骨の在処は海の底 | ナノ
 初めての呼吸で

巻かれていた包帯をゆっくりと解き、外気に晒された自分の腕を見下ろす。

傷の方はもうほとんど治っていた。だが、闇の印は一定の期間が経過すると薬の効果が切れてこれである。

斑らに再び浮かび上がり始めたそれを暫し眺め、スネイプは溜め息を吐いた。非常に草臥れた気分である。


ヨゼファに指示された通りに、分け与えられた薬を刷毛でその箇所に引く。

まだ塞がり切っていない傷に沁みて、じくりと痛んだ。すぐに効果は表れ、黒く滲んだような闇の印は潮が引くように消えていく。


だが見えないだけで、ある。犯してしまった誤ちが無くなる訳ではない。


(……………………。)


隻眼の樹から精製されたという、濁った緑色の薬はもう瓶の底に僅かしか残っていない。彼女が言っていた目安よりも大分減りが早い。それほどに…神経質なまでに使用する頻度が高いのだろう。

ほとんど空の瓶を机の上へと戻す。その横の花瓶の中から深い緑色の茎がスルスルと生えていく。その上で白く丸い花が溢れるようにして膨らんだ。今日もどこか見知らぬ土地で、名前も知らない花は美しく咲いているようである。


良い加減に意地を張らずに、新しいものをもらいに行くか調剤の方法を聞かなければと思った。人が良過ぎる奴のことだ、どちらにしても快く了承してくれるだろう。しかし…スネイプは今ヨゼファとあまり顔を合わせたくなかった。

あの時・・・からもう数週間ほど経っている。それでも顔を付き合わされるのは躊躇われた。出来るだけ避けて過ごしていたと言っても良い。

理由を考えようと思ってやめた。考えても栓の無いことであるのは、この会わないでいた期間で充分に思い知っている。







用事も無い癖ヘラヘラ笑いながら話しかけて来る癖に、こちらが必要とする時に限ってヨゼファの姿が見当たらない。

そのことはスネイプを非常に不快な気持ちにさせた。

彼女の部屋に辿り着いて扉をノックをするが、シンとして人の気配は無い。それならば解錠して薬だけもらって行こうと鍵穴へと杖を構える。

勝手に入って良いものかと一瞬だけ思うが、毎度のこと自分の仕事場に断りもなく侵入して来る奴のことを苛立ちと共に思い出し、躊躇せずに呪文を唱える。

鍵はいとも簡単に下り、使い古され痛みが目立つ扉は静かに内側へと開いていく。


部屋は無人だった。大きく取られた窓から、灯が落とされて暗い室内へと薄い金色の光が斜めに差し込んでいる。空中に浮かぶ埃がその中で反射してさらさらと煌めいていた。


中へと足を踏み入れると、古ぼけた太陽の匂いが微かに香った。

壁一面を埋める顔彩棚は所々歯抜けになっている。恐らく、あの時に割れてしまったものをまだ補充していないのだろう。

大きな机があって、椅子がある。その横のカルトンには製図最中の魔法陣が大きな羊皮紙に描かれて留められている。

今は誰も腰掛けていない椅子の背もたれに掌を置き、少しの間瞼を下ろして彼女の部屋の空気に感じ入った。


瞳を開くと机上が視界に入って来る。様々な資料と黴が生えてそうな古い製図道具、そしてカラフルなセロハンに包まれた安っぽい菓子…に混ざって、新聞が無造作に放り出されている。

手に取って眺めると、それこそヨゼファと自分が最後に顔を合わせた数週間前の日付の朝刊だった。

丁度開かれていた見出しには、整った顔の魔女が…これもまた美しい部類の…若い魔女の肩を抱いて写し出されている。彼女たちは愛想よくこちらへと手を振り、時々互いの顔を見合わせては仲睦まじげに笑った。


« ソフィア・バラ マーリン勲章2等授与される 闇払いとしての受賞は最年少 »

« 師である マリア・チェンヴァレン氏 『私の娘 私の誇りです』 喜び語る»


