骨の在処は海の底 | ナノ
 美しい名前

私が最初で最後に恋をしたのは、ヨゼファの父親一人だけ。

勿論今の夫だって愛している。でもその感覚が恋と違うと思ってしまうのは、私が年老いた証拠なのだろうか。




「ねえ…あの子はいつ髪を切ったの。」


暫しの沈黙が続いていた室内で、マリアがポツリと呟いた。

ダンブルドアはチラと、革張りの椅子に深く腰掛けた彼女のことを見る。それから自身のカップの中に砂糖を加えては「大分昔じゃよ。」と答えた。


「それでは…君はヨゼファが髪を切ってから一度も会っていないということか。」

「そういうことね。軽蔑したければすれば良いわ。」

「儂に子供はいないからのう…。親子間の問題に提言する資格は恐らく無い。」


マリアは溜め息を吐き、先ほどから口を付けずにいる掌中のカップの紅茶をユラユラと揺らす。そこには馴染み深い自身の相貌が映り込んでいた。

この容姿は母親譲りである。美しい母親から美しく生まれ、能力に恵まれ人を惹きつけるカリスマも持ち合わせていた。恵まれて人より優れている自覚と、それに甘んじない向上心と慎重さも有している。

それなのに、何故心は空虚なのだろう。誰がどう見ても完璧にほど近い人生を歩み続けていると言うのに。


「もう伸ばさないのかしら。せっかく綺麗な髪だったのに。」

「それは本人に言ってあげなさい。」

「いやよ、言わないわ。」

「ならば何故儂に言うのか。」

「だって貴方は他人じゃない。」

「ヨゼファだって他人じゃよ。元は確かに君の一部だったが、子供と自分が同じものだと思ってはいけない。」

「親子間の問題に提言はしないって言ったのに……。貴方は相変わらず嘘吐きだわ。」


マリアは苦笑してから、ダンブルドアが使用していた砂糖壺を引き寄せる。金色の釉薬で飾られた蓋のつまみを持ち上げると、中身の真っ白い結晶がランプの光を受けてキラキラと光った。


「まあ…何か心変わりがあれば伸ばすのかも知れないが。女性とはそう言うものでは?」

「心変わり。………恋するとか?」

「恋ならもうしておるじゃろ。積年、どうしようもない具合に。」

「趣味が悪いわ、あんな思いやりがなさそうな人間。相応しい男性なら私がいくらでも探すのに…。」


砂糖をサラサラと深い赤色の紅茶の中へと注ぎながら、彼女は呟く。

いつもマリアは紅茶に砂糖を入れない。美容に気遣い上白糖は極限摂取せず、ヨゼファもその食生活に従っていた。ホグワーツはことあるごとに生徒たちに甘い砂糖菓子を振る舞うけれど、それは控えるようにと言い聞かせていたのを愚直な少女は守り通していたらしい…。


「幸せになんかなれないわ。情が芽生えたとしても所詮傷の舐め合いじゃない。」

「幸せの捉え方は人それぞれじゃよ、マリア。だがヨゼファに至っては幸せになれないと言うのは恐らく間違っていない……。」


ダンブルドアは立ち上がり、部屋の奥から羊皮紙の紙切れを持っては戻ってくる。

マリアはそれを受け取り一瞥してから、「なに、これ。」と片眉を上げて尋ねた。彼は艶やかななめし革のソファに再び腰を下ろしては「ヨゼファの魔法陣じゃよ。」と返す。


「彼女と二人でこの魔術の研究を進めているが。魔法陣の効力に影響するのは…描く素材と色彩、見た目の美醜と図象の正確さ、それから不安定な精神だと言うことが分かっている。精神の安定性が最重要な我々の魔法と、その点が異なるところだ。」


