骨の在処は海の底 | ナノ
 汚れなき涙

見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。

しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたすでしう。


[旧約聖書: ヨブ記40章]




ヨゼファの呼吸はおおよそ人間のものとは異なり深くゆっくりとしていた。

ホグワーツの地下、広大な水路には水音とその低い呼吸だけが響き、ダンブルドアは巨大な水棲生物の腹の中にいるような感覚を覚えていた。


「…………今夜は終わりにしよう。これ以上は危険だ、君の血が足りなくなる。」


そう言葉をかけるとヨゼファは無言で頷き、充てていた掌をズルリと石壁から離す。彼女の血液によって描かれた今晩最後の図象から赤色が垂れ、細い汚れが乾いた石材へと染み込んでいく。

それを眺め、ヨゼファは「ちょうど…終わったところです。」と微かな声で呟いた。


「この巨大な城の……地下に魔法陣を構成するだけで、もう何ヶ月もかかりました。ホグワーツ全てに魔法の領域を広げるのは…つくづく気が遠くなる話です……。」


ヨゼファはその場に座り込み、胸部を抑えて鋭い痛みに耐えているようだった。恐らく、そこを中心に皮膚上、黒い魔法の印が新しく刻まれたのだろう。

額から冷や汗を垂らす彼女を労わり、ダンブルドアは傍に膝をついて肩を抱いた。「血液が必要か。」と尋ねるとヨゼファは首を横に振る。「でも、少し横になります……」と言葉を付け加え、その場…冷たい石の床の上に身体を横たえる。


彼は頷き、「壁面の血液の処理は儂がしておこう。」と言う。ヨゼファは「すみません…」と謝罪した。構わないとそれをフォローし、今一度彼女が描いた魔術へと視線を向ける。

複雑に入り組んだ地下水路の壁面の始まりから終わりまで、彩度の低い赤色の魔法陣…彼女の血液による…が一列にずらりと並んでいた。

統計立てた魔法陣…サークルにトーラ、サンプルボーン 、ロゾンジュ、そしてオーバル、どの形との相違もなく規則性を見出せない。その原始的な図象たちが黒蟻の群れのように壁面を這い回って描かれているのは、些か不気味な光景である。

描く素材によって効果が変わる魔法陣の中でも、血液は最たる強力な力を持っていた。

既に結ばれたこの魔法陣は図象が消えても発動させない限り効果が続く。来たるべき時の為に、静かにこの学校と共に息衝くのだろう。


杖を横に払い、黒く変色しつつある彼女の血液を壁面から清める。瞳を閉じたままのヨゼファへそれを終えたことを知らせると、彼女は短く礼を述べてきた。


「いつも付き合ってもらってすみません…。」

「ひとりではあまりに危険だ、死に至る可能性が常にある。それに君にこの巨大な魔法の構成を命じたのは…一体誰だったかな……?」

「ああ…誰でしたっけ。」

「あまり自分を安売りするべきでは無い、君はもっと見返りを求めるべきだ。」


そう言って、彼は憔悴し切っては石床の上で青白くなっているヨゼファの身体を支えて起こそうとする。しかしそれは「大丈夫です…、」と拒否された。


「少し休むだけなので………自分で、どうぞ今夜は先生…お帰りになって大丈夫です。」


まとまらない単語を連ね、ヨゼファは掠れた声で言葉を伝えてくる。

勿論のこと、彼はここから去るわけにはいかなかった。


「それでは君が一人で立てるようになるまで傍にいよう…。」


そう言ってヨゼファが身体を横たえていた幅の広い石段へと腰を下ろし、柔らかなその頭髪を撫でた。

ヨゼファは弱々しく笑い、「こんな風に私のことを女の子みたいに扱ってくれるのは先生くらいですよ…。今も昔もね。」と言ってはうっすらと瞳を開いた。


彼女は横になったまま自らの細長い杖を取り出し、先から空中へと白い光を立ち上げていく。それは地下水路の高い天井付近で巨大な鯨の姿に変化して、ゆっくりと畝っては漂っていく。


「目的はどうであれ…呪いは呪いですから。」


ヨゼファは緩慢な動作で人差し指を唇の前に立ててから、彼女の顔を覗き込んでいたダンブルドアの唇付近へもそれを持っていき…元の位置へと下ろす。


「良くないものが引き寄せられます…。守護霊で清めておく必要がある。」


囁いた彼女は、目を細めて遠く上空にいる自らの守護霊、巨大な鯨を眺めた。そうして人事のように「大きいわ…」と呟く。


「…………鯨は。海を巡っては幾度も周回して生きる動物ですから、私や私の魔法とよく似ています…。同じところを終わりなくずっとグルグルと漂って………哺乳類なのに、陸に生きる動物とも交われない。」


