◎ マテリア
『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』クリスマス時間軸何かが震えるような低い音が鳴っている。それは微かだったが、しめやかな夜に満たされた室内ではよくよく聞き取ることが出来た。
それを非常に馴染み深いものとして覚えていたハリーは、シリウスとの会話を一時中断させて「ヨゼファ先生だ…!」と彼に囁く。
勿論シリウスも承知していたようで、「………あの馬鹿、」と小さく呟いた。「良い加減扉とドアの存在がどういうものかを学んで欲しいものだ。」と唸るように続けて。
予想した通りに白い唐草が描く流線形が、ブラック家の一角を埋めていた家系図の樹を上書きするように壁面へと走っていく。
畝って円を描き中心に一度強く収束した後、そこには真っ黒な穴が開いた。
…………目の前に人がいたことはヨゼファにとってやや予想外だったらしい。ハリーとシリウスの二人を認めては「オゥ、」と小さく声を上げる。
しかしすぐに気を取り直したように悪戯っぽく笑い、「メリークリスマス、サンタクロースですよ。」と自分の頭の上に乗っている赤いサンタ帽を軽く被り直して陣を跨ぎ、部屋へと足を踏み入れてくる。
ハリーの隣のシリウスが「また馬鹿なことをやってるな…」と彼女に聞こえないくらいの声量で零した。
「ヨゼファ先生!」
クリスマス休暇に入って高々一週間強ほどである。しかし無性に彼女の姿が懐かしく思え、ハリーは喜びを隠さずにその名前を呼んだ。
「ハリー。」
彼女もまたそれに応えて笑顔で大きく両腕を広げる。
しっかりと抱擁を交わした後、ごく間近で視線を交える。ヨゼファはゆっくりと瞬きをした後、「…………気付かなかったけれど、随分背が伸びたのね。」と呟いた。
「わざわざ来てくれたの?学校から。」
早速自分の懐をゴソゴソと弄っている彼女に声をかけると、ヨゼファは少し肩を竦めては「わざわざってほどじゃないわよ。移動はすぐだもの。」と愛想良く言った。
「魔法陣…。そうか、これなら煙突飛行ネットワークが魔法省に張られていても移動可能だ。」
ハリーが呟くと、ヨゼファはひとつ溜め息を吐いては首を横に振る。
「魔法陣も時間の問題よ。未知だったこの魔法も最近十年くらいで統計立てて整理がなされてしまったわ。」
「だが所詮奴らが知っているのは知識としての魔法陣だ。本質を理解しているわけでは無い。」
シリウスが会話に加わる。ヨゼファが弱々しく微笑むので、彼はそれに応じて頷いた。「君の魔法だ。」と付け加えて。
「ありがとう、シリウス。」
礼を述べた彼女はどういう訳か少し消耗しているようだった。いつも雰囲気が草臥れているので、これも気の所為かもしれないが。
「さ、ハリー。クリスマスおめでとう。」
仕切り直すように明るい声で述べてから、ヨゼファは黒いローブの懐から白色の袋を取り出してハリーへと渡す。
薄紙に水色のリボンで装飾された袋を受け取ると、ふわりと軽い。ヨゼファからのクリスマスプレゼントは毎年そうだった。中身は食べるものか消耗してしまうもの。形に残るものは贈ってくれない。
「…いつも、ありがとうございます。先生。」
それでもハリーは嬉しいと思う。彼女は自分がホグワーツに入学した年から毎年欠かさずにクリスマスの贈りものをくれた。……最もそれは休暇で学校に残っている生徒たち全て、に対してもそうだったが。
だが今回は学校では無い。真実に自分に渡しに来てくれたのだろう。
「毎年クリスマスはプレゼントをあげるって約束したもの、お安い御用よ。」
ヨゼファは親指をピッと立てては嬉しそうに応えた。
「ハリー、時間よ。………ってあれ…ヨゼファ先生。」