モノクロームの文字列とそこに浮かび上がる写真は金色の光に照らされ、静かに輝いていた。

少しの間スネイプは美しい魔女二人の顔を見下ろしていたが、やがて新聞を畳み直し傍にあった屑篭へと放った。


「ヨゼファ」


そして部屋の奥…更に向こう、恐らくヨゼファの私室へと繋がる扉へと声をかける。


「………いないのか。」


全くの無反応であった。

何故かスネイプは焦れた。あれほどに『何かあったらいつでも呼んでくださいね。』と頼んでもいないのに抜かしていた癖に。今。……よりによって今、いないのか。

杖を取り出して、ヨゼファの私室の扉へとゆっくりと歩みを進める。

流石に躊躇した。彼女すらも自分からやって来たのは作業場及び教室までだ。

……逡巡の後、そっと鍵穴近くへと杖をかざした。


「いくら仲が良いとはいえ、私室を勝手に解錠してしまうのは褒められたものでは無い。その上…儂の勘違いで無ければヨゼファは女性だった筈だが。」


背後から聞き慣れた声で言葉をかけられ、スネイプは深く溜め息をした。そして杖を収め、「何かご用ですか」と端的にダンブルドアへと質問した。


「ヨゼファから言付かっていたものが。」


彼はスネイプが求める緑色の液体が収まった瓶を「君へ、」と言っては掌中で少し持ち上げ見せてくる。


「儂は直接渡せば良いと思ったんじゃがのう…」


ダンブルドアはおかしそうに笑っては、陽光の中へとそれをかざして眩しそうに目を細めた。

光に照らされた薬は濁った緑色からエメラルドへと変化していく。その様を、スネイプもまた暫し眺める。そうして「本来なら、必要はないのでしょうが。」と呟いた。

ダンブルドアは少し訝しげにこちらへと視線を移す。


「こんなものは子供騙しです。ただの逃避でしかない。」

「だがその逃避を求めて、君はヨゼファの部屋…彼女の元に来た。」


指摘され、スネイプは黙った。そして視線を下ろして痛んだ床板を眺める。


「セブルス…君はその生真面目さ故にいつでも0か1かで考え過ぎる。逃避でも良いではないか、大切なのは歩みを止めないでいることだよ。」


ダンブルドアは穏やかに述べ、波の畝りに似たカットが斜めに入った瓶を手渡して来る。

受け取るとガラス瓶は重く、冷たかった。


「…………チェンヴァレンはどこに。」


それを見下ろしながら、呟く。ダンブルドアは間髪入れずに「チェンヴァレン先生・・じゃ。」と返した。


「ヨゼファは今所要で出かけておる。ちょうど一週間経ったから…そうじゃの、帰って来るまでは後ひと月ほどある。」

「ひと月以上の外出?良いご身分ですな、木っ端教師の分際…失礼、」


発言の最中にダンブルドアからじっと見据えられるので、スネイプ言わんとしていた言葉を飲み込む。

そうして老齢の魔法使いは少し肩を竦めては「仕事のひとつじゃよ、ボーバトンに臨時講師に行かれておる。」といとも簡単に応えてみせた。


「ボーバトン魔法アカデミー…フランスに?」

「左様。……最近徐々に魔法陣の可能性も見直されるようになってのう…ヨゼファは成人した魔女としては稀有な魔法陣の才能の持ち主じゃ。人気講師なんじゃよ、人当たりも良いからに。」


そこまで一口に言って、ダンブルドアは言葉を切った。スネイプは今一度掌中のガラス瓶、それから彼女の部屋の中へと視線を巡らせた。当たり前だが、自分たち二人以外に人の気配は無い。


「………………。儂は今から定時連絡を兼ねてヨゼファと交信するつもりでいるが…。」


用事があるなら、君もどうだ。


彼女独特の規則性に乏しい魔法陣の上に視線を留めていたスネイプへと、ダンブルドアは言葉をかける。彼はそれには応えず、ただ掌中のガラス瓶を握る力を強くした。







『すみません校長先生、何分こちら女子校なので規制が厳しくて。音声のみでも構いませんか。』


久々に聞いたヨゼファの声はいつもと全く変わらず、気が抜けた発泡酒のように間抜けだった。

校長室に置かれていたダンブルドアの謎の私物のうちひとつ…薄い銀盤の上に施された魔法陣は彼女の音声が運ばれてくる度に淡く光り、小さな煌めきをさざ波のように空中へと舞い上げる。