ダンブルドアが差し伸べる掌を取って、彼女をその指へと軽く口付ける。そこを握ったまま、ヨゼファは深呼吸をしては穏やかな表情をした。


「でも……この魔法のおかげで私はようやく生きる場所を与えてもらったのだから、悪足掻きも無駄じゃ無かったんでしょうね。」


………先生、ありがとう。

礼を述べるヨゼファの笑顔から、ダンブルドアは少女時代の彼女の姿に思いを馳せた。

随分と変わってしまったものである。

まるでその面影はなくなってしまった。頬からはすっかりと肉が落ち、眼窩には深い影が落ち込んでいる。まるで別人のようだが…それでも笑い方は同じだった。瞳を細めて、人が好い笑い皺を目尻に作る。


「何もこの為だけに、君をこの学校に置いたわけではない……。」


手を握り返してやりながら、ダンブルドアは出来る限り自分の気持ちが真摯に伝わるように…ゆっくりと言葉を紡いだ。


「ヨゼファ、君がマリアより劣っていることなどひとつもありはしないのだよ。………同情して言っているわけではない。」


しかしどんなに愛情や優しさを伴った聞こえの良い言葉を彼女へと届けても、自分が教え子の血肉を削って自らの利を適えようとしている事実は変わらない。

ヨゼファはそれでも承知をしてくれたが。

彼女はずっと一人で、必要とされる理由を欲しがっていた。その心の根を見透かし利用してはいない、…それは嘘である。


「君はいつでもマリアに憧れ、善くあろうとすることに拘る…。しかし悪は確実に存在するが、善などこの世には無いのだよ。ただ誰もが自分を正しいと思っていたい…それだけのことだ。」


もう君はそれを理解しているのではないか、と言いながら彼女の掌中から自分の手をゆっくりと抜き、教え子の頭髪を今一度撫でる。ヨゼファが深く呼吸をして瞼を下ろすので、頬へと手を添えた。その皮膚の温度は普通よりも随分と低い。


「今いる場所がきっと正しいと信じて我々は進むしかない…。同じ場所を彷徨い続けているのは君だけではないのだよ、安心しなさい。」


薄く開いたヨゼファの瞳と目が合った。

彼女は小さく息を吐き、「優しい…。私は貴方が好きですよ。」と正直な好意を伝えてくる。


「………なんでしょうね、薄情なことに私は自分の父親に対して情が湧かないんです。私が生まれる前に死んでいるし…マリアさん・・・・・は彼のことを全く話してくれないので。写真も家に碌に無かったな…。」


ヨゼファが想いを巡らせて見上げた先の天井には、彼女の守護霊がゆったりと宙を旋回して帰ってきとところだった。白い鯨はこちらに近付き、一度下降してはまた上空へと遠ざかっていく。


「だから、いつも手を差し伸べてくれる貴方を父親みたいに思っていました。………今も。」


彼女の言葉を聞きながら、ダンブルドアはローブのポケットに忍ばせた真っ白い真珠の髪飾りへ指先を触れる。握って…何かを考えては口を開いた。


「君は、この学校が好きかね。」


尋ねると、ヨゼファは「勿論。」とすぐに返答する。


「それは奇遇…儂もじゃよ。そしてここの生徒の多くは君を慕っている。ここにいるべき理由はそれで充分ではないか、何度も言うように…儂はヨゼファの価値をこの強力な闇の魔法だけに置いているわけではない…。」


