骨の在処は海の底 | ナノ
 アポトーシス

「ねえベラ…貴方、顔のお直し・・・・・って出来る?」


窓の傍に据えられた小さな机上に頬杖をついて、ヨゼファがぽつりと尋ねてきた。

しかし彼女はベラトリックスの方を向いていない。雨が真っ直ぐに滑り落ちていく濁った緑色の窓ガラスを、ただぼんやりと眺めているだけである。


「…………お前、私が顔のお直し・・・・・をしてるとでも思ってるのかい?淡白な顔して性格悪い女だね。」

ヨゼファがほとんど体重を預けていた机を苛立ちを込めて拳で叩く。

ようやく彼女はこちらを見上げた。そうして「ううん…違うの、そういうわけじゃないよ。」と穏やかに応える。


「ベラは元々綺麗だものね。する必要もないから…出来ないか。」


痛んだ木の机を殴ったままの形だった彼女の掌へと、ヨゼファはそっと触れて軽く握ってくる。

ベラトリックスはそれを掴んで握り返し、長い指を蛇のように滑らせてヨゼファの手の甲、腕、そして肩から首へと至り、最終的に頬を撫でた。

彼女は相変わらず淡白な笑顔でそれを甘受している。


「出来ないとは言っていないよ。………ただお前が言うように私にはそんなもの必要無いのさ、だから不完全で効果に時間の制限がある。」

「そう、それで充分。ポリジュース薬よりは持続性があるでしょう…手間も少ないし。」

「何に使う?」

「あの方の御心に適う使い方を。」


斜めにベラトリックスを見上げたヨゼファは薄暗い微笑を浮かべる。

彼女はヨゼファのこの表情が好きだった。夜明けの湖上に張った薄氷みたいに冷たくてギリギリに緊迫していて、何度でも派手な音を立てて踏み砕いてやりたくなる。………要は加虐心が疼いて仕方が無いのだ。


「良いよ?どんな顔が良い。」

「どんな顔にしてくれる?」

「砂糖菓子みたいな甘ったるい顔にしてあげるよ。お前の味気なさ過ぎる性格にはそれくらいが丁度良い。」

「そう…ベラに可愛がってもらえる顔なら、それで良いわ……。」


ベラトリックスはヨゼファの両頬に手を添えて、その顔の造りを吟味する。そうして二人は言葉を重ね合った。

彼女がそっと目を伏せるので、ベラトリックスはその色が薄い唇に自分の紅を分け与えてやろうと顔を近付ける。……しかしヨゼファはハッとしたようにしてそれを避けた。


「相変わらずヨゼファちゃんはねんねだこと……。」


代わりに頬へと口付けして、そこを軽く舐めてからベラトリックスは呟く。

ヨゼファは困ったように笑ってから、「………そうかも。」と返した。


「ユニコーンのお迎えでも待ってるのかい?その顔で?」

「ユニコーンは清らかな処女のところにしか来ないでしょ…。」

「この世の中じゃ清らかで処女はそういないよ、どちらかを満たしていれば望みはあるかも?」

「ユニコーンに来られても特にやりたいことは無いし、普通に困るわ…。」

「それじゃあ好きな男か女でもいる?」

「……強いて言うなら、お母さんかな。私は私のお母さんママが大好きなの。」


ヨゼファは可笑しそうに笑って口元を抑えた。

ベラトリックスは、「ふーん…一途だこと。」と呟いて今度はヨゼファの首筋へと軽く口付けて舌を這わせる。情事を全く知らない彼女の肌は強張り、その身体が一気に緊張するのが分かった。


「その大好きで仕様が無いママを、お前は一体…今夜。どうしちゃうのかな?」


ベラトリックスは彼女の耳元、持て得る限りの甘く優しい声で囁く。

ヨゼファは弱く笑い、首を左右に振った。


「あ…ヨゼファちゃんは可哀想な子だね!上手くいったら、私がお前のお母さんママなんかよりもずーっと可愛がってあげるよ、気が触れてしまうくらいね。だから…」


出来るだけ酷く殺してやるんだよ、


低く、圧を込めてヨゼファへと言葉のナイフを突き立てる。

…………彼女の深い青色の瞳がベラトリックスを見つめ返して、捉えた。そうして優しい形で細くなる。処女の癖に、ひどい色気だ。







ヨゼファはこの時、鏡に映る自分の顔を見て初めて美しいと思った。

特に注文を付けずにベラトリックスに頼んだ施術の出来栄えは良すぎるほどである。

顔のみならず髪と瞳の色まで変えてくれた。黒く長い髪には艶がある。そうして清らかな深い森を思わせる緑色の瞳がこちらをじっと見つめ返してくるのだ。


(皮肉なものね。)


