◎ ブラックホールバースデイ
息を吐くと、白い息が雨の中で弱く舞い上がる。
岩に打ち付けられた所為ですっかりと駄目になってしまった肩を抑え、ヨゼファは心弱く笑っては自分の主人のことを見上げた。
………肩が痛い。
骨がきっとひどいことになってしまっている。冷えて研ぎ澄まされた痛覚の所為で、
血液が流動することすらも辛苦の刺激となった。このまま気絶してしまいそうである。
二人の周囲を大勢の死喰い人たちが囲んで事の顛末を眺めていた。
あの時と同じだなあとヨゼファはしみじみと思った。自分が初めて、
こちら側へと傾いた時。
(けれども雨は降ってなかった。これは中々にしんどい………。)
既にベラトリックスの施術の効果が失せ、鈍い灰色へと戻ってしまった髪を青白く長い指にそっとすくわれる。
こんな風に優しく触れてもらう経験は彼に出会う以前、一度も無かった。
だから今でも愛情によく似た別の何かを与えてくれた彼を大切に思う。感謝をしていた。
「どうした。」
すっかりと立っていられなくなり屈んでしまったヨゼファに目線を合わせる為に、彼女の主人は片膝を付いてくる。それを申し訳なく思った。服が汚れてしまう。
「マリア・チェンヴァレンはまだ生きているらしいな。何故だ?ヨゼファ。」
………理由を教えてはくれまいか。
耳元で囁かれるので、ヨゼファは弱々しく首を横に振る。そうして「申し訳ありません……」と謝罪した。
「申し訳ありません、我が君……。私は失敗しました。」
「それならば何故貴様はまだ生きている?………若しやお前はマリア・チェンヴァレンが作り出した幻影か何かか。」
「………………………。」
「私に忠誠を誓ってくれた正しく賢しいヨゼファならば。私の為に命を投げ打ってやり遂げてくれただろう。………違うか、
俺様は何か間違いを言ったか?」
「いいえ、我が君。貴方こそ正しくていらっしゃる……。」
ヒューヒューと喉が鳴るだけで中々形にならない言葉をどうにか呟き、ヨゼファはヴォルデモート卿の赤い瞳をやっとの思いで見据えた。
濡れそぼった自分の長い髪は、まだ彼の掌中に一房握られていた。……そこへと優雅に唇を落とされるので、ヨゼファは痛みに耐えながらも心弱く笑う。
しかしその紳士的な所作とは打って変わり荒々しく髪を掴まれ、強く引っ張られる。流石の彼女もこれには表情を歪めて苦痛を表す。
「お前は」
一音ずつに鉛のような重さがこもった言葉がヨゼファへとぶつけられる。
……殺されるのかな、と彼女は瞬時に思った。
そう予感した瞬間、言いようのない恐怖が蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと滑らかに身体を這い上がってくるのが分かる。
(そんな)
(たったこれだけの、
こんなにも意味の無いものが私の人生なの!?)
「お前は、私のことを信じてこの足元に傅いたのだな?」
死ぬのだけは嫌だった。至近の距離で自分の瞳の中を覗き込む主人の怒りをどうにか収めようと、いつもの様にヘラヘラと笑っては頷く。
「はい、仰せの通りです。」
「ならば何故
心を開こうとしない!!!!!!!!!」
ヨゼファのか細い応答を打ち消して、卿が激昂する烈とした声が響く。
「俺様はお前を信用しない。………こんな、たかが…子供に…?何故だ。」
この時のヨゼファは閉心術のことなど詳しくは知らなかった。
ただ様々なものに対する自分の醜い感情に蓋をし、己を保っては守る為に身に付けたものがそれである。
闇の魔術は閉ざされ淀んでしまった心の奥から始まっていく。彼女が如才なくその才能を芽吹かせたのは必然とも言えるのだろう。
「私はお前を殺さない。まだその命には価値がある。」
皮膚と皮膚が触れ合うほどの近い距離で、偉大な闇の魔法使いはヨゼファへと囁くように言っては笑った。
ゆっくりと彼の青白く長い指によって杖を抜かれる様を眺め、ヨゼファは先ほどとは異なる生理的な恐怖を感じる。
まさか、
いや、そうなのだろう。
母親を殺害する意思が失せた時、どうしてその未来を想像しなかっただろうか。
「
お前の母親は優しかったか?」
抵抗する気力も体力も無いヨゼファは、自分へと向けられた杖の凶器じみた先端をただただ呆然と眺める。
彼女はやはり曖昧に笑う。そして、自分は感情表現の方法を空虚な笑顔しか持たないことにこの時初めて気が付いたのだ。
「そうか。」
赤い瞳の魔法使いも同じように笑っていた。針のような雨が降りしきる中、こんなにも大勢の人間がいるのにも関わらず。笑みを浮かべているのはたった二人だけである。
そうしてヨゼファはこの世の地獄とは何かをその皮膚で、肉で、神経で血液で思い知る。
細胞ひとつずつが乳鉢ですり潰されドロドロになった肉体が混ざり合っていくような惨苦だった。指と指の隙間に自分の腐った汚らしい肉片が、その指すらも容赦無く潰されて骨が砕けて肉が露出してこびり付いて!割られた頭蓋から脳幹延髄を舌と共に引き摺り出され焼け爛れた棍棒で内側を抉られるから、そう、顔が、顔、顔、顔、顔が腐り落ちて形すらも保てない……っ!!!!!!
