骨の在処は海の底 | ナノ
 生まれゆく光

死喰い人になろうと、具体的に考えたのはいつのことだろうか。

恐らく十五を超えた頃にはそう思い始めていた。それはリリーの心が自分から離れつつあると理解し始めてしまった年齢であり…その頃には、ポッターもまた精神的に弁えを持つ人間へと成長していた。

それが凄まじいほどに癪だった。何故性根の腐り切った人間のまま、忌むべき疎ましい存在で居てくれなかったのだろうか。

周囲に祝福され…共に過ごすことが既に当たり前となっていた二人のことを、嫌が応にも日々視界に入れなくてはいけなかった。リリーのことを視線で追うことは長い間…奴よりもずっと…自分の習慣だったからだ。


その習慣の所為で、ある夜にひどく辛い光景を見た。


それ以来、空が落ちてくるほどに輝く美事な星空は嫌いになった。

嫌いなものばかりが増えて、ひどく世界は生き辛いものだと思う。好きなものは増えない。


しかしどんなに辛く苦しくても人生は続く。


自分を生かしてくれる理由がどうしても必要だったのだ。リリーがどれだけ自分以外の人間を大切に想ってそれを見せつけられても、心を潰さずに生きていけるような理由が。

彼女があの人間のことを考えて幸せに満ち足りた優しい表情で笑うこと、不安でどうしようもなくなって涙を流す光景、それを何度見ることになっても生きることから降りないでいられるように。

食べて、寝て、また起きて。人間は生きていかなくてはいけない。








スネイプは閉じていた瞼をそっと開いた。

大きく取られた窓から金色の陽光が斜めに差し込んでいる。その光の中で、小さな埃が綿帽子になってキラキラと己自身を反射させて輝いていた。


腰掛けていた椅子傍の机上には、黴が生えてそうな古めかしい製図道具が真っ直ぐに角度を揃えて置かれている。……彼女の部屋は、予想を裏切っては几帳面に整理されているのだ。

金属のコンパスを取り上げて暫し眺める。それを元の位置に戻し、溜め息を吐いた。

少し前に校長から伝えられた予定では、先週末に帰ってくるとのことだった。だがこの部屋は未だ無人だ。古びた色の太陽の明かりに包まれたまま、時が止まったように静寂である。


机の脇に据えられている書架に収められた本へと指先を滑らせる。どれも古いもので、背表紙から内容の判別は不可能だった。だが全く埃の気配が無いことから、この部屋の主は頻繁に手に取っては何事かの情報を得ているのだろう。

その中、最も使用の痕跡が色濃い小さな書籍を手持ち無沙汰に取り上げる。中身は奴の日々の予定が簡潔に書き留められた手帳である。そのついでのように一日の出来事が短く記されていた。


アルフレッド、ウィリアム、アーサーのお馴染み三人が時計塔の鐘を延々と鳴り続ける悪戯をしたらしい。この部屋の真向かいにあるものだから良い加減頭がおかしくなりそうだ。

今日もビエールカは授業中に寝ていた。これからは彼女を眠り姫と呼ぶことにしよう。

ミチルが中庭に見事な雪だるまをこさえる。教員一人ずつを模して作ったらしいが、何とも特徴を捉えるのが上手いものだ。

ウィリアムにお菓子をもらう。食べたらなんと!石鹸だった…。



ほとんどが生徒に関するものだった。

パラパラと遡り自分と彼女が再会した日付を確認してみるが、やはりそこには学生のことしか記されていない。


「…………生徒想いでいらっしゃる。」


呟き、それもまた元の位置へと戻した。至極つまらない気分になる。

彼が溜め息を吐くのと、扉の方からカチ、としたノブが動かされる微かな金属音が鳴るのはほとんど同時だった。

驚き、思わずその場から立ち上がってしまう。…………なんと間が悪い、とスネイプは舌打ちした。


(よりによってこの部屋にいる時に……!)