憧れる色彩を蓄えた眼球を縁取る瞼の形はトロリとしていた。細くしてみるとより一層美しい。


「綺麗よ、ヨゼファ。」

世界で一番。


甘く優しい声で鏡の中の自分に語りかける。

薔薇色の頬をした少女は優雅に微笑み返してきた。そこへとそっと口付ける。


虚しすぎるファーストキスを済ませ、ヨゼファは針のように冷たい雨が振り続ける路へそっと歩み入れて行く。与えられた仕事をこなす為に。

彼女の姿は夜の闇に紛れ、すぐに見えなくなった。







「どうしたの貴方………。ひどい雨なのに。」


久しぶりに聞いた母の声に、予想した通り…しかし思った以上にヨゼファの胸は締め付けられた。


「今この時間、一人で外に居てはいけないわ。静かに。善くないもの・・・・・・に気付かれないようにしなくては……。」


声を押し殺した彼女はヨゼファの腕を引き、隠された自分の屋敷の中へと導いていく。

懐かしい家はやはりにヨゼファに対して余所余所しかった。毛並みがしっかりと揃えられた赤い絨毯も、灰色の分厚い石の壁も、こちらをチラと見てはお喋りを再開させる絵画の中の貴婦人も。


「貴方の名前は?」

「………………。ベファーナ。」

「そう…イタリアの魔女と同じね。一年間良い子で過ごした子の靴下にとっておきのお菓子を入れてくれると聞くわ。悪い子供には確か…なんだったかしら。」


母が呟きながら渡して来た分厚く白いタオルからは柑橘系の良い匂いがした。水を吸って重くなった黒い髪をもたもたと拭っていると、不器用さに見兼ねたのか…そっと頬を包み込むようにして掌を添えてくれる。

数秒ほどして彼女が手を離すと、身体を濡らした冷たい水分は全てヨゼファから取り除かれていた。服は乾き、おまけにタオルと同じように良い香りが仄かに漂ってくる。

驚いてきょとりとしていると、ヨゼファの母親は口元に手を充て可笑しそうにして小さく笑った。

………この人は綺麗な女性なのだとしみじみと思い直してしまう。顔の美しさは勿論のこと、仕草は優雅で品がある。


雨の中彷徨う少女に手を差し伸べた母は、優しかった。


彼女の美しさも暖かさもヨゼファは充分に知っていた。自分へと向かうことのなかったそれを嫌が応にも思い出して苦い気持ちになる。母の愛情に憧れ続けて生きてきた自分の15年強を、惨めに思った。



「私にもね…娘がいるの。だからかしら。女の子を放っておくことがどうしても出来ない……。」



少しの沈黙の後、母が零した声は小さかった。だがその余りある優しい言葉の意味を理解して、ヨゼファは自分の今の立場をひどく後悔する。

彼女が自分のことを覚えて心に留めてくれた事実は予想していなかったのだ。それは思いがけずに…しかし心の柔らかい箇所へと深く深く突き刺さっていく。


嬉しかったのだ。

こんな親不孝の娘のことを。

なんて………本当に。


(今なら、まだやり直せるかもしれない………。)


そうして当初の目的を忘れて咄嗟に考えてしまった。

母は厳しい人だから全てを許してくれることは無いだろう。しかし今が分かり合える最後のチャンスであることは間違いない…。


……意を決して顔を上げた。彼女の視線がヨゼファへと注がれる。

色濃く深い青色の瞳だった。瞳と髪の色だけがこの母娘の共通点である。今は異なっているが。それをヨゼファは誇りに思い、疎ましく思った。


(この時間は…きっと神様が私にくれた贈りものなんだわ。)


今度こそ逃げずに、正直に母親に向き合おうと胸に誓う。

神様、と心の中で掌を組んで今更としか言いようの無い心からの懺悔をした。


(どうか私にもう一度やり直すチャンスを下さい…!)


貴方や母の期待に沿える善い魔女にはなれないけれど。…………なれなかったけれど。


(私は私に優しくしてくれる人なら誰にでも身を委ねてしまう弱い人間だから。)

(例えそれが幼い頃より繰り返し教えられて来た善くないもの・・・・・・であっても。)

(でも私はお母さんが好きなの。………傍にいたい。)


流されてばかりで自分なんて何ひとつ存在しない、けれどもそれだけが胸を張って心で言える唯ひとつのものだったから。


(それだけは本当よ。……本当だったの。今となっては空虚な言葉!)



「あ、あのね……。「「お母さん」」



自分の声に重なったのは、硝子の鈴を転がすような嘘みたいに可憐な声だった。

ヨゼファはその方へゆっくりと顔を向けた。その間、目まぐるしい早さで頭が回転する。すぐにその可能性に思い当たり、けれどそれを認めたくなくて脳幹がビリビリと麻痺して引きつった。

然しながら視線の先、声の主の姿は嫌が応にも認められる。そうして身体の奥底から内臓を握りつぶすような痛みが湧き上がった。


(ああ…)


繊細な白いレースの襟のブラウスに、薄い水色のスカート。それが彼女が脚を動かす度にひらりと揺れる。


(年のほどは…よっつ、いつつほど。)


同じ色なのに、何故彼女の髪の灰色は鈍く感じないのだろう。淡い灰色の長い髪、前髪を目の上で切り揃えて。瞳の色は深い青色。透明な夜空と同じ色。


(私が、この家に寄り付かなくなった時期と一致する。)



