が欲しいのだと思う。今のスネイプにはそれがあった。
自分よりも脆弱な存在を守って得られるある種の庇護欲が満たされる感覚、と言ってしまえば聞こえは悪いが。
それでも今まで誰かに、これほどに認められ必要としてもらったことはなかった。
そうして彼女の身を案じて喜ぶことを考えて、その度に心を洗われる感覚が心地良い。自分にも
善いことが出来るのだと知ってそれが俄かには信じられず、でも嬉しかった。
「ヨゼファ。」
名前を呼び、今度は触れることを迷わないで色の薄い唇に口付けた。
離して、そのままごく近い距離で額を合わせる。
「いつか…声を聞かせて欲しい。それで僕の名前を呼んで……。」
少し掠れた自分の声の背景、雨は相も変わらず降り続けていた。
細い糸雨に閉ざされた空間での、静かな夢の時間が終わろうとしている。
もうじき、目を覚まさなくてはならない。
*
目を覚ますと、外は糸雨どころかバケツをひっくり返したようなひどい雨だった。
そうして、辺りは真っ暗だった。
今は冬だ。真夜中の暗闇の深さはひとしおである。
スネイプはベッドから半身だけ起こし、しばらく眉根を寄せながら部屋に漂う暗闇を凝視していた。
起き上がって、小さなテーブルの傍へと足を運ぶ。その際黒い窓ガラスに映った自分の顔を確認した。
なんのことはない、くたびれ果てたいつもの自分の顔が映っていた。当たり前だが二十代半ば、見慣れた顔である。あれは夢だったのか、と分かり切ったことを今一度考え直す。
折に触れては、意味もなく妄想じみた、ありもしない過去の夢を見た。
普段自分が嫌忌して止まない生温い雰囲気を思い出しながら…彼は机上のガラス瓶を取り上げた。
中身の濁った緑色の液体を平皿へと注ぎ、刷毛に吸わせて左腕の内側に引く。
そこに浮かんでいた闇の印は波が引くように薄くなり、鈍痛と共に姿を消していった。
ヨゼファからは、薬の原料の採取の仕方も調合の方法も細かく伝えてもらっていた。もう彼女がいなくても手を煩わされることはない。
……その姿を見つける為にだだっ広い学校をひとしきり歩かされることも無くなって久しいが、夢の中の自分もまたヨゼファを探してあちらこちらの扉を開閉しては首を傾げ…また次の部屋まで足を運ぶ徒労を強いられているようだった。
「お前が悪い。」
呟いて、ガラス瓶の蓋を閉める。
「
匂いでも……つけておくべきだな、」
そうだろう、と室内を覆う暗闇へと言葉をかけた。
勿論のこと何からも返事をなされることはなく、辺りはシンとして静寂である。
ベッドの上に戻っても横にならず、ただそこに腰を降ろして考えを巡らせた。
こういった時に、ヨゼファの身体をこの上で抱いた記憶が頭を過る。
自分がよく識る彼女の身体の肉付きは悪くない。
なだらかに曲線を描く肩を掌でなぞって、それから重みのある柔らかな乳房に頭を預けるのが好きだった。
だが且つてのヨゼファは痩せた膝と手足の長さばかりが目立つ発育が悪い少女だったと…なんとなく、思い出す。
少女のヨゼファにもう一度会ってみたかった。
今度こそはと、ただその妄想を夢に描いて虚しい気持ちになる。
(結局………何も、私は。)
自分は一体、ヨゼファをどうしたいのだろうか。
(それでも……待っている。)
気持ちに応えることも出来ないというのに。
「ただ、待っている。………だから、」
ゆっくりとベッドの隣、誰もいない空間へと手を伸ばす。
冷たいシーツに指を触れて瞼を下ろした。
ヨゼファがそこにいたら間違いなくこの掌を握り返してくれただろう。身体を抱いてくれたに違いない。
その力強い抱擁の中で深く呼吸をして安心したかった。そうして自分が言えない言葉を彼女に囁いてもらうのだ。眠りに落ちるまで…ずっと。何度でも。
*
次に見た夢の中の自分は今と同じ姿で、同じように教師としてこのホグワーツにいた。
しかしその傍にいるヨゼファは毎度の夢のように痩せぎすの少女のままである。
彼女は作業に勤しむスネイプの手元を、机上に頬杖をついては覗き込んでいた。
飽きないのか、と思って声をかけようと口を開きかけるが…ふと少女の相貌に視線を留めて息を呑む。
佇まいや纏う空気、それはヨゼファそのものである。間違いはない。
しかし彼女の髪は見覚えのある淡い灰色ではなく、深い黒色だった。まるで自分のような。
ゆっくりと顔を上げてくるのでそれを見守る。
どういうわけか視線の焦点が合わずに、少女の
面を見定めることができなかった。
しかし瞳は馴染みがある色濃い青色で、それがゆっくりと細くなるのをよくよくと感じることができた。
愛情深い視線をこちらに寄越す彼女を、スネイプは何も言えずにじっと見つめる。
『誰だ、お前は。』その質問が口をついて出るのと、目が覚めるのはほとんど同時だった。
まだ日は昏い。
しかし遠くでは鶏が三度鳴いて、朝が再び巡ってきたことを知らせていた。
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