だが、気持ちは逸って古く重たい木で出来た扉の側まで歩み寄ってしまう。

鍵の施錠は自分が解いてそのままにしてある。…が、どうにも奴はそれを開けることに手こずっているらしく、扉の向こうでノブの角度を変えては試行錯誤している。

痺れを切らした彼は青く変色した真鍮のノブに手をかけ、こちら側から部屋の入口を開け放した。


そしてそこに立っていた人物を目の当たりにする。


「……………………………。」

「……………………………。」

「……………………………。」


彼は女生徒二人と開いた扉越しに見つめ合っては暫時そのまま固まった。

スネイプと彼女たち、お互い思い描いていた人物と全くの別人をそこに見たのだ。双方共に脳の処理が追いついていないらしい。


やがて女生徒のうち一人…名前は思い出せないが低学年…が息を飲む引きつった呼吸音を喉の奥で上げる。………どうにも気の弱い彼女はスネイプのことを殊更苦手に思っているらしい。

そのまま消え入りそうな声で「すみません…」と謝罪すると、逃げるようにしてその場から立ち去っていく。もう一人もこちらへと一礼して、あっという間にいなくなってしまった。


彼女たちが消えた廊下は、相変わらずの薄暗さが遠くまで続いていくだけである。昼間だと言うのに。それがいやに広々として再現なく思え、スネイプは気が遠くなるような感覚を覚えた。


ヨゼファの部屋を後にして、元の通りに守りが薄すぎる扉を施錠する。


鈍い光が所々に差し込む廊下を黒いローブを翻して歩んだ。右に折れて通行方向が別れる道すがら、啜り泣く女の声が弱く耳を掠める。

ゴーストかと思うがその方をチラと見れば、先ほどの女生徒のうち一人が赤くなってしまった頬に垂れては止まらない透明色の涙を拭っていた。

その傍で、同じく先ほどの…もう一人の女生徒が慰めるようにして肩を抱いている。


「なんでチェンヴァレン先生の部屋にスネイプ先生がいるの…。」


消え入りそうな声だったが、彼女たちとスネイプ以外に人気が無い空間ではよく聞き取ることが出来た。


「チェンヴァレン先生が帰って来たと思ったのに……。どうしてまだ戻ってこないのこなあ…?」

「大丈夫だよ。来週にはまた授業があるし、帰ってくる筈だって……。」

「でももう一ヶ月だよ?予定では先週帰って来るって…」

「先生にもきっと用事があるんだよ。」

「ミチル、でも私聞いたの。」


未だ涙声の女生徒が声を潜めて囁く。

………さっさと通り過ぎれば良いものを、スネイプは柱の陰に身を隠して彼女たちの会話に耳を傾けていた。


「チェンヴァレン先生、ボーバトンに引き抜かれたって……」


少しの沈黙の後、もう一人の少女の「嘘、」という言葉が。

それには「私も聞いただけだからよく分からない……。」と涙の気配が増した声が応える。


「フランスなんて…遠すぎるよ。私はチェンヴァレン先生に会いたい………」


不透明な薄闇の中で、少女たちは互いを慰めるように寄り添っていた。

それを一瞥もせずに、スネイプは気配を失せてその場からようやく立ち去る。


足早に歩きながら小さく悪態を吐く。顔にかかって来る自分の黒い髪を煩わしく思い、片手でかきあげる。


「…………泣きたいのは、こちらの方だ。」


そして、ポツリと呟いた。







最近、どうにもリリーとの会話がうまくいかなかった。

彼女の話す話題は自分の寮の友人たちの話ばかり…そして件のポッターたちのことが多く含まれるようになり、至極つまらない気分になる。

だが彼らに対する感想を思った通りに言うとリリーは悲しそうな、最近はそれに苛立ちを交えた表情をする。

それがまたスネイプを不機嫌にさせ、我慢出来ずに心の良くない声を漏らしてしまう頻度が増えた。それが彼女を傷付けていることは明白だった。

時折、口論に発展しそうになる。

彼女は善くないもの・・・・・・を善くないままにしておけない。

昔からずっとそうだ。真っ直ぐで清らかで、凛として美しい。今でも、自分が思い描く善いものと美しいものの全てはそのまま彼女の姿だった。


だからこそ、自分とは・・・・相容れなかったのかもしれない……。


その時も、まさにそうだった。


しかしスネイプの言葉に反論しようと口を開きかけていたリリーはハッとして、自らの袖を心配そうな表情で控えめに引いて来た少女……同じ寮なので辛うじてスネイプは見覚えがあった……へと顔を向ける。