「そうか、御母堂は優しかったのかヨゼファ!!それがどうした、情けが湧いて殺せなかったのか?自分が受けた仕打ちを何故思い出さないでいられる!!??」
その最中、ヴォルデモート卿の声が遠くから近くから、幾重にも何重にも連なり重なって聞こえてくる。
振り続ける雨と己の肉体の境界すらも無くなり混ざり合う感覚。最早そこには光も闇も無く、天も地も昼も夜も無い。
磔の呪いが齎す痛みに堪え兼ねて掻き毟った胸部の皮膚は既にボロボロになり、自分の肉と血液が爪の奥深くへと食らい付いていく。
「心無い親の元に生まれたお前の辛苦が私にはよく分かる。
同じものだからだ……。……己の都合で自らの一部から育まれたものを捻じ曲げても良いのか?反吐が出る!!!!」
彼の言葉はヨゼファへというよりは独り言に近しいものへとなっていく。
そうして呪いの威力は卿の怒りに比例して一層強くなった。生きたまま身体を貪り食われるに似た辛苦。大いなる痛覚への刺激にヨゼファは生まれて初めてとも言えるような烈しい叫び声を上げた。
「ヨゼファ、乗り越えろ、憎い母親を殺すのだ!!そうしてお前は初めて自由になれる…!!!私こそが、私たちだけがお前を真実に理解している、その為に己の身体を能力を差し出すのを何故躊躇する?それがお前の
生を受けた理由に他ならない!!!」
それは違う。痛苦が限界に達したのか。ヨゼファの脳髄に冷水が撒かれたかのように寂とした静寂が訪れる。
それと同時に思い出されるのは、母そして妹たちの深い青色の瞳の色だった。
別に、情けが湧いた訳でも心が折れた訳でも無い。ヨゼファは自分の血液に塗れた指の腹で今一度掻きむしった胸の傷に触れる。手遅れの皮膚病のようにボロボロになってしまっていて、汚らしい。
幸せでいてくれてありがとう。そうして、自分の憧れと慕情の全てだった母の顔を何度でも頭の中に思い描く。愛しくて憎い彼女が幸せでいてくれて本当に良かったと思う。
きっとあの人が不幸だったら、私は嬉しくなってしまう。胸がすくような思いをするだろう。
私の黒い希望を打ち砕いてくれて、どうもありがとう。ヨゼファはデコルテに刻まれた痕を更に強く抉って、人差し指の爪でゆっくり傷口を広げていく。…………線に。曲線に。赤く細い線として。
テレサにフランチェスカ、アンジェリカ。聖なる名前を頂いた私の名前を知らない無垢で清らかな妹たち。
母を傷付けることは、彼女たちの未来を歪めることに他ならない。傷と傷が交差して形作るものは簡単なもので構わない。全ては
心の問題だ。それが善いものであれ、悪いものであれ。
別に聖者を気取っている訳ではないのよ。
妹たちへの感情の中に善意も偽善もあったものではない。ただ
人ひとりの人生を否定して自分の居場所、幸せを手に入れるのならば
それは母の行いと同じだ。あの女と同じものになるのだけは、死んでも嫌だった。己の胸に呪いを刻みそれが適った刹那、磔の呪いとは明らかに異なる痛覚が延髄の奥から突き上がってくる。
自分の主人だった男の呪文から解放されたヨゼファはその杖を掴み、切っ先を黒く淀んだ空へと向けた。行き場を無くした赤い閃光が花火のように弾け飛び雨の中を旋回していく。
しかし彼の呪文は杖によるものだけでは無い。赤黒く爛れた自分だけの魔法をヨゼファと同じように持っている。
だがこれ以上陣を描く必要などヨゼファには無かった。傷口はめりめりと広がり続け彼女が思う魔法を塗炭の苦痛と共に肉体に刻みつけていく。
捕まえられたままだった自分の髪を切り落とした。万年兆年に値する辛苦と苦しみの時間である。これを二度と忘れまいと思った。ようやく自分へと杖を向けてきた死喰い人を心の底から呪い、残酷な望みをどこまでも根深く胸に抱く。
そうしてヨゼファは逃げ果せた。
しかし逃げてどこへ行くのだろうと考えては、虚ろな気分になる。