ドアから顔を出したハーマイオニーがヨゼファの姿を認めて少し驚いたらしい声を上げる。
ヨゼファはここぞとばかりに「ヨゼファ?そんな美女のことは知らないわ。私はサンタクロースよ。」と至極楽しそうに…毎年彼女の定番となっている…冗談で応える。
「ヨゼファ先生、来るならもっと早くに来るか連絡するかして下さい。後少し時間が早ければウィーズリーおじさんの退院祝いとクリスマスパーティーに間に合ったのに!」
しかしハーマイオニーはヨゼファの発言を普通に無視して話を続ける。
ヨゼファは後頭部をワシワシとかいてから「ごめんね、ちょっと忙しくて…」と罰が悪そうに謝る。「あいつ本当にちゃんと教師出来てるのか?」とシリウスが小声で耳打ちして来るので、ハリーは思わず吹き出してしまった。
「何はともあれハーマイオニーもクリスマスおめでとう。プレゼントよ。」
ハーマイオニーにはピシリと硬い紙で包装された四角い包みが渡される。光沢があって、やはり水色のリボンがきちんと結ばれた。
彼女はそれを受け取りながら、「そういえばヨゼファ先生からのクリスマスプレゼントは久しぶり。」と表情を柔らかくして言った。
「私クリスマスは家に帰っちゃうことが多いから。休暇明けに皆から話を聞いて、良いなあってよく思ってたの。」
「卒業までにあと一回くらい残ってご覧なさい。クリスマスの夜を友達と一緒に過ごすのは楽しいものよね。」
メリークリスマス。
ヨゼファは少し屈んでハーマイオニーの頭を軽く撫でた。
「
騎士団本部にいる他の子たちの分よ。まだ時間に余裕があったら渡しておいてもらってもいいかしら。」
そして自分の黒いローブの懐から…明らかにそこに収まる許容値を超えた…袋をずるりと取り出し、ハーマイオニーに渡す。彼女は一応それを受け取るが、「時間はありますけれど、先生が渡したら良いんじゃ無いですか。」と応えた。
「サンタは正体不明なものだから。直接渡さない方がロマンがあるわよ。」
「正体不明?バレてないと
本気で思ってるんですか??」
ハーマイオニーは信じられないという顔でヨゼファの言葉を一蹴するが、やがて軽く溜め息を吐く。それから「分かりました、渡しておきますよ。」とその頼みを聞き入れた。
「ありがとう、ハーマイオニー。また学校でね。」
「先生。年が明けたらサンプルボーンの描き方を角度とミリでちゃんと教えてくださいよ。何度も言ってるのに。」
「もう充分貴方は描けてるわよ…。そんなに教えることはないわ。」
「いいえ、何度やっても魔法陣の効果にムラがあるんです。私そういうのすごくイライラするの。」
「そ、そう………。」
ハーマイオニーに続いてハリーも歩き出すが、部屋から出る前…この居心地の良い場所を去る前にもう一度シリウスとヨゼファの顔を見ておこうと思い振り返る。
二人はそれに笑顔で応えてくれた。ヨゼファが掌を振ってくれるので、ハリーはそれへと小さく振り返して部屋を後にした。
*
「………それにしても。」
シリウスと二人残された室内で、ヨゼファは繁々と壁面に描かれた家系図の樹木を眺めた。
「あんまり趣味良くないインテリアね。」
そして今更とも言える一言。シリウスは「全くだ。」と明るく笑って応えた。
「もう少し明るい色の方が良いと思うんだけれど。壁に星型のラメシートとか貼ってみたら華やかになるかしら。」
「ラメシート?」
「マグルのものよ。光の角度に反射してキラキラ光る薄いビニール。きっと部屋がディスコみたいになって楽しくなるわ。やってあげましょうか?」
「そうか……。クリーチャーがどうにかなってしまいそうだから遠慮しておくよ。」
「そう、残念。」
ヨゼファは肩を竦めては楽しそうにする。シリウスもまた心弱く微笑むが、やがて堪え切れずに声を上げて笑ってしまった。
「でも………」
シリウスは壁面…焼け焦げて原型を留めない自分の顔にそっと指を滑らせてから、「……全部が終わったら、ハリーと一緒に暮らす約束をしている。」と言葉を続けた。
「その時は、私たちの家にラメシートを貼りに来てくれ。」
「お安いご用よ。どこに貼りましょうか?トイレとかが良いかな。」
「いや…トイレは……。ちょっと落ち着かなさそうだ。」
「それもそうね。」
壁面をなぞっていたシリウスの指先…そして掌を握り、ヨゼファは彼の方を見上げた。その中へと小さな白い布袋を握らせてくる。口が細い水色のリボンで丁寧に結われているのが印象的だった。
「メリークリスマス、シリウス。ハリーと一緒に暮らすようになったら……その時はあの子にとってのサンタは貴方ね。」
私はお役御免になっちゃうわ。と呟きながらヨゼファは掌を離した。
しかしシリウスはそこを握り返して離れていくのを留める。暫時二人は見つめ合うが、やがて彼が口を開いた。
「いや………。その時が来ても、ハリーにとってのサンタはヨゼファでいて欲しい。毎年クリスマス…いやクリスマスとは言わず…私の息子に会いに来てやってくれ。」
ゆっくりと言うと、ヨゼファは少し戸惑ったようだった。数回瞬きしてはこちらを見つめ返して来る。
彼女の瞳から暫時目をそらしてから、「……ハリーから話は聞いている。」と小さな声で続けた。
「とても良い先生だったようだ。ハリーに優しくしてくれて、どうもありがとう。」
ヨゼファは彼の言葉に応えて、こそばゆそうに微笑んだ。そして「どういたしまして。」穏やかな応えがなされる。
「ハリーは不思議な子よね…。いつもいつもすごく大きな困難に見舞われるのにそれを必ず乗り越えてみせる。それなのにちっとも威張らないの。力になりたい…幸せになって欲しいって人に思わせる力があるんだわ。私もそうよ、気を抜くと依怙贔屓しちゃいそうになる。良くない先生だわ。」
ヨゼファが赤いサンタ帽を脱いで思いを巡らせるようにして言う。
シリウスはそれに頷いた。ハリーが褒められると、不思議と喜ばしくどこか誇らしい気持ちになる。すっかりと親の気分だった。
「でも…本当なら、ちゃんとパパとママがサンタをしてあげるべきで…それが子供にとっては一番幸せなんだけれどね。」
「しかしあの子の両親はもういない。」
「そうね……。」
「だがサンタクロースがクリスマスに来てくれるだけ幸せな子だ。例え親が存命していても、サンタが来ない家なんていくらでもある。」
自然とシリウスの視線は再び焼け焦げた自分の顔へと注がれる。ヨゼファもまた同じようだった。
「ええ、確かに。」
そのままで、彼女が小さく応えたのが耳に入った。
「悲しいことだわ。血の繋がりが無くても容易く家族になれる絆がある一方、どんなに近しく血液で繋がれていても生涯分かり合えない親子がいるなんて。」
「親子だって人間同士の関係だ。相手を尊重出来なければ成立する筈がない。」
「それもそうね。私たちと私たちの親はただただ別の人間だった…それだけのことなんだわ。」
ヨゼファの言葉を聞きながら、渡された小さな袋を開けてみる。中身は白い貝殻だった。内側が虹色に光っているのが妙に眩しい。
「………ヨゼファの母親に、俺は最近会ったよ。」
それを繁々と眺めながら呟く。こう言う風に、
何にもならない贈りものは如何にも彼女らしくて良いものだと思った。
「最近と言ってもアズカバンに投獄されていた時だ。写真で見たまま鬼のように綺麗な顔をしていた。」
「それはラッキーだったんじゃない。獄中での目の保養にはなったでしょう。」
