◎ 夏の残像
「坊ちゃん、魔法がお好き?」
華やかな祭日のある晩、とある出店の前に立ち止まってはぼんやりとそこを見下ろしていたハリーへふと声をかけられる。
顔を上げると、いつの間にそこにいたのか…眺めていた装飾的な図形が描かれたカードを並べた机の向こう、正面に一人の女性が腰掛けていた。
夥しい数のオレンジ色の紙ランプに照らされた出店が並ぶ通りは、人の話し声とどこからかひっきりなしに流れてくる音楽が混ざり合って騒々しかった。
しかし眼前の彼女の声だけは真っ直ぐに、まるで心臓へ直に触れるようにすっと胸に入っていった。
「えっと、」
ハリーが口ごもると、女性はニコリと口角を上げて笑う。目元を隠した仮面越しにも、彼女が優しい表情をしていることがよく分かった。
「ふふ、貴方が私の魔法陣を熱心に見てくれるから。それとも好きなのはお絵描きの方?」
そう言って黒いローブを身に纏った女性は、引き続き羊皮紙の上に青いインクで装飾的な図形をクルクルと空で描いていく。
最後にそれは綺麗な円形へとまとまり、紙の上に花が咲いたような姿に収まった。それをそのまま伝えると彼女は少し照れたように笑う。
「これはね、簡単な引き寄せの魔法陣。坊ちゃん何か欲しいものがある?」
そうして尋ねては首を傾げた。
急にそんなことを聞かれても、ハリーはすぐには思い付かなかった。けれども彼女は答えを待つらしい。仮面の奥の、深い青色の瞳がハリーの緑色の瞳をじっと捕らえて離さない。
「えっと……じゃあ。ボンボンをひとつ。」
「ひとつで良いの?」
「え?あ、えっと…。はい。」
「………………。」
湿って見えるほどに黒く豊かな羽を蓄えたペンで、彼女は魔法陣の中心に何かを小さく描き加えた。
そして「はいどうぞ、」とこちらに逆の方の手を差し出してくる。………その掌中には、ハリーの手の平ほどもある棒付きの飴がみっつ握られていた。
辺りのオレンジ色の灯を反射して、それはキラキラとカラフルに光る。
「謙虚なのね……。でも欲しい時は遠慮しちゃダメよ。」
「すごい、本当に魔法みたいだ………。」
「本当に魔法だもの。貴方だって望めば使えるわ。」
食べた後は歯を磨くのよ。
そう付け加えて、女性はハリーの手に大きな飴を三つ握らせる。
「本当に…僕も使えるの?」
宝石のように光る飴へと視線を落としながら、ハリーは質問した。
彼女は勿論とでも言うように一度頷いて、自分の店先に並んでいたガラクタ(正直そうとしか見えなかった)の中から木箱を取り出す。
埃が付いているらしいそれにフッと息を吐きかけ、女性は中からひとつ…水色のチョークを取り出した。
「良い?坊ちゃん。チャンスは一度だけ…満月の夜よ。銀色の月明かりを一番に浴びた硬いアスファルトの上に、これでお願いごとをかいてご覧なさい。」
青いリボンを結わえてもらったそれを受け取りながら、ハリーは「かく……描くの?それとも書くの。」と質問した。
「どちらでも良いのよ。大事なのはハートの問題だから。」
ハリーの手の中にチョークが収まったのを見て、彼女はまた穏やかに笑う。静かな夜の海のような空気を纏った女性だった。
「あ…でも。そうだ僕…こんなに沢山もらえないです。お金持っていなくて。」
「お金なんて良いのよ。ハリーが私のことを見つけてくれただけで充分だわ。」
「でも、」
悪いです、と言おうとしてハリーは目を疑った。
今まで確かにオレンジ色のランプが灯り、沢山の我楽多が雑多に並んでいた出店が忽然と消えていたのだ。
明るく賑やかな通りの中そこだけが切り取られたように空き地で、黒い雑草が風に揺られて微かに動くのみである。
…………勿論、先ほどの女性もいない。
「あれ…あの人。どうして僕の名前……。」
背後で大きな花火が上がる。万華鏡の中身をばら撒いたようなチャチな極彩色の火の粉が辺りの輪郭を滲ませた。
遠くから、叔父が大声で自分を呼ぶ声がする。ハリーはなんだか迷子になったような心細い気分になって、今一度掌中を眺める。
……………幻では無い。
そこには飴がみっつと例の水色のチョークがしっかりと握られていた。カラフルな飴はやはり宝石のようにチカチカと辺りの灯を反射して、なんだか眩しかった。