マリアは娘の魔法陣を初めてまともに眺めた。

ヨゼファはダンブルドアと共著でいくつかこれに関する本も出版していたが…進んで手に取ろうとはしなかった。

不思議な気持ちになる。普通の少年少女が魔法陣によくよく触れ合う年頃にはさして興味を示さなかったというのに。

もしかしたら自分は、ヨゼファについて知っていることよりも知らないことの方が多いのかもしれない。ふと考えれば、心の空虚さは一層になった。


「ヨゼファは優秀で闇祓いのトップである君に憧れていた。しかし残念なことに闇の魔法の中に才能を開花させてしまい…そして自分の欲望を叶え人を傷付ける為の魔法陣を見出してしまった。」


これには特に魔力はない、ご安心を。とダンブルドアから別紙に描かれた魔法陣を渡された。

正円の中に行儀良く収まっていた先ほどの流線形とは違い、楔で引っ掻いたようなぎこちない記号の羅列である。


「孤独と不安と悩みと迷い、そして愛情と憎悪の間で揺れる不安定なハートがヨゼファの魔法の力になる。罪の輪に繋がれて同じ場所で足踏みを続けることが。」


ダンブルドアがすぐにマリアの掌中から羊皮紙を回収してしまうので、彼女は娘の魔法へと目を滑らすことしか出来なかった。

恐らくこれはホグワーツの機密の一部なのだろう。見せてくれたのは、この老齢の魔法使いの好意だ。


彼は再び白い磁器のカップに口を付けてから言葉を続けていく。会話というよりは独り言のような口調で。


「だが…闇と光を行き来するヨゼファの黄昏の魔法陣はこれからどうしても必要になる。だから彼女は幸せになれない。」

「……何故。そんなものはすぐにやめさせてちょうだい。」

「それは出来ない。闇の帝王が与り知らない魔法だ、重要な切り札になる。」

「心を乱して不安定な魔法を行使することをあの子に強いるつもりでいらっしゃるの。」

「仰る通り。」

「心は痛まないのかしら。校長先生・・・・?」

「その言葉をそのまま君にお返ししよう、マリア。皮肉なことに君との冷え切った関係こそがあの子の唯一無二の魔法の才能を育てたのだから。」


眼鏡越し、鮮やかな青色の瞳に見つめられてマリアは言葉に窮した。

それから皮肉を込めた笑顔を作り、「ええ…ヨゼファも自分の幸せより貴方の役に立つことを望むでしょう。昔からとても懐いているもの。」と呟く。


マリアは砂糖を入れた紅茶を口に含む。甘味で喉が焼ける心地がした。そこまでの量を入れたわけでもないのに。


-----------------ローブの内側のポケットから、白金に真珠の装飾を施した髪飾りをおもむろに取り上げる。

か細い室内灯を反射して静かに光る様を眺めてから、マリアはダンブルドアへとそれを差し出した。


「貴方にあげるわ。お髭にでも飾ってちょうだい。」


勿論のこと彼は訝しげな表情をしてから…緩く頭を振り、「ヨゼファにちゃんと渡しなさい、自分の手で。」と諭すように言う。

しかしマリアもまた首を横に振り、「だってあの子の髪は結い上げるには短すぎるわ。」と言って目を細めた。


「これから伸びるかもしれない。」

そう言って受け取らないダンブルドアの掌を引っ張り、強引にそれを握らせる。

そして肩を竦め、「そう言う問題じゃないわ。」と彼女は呟いた。


「私はもう、ヨゼファに何も与えるつもりが無いの。」


そうして、あの子もまた自分からの贈り物なんて最早欲しがらないだろうとマリアは思った。

それはボンドストリートの中心にガードマンに守られては絢爛な店を構え、世界各地の最も優れた宝石と一流の職人が集められ、最新の箒を買ってお釣りが来るほどの値段の瀟洒で洗練された真珠の髪飾りだった。

でもきっと、あの陰湿な黒髪の男が流行らない店で購入した安物に適わない。



(あんなに私のこと、大好きだったのに。)


(お母様のことが…一番好きって………)




いつもおどおどとして自分を苛つかせたヨゼファの少女時代を思い出し、胸が痞える気持ちになる。

そして絞り出すように言葉を続けた。


「やっぱり許せない……。闇の陣営に堕落することは最も悪い行いだと、私は確かに教え続けたわ。闇の魔術がどんなものか知らないわけでは無かったのよ?直接手を下していなくても多くの虐殺、残酷な行いの片棒を担った人間である事実は一生消えないわ。」