ヨゼファの身体を支えて半身を起こしてやる。ようやく同じ高さになった彼女の瞳と視線を合わせて…彼はポケットの中、白金の髪飾りから手を離した。


マリアは何を思ってこのあまりにも高価な髪飾りを作らせ、ヨゼファもまた何を思って髪の長さを揃えるだけでは足らずに少年のような短さにまで切り結んだのだろうか。

そして母親は何の為にこれを娘に渡す機会を永遠に放棄し、娘は母親を拒絶したのか。互いを強く想っているにも関わらず、母子の絆を断ち切る結果になったのは何故だろう。


これを、母親からだと言ってヨゼファに渡してやりたかった。


しかしそれは所詮、分かりやすい贖罪を経て許された気持ちになりたい自身のエゴに所以した行為である。

ヨゼファの戸籍は既にチェンヴァレン家から永遠に抹消され、二人は名実ともに他人だ。

彼女たちの答えはもう彼女たちの中で出ていて、この母子の間で繰り広げられた全てのことは終わったのだ。悪戯に掻き回すべきではない。


「ヨゼファ……。」


姓を失った彼女の名前を呼んでやる。

ヨゼファは相変わらず蒼白な顔色ながらも応えて返事をした。嘆息しながら、その両肩へと掌を置く。


「アズカバンでの務めが終わったら帰っておいで、ヨゼファ先生。君の家はここなのだから……。」


恐らく…本当に申し訳ないと言う気持ちを抱いているのなら、彼女の帰る場所を保ち続けてやることがせめてもの務めなのだろう。そう考えた。


口を閉ざし、目を伏せると辺りはシンと沈黙した。眼前の水路ではただただ黒い流れが泡立って通り過ぎ、その音だけが絶え間なく辺りに響いている。

彼女の肩に置いていた掌を握られる感覚を覚えながら、ああ、と声を漏らしそうになった。



(良い加減、こんな人生からは降りてしまいたいと思う。)


こう言う気分を味わう時、いつでもそう考えた。

今でも夢に妹を見るのだ。目覚めた時、心から詫びてもそれを伝える相手が既にいないことを理解して心の底からぞっとする。


申し訳なかった。本当にすまない。悪いことをした。


どれもこれもなんと陳腐な言葉なのだろうか。届かない謝罪ほど意味のないものはない。

それでも自分は伝える術を考えなくてはいけない。考え続けなくてはならない。



ヨゼファ、再び名前を呼んでは肩に置いていた掌でその背中を軽く叩いた。

彼女が応えるので…「話は変わるが、最近良いものをもらってのう。」と切り替えて語調を明るくした。


ポケットから…真珠と透明色の石を伴った白金のジュエリーを取り出すと、それは周囲に灯る炎を強く反射して細かい輝きを周囲へと零す。

ヨゼファは「へー……」としみじみと感心した声を上げてそれを見つめた。そして何かに気が付いたように「あら、」と声を上げる。


「先生、これガラード製じゃないですか。」

「良いものなのかね?」

「良いなんてものじゃ…この大きさなら、家が一戸建つくらいの価値があるんじゃないですか。」


はー…と彼女は溜め息をして、流石、とそれを再び見つめてくる。


「こんなもの下さるなんて…よっぽど先生のこと大事にしてる方なんですね。」

「どうかのう…。」

「でも何故女性用の髪飾りなんでしょう?」

「それは勿論、儂のこの立派な髭を飾るためじゃよ。」

「ハァン、なるほど。」


彼女は至極可笑しそうに笑い、「間違いなくお似合いですよ。とってもキュートだと思います。」と吟味するように首を傾げては言った。

ダンブルドアは「ありがとう、」と礼を述べてはヨゼファの腕を引いて立ち上がらせる。未だに足元が覚束ないらしいその身体を支えてやりながら。

歩き出すと、その後を光の鯨が追いかけては傍でふわりと姿を消した。白い残照を、光の雨のように辺りへと降らせながら。



(己を慕い、信じてくれる人間に甘えてはいけない。)







「せーんせい!」


部屋に舞う埃を追い出すためにドアを開け放していると、そこから元気が良い声で呼ばれる。

同じようにヨゼファが「はーい、」と明るく返すと、扉から覗いていたビエールカ…6年生の生徒…がにこりと笑い返した。


ヨゼファはローブを脱いで軽装になっては室内の私物をまとめている最中だった。

粗方それは済み、彼女の荷物を収めた木箱が部屋の隅でうず高くなっては積まれている。しかしまだまとまりきらない荷物が多く、中々の奮闘を強いられているところだった。


「なんだか先生大変そうだね…。」

「そう、大変なのよ。」

「ヨゼファ先生はものを溜め込みすぎるんだよ。」

「ああ言わないで……。自分のその性質のせいで今とっても苦労してるんだから。」


ヨゼファは溜め息をして、一旦作業する手を止める。

そしてビエールカへと向き直り、「どうしたの?」と尋ねた。「あんまりゆっくりしてると汽車に乗り遅れるわよ。」と付け加えると、彼女は少し寂しそうに笑っては重たい木箱にもたれてヨゼファのことを眺める。