ねえハリー
私はね、本当は貴方に会うのがとても怖かったのよ。
貴方の姿は、私の青春時代の痛みにそのまま結びついているから。
けれど貴方の寂しく綺麗な佇まいを見て、とても安心したの。
貴方の寂しさは、私とそれから彼と、また違う彼や彼女ともとてもよく似ているから。
私は思ったのよ。
貴方に愛情を与えることが、報われない少女時代の私をそのまま救うことにも繋がるって。
だから、私の前に姿を見せてくれてありがとう。
出会ってくれて嬉しかったわ。
貴方をこの世に送り出してくれた、お父様とお母様にも祝福を。
お誕生日おめでとう、ハリー・ポッター。「…………ひどい臭いだ。」
部屋の中空に現れてはストンと床に着地したヨゼファの姿を認めるなり、スネイプは言った。
まさか自室に人がいるとは思っていなかった彼女は「ワォ、」と小さく驚きの声を漏らす。
「………酒の匂いだ、あと悪趣味な煙草も臭う…。どこに行っていた。」
「夏至のお祭りです。楽しかったわ。」
ヨゼファは愛想良く笑ってから少し肩を竦めて答える。
「お前の感想は聞いていない。聞かれたことだけを答えろ。」
「それじゃあまるきり尋問ですよ…。ちょっとはお喋りさせて下さいな。」
お茶でも淹れましょうか?スネイプ先生。とヨゼファは持ちかけるが、彼は片眉を微かに上げただけで特に応答をしてくれなかった。
「誰と行っていた?まさか一人でか。」
「残念ながらそのまさかですよ。」
「………………。寂しくないのか。夏至祭に一人とは。」
「いいえ、だって向こうで素敵な人に会えましたから。」
ねえ先生、私お祭りのお土産買ってきましたからやっぱりお茶にしましょうよ。とヨゼファは再び彼を誘ってみる。
スネイプは目を細めてから、差し出されていた彼女の掌ではなく腕を握った。
「何か先生も用事があったからここに来たんでしょう。待たせて申し訳なかったですね。」
「その他人行儀な口ぶりをやめろ……。」
押し潰すような声で呟かれて、ヨゼファはパチパチと数回瞬きをする。それから脱力したように笑って、「ええ、分かったわ…。」と応えた。
今年は十一年目の夏。彼にとっての終わりの始まり。
「お祭りで会った素敵な人の話、聞きたい?」
「……………。ふざけているのか?」
睨まれるが、ヨゼファは特に気にかけず闇夜のような瞳を見つめ返した。
そうして自分の腕を掴んでいる掌に自分のものを重ねて、スネイプの耳に唇を寄せる。
「ハリーに会って来たわ。」
ゆっくりとそう言うと、彼が小さく息を飲むのがよく分かった。
…………スネイプが何を考えているかなど、ヨゼファにはすぐに分かるのだ。一体何年、何十年の月日彼のことを考えながら過ごしただろうか。一挙一動、どんな癖までも覚えていた。
それでも人間は不思議なもので、記録に基づく予想の範疇などやすやすと超えていく。だからヨゼファはいつまでも彼を愛せる自信があった。今日、明日、明後日。常に驚きを伴って自分を前へと動かしてくれる。彼女自身の生きる意味そのものでもあるのかもしれない。
(言わないけれどね……。ひかれちゃうから。)
ヨゼファはスネイプに悟られないように小さく笑った。
「優しそうな子だったわ。きっと私たちにとっても良い生徒になる筈よ。」
スリザリンに入ってくれたら良いんだけれど。とヨゼファはスネイプから顔を離して笑った。
「楽しみね、セブルス。」
「……………楽しみなものか。」
「あら卑屈にならないで。きっと最後は貴方の思う通りになるわよ。」
腕は未だ握られたままだった。
重ねた掌に愛情を込めて今一度、ポンと叩いてから背の高い彼の顔を見上げ真っ直ぐに視線を合わせた。
自分のことを同じように見据えてくれていた彼の瞳を覗き込む度に、次に生まれ変わるなら海底深くの小石が良いと思う。
光が届かない漆黒の水底、彼の瞳と同じ色彩の中にじっと身を横たえていたい。転がされて、角も落とされるままに。
骨の在処は海の底prev|
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