彼女の言葉を聞きながら、ダンブルドアは掌中のジュエリーをランプの光に透かして見ながら小さく溜め息をした。

丸く艶やかな真珠が連なる髪飾りを机上に起き、この学校ホグワーツの校長はマリアを真っ直ぐに眺める。どこか悲しげな様子で。


「ヨゼファも……。葛藤しないわけではなかったのだよ、多くの辛い思いをした。…彼女の顔を見たか、心労で疲れ果ててとても二十代とは思えない。君の方が若く見えるくらいだ。」

「だから何?苦しんだからと言って犯した罪が許されるとでも言うの。」

「その通りじゃよ、罪を知る者に罪は無い。」

「………へえ、それじゃあ貴方は罪人かしら?答えてみなさいよ…!」


僅かに動揺するダンブルドアの瞳の青色を見逃さず、マリアはゆっくりと立ち上がる。

掌中のカップの甘過ぎる紅茶を飲み干し、「ご馳走様。」と礼を述べては小首を傾げた。


「私はね……。アルバス、貴方が言いたいこともその考えが間違っていないことも分かっているし理解出来るの。けれども私はヨゼファが許せない。私が…私たちチェンヴァレンが闇に堕落した魔女を身内だからと言って許してしまう訳にはいかないのよ。私たちは全ての善い魔法使いと魔女の平和を守り、悪を罰する義務がある。」


それが母から、母の母から、そのまた母から伝えられ、自分の娘にもそのようにと導かれた清らかな教えだった。

今の自分は闇祓いの筆頭で、それ故に多くの人間から慕われ更には新しい家族もいる。

もう、ヨゼファは家族では無いのだから。

腐った花を切り落とすように、自らの薔薇園を守り抜く使命を果たさなくてならない。腐らせてしまった要因の一部が自分にあるのだとしても。救えないものは、救えない。


「さようならアルバス。ヨゼファの裁判の件でまた色々と話すことになるとは思うけれども。また、ね。」


踵を返し、正しい姿勢のままでマリアはその場を後にしていく。


その際に思い出すのは、初めて自分への拒絶を口にしたヨゼファの至極落ち着いた表情だった。


『貴方の家には帰らないと言っている。私は本当の家族が欲しかっただけだから。』


どう考えても、彼女はただただ心の弱さに押し潰されて闇に呑まれた哀れな存在だった。

それなのに堕落の前よりも凛として佇まいが穏やかだったのは何故だろう。間違いなく不幸な筈なのに、幸せそうにすら見えたのは何故なのだろうか。


(…………世の中には、理解出来ないことがあまりにも多過ぎる。)


この腹と心を痛めて確かに産んだ、愛しい人と私の子どもの筈なのに。

私たちはこんなに他人で、あの子が何を考えているかすらも最早分からない。




ふと、今頃ヨゼファはどうしているのだろうかと考える。

この学校のどこかで、あの男と一緒にいるのだと思うと苦い気持ちになった。自分が知らない表情をして彼に寄り添っているに違いないと考えれば尚更に。

きっと自分よりも、あの影のように黒い魔法使いのほうが余程ヨゼファのことを分かっている。そして、思い遣ってやることが出来るのだろう。







「………そんなものを食べて、身体に毒だわ。」

「ケーキが身体に悪い訳ありませんよ。紅茶とお菓子には幸せの魔法がかかってるって何かの歌にも「グダグダ話してる暇はないの。本題に入りましょう。」


ダイアゴン横丁の一角…それなりに歴史と格式がある店で二人の魔女は向かい合って座っていた。

ヨゼファは肩を竦めては銀のフォークを机上に戻し、母親へと視線を寄越す。


「裁判の話でしょうか。……申し訳ありませんが、私を拘束するのは今年度の学校が終わるまで待ってもらえますか?木っ端教師でも突然いなくなるとそれなりに周りが迷惑するんです。ああ…大丈夫、逃げたりしませんよ。」