「何、構わんよ。調子はどうだね。」

『勿論好調ですよ。ボーバトンの生徒は皆勉強熱心なのでこちらとしても非常にやりやすいです。』

「マクシーム先生もお元気かね。」

『ええ、とても。次の週末はオリンペの馬車に乗せてもらって南仏の方まで行く予定なんですよ…っと。これじゃあ遊びに来てるみたいですね。すみません、仕事の方のご報告を。』


「オリンペ?」


会話の最中不意に出された名前を訝しげに思い、スネイプは呟いた。

ダンブルドアはそんな彼の方へチラ、と目配せをして「マクシーム校長先生のファーストネームじゃよ。」と端的に答えた。


「他校とは言え校長の名を?随分と慣れ慣れしい。……流石はチェンヴァレン先生だ。」

「ヨゼファはよく向こうに呼ばれるからのう。彼女とも非常に懇意なんじゃよ。」


『あれ、スネイプ先生も傍にいるんですか?』


二人の会話が聞こえたのかヨゼファが訪ねてくる。スネイプは口を噤むが、やがて「………そうだ。」とだけ低く応えた。


『ああ、そうだったんですか。調子はどうですかその後。薬は足りています?』


自分の存在を認めたヨゼファの声は心なしか柔らかくなった。

彼女の問いには「足りなかったようじゃからの。渡しておいてやったぞ。」とダンブルドアが答えている。


『そう、なら良かった。』


ヨゼファが銀盤の向こう…海を越えた異国のどこかで笑ったのが分かった。……最も常にだらしなく笑っているような奴ではあるのだが。


「聞いていない。」


自然と言葉が口をついた。ダンブルドアが顔を上げては彼の方を眺める。


「ひと月も外国に行くなど。」


構わずに言葉を続けた。………そして三人は暫し沈黙するが、やがてヨゼファが申し訳なさそうな声で謝罪してくる。


『すみません、急に決まってしまって…。スネイプ先生の体調のことも心配だったので連絡しようとは思っていたんですが、この数週間…中々タイミングが合わなくて。』

「セブルス、ヨゼファが恋しいのか。」

『スネイプ先生が私を恋しく?それは嬉しいですね。』


あはは、と彼女が明るい声を上げて笑った。それから気を取り直すように、『まあ冗談はさておき…』と言葉を続ける。


『ダンブルドア先生、こちらの生徒を受け持ってみても分かりました。魔法陣は子供だけのものではありません。というよりは、大人になってから扱う魔法陣は子供のそれとは別物と考えたほうが良いのかもしれませんね。』

「なるほど。」

『先生のご推察通り、ある条件下…規則に則る場合…年齢に関係なく扱えます。』

「結構、これからもう少し統計立ててこの魔法を考えた方が良さそうじゃの。」

『はい、しかしやはり年を取れば取るほどにハートの力が弱くなります。一定の水準までは知識として魔法陣を読み込むことは誰でも可能でしょうが…』

「その先は……」

『先生のお考えのままですよ。やはりこの魔法の軸を言語立てて説明することはとても難しい。』


ふう、とヨゼファは息を吐く。

ダンブルドアは「それだけで充分じゃよ、ヨゼファ。ありがとう。」と彼女へと労いの言葉をかけた。


『とんでもないですよ先生、お役に立てるなら光栄です。……さて、今回のお土産ですが。またラデュレのマカロンで良いですか?それともダ・ローザのラムレーズンチョコレート?』