「んー…、先生さ………本当にホグワーツやめるんだなあって思って。」

「私も不思議な気持ちよ。人生どうなるか分からないわよね。」

「じゃあ今はもう先生じゃないの?」

「今年度の最終日が今日だからね…。今日はまだ先生よ。」

「明日は?」

「もう先生じゃなくなるわ。」

「それじゃあさ、夏休み中私と遊びに行かない?」


ビエールカは些か遠慮がちに言った。ヨゼファは瞬きをパチパチと数回するが、「行けたら良いわね。」と笑ってそれをやり過ごす。


「ねえ……、先生。」


しかし彼女は聡い少女だった。誤魔化されない。

ヨゼファの黒い服を指先で引き、「先生が私の告白を断った理由、覚えてる?」と静かに尋ねては言葉を続ける。


「『教師と生徒じゃ難しいわ。』そう言ったわね。……私、嬉しかったのよ。女同士だからって先生は言わなかったもの。」


ヨゼファは笑みを穏やかにして、「そうね、」と小さく呟く。それから「そんなこと言うわけないでしょう。」と彼女に応えた。


「私の初恋も女性だったもの。」

「恋人になれた?」

「いいえまったく。元から恋人になりたいわけでも無かったから。その後男の子を好きになったけど…こっちも駄目ね。私は恋愛には向いてないみたい。」

「そんなこと、分からないじゃない……。」


キュ、と服を掴む彼女の細い指先の力が強くなり、ヨゼファは思わず胸が切なくなった。同時にひどく懐かしい気持ちを覚えて、少女時代の自分を思い出す。


「うん……そうね。でもごめんなさいビエールカ、私は遠くに行くからお付き合いするのは難しいわ。」

「やっぱりボーバトンに行くの?……それくらいなら全然平気…もっと遠くても良いよ、私会いに行くから。」


ヨゼファは苦笑する。

そして自分を慕ってくれるこの少女を愛らしいと思った。


膝を折って彼女の白い頬を両掌で包み、薄いオリーヴ色の瞳の中を覗き込む。

そうして「ごめんね。」とゆっくり囁いた。


そのまま二人は暫し見つめ合うが、やがてビエールカの瞳から透明色の涙が一筋垂れる。

ヨゼファは華奢なその身体を抱き寄せ、「泣かないで。」と背中を撫でた。胸がいっぱいになるので、苦笑して眉根を寄せながら。


「卒業のお祝いができなくてごめんなさい。貴方は素敵な魔女になるわ、本当にそう思うのよ。」


ねえビエールカ子リスちゃん、と声をかけて色素の薄い金色の髪を撫でる。


-----------------------------しかし、そうしながらもヨゼファには分からなかった。


何故この生徒は自分のことなどを好きになったのだろうか。

生徒たちにとって自身は退屈な時間を提供するばかりの存在である自覚はあった。だからこそ、こちらも気楽に彼らへと向き合えたのだ。

しかし今腕の中にいる少女にとって、自分はそれ以上の意味を持っていたらしい。


………………分からない。


誰からも大して見向きをされず、認められた経験も無い。これからもずっとそうだと思ってた。それでも良いと、そんなものだろうと納得はできていた。


(それなのに………)