「ええ…そのつもりよ。」

「ありがとう、お母様。」


ヨゼファは頭を下げて礼を述べた。

その表情はやはり穏やかで清々しさすらも感じることが出来る。

少ししたら彼女の大好物であるラム酒の沁みたケーキは愚か、まともな食事すら摂れない場所に幾年あるいは幾十年閉じ込められると言うのに。


「………今日は裁判の話ではないわ。私たち家族の話よ。」


ケーキの上に乗せられていたシロップ漬けの赤いチェリーを大事そうに皿の脇に置くヨゼファへと、マリアは声をかける。


思えば、こうして二人だけで会話をするのは十何年ぶりだろう。あまりにも期間が空きすぎて、ヨゼファではない…知らない人物と話している気分になった。

顔、身長、体型、そして仕草や身のこなしのどれを取ってもヨゼファは最早子供ではない。しかし、声は昔と変わらずに静かな響きをしていた。それであと何回、自分のことをお母様と呼んでくれるのだろうか。


「腕を出して、」と変わらずに抑揚のない声でマリアはヨゼファへと呼びかける。

彼女は察したらしい。少し待って下さいね、と最後に残しておいたらしいルビー色のチェリーを口に含んでは種を取り出し、美味しかったと至極幸せそうに呟く。そして母親の言葉に従い腕をこちらに伸ばした。


マリアはその掌を受け取り、握る。


握った時、遥か彼方昔…これよりもずっと小さくて薄いヨゼファの手を引いてやったことを思い出した。そして更に昔、の手を握り続けた胸が痛くなるほどに長い夜のことも。


「ヨゼファ。お前は、私の家に帰らないと言ったわね。」


しかし内心の乱れを悟られないように、声だけは凛として威厳を保っては言葉を紡いだ。

眼前の娘は頷き、「はい。」と素直に応える。


「今日、ここで破れぬ誓いを立ててもらいます。二度とチェンヴァレンの名を名乗らないことを。」


ヨゼファは動じず、「分かりました、良いですよ。」と返答した。

反対にマリアは表には出さなかったがひどく動揺した。これではまるで、捨てられるのは自分の方ではないか。


口を噤んだ母親の美しい顔をヨゼファはじっと眺め、表情を柔らかくして笑った。

そうして少し首を傾げ、「どうか私に同情しないで下さいね、お母様。」と優しく語りかけてくる。


「私と貴方の生き方は違いますから。私は…本当に。何もかもがうまくいかなくて、何ひとつ成し遂げられないでいます。でもきっと、そういう自分に向き合うことが人生なんでしょうね。最近…ようやく、生きる理由が分かってきた気がしますよ。」