「ヨゼファ、ごめんなさい。別に喧嘩をしているわけじゃないのよ。」



(ヨゼファ………?)


そこまで思い出して、スネイプは息を呑んだ。

おおよそ忘れ去っていた記憶だ。だが間違いない。

今のように老け込んではいない。年相応の顔立ちだ。色素が薄い髪は長く、紅が引かれていない唇もそこと同じように色味が乏しい。その所為で存在感は希薄の限りを尽くしていた。


「声はどう?そう…やっぱり出ないの。…………。困ったことがあったらいつでも頼ってね。」


リリーは彼女へとにこやかに笑って言葉をかけている。ヨゼファもまた応えて目を細め、ひとつ頷いた。

それからリリーの掌を取ってはその中に何かを記していく。リリーは幾度も頷きながら、拙いヨゼファのコミュニケーションを懸命に読み取ろうとしていた。


「あら……。セブ、」


そこでリリーはようやくスネイプの方を向く。先ほどの彼女との会話の延長でイライラとしていた彼は、視線だけでそれに愛想なく応えた。


「なに、その目は。大体貴方は……、って今その話は良いわね。」


またヨゼファが不安そうに曖昧な笑顔を浮かべるので、それを気遣ってリリーは表情を優しくした。最近専ら自分に向けられなくなったその笑顔がエノキ茸のような女に易々と向けられたのが癪で、彼は更に苛立った。


「ねえセブルス。ヨゼファは貴方に話があるんですって。私は中座するから、聞いてあげなさいよ。」

「………どうやって聞くと言うんだ。ろくに口をきけない人間の言葉を。」

「ヨゼファは声が出ないけれどコミュニケーションが取れない訳じゃないわ。必要なら掌に文字を書いてくれる……筆談だって。」

「必要ない。……こちらはそちらと喋りたいことなど何も無い。時間の無駄だ。」


スネイプはヨゼファへ視線を向けることすらせず、彼女たちに背を向けて歩き出した。

リリーが彼を呼び止めるが気にせずに足を進める。しかし、手首を弱く掴まれて引き留められた。

見ると、幽霊のように青白い顔をした例の女がそこを握っていた。期待していた人物で無かったことに落胆し苛立って睨み付けると、弱く微笑まれる。


「…………………。」


青い血管が薄く見える奴の不健康そうな手が自分の肌に触れている様を暫時見下ろす。気味が悪くなって、それを振り払った。そうしてまた無言で歩き出す。


「ちょっと……!!」


リリーが焦っては自分を追いかけて来てくれる気配がした。彼女はヨゼファへと短く謝罪してから自分の隣に並ぶので、手首を掴み更に足早になって歩を進める。


* * *


一人取り残されたヨゼファは並んで歩く二人の姿をしばらくの間…見えなくなるまで、ずっと眺めてはその場で佇んでいた。

そうしてポケットの上から、形になることのなかった自分の魔法を指先でなぞっては溜め息を吐く。


「チェンヴァレン」


声をかけられ、彼女はその方を見た。

自分と同じように色彩が希薄な青年である。自分とは異なり、恐ろしいほどに美しい相貌の持ち主であったが。勿論のこと自身の寮の監督生である彼のことは知っていた。

最近…よく、言葉をかけられる。話せなくなって数年の歳月が経っていた彼女に会話を持ち掛ける人物は最早皆無に近かったので、孤独な少女にはそれが嬉しいことに感じられていた。