「実に悩ましい相談をされる。」

『両方でも良いですよ。』

「では頼むとするかのう。よろしく。」

『そしてスネイプ先生には…エッフェル塔のオブジェでも買っておきますね。』

「……………。絶妙に激しくいらないものをチョイスしますな。そのセンスはやはり芸術的と言うか…。」


スネイプが呆れ返って言葉を零すと、ヨゼファは小さく…けれど楽しそうに笑った。何故かそれを懐かしく思う。高々数週間顔を合わせていないだけだと言うのに。


『嘘ですよ、オヴリオンのヴァン・ブロンはいかが。』

「ヴァン・ルージュは無いのか。」

『勿論ありますよ。良いのを探しておきますね。』


彼女の声の背景で、フランス語独特の抜けるような発音が聞こえてくる。

ヨゼファはそれに二言三言応対してから、『それではまた、失礼しますね。』と会話の終了を挨拶で告げた。


ダンブルドもそれに対して別れを告げると、銀盤の上を舞い散っていた煌きは止み光も失せる。

老年の魔法使いはその上へと節くれだった指を滑らせ、穏やかな表情で「ひと月とは言え…中々寂しいものだな。」とポツリと呟く。

その静かな言葉が妙にスネイプの心に堪えた。

声を聞かなければ良かったと後悔する。心中は焦れて、不安になるばかりだった。







はあ、と一日の仕事を一通り終えたヨゼファは溜め息をした。

用意された客員教授用の部屋は実に綺麗に清められており、古い造りの私室に慣れていた彼女は些か落ち着かない気持ちになる。


(…………………。)


ヨゼファはちら、とこのボーバトンでの自分のタイムスケジュールを眺める。


(明日は夕方のコマしか無いわね………)


授業内容も今日受け持った別のクラスと同じものなので、特に準備も必要ない。

そのまま彼女は視線を…昼頃にホグワーツとの通信に利用していた銀盤の上へ移動する。

無言で歩み寄り、指先で触れた。何回がそっと繰り返して。


暫し思考を巡らせた後、彼女は先程までの緩慢な動作が嘘のように素早くその場から歩き出し、部屋を後にした。


* * *


Bonsoirボンソワール ,mousieurムシュー.」


ヨゼファがニコリと笑って挨拶すると、箒番の男は雑誌を読んでいた顔を上げて愛想良く挨拶を返す。


「ちょっと失礼します。箒を一本貸して頂けません?」

「チェンヴァレン先生の頼みでしたら喜んで。いつまで必要ですか?」

「明日の夕方くらいまでかな。」

「そう言わずにここでの滞在期間ずっと持っていて良いですよ。」

「いいえ、移動には大体自分の魔法を使うので。今夜だけで大丈夫ですよ。」

「今夜はどうしてまた箒を?夜景でも見に行くんですか。」


男はヨゼファの為に箒を選りすぐってやりながら質問する。

彼女は少し考えてから、困ったような笑顔を浮かべた。


「魔法陣で移動したい気持ちは山々なんだけれど。でもあんまりに許可なく部屋に入っちゃうのも良くないわよね。」


そう言いながら、ヨゼファは男から飴色の柄を持つ箒を受け取った。そして代わりにカラフルなセロハンに包まれたチョコレートを三つほど謝礼とともに渡す。


「Alors monsieur, bonne nuit.」

「Oui, et vous aussi.」


軽い夜の挨拶を交わし、ヨゼファは深々と冷え込むフランスの夜へと箒でそっと上昇していく。

安定を保って進める高度まで達すると、彼女はふう、とひとつ息を吐いた。


「やれやれ……」

口からは自然と声が漏れる。


「夜で渋滞は無いとは言え国境もあるのよ…一体片道何時間かかるのかしら……」


そうぼやいては、ヨゼファは箒のスピードを徐々に上げて行く。

冷たい風が頬を過ぎり、彼女の短い髪を強く揺らした。月との距離も近く、炉の中の錫に似た白い星が激しく光ってすぐ傍を通り過ぎていく。

そして雲が割れて視界が開ける。眼下には不夜の都パリが広がっている。街灯は青白い凱旋門から放射状に伸びる道路に即して等間隔に火を灯し、その間を狂った火花のような自動車が次から次へと走り抜けていく。

ヨゼファは冷た過ぎる夜の風を肌に感じ、それに煽られる髪をそっと抑えた。


「ああ、流石はd'amourの国。なんてロマンスがあるんでしょう。」


そうして呟き、静かに目を細めた。



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