ヨゼファにキュ、と掌を握り返される。

完璧な形にドレープが整えられた水色のカーテンの隙間、白い窓枠から差し込む光が彼女の横顔を照らしていた。


マリアは自然と、ヨゼファは綺麗になったと思った。時間と多くの試練に磨かれて自分の娘あの子は失われ、ここにいるのは自分が与り知らない女性である。

もうすぐ、本当にただの他人だ。今度こそ言葉の通りに。


ヨゼファは微笑んだまま、「こんなことを言っても、何もかも遅いのは分かってるんですが…」と言葉を続ける。


「ごめんなさい、お母様。私は貴方が大好きですよ。」


娘の最後の言葉を聞き届け、マリアは合わさった手の甲へと艶やかな飴色の杖を翳す。

杖先から白い光の鎖が編まれて、母娘の腕に絡みついた。小さく深呼吸して、マリアは破れぬ誓いの為の呪文を口から紡いでいく。


「ヨゼファ・チェンヴァレン……。お前は、二度とチェンヴァレンの名を名乗らないと誓うか。」

「…はい、誓います。」

「血族としての権利を全て放棄することを誓うか。」

「誓います。」

「二度と……私たちチェンヴァレンに家族として関わらないことを、誓うか。」

「ええ…誓います。」


ヨゼファがマリアの言葉に応える度、白色に光る鎖は皮膚を強く締め付けた。

しかしやがて鎖はするりと二人の腕から解け、夢散して空中へと消えていく。

解放されたヨゼファは腕を軽く二、三度振っては「うん…、」と穏やかな表情で頷いた。


「それでは…マダム・チェンヴァレンとお呼びしましょうか。マダム、裁判の件などの諸々はまたいつでもお伝えくださいませ。貴方の都合がよろしい時に召し出して下さい。」


ヨゼファは自分が食べたものの代金をテーブルに置き、「それでは私はこれで。さようなら。」とまるで何でもないようにアッサリと立ち上がっては一礼して去っていく。

彼女の父親がいなくなった時と同じように、終わりはあまりにも呆気なく…静かな昼下がりの光の中で訪れた。


(何故………)


どうしてこうなってしまったのだろう、とマリアはすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んで考える。



『マリア、駄目だよ。』


彼が自分の烈しい性質を宥めるために優しく呼びかける声が、すぐ傍で聞こえた。


(…………本当に、大好きだったの。貴方との子供を、誰よりも立派な…私のような闇祓いに育てることが残された自分の使命だと思ってた。)



一度もヨゼファは父親の腕に抱かれなかった。

生まれて来た彼女を見て、私は失望したのだ。私にも彼にも似ないで美しくも何ともない、平々凡とした顔立ちのあの子に。

才能も無かった。闇祓いとしての素質もまるで見出せない。私と彼との子供ならば必ず高い能力に恵まれる筈なのに。


それでもどうにかホグワーツへの入学を果たし、胸を撫で下ろしたところ……ヨゼファから、寮がスリザリンに決まったとの梟便を受け取った。


(……………………。)



心が深々と冷えていくのが分かる。

当然のようにグリフィンドールに入寮し、スタートは少し遅れても優秀な闇払いとして育ってくれると淡い期待を抱いていた。

しかしただひとつの大切な人の忘れ形見は、軽蔑に値する闇の魔術に近しい寮へと絡め取られたのだ。


ヨゼファに大きく失望した。

何をしてもやり遂げられない不器用な娘がやがて鬱陶しくなり、それを隠さずに態度に表すようになった。



(ヨゼファからスリザリンに入寮したと知らせを受け取った時、私はすぐに返事を書くべきだったのだと思う。)


(励ましの言葉をかけてやることが第一だった。)


(でも私は彼女からの初めての手紙を破って捨てた。どれほど自分の娘が、胸が張り裂けそうな気持ちでいるかも考えずに。)


(でもそれが分かっていたとして、出来たとは思えない。)


(やはり……許せない………。)




私はヨゼファが羨ましかった。私は彼から何も残してもらえなかったのに、あの子は身体の半分に愛しい人を宿している。

それを闇へと堕落させたことが許せない。自分が最も美しく、善いものとしていたものを。




『マリア、駄目だよ。』


そうして、ヨゼファは驚くほどに父親そっくりになっていたことに今更思い当たる。確か彼も、死の間際は病気の所為で同じ年とは思えないくらいに老け込んで…それでも目元にはいつも優しくクシャリとした皺を浮かべて笑っていた。