「少し、話したいことが。………今夜の予定は?」


彼の銀色の虹彩に見つめられては、ヨゼファは目を細めて笑う。ルシウスは満足そうに頷き、彼女の了承を喜んだ。


「それはとても良いことだ……。君の失われてしまった声も、今夜戻ってくることだろう。」








顔を片掌で覆っていたスネイプは、思わず呻くような声を上げた。


(何を………。)


そして…記憶の中で自分の手首を弱々しく掴んだ、今とは別人のように頼りないヨゼファの姿を今一度思い浮かべる。

思い出したとはいえ、その顔の輪郭は不鮮明だ。どんな表情をしていた?笑顔だ。奴の笑顔以外を自分は知らない。だがどんな笑顔だったか、それを思い出せない。


(一体、何を伝えようとしていた………!?)


一刻も早くそれを聞き質したかった。

しかし自分に与えられた元地下牢のこの部屋に己以外の気配は無い。待てど暮らせど、ヨゼファは帰って来ない。


……………左腕が鈍く痛んだ。

チラ、といつもの薬が置かれている小さな卓の上を見る。薬は充分な残量があった。


(これが…足りないと伝えれば。)


ヨゼファは、間違いなくホグワーツに…自分の元に文字通り飛んで帰ってくるだろう。心配性が過ぎる母親のように息継いで。

だが、その考えは一瞬の迷いだった。

何故こんなに必死なのかと不意に馬鹿らしくなる。彼女が外国に引き抜かれようが自分にはほとんど関係が無いし、何も思うところは無い。


(……………………………。)


濁った緑色の液体が入った瓶を手に取ってユラユラと揺らす。

隻眼の樹から精製されたと言う。それだけ分かれば、彼の知識を持ってすれば調剤方法を突き止めることなど容易だろう。何故今までこれをしなかったのかと自分でも不思議で仕様がない。

この部屋ただひとつの窓である小さな灯り取りを不意と見上げる。すでに日は傾き、灰色の空は刻々と黒に変化していた。いつの間にか降り始めていた雨が、ロゾンジュに区切られた窓を濡らしては滑り落ちていく。


(この森の……最北。)


彼は水紋に似たカットが入ったガラス瓶を卓上に戻しては瞼を軽く伏せる。そして緩くかぶりを振った。


(それでも、生きていかなくてはいけない………)


扉を開けると、古びた蝶番が草臥れ果てた老人のように鈍い音を立てて軋む。そして部屋を後にし、階段を一段ずつ踏みしめて昇った。


(誰にも心を許さず。美しい思い出が美しいままで在る為に…。)


城の外に出た時、既に陽は落ちて景色は真っ暗だった。漆黒の闇を抱えた森はざわめき、雨を交えた風に煽られて巨大な生物のように蠢く。

まるで世界の終わりの景色のようだと、スネイプは弱く息を吐いて考えた。







それは、森の最深部とも言える場所だった。

樹と言うから木立もしくは一本の大木を想像していたのに、隻眼の樹は互いを絡ませあってはそびえる巨大な壁に似た樹枝の集合体だった。

禍々しいまでに邪悪なその姿に暫く近寄れないでいる。黒い雨に濡らされ、同じように幹は黒く。杖先のか細い光に照らされたそれはまるで妖怪の類のように思えた。


…………固まっていても仕方がない。それなりに苦労してここまで辿り着いたのだ。

それに隻眼の樹は『悪いものの目を眩まして、力を弱めてくれる』樹だと聞いている。決して善くないものでは無い筈だ。

そっと手を伸ばし、濡れてはしっとりと光る木肌に掌で触れた。冷たい雨に濡れそぼっていると言うのに、仄かに暖かい。

そして、ささやかな少女の…いや、少女と女性の中間のような…笑い声が不意に耳を掠めた。


(………………………。)