「テレサ、お客様にちゃんとご挨拶なさい。」


母に命じられるままに、美しい少女の瞳はヨゼファのことを捉えて上品に愛想良く、愛らしい形を描いて。そして来客者へとお辞儀をする。


「初めまして。」


ヨゼファもそれに応じて挨拶を返す。…………初めまして。



(瓜二つだった…。)


(説明されなくても、彼女が何者かが分かってしまうほどに……。)



テレサは…ヨゼファの妹は…母の傍へと歩んでは抱き寄せられ、こそばゆそうに笑う。そうして母は彼女の耳元で何かをそっと囁いた。娘へと向けるマリアの笑顔は、やはり暖かい。



(そう……私は知ってるの。貴方の優しさと暖かさを。)


(ずっと見ていたもの。)


(どうして…私が好きな人は私のことを好きになってはくれないの……。)



「そう、良いお姉さんをしていたのね。偉いわ……」


母はテレサへと今一度笑顔を向けてから、ヨゼファへと呼びかける。

赤い唇から、自分の偽りの名前が穏やかな声で紡がれた。


「ベファーナ」


違うよ、私はベファーナでは無いんだよ。

強いて言うならば魔女のベファーナから真っ黒な炭を贈られてしまう、悪い子供なの。



「貴方にも見て欲しいの。……つい最近、一歳になったばかり。」


そして彼女はテレサがやって来たカーテンの向こうをヨゼファに見せる為に歩み、くすんだ桃色のそれを引く。そうして奥の部屋をこちらへと示した。

ヨゼファには何も出来ない。促されるまま、存在を預かり知らなかった可憐な妹に手を引かれて同じようにそこへと歩を進め、見下ろす。


「フランチェスカとアンジェリカ。………双子なの。可愛い可愛い、私の娘たちよ。」


白い産着には、テレサのスカートと同じように針の仕事の繊細なレース細工が施されている。

………ヨゼファにも、こんな時代があったのだ。この頃は清らかな赤ん坊が道を踏み外すとは誰も思わない。愛されて…大事にされて。



(それなのに何故、お前は道を踏み外した?)


(こんなにも愛されていながら)


(何故それに報いることが出来なかった………!?)




はあ、と息を吐いて額に掌を当てる。

すやすやと寝息を立てて眠る二人の赤子の傍、マリアは膝をついて慈しむようにその様を眺めた。テレサは甘えるように母へと寄り添う。

優しい家族の時間だった。ただただ…優しくて暖かい。そうして、美しい。



「…………貴方の娘は、ここにいる三人だけ?」

「そうよ、私の娘はこの三人以外にはいないわ。何故?」

「いいえ…。なんでもありません。」



瞳を閉じてから、ヨゼファはそっと微笑む。どんな時にでも笑っていられるように母に教育してもらったことを、今こそ感謝した。


(さようなら、私のお母さんママ・マリア。)


「ベファーナ。貴方には何か理由があるんだと私は察するわ。今、外がとても危険と知らない訳では無いでしょう。増してや夜と雨は闇の魔術の力を増幅させるわ。そんな中…たった一人で。」


マリアはヨゼファのことを青い瞳で見据えた。心から身を案じてもらっている。

曖昧に笑って答えを濁す。………その方が、この人が同情してくれることくらいは分かっていた。


「良かったらしばらくここにいなさい。こんな世の中だからテレサは外にも行けないわ、きっと話し相手が欲しいと思うの。」


ヨゼファはテレサのことをそっと見下ろす。妹は少しはにかんで笑った。応えて笑ってみせる。(きっと私たちは良い友達になれるわ。)と優しい気持ちになって。


「この子たちの友達になってあげて頂戴。」


マリアの要求に、ヨゼファは首を横に振って静かに応えた。………母の表情が訝しげなものへと変わる。

ヨゼファは少し首を傾げて、「もう、行かないと。」と小さな声で呟いた。


「ひとつ…貴方に伝えておきたいことがあります。貴方の居場所…この家が隠された場所は、あの方・・・へと既に伝わっています。」


ヨゼファが今の主人の存在を口にすると、彼女の顔からさっと血の気が引くのが分かった。

不肖の娘は困ったように笑い、母を落ち着かせる為に掌をヒラヒラと空中へと漂わす。


「そうして、守護者ガーディアンの存在も。隠れる場所を変え、守護者を二重にすることをお薦めします。そうすればもう少しの時間は稼げるでしょうから……。」


しかしマリアが落ち着くなど土台無理な話だ。

母親というものは往々にしてそういう生き物なのだ。子供を守る為ならば獅子にでも蛇にでもなれる。


「では、失礼します。」


ヨゼファが別れの挨拶を口にするのと、最強の闇祓いの抜かれた杖から白い閃光が放たれるのは同時だった。


「オゥ…」


ヨゼファ肩を竦め、掲げた指を鳴らして身体を黒い霧へと変える。


そうして万事が万事、皮肉な世の中だとつくづく思う。

ヨゼファには確かに魔法の才能が無かった。然しながら闇の魔術の才能はそれなりにあるらしい。正しく善いものへの憧れが捨て切れないままに、善くないものへとこれからも傾倒し続ける。



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