後先構わず自分の身体を転送させた、どことも知れぬ黒い森の奥深くで溜め息を吐けば呼吸が白く染まって煙のように上がって行く。
相変わらず針の雨は降り続けている。ふと鎖骨の辺りを見下ろすと、デコルテ…特に利き腕側の右…が楔で引っ掻いたような魔法の痕跡で抉れて無様な有り様だった。
無機質な直線で構成された魔法陣はあの時に描いた拙くも柔らかな曲線の魔法とはまるで異なり、攻撃的な形を描いていた。当たり前である、全ては心の表れなのだから。この醜い痕跡は身から出た錆びだ。
(けれど………)
初めて魔法陣に、私だけの魔法に出会った時、どんな気持ちだった?
これで大切な人を幸せにしたいと確かに思った筈だ。
そうして自分の魔法を善いものと美しいものの為に使おうと喜びの中で誓った。
その柔らかな光に包まれた時間が今はなんと遠いのだろう………。「許されるならば」
呼吸と言葉が渾然一体となり、声にすらならない嗚咽が漏れた。
けれど涙は決して出て来ない。何故笑うことしか出来ないのだろう。雨ばかりが痛いほどに冷たく頬を濡らす。
「あの時へ戻ろう……」
額に手を当て、たったひとつの切なく優しい思い出をようやく胸の中に結ぶ。
この時、ヨゼファの笑顔が初めて崩れた。
ああ、
自然に唇から声が漏れる。
「セブルスさん………」
何よりも今の自分を癒してくれたのは母子を繋ぐ深い青色では無かった。
ただただ己を偽らず、いつでも真っ直ぐでひたむきだった……
「リリーのことを愛する、貴方の姿よ。」
今一度微笑み、ヨゼファはそっと瞼を下ろす。
そうしてこれからのことを考えた。
どんなに辛く苦しくても人生は続いていくのだから。
私が私であることを、諦めるわけにはいかない。
*
けたたましい音が室内に響いた。
全くの予兆もなく予期もしていなかった故に、ダンブルドアは少し肩を竦めて瞬きを数回する。
フォークスもまた驚いたようで、暫し二人…片方は鳥だが…は顔を見合わせては瞳で何かを会話した。
ダンブルドアは腰掛けていた椅子から立ち上がり、その轟音の出所である私室の更に奥の方、分厚いカーテンの向こう側の様子をじっと伺う。
暫時そのまま部屋の空気は静寂で満たされた。ダンブルドアはゆっくりと緋色のカーテンを引いてその先へと足を踏み入れる。
「………………………。」
そしてそこに広がる惨状と更にその中心にいる些か意外な人物を目の当たりにして、彼は再び肩をすくめてはパチパチと瞬きをした。
「今晩は…校長先生。」
ヨゼファは夜の挨拶をしつつ、非常にばつが悪そうに後頭部を軽くかいた。
そして自分にのしかかり頭のすぐ横の壁を槍で貫いている聖ゲオルギオスのブロンズ像…対侵入者用…をチラと横目で見ては、「素敵な彫刻ですね……」と言ってなんとも言えない笑い方をした。
* * *
「本当にすみません……!壁に穴を空けるわ絨毯を濡らしてしまうわでもう申し訳が立ちません…。」
ヨゼファは深く深く項垂れながら何度目になるか分からない謝罪をする。それから少し表情を歪めて「いたた…」と呟いた。
治してやっている砕けた肩の骨がどうにか正常な形に戻ったらしい。やがて痛みが引いたようで、ホッとした表情で彼女は息を吐いた。
「なに…それくらいならすぐにどうとでもなるから構わんが……」
ダンブルドアは……如何にも地味で飾らないヨゼファの学生時代の印象に削ぐわない、しどけない衣服から広い面積を露出させている傷だらけのデコルテに目を留めながらその謝罪に応えた。
「…………ひとつ訪ねても構わんかね。君は一体どうやってここに転がり込んできた?ホグワーツでの姿現しは不可能な筈だが。」
明らかに彼女の様子は普通では無かった。外で降りしきる雨全てを受け止めたずぶ濡れの姿に、どう考えてもお洒落とは思えないアシンメトリーで縺れた髪型。そうして更に泥塗れで血塗れである。
「姿現しでは無いので……。本来なら地面や壁に描いて