『誰もが君みたいな明るい道を歩けはしないんだ。暗がりしか知らない人間だって大勢いる。気持ちを汲んであげないと。』


死の間際、涙を止めることが出来ない私の頬に彼は掌を添えてくれた。

そうしてまた、『マリア、駄目だよ。』と穏やかに言うのだ。


『君はお母さんになるんだから、笑っていなくちゃ。』


枝のように細い腕で私を抱き寄せ耳元で囁く。これが彼の、最後の言葉だった。




『さあマリア、ちゃんとお別れをしよう。』



「待って…………。」


窓から斜めに差し込む白い光の中へと、マリアは無意識に手を伸ばして呟いた。


もう既にヨゼファは店の中にいなかった。視線の先、窓の外に黒いローブを翻して自分の元から遠ざかっていく姿が見える。

そうして彼女を待っていたのはあの男だった。多くの魔女魔法使いが集まるこの横丁の中でも、全身黒ずくめで上背がある二人組は多少目立つ。


ヨゼファは笑い、彼と二言三言言葉を交わしてから並んで歩き出した。


途中、人混みを避ける為にスネイプがヨゼファの肩を咄嗟に抱いて自分の方へと寄せる。その行為に、マリアの胸中に言い知れない痛みが走った。

真っ黒な死に連れて行かれてしまった愛しい人の面影に、ヨゼファの姿が重なったのだ。

我慢出来ずに席を立ち、水色のカーテンに縁取られた大きな窓の傍へと駆け寄る。


自分から離れていくヨゼファへ、もう一度震える微かな声で「待って……。」と呼びかけた。

それが届く筈は無く、自分の娘だった女性はこちらを振り返ることなく遠ざかっていく。


「ごめんなさい……っ、」


窓の縁を指先が白くなるほどに握りながら、最初で最後に恋をした彼の名前を数十年ぶりに口にする。


こんな筈じゃ、無かったの・・・・・・・・・・・・………!!」


涙を流したのは、一体いつぶりだろうか。

透明色の光が、大理石の床に溢れてそこを半透明に淡く光らせていた。真っ白く、死人の掌のように。







混雑がやや落ち着いて人気が疎らな通りへと差し掛かった際、スネイプはヨゼファの肩を掴んでいた掌を離してはゆっくりとその方を見下ろした。

そしておもむろに両の掌でペタリと彼女の頬に触れ、何かを考えるように少しだけ首を傾ける。

勿論のこと、ヨゼファもまた彼の唐突な行為に首を傾げた。

スネイプはペタペタと時折角度を変えてヨゼファの顔から頭の形を確かめるようにしてから、次は首を包み込んで触れてくる。やはり幾度か触れ直してそのまま下へと降り、それは胸元にてようやく止まった。


「…………………………。」

「…………………………。」


二人は無言で互いを見つめ合うが、やがてヨゼファは未だスネイプの大きな掌が置かれたままの自分の胸部へチラと視線を落とす。


「………………。私のおっぱいが、何か。」


間髪入れずに頭をズバンと結構な力で叩かれた。ヨゼファは「痛い!!」とそのままの感想を口にする。


機敏に踵を返して足早に進んで行ってしまう彼へと追いつく為に、ヨゼファは早足になっては隣に並ぶ。

………こちらをチラと見ては些か気まずそうにして、スネイプは小さく零した。


「ただ……。何かされはしなっかたかと確認をしただけだ。」


それきり無言となってしまった彼の肩を叩き、ヨゼファはどうしても堪えきれずに笑った。

それでも懸命にブルブルと身体を震わせては大爆笑するのを我慢していると、今度は無防備な身体の脇に肘を打ち込まれる。ヨゼファは間抜けな声を上げて呻いた。


「ひどい……なんて暴力的な。ドメスティックヴァイオレンスだわ。」

脇腹をさすりながら、げんなりとヨゼファは呟く。


「貴様と家庭内になった覚えはない、ただのヴァイオレンスだ。」

「ただのヴァイオレンス……」


スネイプの真面目な返しがまたひどくヨゼファの笑いの琴線に触れ、彼女は再び口元を押さえては身体と横隔膜を震わせてどうにか破顔を我慢することになる。良い加減苛ついているらしい彼から再度脇腹を殴られるまでは。


「ちょ、ちょっと………!これじゃ貴方に殴られたダメージの方がよっぽど深刻よ、」

「…………。やはり何かされたのか。」


ハッとしたように腕を取られてこちらを覗き込まれるので、ヨゼファは思わず言葉に窮した。それから笑みを心弱いものに変え、腕を握る彼の掌に自分のものを重ねる。


「大丈夫。彼女には何もされていないわ。ただただ、か細かった母娘の縁を正式な形で断ち切られただけ。」

「なるほど?」

「つまり私はもうチェンヴァレンじゃないのよ、ヨゼファではあるけれど。血族としての全ての権利の放棄を破れぬ誓いとして立てた訳。」


ヨゼファはスネイプの掌を自然な動作で引いて歩き出した。


憧れに完全な拒絶を示され、母親を母親と呼べなくなるのは悲しい。しかし自分がしたことを思えば当たり前だと腑に落ちるものがあった。当たり前の因果応報であり、自業自得だ。