「勇気を出して想いを伝えてくれてありがとう。……本当に嬉しい…。」



ヨゼファはポツリと零す。

それは空の棚ばかりになったこの部屋で、いやによく響いては消えていった。







「ねえ……それどうしてもしなきゃダメなんですか?」


スネイプがヨゼファの部屋の扉…鍵はかかっていなかった…をゆっくりと押すと、彼女は数人ほどの見知らぬ人物へと困った表情をして何事かを訴えてる最中だった。

その物々しい雰囲気や襟が正された服装から彼らが何者かは簡単に予想出来る。恐らく魔法省の役人だろう。


「ダメです。規則ですから。」

「困ったわ……。これじゃ背中が痒い時にかけないじゃない…、貴方かいてくださる?」

「善処します。」

「頼んだわよ、私痒いの我慢するとクシャミが止まらなくなるから。」


そう言いながら、ヨゼファは彼らの前へと手を揃えて差し出した。そのうち一人が彼女の両手首に通した銀色の輪は鎖型の白い光で互いを繋ぎ、拘束具へと姿を変えていく。

ヨゼファはその時にようやくスネイプの存在に気が付いたらしい。「あら、」と嬉しそうに笑って彼の方へと視線を向ける。


スネイプはそれに応えず、部屋に積まれたヨゼファの私物がたっぷりと収まっているらしい木箱の山を見上げる。そうして「…………よくも溜め込んだものだ。」と呟いた。


「どれも仕事に必要なものだもの、仕様がないわ。」

「これをどうするつもりだ。」

「そうね…一応まとめたんだけれど予想以上に多いから困ってるのよね。ねえこれ持って行っちゃダメですか?」

「ダメです。」


ヨゼファの質問を、魔法省の役人は表情を変えずに一蹴した。


その手首に錠をかけられ今まさに連行されようとしているのが考えられないくらい、彼女には緊張感が無かった。

溜め息を吐き、やれやれと呟いて自身の愛着溢れる道具類を収めた箱の数々を眺めている。


「仕様がないわね……。じゃあ処分しましょうか、置いておける場所もないし。」

「その必要はない。」


彼女の言葉に、スネイプもまた木箱に視線を向けたまま返した。

ヨゼファがこちらに視線を向ける気配がする。応えてその方を見ると瞳がピタリと合った。


「このまま、置いておけば良い。」


ゆっくりと一音ずつ確かめて言葉を連ねる。


「どうせすぐに戻ってくる…。」

「いいえ、それはまだ分かり兼ねますが。裁判の結果次第ですから。」

「大した罪を犯す度胸も無かった木っ端死喰い人が重刑に服す理由が分からない。とっとと行ってとっとと終わらせて一週間で帰って来い。」


役人の言葉を無視してスネイプはヨゼファとの会話を続けた。

彼女は可笑しそうに「一週間は難しいわよ、」と返す。


「でも……そうね。夏休み中に終わって、来年度にまたこの学校に帰れたら素敵だわ。」

「周囲は拍子抜けするだろうが。」

「折角色んな人に別れを惜しんでもらえたのにね、」


あはは、とヨゼファは声を上げて笑った。

その草臥れた顔を斜めに差し込む陽光が照らしている。それを眺めながら、スネイプはほんの刹那にもしかしたら彼女は美しいのではないかと考えた。それは気の迷いだったらしいが。


「どちらにせよ……しばらく会えなくなるわね。渡したいものがあったの、なんだか気恥ずかしくて校長先生に頼むつもりでいたけれど。やっぱり…直に渡すのが良いわよね。」


失礼、とヨゼファは役人たちに断って空っぽの空間をこちらに向けるばかりの巨大な棚からなにか…書簡のような…を取り出して彼の傍へと戻ってくる。


それは古く擦り切れた封書だった。

紙の色と同じように、すっかりと変色して色褪せたインクでスネイプの名前が宛名とされている。


「私が学生時代に貴方に宛ててかいたものよ。結局渡せなくて………なんだか今更手に取ってもらうのも変な感じだけれど。」


彼は掌中に収まった封書を暫し眺めていたが、「……私も、渡したいものが。」と言って胸元に収めていた紙切れをヨゼファへと渡す。


彼女は四つに畳まれていた羊皮紙を錠をかけられた手で受け取っては「ああ、」と呟く。それはヨゼファがかつてスネイプへと渡した魔法陣避けだった。


「必要ないものだ。」


一言だけ伝え、彼は空になった胸元へと受け取った封書を入れる。その際、すっかりと日に焼けて薄くなった自分の名前が妙に印象に残った。

線が細く、小さくて読みづらい文字だった。かつてのヨゼファの人格が伺えるような。

どのような気持ちで当時の彼女はセブルス・スネイプの名前をここに記したのだろうか。


たかが薄く軽い書簡がひとつ収まっただけなのに、いやに胸元が重たく感じる。服の上から受け取ったものを抑え、自らが記した魔法陣除けをしみじみと眺めていたヨゼファのことを今一度見た。