門を形作って移動するのが正しい使い方なんでしょうが。この雨で何にも描くことが出来ず……なので、ここに。」
ヨゼファはぐったりとした様子で、右胸から這いずるようにして描かれた赤黒い傷痕を指先で示した。
「本当はこの部屋の扉の前に来るつもりだったんです。でも…やはりこれは心の問題でしょうか。どうしても今すぐ先生に会いたかった……。」
突然お邪魔してすみません……と、ヨゼファは更に謝罪を重ねてくる。
傷痕は恐らく掻き毟った為に出来たのだろう。それを証拠付けるように、彼女の爪もまたひどい有様だった。だが爪で自分の肉を裂くに至る行為など明らかに異常である。その肌は逆剥け、露出した肉が滲んだ赤色にぬらりと光る様が生々しい。
眺めながら、ダンブルドアはぽつりと呟く。
「それが、
君の魔法陣かね。」
「ええ。………そのようです。」
「陣を人体に直接描くのは法度だと知らない訳でも無かろう……。」
「……………。描いても普通は何も起こらないものですよね。それに魔法陣は子供の空想の友達のような存在で…
何にもならないものの為に在る優しい魔法だと貴方から聞いてました。それなのに……こんな。知らなかったなあ…。」
ダンブルドアは取り返しのつかない有様になってしまったヨゼファの皮膚を指の腹で触る。
びくりとその冷えた身体が震えた。砕けた骨の治療の方が余程の苦痛を伴う筈なのに、どうやらこちらの痛みがより多く彼女には堪えるらしい。
「魔法陣は自分へ直接の利益を齎すことや、人やものを傷付けることに最も向いていない無力な魔法の筈では無いのですか…………?」
脂汗が浮いた額を掌で抑え、ヨゼファは呻くように呟いた。
ダンブルドアは杖を抜き、肩を治してやったのと同じように杖先の淡い光でその傷をなぞった。……しかし明らかに治癒の反応が鈍い。「これは痕になるぞ…」と呟くと、彼女は小さく乾いた笑い声を上げた。
「魔法陣は…自己を言葉で充分に表現出来ず、呪文による安定した魔法を持たない子どものものだ。………だから儂は言葉を失った君の助けになるだろうと、嘗て今一度その存在を享受した。」
剥けた肉が徐々に白い皮膚の下に隠されていく。だが魔法の痕跡である陣は黒に近い鈍色となり、その胸に刻まれたままになった。ダンブルドアは彼女の濡れた髪、薄汚れた顔、そして今一度鎖骨とデコルテを眺める。深い深い溜息を吐いた。
「これが、君の答えか………。」
ヨゼファへの色濃い失望を滲ませてはそう呟く。
部屋は冷たい沈黙に閉ざされた。
やがて彼女は微笑み、自らの肉に刻まれた闇の魔術の痕跡をゆっくりと指でなぞる。そうして老年の魔法使いを今一度緩慢に見つめ返した。
「…………………。返す言葉が、ありません。」
ぽつりと呟いたヨゼファの声は、小さいながらもはっきりとした響きを滲ませていた。
不思議なことに。こんなにもひどい為体だと言うのに、何故か彼女は全ての憑き物が落ちたようにすっきりとした表情をしていた。
「けれどひとつだけ言わせて頂けるならば……… “こんな筈では、ありませんでした。”」
そう言ってヨゼファは少しだけ首を傾げた。
彼女のアシンメトリーの濡れた髪がバラバラと動き、畝って鈍く光る。
「私は、善い魔女にはなれませんでしたね……。」
掠れた声で漏らし、彼女は口を閉ざした。
ダンブルドアは苦い気持ちになって瞼を下ろし、硬く瞳を瞑る。
“こんな筈ではなかった。”
一体何人の人間が、人生の中で繰り返しこの台詞を胸の内で呟くのだろうか。
「……………君は、これからどうするつもりだ。」
杖を一振りしてその姿を整えてやる。泥と雨水、そして自分と他人の血液による汚れが取り除かれたことにヨゼファは感動したらしく、「オゥ」と小さく声を上げて乾いた衣服を繁々と眺めた。
「さあ……どうしましょう。でも、このままじゃいけないですよね。」
「左様。良い訳がない。」
手招きをしてヨゼファを自分の書斎へと導いた。
