骨の在処は海の底 | ナノ
 コオロギのバイオリン

夢を見ている。

これはなんの夢だ。

初めて見る夢だった。

だがよくよく見覚えがあるのは、それが記憶の中の景色をなぞっては構成されているからだろう。


振り向いた自分の手首を捉えている彼女の髪が、風に煽られて沙耶と揺れていた。

瞳が合うと申し訳なさそうに…けれど何故か嬉しそうに笑っては目を細めてくる。

そして何かを言おうと唇を開くのだ。


…………唇。これが…。自分がよくよく知っている彼女はいつも深い赤色の紅を引いていたから、知らなかった。

本来は・・・こんなにも希薄で、色味も血の気も無い色をしていたのか。

長い髪は鈍色で肌もほとんど色が無い。着ているローブは黒、胸元のタイだけが自分と同じに濃緑色だ。


色が無いのはきっと自分も同じである。肌にも髪にも瞳にも、人間らしい血の通った色が無い。

自分たちを俯瞰してみれば、モノクロームの写真を眺めているような気分になるのだろう。

冬の灰色の光が、二人だけが佇む廊下を不透明に照らしている。細い柱に支えられたアーチは、石の床へとその複雑な装飾をまとった影を落としていた。


辺りは静寂で、物音ひとつしないのにどうしてもヨゼファの声が聞こえない。


(そうだ…………。)


なんだ、と聞き返す。

もう一度言ってくれ、と掴まれていた手をこちらから握り返して。


(ヨゼファには、声が無い。)


ヨゼファは目を伏せて、笑顔を申し訳なさそうなものに変えた。

声なき声で、彼女はどのように言葉を伝えてくるつもりだったのだろうか。


…………だが、今はそんなことはどうでも良いと思った。


あのヨゼファが…少女の時代のヨゼファが。こうして掴んで来た掌だとか、背中を向ける自分を留めようと機嫌を取る為に浮かべた引きつった笑顔だとか。そればかりが思い出されて仕様がない。


そこまでして、一体何を…おおよそ仲が良いとは言えなかった関係の人間に。

間に誰も通さず、直接に一体何を伝えようとしていた?


(聞き逃してしまった………!)


後悔が深々と重たく降り積もっていく。


(あの時の自分は自分のことで、生きることで精一杯だったから……。)


だが、それは等しく万人に言えることだろう。

子供と大人の狭間の青色の時代。一生分の幸福と一生分の絶望と失望、そして少しの諦めと妥協がない交ぜになった、思い出したくも無い苦い時代。







…………スネイプが目を覚ますと、まだ夜だった。

そこまで長い間は寝ていなかったのだろうか。


(いや…違うな。)


きっとこれは、次の日の夜だ。

恐らく自分は丸一日寝ていたのだろう。その証拠に、また着ている服が新しくなっている。


部屋の中は無人だった。


くすんだ橙色のランプの光だけがぼんやりと辺りを照らし、室内の輪郭を浮かび上がらせている。

ヨゼファの部屋は、やはり予想を裏切って几帳面に整理されていた。

あの如何にも軽薄でだらしがない態度は、もしかしたら生徒たちや自分の手前作っているポーズのひとつなのかもしれない。


半身を起き上げてみると、まだ少し頭痛がする…、我慢が出来ないほどでは無かった。そのままで、乏しい灯りを頼りに室内を観察した。

寝室だというのに、壁に打ち込まれた杭に製図道具が引っ掛けて置かれていた。机上には三種類のインクがラベルを揃えてはこちらを向いて鎮座している。

巻かれた羊皮紙が立ててストックされている籠と、小さな本棚に並んだ骨董品じみた書籍。間違いなくこの部屋はヨゼファのもので、彼女の気配ばかりが漂っていた。


よく眠れた所為か、思ったよりも身体の具合は良かった。

起き上がって、書き物机の方へと歩んでは広げられたままの羊皮紙へと目を落とす。


違和感があった。


そこにはやはり作業部屋と同じように製図の最中の魔法陣が描かれている。

だが、彼女独特の植物や水紋が絡み合うような正円の中で整えられた陣とは異なり、何の装飾性も規則性も無く……遺跡から出土した意味不明な記号や祈祷文、または子供の落書きと言っても良いのだろうか。そこに知性を見出すことは難しかった。