何かを言おう、と思う。

言うべき言葉をずっと持っている。しかし形にする覚悟はいつまでも出来ないままだった。



「……………待っている。」


代わりの一言をポツリと零すと、彼女は顔を上げて弱く笑う。そうしてゆっくりとした語調で応えた。


「貴方の…好きにして良いのよ。」


でも、ありがとう。

ヨゼファはいつものように笑い、不自由な手をヒラヒラと動かして場違いに軽快な様子で別れの言葉を口にした。

反対にスネイプは何も言わず、ひどく混乱した心待ちでヨゼファの顔を凝視する。この気持ちをどのように表現すべきか分からなかった。だからただただ沈黙している。


そのまま少しの時が流れるが、やがてスネイプは踵を返して部屋を後にした。

今一度彼女を認めることもせず、扉を閉めたかどうかもよく思い出せないままに、ホグワーツの長い廊下を早足で歩む。


そうして別れたばかりの彼女の姿を今一度考えた。銀の鎖を手首に垂らしては穏やかな表情でこちらに手を振るその姿を。


-----------------------------その掌で、触れられたのだ。


この廊下で。もう何年前の話だろうか。

同じ手で、初めて身体を重ねた夜に皮膚をなぞられた。愛情深い言葉が細い雨のように落とされてくる中を。


『逃げないで』


想いを伝えられた時、肩を強く掴まれた。

痛いほどに抱かれた際、弱く漂ったインクと香水が混ざったその匂いもよくよく思い出せる。


…………ヨゼファの部屋には、いつでも大きな窓から金色の光が斜めに注がれていた。

机上に長い影を落とす古びたコンパスと三色のインク、全ての道具類には定位置がある。棚に収められた無数の鮮やかな顔料も同じように。

そこへ彼女の身体を叩き付けた時のこと、見知らぬ国の花を咲かせるガラスの鉢を受け取った時と失った時……時間軸もバラバラに、共に過ごした由無し事が海底から次々と泡が浮かび上がるように浮かんで消えた。


硬い靴音が石造りの建物に反響し、アーチ型から注がれる乾いた光の中に自分の黒い影が踊るように現れては消えていく。

生徒たちが家に帰り、ほとんど無人の広過ぎる学校ホグワーツはどこまで行ってもただ灰色の石壁が連なるだけだった。

途中、そこに掌をついて立ち止まれば苦しげな呼吸が喉元をヒューヒューと鳴らす。いつの間にか、走っていたらしい。


呼吸の乱れと足並みをようやく整え、ゆっくりと自身の馴染み深い教室…部屋、作業場へと降りていく。


初夏の太陽の光は明るく、ただひとつの灯り取りの窓から黒い床へとそれは真っ直ぐに注がれていた。

眩しく思い、目を細めてその方へ緩慢に手をかざす。


胸元から色褪せた封書を取り出して、ほとんど意味がないほどに剥がれかけている封蝋を外した。

中身はただ一枚の紙をふたつに折っただけのものだった。


取り出して開く。柔らかい灰色の線で描かれた魔法陣だった。


今の彼女のものとは比べられないほどに拙く、あちらこちらのバランスも不慣れな様子が伺える。

所々掠れ、滲んだ円形の中に収まった簡単な魔法陣は、やがて銀色の蛇が水中を泳ぐようにゆっくりと紙上を這い回って動いた。


開いた紙の上、中空へするりと解けてその図象は浮かんでいく。

銀色の弱い光を灯し、ひとつずつの文字を象りながらゆっくりと。

やがて不器量なアルファベットは不安定な姿を辛うじて保つように、点滅しながら形になる。



T h a n k Y o u .



は、と思わず声が出る。

そして瞬きを数回した。


威力が充分ではない拙い魔法は限界を迎えたのか、やがて輝きを失せて紙の上へと銀色の光を戻していく。

光を受けた古びた羊皮紙はカサリと音を立ててひとりでに折れ曲がり、僅かに空中に浮かびながら細長い一輪の蕾形へと変化した。

ふっくらと弁を花開くと、それはどこからか漂う弱い風に煽られて自分の重みでふらふらと漂った。その後今一度スネイプの掌中へゆっくりと降り、遂に動かなくなる。


紙の花をしばらく凝視しながら、「こんな…」と声を漏らした。

今少し待つが、もう何も起こらない。その魔力は完全に事切れたらしい。


「こんな……、たった…これだけのことを………?」


掠れた弱々しい言葉を零した口元を抑え、瞼を閉じる。無意識にきつく。


(…………違うと、言っている。)


少女のヨゼファが自分へと感謝した行為、それは真実に彼女のことを思って為したものでもなんでもない。

だが、適うのであればいずれ……、この言葉を受け取るに値することを。……救われるのではなく、救うことを夢に見る。


小さな紙の花を机上に置かれていた空の薬瓶に収めた。

窓からの細い光に照らされたその様を、目を細めて眺める。


(だが……兎にも角にも、ようやく受け取ったのだ………。手に入れ損ねた少女の言葉を。)


白色の花を入れた瓶を持ち上げ、光の中にかざした。

首を前に出し、冷たいガラス越しに口付ける。顔を離す拍子に窓を見上げると、昼の白い月が水色の空遠くにポッカリと浮かんでいた。

その時、自分はこうしてヨゼファの帰りをいつまでも待つのだと気が付いた。



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