そして膨大な書籍の中から褐色の革で閉じられたものをひとつ取り寄せる。
「表と光があれば裏と闇がある可能性は考えておった……。しかし魔法陣のそれは分霊箱と同じように術者の身体に著しい見返りを求めるようだな。」
「そんな危険なものが子どものものと呼ばれているのですか?」
「それは
残念なことに君の闇の魔術への傾倒が並々ならなかったことに起因する。普通ならばこのような結果は招くまい。」
頁をめくりながら、「ヨゼファ、その魔法で人は殺したか。」と尋ねる。彼女は首を横に振った。
「…………それくらいで済んだのはそのお陰じゃ。より多くを傷付けたり奪おうと考えれば、君の身体は原型を保てなかっただろう。」
ヨゼファは黙し、胸元の痕へと視線を落とした。そうして今一度ゆっくりと頭を横に振る。
「責めているわけではない。……それだけ…ヨゼファの魔法は渙発される場所を求め体内で蓄積され続けていたのだろう…。」
ダンブルドアは呟き、目当てのものを発見してそれを頁と頁の間から取り出してみせる。
……それを眺めた瞬間、ヨゼファが驚いたように「うっわ、」と声を上げた。
「ちょっと校長先生…!それいつのですか??」
「つい最近のものじゃよ。」
「つい最近!!!???先生の生きてる時間軸で話を進めちゃ……ってそんなことはどうでも良いんです、やだ……ちょっともう…本当に………!!」
ああ、と声を上げて片掌で顔を覆ったヨゼファは今までと打って変わって人間らしく感情が豊かに思えた。
ダンブルドアはその様を認め、ようやく安心して笑みを漏らす。
「そんなに恥ずかしがることもあるまい。」と呟き項垂れるヨゼファの肩を叩けば、「恥ずかしいに決まってますよ、先生みたいな悟った方には分からないでしょうけれど……!!」と絞り出すような声で応答される。
「実に美しい魔法では無いか。正直期待以上だったと言って良い…。言葉が扱えずとも君が素晴らしい魔女であることを証明してくれている。」
ヨゼファはかつて自分が描いた魔法陣を見ていられないらしく、目を逸らして口の中で何事かを呟く。
「もう一度、見せてはくれまいか。」
そう言って彼は机上の羊皮紙と羽ペンを視線で促した。
………ヨゼファは困ったような表情を浮かべて、暫しダンブルドアの鮮やかな水色の瞳とサラの羊皮紙の空白を見比べていた。
だがやがて彼女は黒く毛量の多い羽ペンをインクに浸し、紙の上に曲線をぎこちなく描き始めた。
そうして徐々に何かを思い出すように、クルクルと最初の線を囲みながら水紋が絡んだ装飾を描き始める。それが万華鏡の底のように円くまとまったところで、ヨゼファはペンを置いた。
暫し二人はそこを眺める。
だが数分が経過しても何も起こらなかった。
ヨゼファは弱く笑い、少しだけ肩をすくめる。ダンブルドアは彼女の肩を抱いてやった。それから短い言葉を耳打ちする。
それを聞き届けてヨゼファはパチパチとした瞬きを彼へと向ける。その濃紺の瞳をじっと見つめて促せば、また額の辺りに掌を持って行って弱々しく首を振るようだ。……眺めると耳が赤くなっていた。
やがてヨゼファは筆に迷いに迷いながら出来上がった魔法陣に一筆、二筆、そうして連ねて柔らかい曲線を付け足した。
描いた場所から緑色の細い茎がスルスルと伸びていく。唐草となり、縺れたそれは銀色の砂を撒いたような小さい花を咲かせて辺りに淡い輝きを齎した。
「素晴らしい。」
ダンブルドアは呟く。
「……………美しくて、夢がある。魔法のようだ。」
彼はヨゼファの古い魔法陣を封筒に収めてやってから渡した。彼女は首を横に振って拒否するが、「持っておきなさい。」とその掌に受け取らせる。
「ヨゼファ。君が扱えたように…まだ大人にも魔法陣の可能性は残されているように儂には思われる。今一度向き合ってどのようなものか整理をしなくてはいけない…。闇の魔術として世に多く知られるようになる前に。」