訝しく思って黒いインクで描かれたそれに指先で触れてみる。何かに引っ掻かれたような感覚を覚え、そこから手を離した。……小さな切り傷が指の腹に入っている。

溜め息を吐いてそこを見下ろす。

ヨゼファのこともヨゼファの魔法のことも、自分は何も知らないのだなとどこか寒々しい気持ちになった。


柔らかい雨音が黒い窓ガラスの向こうから伝わってくる。

空気もまた穏やかで優しい。春が近いのかもしれない。



スネイプは、ベッドサイドのテーブルに伏せられていた小さな写真立てを手に取ってみる。

なんとはなしに予想していた人物の写真を目の当たりにして苦い気持ちになった。それを元の場所には戻さずに、自身の胸中へと滑らせる。


------------ヨゼファの母親に、会ったことはない。


更にあれだけ良く喋る彼女の口から有名人・・・の母親の話もほとんど耳にしたことはない。

だがこうして端々にその存在が目に留まるのだ。それを自分はひどく鬱陶しく思っているのだと、なんとはなしに気が付いた。


この部屋の扉を一枚隔てた向こうに、今ヨゼファは居るのだろうか。

分厚く古い木の扉に掌を這わせてその存在の確認を行おうとする。だが辺りは静寂で、彼女の気配を覚えることは出来なかった。

扉を押すと、簡単に向こうへの繋がりが開かれた。


灯りが落とされた彼女の作業場は無人である。


いつもその場所は古ぼけた太陽の淡い光で包まれていたが、今は深い青色の闇を蓄えて海の底のようだった。

細い雨が微かに月光に反射して、銀色の光を運んでくるだけである。


(何故………)


机の上、いつもの位置に戻されている金属のコンパス。それを持ち上げて無自覚に呟く。


「いつも…肝心な時に居なくなる。」


空虚な声の背景では、長雨らしいしとやかな音が変わらずに鳴り続けている。

カタリとそれに混ざって硬い音がするので、その方を見た。この部屋の外に通じる扉からである。


どうにもノブの周りが悪いのか、扉の向こうの人物は解錠に手こずっているらしい。

ゆっくりと歩んでそこまで辿り着き、真鍮製のノブを回して開いてやった。


「……………………………………。」

「……………………………………。」


二人は、こちらとそちらを隔てる入り口を境にして互いの瞳の中を暫くの間じっと覗き込んでいた。

やがてヨゼファは雨避けに使用する為に被っていたフードを下ろし、今一度彼のことを眺めて笑う。小さく「セブルスさん…」と名前を呟いて。


「身体の具合はどう?起き上がっても大丈夫ですか。」


スネイプは部屋の主を中に入れる為に少し身体を脇へとずらしては、ゆっくりとした語調で語りかけてくる彼女を一瞥する。


「………………別段。どうとも。」


ヨゼファは彼の招きに応じて室内に入りつつ肩を竦めた。「それなら良かった。」と応えながら。

スネイプは扉を閉めては施錠をした。ヨゼファからは雨と夜の気配が色濃く漂ってくる。彼女はいつもの円形をした小さなメモ帳を開き、描き溜めた魔法陣で赤い明かりをひとつ空中へと灯した。


雨避けのローブを脱いだヨゼファの衣服はいつもの喉元までピタリと留められた黒い衣服とは異なり、幾分か楽な格好をしていた。

彼女はどうも見られていることに気が付いたらしく、「嫌だな、私寝間着だったわ。」と言って少し恥ずかしそうに頬の辺りをかいた。


ヨゼファの脱いだローブを受け取ろうと掌を出すと、彼女はきょとりとした表情をする。

それから可笑しそうに口元に手を持っていって笑った。


「なに、スネイプさんたら紳士みたいね。」


素敵よ、とヨゼファはとても嬉しそうにした。


スネイプは「直さなくても良い…。」とポツリと零した。「呼び方を。」と続けて。しかしそれは彼女の耳には届かなかったらしい。


濡れて黒いローブを受け取る時、ヨゼファが化粧を落とした素の顔であることに気が付いた。唇の色は記憶と夢の中と同じように色味が少なく、彼女の存在感を希薄にしている。

ローブで防ぎ切れなかった雨がその鈍い灰色の髪の先で光っていた。当たり前だが睫毛の色も髪と同じ灰色だった。やはり同じように雨が雫になって、そこで透明色に光っている。


「こんな夜更けに…、一体どこへ行っていた。」

尋ねると、ヨゼファは「ああ、」と明るい声で応えた。


「貴方がぶっ倒れた原因のところへ行ってたんですよ。ほら、」


そう言って、ヨゼファは小脇に抱えていた麻袋の口を開いて中身を見せてくる。そこにはよくよく見覚えのある畝っては縺れ合う真っ黒な梢の一部が収まっていた。

スネイプがそれを確かめるのを認めてから、彼女は袋の口を結わえ直した。結わえ直す左手の親指には白いガーゼが巻かれて手当が施されている。その白さが、暗闇の中でいやに目に染みた。


「薬が足りなかったんでしょう?作っておきますよ。…後はもう少し貴方の体調が良くなったら、調合の方法と材料の採取の仕方も教えます。それさえ覚えておけば、後は一人で対策が可能ですから……。」

もっと早くに教えるべきだったわ…ごめんなさい。とヨゼファは謝り、少しばかり目を伏せる。睫毛の上の雨粒がそれに合わせて微かに瞬いた。


指先をゆっくりとヨゼファの皮膚の近くまで持っていく。彼女は不思議そうにしてスネイプの掌の動きを目で追った。

暫時躊躇してからその頬に指先を触れて、這わせてみる。ヨゼファは少しだけ戸惑ったようだったが、やがていつものように穏やかな様子で「なに?」と尋ねてきた。


「いや……」


そこに触れたままで、スネイプは小さく呟いて応える。しかしそこから先を何と続けて良いものかよく分からなくなっていた。


「…ただ……、触ってみたいと思った。」


正直な感想を口にすると、彼女はパチパチと瞬きをしてから「そう…」と言って可笑しさを噛みしめるようだった。


「どうぞ、遠慮なく触って下さいな。」


ヨゼファは冗談めかして片目を瞑りながら返事をしてくる。


触れていた箇所から指をずらし、少し乱れて顔にかかっていた彼女の髪を耳にかけてやった。そのまま短く柔らかい毛質の感覚を確かめる。気が付くと、随分と互いの顔と身体の距離が近かった。だから、その化粧気の無い顔の中を今一度覗き込む。

……………唇が。色味が無いとばかり思っていたが、実は淡く薄紅色なのだと分かって少し安心する。

安心したままに青い瞳へと視線を移すと、今まで柔らかだった彼女の表情にヒヤリとしたものが走る。ハッとしたようだ、そして急いで身体を後ろに退いて離れようとする。その唇が何かを言おうと開きかけるが、そこから紡がれる声を聞き届けることがやはり出来なかった。


ヨゼファが取り落とした麻袋が床に落ち、静寂の室内に重たい音が響く。しかしその後はずっと無音だった。


初めて自分から引き寄せた彼女の身体は冷たく、触れ合った唇からは呼吸の気配すら無い。だが心臓の浅い拍動だけは変わらずにその服越し、皮膚の下から確かに伝わってくる。







「うん……確かに熱もすっかり下がりましたね。でも今日は大事を取って休んだほうが良いですよ。私も昔…一週間くらいは随分しんどい思いをしたので。」


今一度スネイプを自分のベッドの中へと押し込み、ヨゼファは彼の額に触れて温度を確かめながら言う。そして体温が平熱に近くなっていることに安心したのか、嬉しそうに軽くそこを叩いた。


「今日…?」


ベッド脇の椅子に腰掛ける彼女へと視線を向けて彼は尋ねる。ヨゼファは「そう、今日ですよ。」とその言葉を繰り返した。

彼女は椅子に座っては脚を組み、そこに頬杖をつきながら「もう朝が近い時間ですから。」と言って穏やかに笑った。


ヨゼファの空いている掌…左手を取り、フィンガーレスの手袋に隠されていない素手の形をなんとはなしに確かめる。

彼女はその様子を楽しげに見守り、「安心して下さい、指は五本で貴方と同じ形してるでしょ?」と悪戯っぽく言った。


スネイプはヨゼファの言葉を聞きながら、(……いや)とそれを胸の内で否定する。


(同じでは無い…。)