諦めることには慣れている。自分の人生は我慢と諦めの連続だった。けれどもその中でただひとつだけ諦め切れないものがあったのを、認めようと思う。


スネイプの掌を握る力を強くして、ヨゼファは自嘲的に微笑んだ。


彼への想いを言葉で伝えたことに対する後悔はない。こんなものでも、少しはその不安を取り除く助けになった筈だ。


(応えてもらえるかどうかなんて考えない方が良い。悲しくなるばかりだわ。)


そうして我慢も諦めも悪いものでは無いと、今の彼女は分かっていた。大事なものを大事にする為には我慢が必要だから。

けれども気持ちが昂るとどうしても抑えが効かなくなる。人間をそのように作った神様は悪魔でもあるのだろう。


こうして再び巡り会いたくなんかなかった。

けれどももう一度出会えて本当に嬉しい。

嬉しくて、いつでも胸が痛かった。



「貴方って背が高いわね…。」


突き当たり、ロンドンの下町とダイアゴン横丁を半分ずつ見下ろせる石橋に至った際にヨゼファはポツリと呟いた。

スネイプが「どういう意味だ。」と尋ねてくるので、「そのままの意味よ。」と彼女は片目を瞑って答える。


「私はへんに身長があるから。だから…こうやって隣に並んだ男性を見上げるのは新鮮な気分だわ。」


ヨゼファは石橋の縁へともたれて昼下がりの明かりに照らされた街を一望しては呟く。


「安心して…頼りになるなぁと思ったのよ。」


頬杖をついてスネイプへと視線を移せば、彼はどう応えて良いか分かり兼ねている表情をしていた。

ヨゼファは目を細め、「ついてきてくれて、どうもありがとう。」と礼を述べては合わさっていた掌をポンと叩く。

彼はそれには応えなかった。しかし暫し口を噤んだ後、小さな声で尋ねてくる。


「どうしても、アズカバンに行くのか…。」

「まだ決まってるわけでは無いけれど。でも死喰い人である事実は変わらないから、行くことになるんでしょうね。」


スネイプもまたヨゼファと同じように隣、石橋の縁にもたれて遠い風景をどこかぼんやりと眺める。二人の眼前を白い鳥が数羽連れ立ってゆったりと過って行った。


「逃げてもどうしようもないし。それにこれは、私のけじめだから…。」


今度こそ…善い魔女になれたら良いのだけれど。

言葉を零せば、「その必要はない。」と否定された。隣を向けば、彼もまたこちらを見ていた。その深い黒色の瞳は澄んだ夜空と同じ色で、ヨゼファはそれが好きだなあとしみじみと考えた。綺麗だと思う。


彼女は笑い、スネイプの背中にそっと手を回す。それから「素敵な人ね。」と心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。



-------------------- あの夜から、スネイプが抱いている疑問をヨゼファは知っていた。

何故自分がこんなにも彼のことを執着と呼べるほどに想って、愛しているのか。

その答えを明確にするのは難しいが、ヨゼファにとってはきっかけなど些細なことで、正直に言えば最早どうでも良かった。


(こんな臆病な私でも、人を好きになれたことが嬉しかったのよ。)

(貴方のことを考えて、気持ちが優しくなるのが心地良い。)

(何をしたら喜んでくれるのか考えるのが毎日楽しかった。最もこれは成功しないことの方が多かったけれど。)

(貴方を愛してようやく自分が好きになれたの。本当は、失いたくない……。)



彼の肩を抱いてみると、素直に従い無言で身体を寄せてくれる。半身に感じる温もりに、思わずヨゼファは目を細めた。

寄り添ってマグルの世界と魔法界の境目を見下ろしていると、遠くからロンドンを象徴する時計塔の鐘の音が低く聞こえた。

鳥だけは魔法の有無の境目を容易に飛び越え、更に遠くまでその身体を運んで行く。



clap



prevnext

back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -