骨の在処は海の底 | ナノ
 航海

 スネイプとのピアノのコンサートから翌日…朝の浴室。ヨゼファはバスタブの淵に頭を預けてぼんやりと中空を見つめていた。

 明るい光が窓から差し込んでくる。小禽類が可愛らしいさえずりを上げた。


 ヨゼファは夢からさめたように立ち上がった。


 バスタオルで身体から水分を除き、頭からストンと被った古びたローブの塵を丁寧にはたいた。

 注意して服装をあらため、首元までボタンをしっかりとかける。死に赴くためのような、生に赴くためのような、自分にも分らない感覚であった。

 ヨゼファはしっかりした足取りを意識した。決めたら行動が早いのは昔からである。


 青白い雪の降りつもっている、昨晩ふたりで手を繋いで歩いた帰路…その静かな景色の中で、ヨゼファはひとつの真理をつかんだ。物言うことのできない、永遠に永遠にうら悲しげでかけがえのない真理に至ったのだ。


「私の、美しいものと、善いもの……」


 呟いて、ヨゼファは暖炉にフルパウダーを放り込む。舞い上がる灰の中に身を任せて行き先をはっきりと告げれば、もうすぐスピナーズ・エンドへとたどり着くのだろう。

 きりもみになりながら、ヨゼファの胸の内はやっぱり痛かった。

 今更彼の気持ちに応えることが、これまで舐め尽くした辛苦を無下にしてしまうようで複雑だったのかもしれない。つくづく自分は面倒でややこしい人間だと、うんざりする気持ちになった。



(でもやっぱり私は正直ものよ。自分に嘘はつかないわ。)


(今の世の中、正直とは馬鹿という意味だとばかりに笑われもするでしょう。)


(でも笑われても私は、笑うものより幸福であるといつも思っている。)


(あの人の気持ちを疑うまい。信じよう。だまされても、信じよう。)





 早朝の寝室に突然現れた彼女の姿に、スネイプはもちろんのこと驚いていた。ヨゼファは「おはよう」と笑いかけ、上半身だけ跳ね起きさせた彼の傍…ベッドの上へと腰掛ける。

 無意識のうちか、スネイプはヨゼファを捕まえるように腕を掴んでいた。いじらしいその仕草に、彼女の笑みに少しの苦いものが混ざった。


「ねえセブルス…。まだ、私と結婚したいだなんて思っているの。」


 ……唐突な問いにスネイプは訝しげな表情になりながらも、はっきりとした口調で応じた。


「今更発言を覆すつもりはない。」


 スネイプは掴んだヨゼファの手を引いて身体を引き寄せようとするが、彼女は力に従って動こうとはしなかった。

 少しの沈黙の後、ヨゼファは唇を開く。いつの間にか表情に笑顔が消えているのが自分でも分かった。声もまた、少し震えている。


「どうして、今更。」

「………わからない。」


 スネイプの答えは要領を得たものではなかった。しかし自らの瞳をまっすぐに見つめる黒い虹彩からヨゼファは視線をそらすことができずに、そのままでまた少しの時間が過ぎる。


「だが…ヨゼファ。私は、不幸にも、不幸に酔っ払うことにも疲れたんだ。もう、幸せになりたいと思う……。」


 スネイプはヨゼファの柔らかい髪を耳の後ろに流し、晒された醜形の顔の上に口付けを落とす。


「私の幸せに、君が必要だ。」


 晒された顔に、窓から差し込む朝日を浴びてヨゼファは弱く深呼吸した。眉を下げて、項垂れる。


「プロポーズを、受けさせてちょうだい…。」


 情けない声でそれだけ言って、首を横に振った。肩を抱かれるので、今度は素直に従って彼の胸の中に身体を預ける。


(ただ一番の善いものと美しいものにに至るために、たくさんの苦しみも悲しみもみんなみんな、)

(きっと、)

(無駄ではなかったのかもしれない………)




 朝陽はうららかに重なった二人の輪郭に差し、スネイプの狭い寝室は金色に燃えるように光っていた。

 朝露を含んだ光線が、色あせた本が詰まった書棚だとか、黒ずんだ窓枠に、金色の波紋を描いてふるえている。

 ベッドの上で二人はしばらくただただものも言わず、お互いを抱いて座っているばかりであった。







 先日、ヨゼファが朝にスピナーズ・エンドにやってきた時は珍しく天気の良い日だったのだろう。次の日にはまたすぐにイギリスの冬独特のどんよりとした天気に戻り、それからは雪と霙、雨の繰り返しであった。


 ヨゼファがフランスに旅立つ日はすぐにやってきた。その日もいつものようにどんよりとした天気で、外へ出ると、なまねの身体にゾクッと寒さが来た。

 霧雨は上っていたが、道を歩くとジュクジュクと泥に靴がうずまった。空は暗くて見る気にならない。しかし頭を抑えられているように低かった。何かの拍子に、雨に濡れた街路樹の枝がチラチラッと鈍く光る。

 先の大戦で魔法交通網もいくらか破壊されていたので、今回のヨゼファの移動はマグルたちとともに列車と船をいくつか乗り継いで行うことになった。闇の陣営についていた彼女は今でも魔法界の評判が芳しくなかったこともあり、人目を避けるためむしろ好都合だと本人は言っていた。


 まだ陽が昇りきらない道を黒い影法師のようにするすると歩いていくヨゼファの一歩後ろを、スネイプは押し黙って見送りにつき従った。

 ヨゼファの腕を取り、大して中身も入ってなさそうなトランクを渡すように促した。素直に従った彼女からカバンを受け取り、隣へと一歩前へ出る。そうしてふたりは並んで歩いた。


 人や車が幻影のように現われては幻影のように朝の霧のうちに消えてゆく。

 スネイプはこんな人通りが多い大路を歩くのは久しぶりだった。駅に向かうために霧につつまれて歩く人を見るとみんな、何か楽しい思いにふけっているか、悲しい思いに沈んでいるかしているようで、彼もまた何とはなしに夢心地になって歩いた。



 キングス・クロス駅から列車に乗るという経験を、スネイプはホグワーツ特急でしか経験したことがなかった。駅に到着し、大勢の人間がもみ合う光景を眺めながら、魔法の手段を持たないマグルたちはつくづく不便な生活を強いられているものだ、と大した感慨を抱かずに考える。

 売店で新聞を買い求めたらしいヨゼファが戻ってきた。「ほら、いつ見ても止まってる写真って面白いわ」と彼女は楽しげにマグルの新聞を見せてくる。

「新聞だけで良いのか」

「なにが?」

「買うものは」

「新聞以外に何か必要なものがある?」

 逆に質問を返されてしまったスネイプは黙り込む。少し考え込んでから、待っていろと言っては早足でヨゼファが元来た道を往く。つまり、売店へと。

 店頭に並ぶ雑誌や駄菓子、土産物、飲み物などなどを、彼はぐるりと一通り睨みわたす。店員は彼の険しい表情に気圧されたらしく、声をかけられる頃にはすっかり顔色を青くしてしまっていた。



「マグルの食べもののことはよく分からない。」

 ヨゼファの元に戻ったスネイプは開口一番それだけ言い放ち、手中にあったご機嫌な柄の買い物袋を彼女へと寄越した。

 丸々と膨らんだそれをきょとんとした表情で覗き込んだヨゼファは菓子の山を認めて大体の状況を理解したらしく、和やかな表情で礼を述べる。


「どこのものでも甘いものは美味しいから、平気よ。」

「…………どこのものでも。」

「この前食べさせた中東菓子バクラヴァのことまだ根に持ってるのね。あのガッツのある甘さが良いのに。」

「二度と食べさせるな、新手の頭痛毒だ」

「それにしてもずいぶんたくさん買ったわね…。」

「…………。好きだと思ったから…」


 ヨゼファはご機嫌な柄の袋を大事そうに鞄へとしまいこみながら、スネイプの言葉に耳を傾ける。彼は自分の声が小さくなっているのに気が付いていた。しどろもどろになりながらも、続ける。


「君が、好きだと思ったから……甘いものは、」

 スネイプの言葉に、ヨゼファは笑みを心底嬉しそうにした。

「好きよ。どうもありがとう。」

「あとは、そうだ。誕生日……。」

「うん?」

「ヨゼファの誕生日がいつなのか、知らない。こんなに長い間一緒にいるのに…知らないんだ、私は。聞かなかったから……。」


 ヨゼファはスネイプの質問には応えず、頷いてただ相槌をした。姉のように彼の黒いマフラーを蒔き直してやり、残された右目を軽く伏せて駅の石床を見やる。


「そう、だから、これを今まで分の誕生日プレゼントにしてくれるの?」

「違う。そういうわけではない…もっと、、、駅で買えるものは限られているが、なにか…ないだろうか。」


 スネイプの覚束ない台詞を、ヨゼファはひとつずつ丁寧に聞き取るようだった。


「一年後に……帰って来たら、教えるわ。」


 そしてぽつりと呟く。


「今までの分はいらないわ。たくさんもらってるもの、もう…」


 胸がいっぱいになるくらい


 スネイプの手を引いて、ヨゼファは歩き出した。ざわざわと人が往来する巨大な駅は、あっという間にふたりを飲み込んでいく。

 途中、花売りの少女がヨゼファの袖を引く。彼女は自然な動作で膝を折って少女に目線を合わせ、慎ましい花束を買い取った。



「向こうに着いたら手紙を書くわね。」


 先ほど購入した白い花束の連なりをひとつ解き、ヨゼファは小さな輪をこさえながら言う。

 列車はもうホームへと到着していた。重たい空からは雨が垂れ、黒い車両を濡らしている。

 彼女はスネイプに礼を言って荷物を受け取り、交換とでも言うように、花輪と言うにはささやかすぎるものを渡してくる。

 スネイプがちょこんと掌に乗ったそれを訝しげに見下ろすと、彼女は可笑しそうに左手の薬指を示す。


「予約」


 一言述べて、白い小さな花の輪を彼の色の悪い指へと通していく。

 顔を見合わせ、少しの間二人は互いを見つめ合う。やがてヨゼファは口元に手を当ててくすぐったそうな笑みをした。


 降り注ぐ雨が列車を叩く音が背景に鳴っている。ふと、雲間が割れて一筋の光がさした。雨がひととききらびやかに眩しく輝く。

 雨の向こうで太陽が薄い緑色のくまをとって真っ白に光った。輝く雨はダイヤモンドに似て、それぞれが小さな虹をあげては青い燐光を落としていく。

 その様をヨゼファはホームの屋根の下から目を細めて見上げ、しばらく眺めていた。そしてスネイプに向き直った彼女は、


「私のことを待っていて。」


 思い切った声で言った。


「セブルス、どうか私のことを待っていて。お願い。」


 スネイプはただ、待っていると応えた。

 すると真っ青なヨゼファの瞳の中鮮やかに見えた彼の姿がぼうっと崩れてきた。

 静かな水が動いて写る影を乱したように流れ出したと思ったら、彼女の眼がぱちりと閉じた。-----長いまつ毛の間から、涙が頬へ垂れた。


「貴方が待っていてくれるなら、私、必ず帰ってくるわ。」


 発車が間も無くであることを伝える放送が割れた音で鳴っている。列車の中へと向かうヨゼファの背中に「手紙を」とスネイプは声をかけた。


「必ず…手紙を書いてくれ。約束通りに。」


 彼女は振り向き、返事の代わりにいつもと同じように穏やかな笑みを浮かべた。


 ---------混雑また混雑、群衆また群衆、行く人送る人の心が皆さまざまな模様を描き、天井に響く物音が更に旅客の胸に反響する。悲哀かなしみ喜悦よろこびと好奇心とが駅のいたるところに巴渦うずを巻いていた。



 列車がヨゼファをスネイプの前から、イギリスこの国から連れ去ってしまった後も、彼は人が疎らとなった駅のホームに留まっていた。

草臥れてペンキがところどころ禿げたベンチの上に座り込み、雲間からさし始めた陽の光に照らされた線路をぼんやりと見つめていた。


「旦那さま」


 声をかけられるので、視線だけその方へ向けた。先ほどとは別の花売りの少女がこちらを覗き込み、「お花はいかがでしょうか」と尋ねてくる。

 無言で1シックル硬貨を彼女に渡すと、笑顔があどけない少女は「見たことのないお金!外国の方ですね」と無邪気に言う。紫色の清楚な花束をスネイプに渡して彼女は去っていった。


「旦那さまに神様の祝福がありますように!」


 と言い残して。


 掌中の花束と、それを握る自分の色の悪い指、そして薬指に留まるささやかな婚約指輪を彼は見下ろした。

 自然と涙が眼の奥から溢れ出して頬を伝い、顎から膝へと垂れていく。


「なぜいつも……君は…私の前からいなくな、って、、、、」


 
「貴方が待っていてくれるなら、私、必ず帰ってくるわ。」



 喉の奥で引きつったような音が鳴って、スネイプは思わず喘いだ。かぶりを横に振って、噛みしめるようにヨゼファが残した言葉を胸の内で繰り返した。


 陽が差しているとはいえ、イギリスの冬は徹底的に冬だった。ベンチの上にじっとうずくまっていれば、容赦無く冷たい空気が身体の芯を蝕んでいく。すべての生命が不可能の少し手前まで追いこめられる程の冬だった。

 だが、それが春に変わるといっときに春になる。草のなかったところに青い草が生える。花のなかったところにあらん限りの花が開く。人は言葉通りに新たに甦ってくる。


 紫色の薄い花弁で形作られた貧相な花束を握りしめて、彼は嗚咽した。


 もう決して寂しくはなかった。ヨゼファは帰ってくる。約束したのだ。

 だが何度寂しくないと思ったところでまた寂しくなることもまた分かりきっていた。けれどもこれではそれで良い。

 寂しさ、悲しさ、苦しさとが、そのまま彼女との思い出の姿だった。すべての痛みを抱いて、人生は続いていく…。







Bonsoirボンソワール, Madameマダム.」


 うたた寝をしていたヨゼファは声をかけられて目を覚ました。

 船から乗り継いだ先の列車の中は英語よりもフランス語の方が聞こえるようになってきて、フランスとの国境が近いことを彼女へと伝えていた。

 顔に目立つ傷があるヨゼファを気味悪がってか、ここでも彼女の周りに人は少なかった。声をかけてきた車掌もまた不審そうにその顔をジロジロと見ながら、「国境を越えますので、旅券と持ち物の検査を」と無愛想に言い放つ。

 ヨゼファは自らのボロボロのトランクを開くと、そのスペースのほとんどは丸々としたご機嫌な柄の袋で占められていた。


「………なんですか、これは」

「お菓子です。」


 ヨゼファは愛想よく質問に答え、袋の口を開き中身を車掌へと見せる。


「私、甘いものが大好きなので。おひとついかがです?」


 彼女は笑顔で、クッキーの袋をひとつ差し出した。



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