色味自体は似ているのだが、やはり形にも大きさにも幾許か違いがある。そして親指のガーゼには少しの血液が滲んでいた。

その様を確認しつつ、彼女の寝間着の袖をそっと捲って掌から腕へと指先を移動させる。


そこにうっすらと浮かんでいる、黒々としてグロテスクな自分と同じ印を認めて、彼は目を細めた。


ヨゼファもまたスネイプにそこを眺めさせるままにしておいた。

少し指の腹に力を入れて黒い図象に触れば、インクが滲むようにその箇所の色が濃くなる。


「…………………。闇の印が、あの人が無き今でも浮かび上がったり…痛んだりすることは、稀にあるんだと思います。だって彼は死んだわけじゃありませんから。実態を保てなくてもその影響は色濃いんですね…。………それだけ、あのお方は強力な力と呪いをお持ちだった。」


スネイプの掌の中から、ヨゼファはそっと腕を引き抜こうとする。しかし彼が掴む力を弱めなかったので適わず…最もそこまで強い力でも無かったのだが…彼女の腕は、そのままされるがままに視線を受け止め続けることになった。


「稀に……。一体、どういう条件で。」

「さあ…。でも……彼は、人の精神の隙間に入り込む名人でしたから。少し心が弱るとその影響を受けやすい気もしますね。」


自分の腕を眺めるスネイプを見据えながら、ヨゼファは言葉を続ける。

彼はそのままで「そうか…」と返した。


「あ…いや。別に先生が弱いって言っているわけではなくて……」

「その他人行儀な口ぶりをやめろ。」


腕を掴んだままで、スネイプは彼女の言葉を遮って言った。…………ヨゼファは笑顔を心弱いものに変える。


「そうね。………まあ、話を続けるけれど。マグルも魔法使いも関係なく、人は多かれ少なかれ必ず悩みとストレスを抱えて生きているでしょ。誰しもが心を弱らせて当たり前よ、貴方も私もタイミングが悪かっただけだわ。」


さあ、そろそろ寝た方が良いわとヨゼファは目を細めては遂にスネイプの掌中から腕を引き抜いていく。

その皮膚の感覚を名残惜しく考えながら、彼もまたそこを離して自分の掌を元の位置に戻していった。


「ヨゼファ」


立ち上がり背を向けてこちらから遠ざかる彼女の名前を呼び、その脚を留めた。ヨゼファは振り返り、「なに?」と返事をする。


「………………ボーバトンに引き抜かれたと聞いたが。」

「引き抜かれるわけないでしょ、誰に聞いたの?」


あっけらかんとしたその応答に、スネイプは全身が脱力する思いだった。

急に身体の端々に疲れを覚え、何も応えずに口を閉ざす。その様をヨゼファは訝しげな表情で見下ろしていた。


「まあ…そういう有難い話があっても他の学校に行くつもりは無いわよ。私はホグワーツが好きだもの。」


それではおやすみ、スネイプさん。


夜の挨拶をして、ヨゼファは色素が薄弱な顔の上に優しい笑い皺を作る。

その表情から目を逸らし、暫時物思いに耽る。そして今一度呼び留めたい気持ちに駆られるが、もう彼女は扉の向こうへと姿を隠していく最中だった。







ヨゼファは作業場のソファで少し寝て、空がほんの少し白み始めた時にゆっくりと瞳を開いた。

女性にしては背が高い彼女の体格に、このソファは些か小さかった。身体がはみ出さないよう膝を丸めてそこに身体を横たえた状態で、ゆっくりとした瞬きを二回。


起き上がり、彼女は昏い空の向こうに薔薇色の夜明けが揺らめき始めている様を確認した。

裸足のまま大きな窓の傍へと近寄り、鉛線で菱形に区切られた硝子の内ひび割れた一枚をそっと指先でなぞる。


そして目を細くして夜明け前の静けさ感じ入る。この時間の空色の変化を、眠りが浅い彼女はよく観察するのだ。

紅と藍色が交ざったものを基調の色素にして、瑠璃と深い橙色と薄紫にも行き、その極は白い。そして黒色の夜が追い払われ、今日も新しい一日が正しい時間軸の下に始まっていく……。


ヨゼファは軽く洗顔して口内を清め、鏡で自分の顔を確かめるように眺めた。

化粧をしていないその顔面は色味が薄く、印象は本当に希薄だった。この顔を見て母はいつも、『ぼんやりしてると見失ってしまいそうな顔ね。』と言って可笑しそうに笑っていた。