何かと思い、顔を上げ辺りを見回す。だが勿論のことその場にはスネイプ以外誰もいない。

警戒が必要だな、と彼は少し身構えて木肌から掌を離す。しかしまた笑い声が弱く聞こえた。それは先ほどの場所から少し移動して、こちらへと近付いてくる。


「…………………は?」


思わず、声を上げた。

その愛らしい声に、覚えがあったのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・


「リリー………?」


随分と久しくその名を口にした。声は掠れている。

確信を持ってもう一度名前を呼んだ。応えるようにして、少女の気配は更に近付いてくる。


「リリー…、そこに…いるのか?」


声が聞こえた方……絡み合う樹々の向こう側へと言葉をかけた。


(そんな筈はない………。)


幻覚に間違いがなかった。場所がこの森場所である。何かが自分を惑わしているのだ。

だが彼女の気配はささくれ立った心に恐ろしいほどしとやかに沁みて、久しく忘れていた感情の焔が灯るのを感じる。


(……………………。)


確認をするだけだと何者かに言い聞かせる。

足を踏み出し、縺れた枝を払ううちに心中に懐かしさと憧憬がじわじわと去来する。

やはり……彼女の元へと至りたかった。この雨の冷たさも、皮膚を傷付ける黒く混み入って複雑な枝葉の不快さも気にはならなかった。

しかし先ほどまで近づいて来ていた声は彼の前を通り過ぎ、今度はゆっくりと遠ざかった。必死になる。今ここで会えなかったら、次はいつ・・・・・・・・・・・・・・・・…………?それを考えるとゾッとした。思わず声が口を吐く。


「リリー、まだ。まだ………。」


しかし確実に彼女の気配は自分から離れていってしまう。頼む、と懇願する。いつの日かリリーに、そしてダンブルドアに願ったように。頼む……、と掠れた声を絞り出すして上げ、その先へと手を伸ばした。


「まだ………。わた、僕…は………っ、」


しかし彼の声に応えるものは何も無く、辺りには静寂だけが取り残された。

膝を折り、荒れた息で呼吸を繰り返す。黒い針に似た雨が身体を突き刺すように降り続いている。その冷たい感覚が急に思い出され、あまりの寒さに自身の身体を抱いた。


涙が垂れる。


辛かった。こんなに苦しんでまで生きて行く意味を、最早見出すことは難しいと思った。

消えてしまいたい。本当は繰り返し繰り返し考えていた。

黒い雨に身体全部溶かされて、この夜の一部になる。それが今の彼にとっての一番の望みだった。


だが周囲を満たす鮮烈な光がそれを許してはくれなかった。


覚えがある気配である。深い海の底、産まれる前の母親の胎内での記憶に似ている。そして光の泡で夜を突き刺すように巻き上げて、黒い景色を遠ざけて行くのだ。


自分のものではない呼吸が傍にある。それは巨大な光の鯨と同じように空から縦に降りて来た。既に衰弱して弱々しいスネイプのものとは違い、荒れて逸って不安で、間違いなく生きた人間の気配だった。

ヨゼファは整わない呼吸のままでスネイプの元へと駆け寄った。掲げたカンテラの灯りで、地面に倒れ伏す彼の姿を今一度確認しては息を呑み、それから自分たちの周囲に覆いかぶさるように群生する隻眼の樹をぐるりと見上げる。