自分の魔法陣が収まった封書を見下ろしていたヨゼファへと、ダンブルドアは言葉を続ける。
「それには君の力が必要だ。分かるかね?」
念を押すように、しっかりと一音ずつ確かめながら彼は発言した。…………ヨゼファは戸惑った表情を浮かべるが、やがて「私の力が…?」と小さな声で呟いた。
「そうして我々にヨゼファの力が必要なように、君にも我々が必要だ。……この学校で子供たちを導き、罪を注ぎなさい。」
「……………私なんかにそんな大層な役目が勤まるとは思いませんが。」
「学校は社会の縮図じゃ。優秀な者や恵まれた者がいる以上、その日陰となる者が必ずいる。……君なら、君だからこそ…報われない子供たちの気持ちが分かる筈だと…。」
思うのだが。
そう言って今一度ヨゼファの瞳の中を覗き込む。
彼女はこちらを見つめ返してから、毛羽立った紙の上に咲いた花を眺めた。嘆息してから、紙の上を掌でそっとひと払いする。魔法の痕跡は失せ、その白い花も跡形も無くなった。
「まだ己を疑っているのか。……そう自分を嫌ってしまうならば、言葉を失った少女のヨゼファは一体誰に助けを求めれば良い?」
視線を逸らしたヨゼファを咎めてダンブルドアは語調を強くした。
「ただひとつの言葉を彼に伝えたくて、それだけの気持ちで優しい魔法に向き合っていた自分を忘れてしまうのか。」
彼女は俯いたまま、またいつものように空虚に笑う。
一言も声を発さないままに。
「あの時も今と同じように道に迷い途方に暮れ……けれど少なくとも逃げてはいなかった。ひたむきで純粋だった。」
双肩を掴んで自分の方へとヨゼファを向かせる。言葉を更に重ねた。
「あれが君の、ヨゼファの真実の姿では無いのかね……!?」
そうして…彼はふと言葉は無力だと考えた。どれだけ心を砕いて、自分が持ちうる限りの愛情を持って接しても救えずに闇に堕ちて行く魂は数多く在る。
結局他人の人生を人ひとりがどうにかしようなどと烏滸がましい考え方なのだ。人は人を変えることは出来ない。
それでも自分は考え続けなくてはならない。掴み返されることの無い掌を差し伸べ続けなくてはならない。
ヨゼファは顔を上げ、ようやく老齢の魔法使いの方へと向き直る。…………まだ十代にも関わらず、その草臥れた顔は老け込み彼女の母親よりも余程年寄りに思えてしまった。
緩慢な動作でヨゼファは頷き、「はい…。」と彼の言葉への応えを示す。
「私は今度こそ、善い魔女になれるんでしょうか……。」
それと同じくらい微かな声で「必ず……」とダンブルドアは返した。
いつか。
必ず。
そう繰り返して、彼女の冷えた頬に片掌を添えてやる。ヨゼファはゆっくりと瞳を閉じて同じ言葉を反復した。
その疲れ切った笑顔と…けれど、何かが満たされたような表情を眺めて彼は胸の内側で嘆息した。
(そう…考え続けなくてはならない。考えることをやめる訳にはいかない。)
(もう二度と、自分のような人間を見たくはないのだ。)*
ーー−−−−ヨゼファと同じように自分に助けを求めてきたスネイプに、ダンブルドアはそれからそう遠く無い日に相対する。
彼の言葉を聞きながら、ダンブルドアの頭の隅にヨゼファの顔が浮かばない筈はなかった。
因果か罰か、と思う。
だがそれは一体誰に対する罰なのだろうか。
ヨゼファに初めてスネイプを紹介した日、彼のことを認めた深い青色の瞳にありありと浮かんだ狼狽を見逃せる訳が無い。
それはすぐに鳴りを潜めるが。ヨゼファは笑顔でスネイプへと握手を求めた。握り返されるその掌を眺めながら、彼女へと心の内で謝罪する。
「私は……今度こそ善い魔女になるんです。」
ヨゼファは自分へと同じ言葉を繰り返してみせた。
けれど善悪とは何なのか、叡智と聡明の粋を極めたダンブルドアにすら…いや
彼だからこそ、分かる筈が無い。
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