『だからヨゼファ、しっかりお母様の手を握っているのよ。はぐれてしまわないように。』


彼女は棚に収まっていた捻れた紋様のカットが入った硝子瓶を取り上げ、昨夜調合した薬の具合を確かめる。

濁った苔色の液体は、古ぼけた透明な瓶の中でゆるゆると渦巻いていた。


ヨゼファは羽織っていた寝間着を一枚脱ぎ、袖のない肌着姿になっては自分の左腕の内側を見下ろした。

最近は具合が落ち着いていたと言うのに、彼が来たからだろうか。共鳴して…いやそれとも、自分の心の問題の所為か。また、少し傷んではその姿を現すようになった。


濁った緑色の液体を平たい皿の上に少量出し、使い慣れた刷毛で黒い闇の印の上をなぞる。

二、三回薬を塗布すると印は薄くなって、周囲の肌色と同化していった。


祝福儀礼を施した布で軽く巻き、いつものように黒いフィンガーレスの手袋に腕を通した。これで、取り敢えず・・・・・闇の印は見えなくなる。


今一度鏡を見ると、肌着の下…胸元から別の赤黒い痕が覗いていることに思い至る。

指先を這わせると、それに合わせて自分の乳房が形を変えた。この痕をこさえた時から幾分身体のラインは成熟して、変化したようである。

確かに時間は経過して肉体だけは成人したのに、自分の精神はまるで子供のままだとヨゼファはどこかやり切れない気持ちになった。


簡易的な鏡の前で、軽い化粧を顔に施す。

肌を整えて紅を薄く皮膚に足した。そうすれば、少しは血色が良いような顔色になる。


白色のシャツを着て、その上からいつもの黒い詰襟の衣服を着用、釦をしっかりと首まで留めていく。光沢がある織物の質感が皮膚に冷たかった。

今日は久しぶりのホグワーツでの授業だ。自分を慕ってくれる生徒たちの存在を想うと、幾分か憂鬱な気分はマシになる。


黒いローブを羽織り、最後の仕上げである深い赤色の口紅を手に取った。

そして自分のほとんど色がない唇を鏡の中で確認し…少し指先で触れては、どうしても昨晩のことを思い出さざるを得なかった。


瞳を瞑り、眉根を寄せて頭を弱く振る。

そして分かっているのだ、と胸の内で呟いた。


分かっているのだ…………。

不安と孤独に苛まれてどうしようもない時、傍で助けに応じてくれる人間に愛情に似た親密を覚え、心を許してしまう心理を。

それはヨゼファにとっては黒い頭蓋の印を自分に刻んだ偉大な闇の魔法使いのことであり、その傍に自分を誘ったかつての寮監督生の存在でもあった。


(………それに、私は知っている。)


口紅を握りしめた拳で額を擦り、ヨゼファは眉根を更に強く寄せた。


(こんなに簡単に、貴方が最愛の人を忘れたりしないことを。)

(貴方だけを見て来た私だから、それを知っている。)


ヨゼファは瞳を開き、今一度鏡の中の自分と向き合った。

青みが交ざる黒が艶やかな口紅の蓋を外し、花の香りを帯びた紅色を自分の唇へとゆっくり押し当てた。

鮮やかな色彩は、そこを滑ってはじわりと滲んでいく。

そしてヨゼファの短い朝の支度は終了した。


ちら、とまだ眠っているであろう彼が居る自室へ続く扉に視線を向ける。


(もう固形物も食べられるかしら……。)


もう少ししたら、朝食を持って行こうとなんとはなしに思った。



-----------------彼から愛情を行為で示してもらう光景なんて、夢の中で何度も見て心からの憧れだった。

しかし実現して、何故こうも気持ちは空虚なのだろうか。それでも嬉しいと思ってしまうところがまた馬鹿な自分らしくて、笑えた。


ヨゼファはそれを表情にして苦笑を浮かべ、昨晩のことはお互いに触れないでいた方が良いのだろうとしみじみと考えた。

弱々しい笑顔のままで外へと続く扉を解錠し、周りが悪いノブを捻って開いた。

空はすっかりと白み、アーチに縁取られた窓から透明色の朝日が斜めに廊下へと注がれている。


「大丈夫……、」


無意識に、ポツリと呟いていた。


「一人になるのは慣れているわ。ずっとその繰り返しじゃない。」


そして深い紅色の唇を閉ざし、ヨゼファは自分の部屋を後にする。

彼女の硬い靴音が石造りの廊下に反響する背景、どこかで鶏が三度鳴く声がした。

その音は女の嗄れた悲鳴のように響いては渡って行く。ずっと、遠いところまで。



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