「……触りましたね、この樹に………!」


低い声で呟き膝を折って、黒い闇に塗れた彼の半身を強い力で支えて起こす。……その蒼白な顔色を確認した所為か、ヨゼファの顔に恐怖に似た色彩が走る。

彼女はスネイプの身体を迷わず胸に抱いた。

皮膚の熱と柔らかさ、その下で浅く強く拍動している心臓を直に感じる。ここまで強く人から抱きしめられたのは、産まれて初めてかもしれない。


力がまるで入らない身体では為す術も無く、そのままヨゼファへと頭を預ける。

彼女はスネイプの耳元で、「良かった…生きてて……っ」と掠れた声で呟いた。


そしてゆっくりと身体を離し、「さあ…一緒に帰りましょう。」と言って目を細くして笑う。いつものように、穏やかな笑い皺を目尻にクシャリと浮かべて。


「………どこに…。」


どうにか微かな声で尋ねると、「私たちの学校にですよ。」と言って彼女は少し首を傾げる。

「折角お土産沢山買って帰って来たのに、貴方が居ないからつまらないなあと思っていたんです。探してみて良かった。………本当に。」


笑顔のままの彼女はちょっと失礼しますね、と言っては再びスネイプを抱き締め、膝裏に腕を回して軽々と身体を持ち上げてみせた。

………………。実にげんなりとした気持ちで、馬鹿力め……。と弱々しく呟く。

ヨゼファは困ったように笑い、「今は靴裏に描いた魔法陣のおかげで私にかかる重力の負荷が少なくなってるんですよ。」と釈明をした。


「でも例え魔法陣が無くても、貴方はスマートですから。抱えて持ち上げるくらいは余裕でしょうね。」


朗らかな笑顔でそう言って、ヨゼファはぬかるんだ地面を蹴りスネイプを抱えた自身の身体を中空へと持ち上げた。

そして途中、ちょうど足元に来ていた梢を足場にして更に高く…黒い森の上を歩き片足で樹々の天辺を掠め、羽を休める猛禽が留まる梢の隣に両足を揃えて着地して、また雨に濡れた銀色の月に向けて軽やかな足取りで進んで行く。


「スネイプさん、しっかり掴まっていて下さいよ。」


途中、ヨゼファが声をかけてくる。脱力しきっていたスネイプは彼女の胸に頭を預け、ぼんやりとした意識でそれを聞いていた。

弱々しくその胸の辺りの服…自分と同じように濡れて黒が更に黒く…に触れて縋るように掴む。ヨゼファが自分の身体を抱き直している。その両の腕に、絶対的な安心感を覚えては脱力した。

だが、どうしてもその首へと腕を回すことに抵抗があった。自分から彼女へと触れる行為は、己自身を裏切るような気持ちがしてならない。


躊躇して、代わりに服を掴む力を強くする。

雨粒が月光に乱反射して眩しいほどに光るので、思わず瞼を強く閉じた。


(救われたくなんか、無かった………!)


喘ぐように呼吸した。ヨゼファが彼を気遣っては「もうすぐホグワーツに到着しますよ、あと少しです…。」と励ましてくる。


-------------あのまま、黒い森の中で闇に溶かされて消えてしまいたかった。


報われなくても良かったのだ。


リリーを想って過ごした人生の大半を占める時間…この気持ちだけが、自分の中にあるただひとつの清らかなものだった。

だから…そうだ。これから先の人生も。十年、五十年、百年でも彼女だけを想い続けて、どれほど愛していたのかを思い知らせたかった。


(……………誰に?)


そんなことは何の意味も無いと分かっていた。しかし、自分にとってはそれが全てだった。どんな言い訳も全ては建前で、止めることなど考えられなかった。


(それなのに………)


泳ぐように夜を静かに漂うヨゼファへと、重たい腕をどうにか伸ばしてはぎこちなく…多いに時間をかけて触れて、首にそれを回してみる。

彼女は応えて、スネイプが楽な姿勢になるように安定した角度に身体を抱き直した。そうして明るい声で、「ああ、ほら…学校の明かりですよ。やっと見えて来ました。」とこちらに伝えてくる。


(………人を本気で愛し抜くことが、ここまで苦しく業が深いことならば。)


ヨゼファはようやく地面の上へと降り立ち、相変わらず軽々とスネイプを抱いたままで歩いて行く。やはりその胸の下で拍動する心臓は濡れた服越しにより強く、直接に伝わってきた。


(二度と愛するものかと心から思っていた。)


抱く腕の力を強くして、そこへと顔を寄せる。この雨だと言うのに、通いつめた彼女の部屋と全く同じ匂いがした。

古ぼけた太陽とインク、それから花…弱い香水の香りが混ざっている…あの……。


(それでも……)


帰って来てくれたのだ。

それだけは本当に。

本当に………………



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