「どこが。俺が今まで会った中で一番嫌な女のうち一人だ。」
シリウスが吐き捨てるように言うと、ヨゼファは殊更おかしそうに声を上げて笑った。
白い貝殻をポケットへと仕舞い、彼もまた一緒になって笑う。そうやって……似た過去を持つ二人は、辛いことを笑い合える今の幸せを存分に噛みしめた。
「……ヨゼファの方が、ずっと綺麗だ。」
「シリウスったら見る目がある!グリフィンドールにいちまんてん差し上げますわ。」
「本当か!今年の寮杯は楽勝で頂きじゃないか!!!」
ハッハァ、とすっかりと楽しくなっていたシリウスはヨゼファの肩をパンと叩く。彼女が「あいた」と小さく声を上げて蹌踉めくのでそれを支えてやり、近しい距離でまた笑いを噛み殺した。
「失礼」
しかし室内の和やかな空気を一蹴するような冷たく低い声が二人へとかけられる。
その方へシリウスとヨゼファは揃って顔を向けた。そして正反対の表情を顔に描く。
「お取り込み中大変申し訳ないが……ヨゼファ先生。授業のことで急ぎご相談したいことが。」
「今はクリスマス休暇中だ。お前がそんなに仕事熱心だったとは驚きだな。」
先ほどハリーとハーマイオニーが出て言った扉から入って来たスネイプへと、シリウスはあからさまな敵意を滲ませて言葉を返す。
「授業の…?何かありましたか。セブルスが私に学校のことで相談なんて珍しい。」
「しかもわざわざ夜中に来て?今を何時だと思っている。」
スネイプは二人の言葉には応えず、未だに先ほどじゃれ合っていた姿勢のままで固まっていた彼らの傍まで歩みを進める。
そしてヨゼファのローブの首の辺りを捕まえると、そこから剥がす様にして引き摺っていく。無言で。
スネイプに引き摺られながらも、ヨゼファはシリウスの方へと軽く片目を閉じて微笑んだ。「またね、シリウス。」との挨拶とともに。
「ああまた。ヨゼファ、ありがとう。」
ポケットから取り出した白い貝殻を少し持ち上げて見せながら、シリウスもそれに応えた。
そして一人になったシリウスは、今一度自らの家系図に覆われた壁面を見回してみる。
そしてぺたりと掌で軽く触れてみてから、「貼ってみるか…ラメシート。」と呟いた。
*
地下室のドアが閉まった瞬間、スネイプはそこを背にしたヨゼファの顔すぐ横を半ば拳を打ち込むようにして殴る。
木で出来た重い扉はその衝撃によってめりめりと揺れた。………ヨゼファは自分の顔すぐ傍の彼の拳とその顔を見比べては弱った、という様な表情を浮かべた。
「ポッターに閉心術を指導する際、
お前たちのことを随分と見させてもらった。……大変優しくていらっしゃる、ヨゼファ先生は。まるで母親のようだ。」
木の扉と自分の身体とでヨゼファを挟んだまま、スネイプは彼女へと顔を近付けて一口に言う。
その言葉を聞きながら、ヨゼファは頬をかいては「う…うん。どうもありがとう……。」と彼の嫌みに大してとりあえずの礼を述べてくる。
「……お優しいヨゼファ先生の悩みは尽きませんな。仮に死喰い人だったことがポッターにバレた時にどれだけ絶望され憎まれるか。」
「よして頂戴な…。それを思うと中々しんどいわ……。」
はあ、とヨゼファは溜め息を吐いて額に手を当てる。そして「自業自得だけれどね…」と弱々しい表情のまま呟いた。
「シリウス・ブラックは。貴様の声が失われた期間をいたずらに延長した原因のひとつだろう。随分と懇意になったものだな?」
「その件は結構昔にわざわざ謝ってもらったわよ。こっちはもうほとんど忘れてたのに…律儀な人よね。」
「忘れてた!?」
スネイプが怒りに任せて更に顔を近づけるので、二人の間にほとんど距離が存在しなくなった。彼女の息遣いすら肌で感じることが出来るほどに。
スネイプは馬鹿らしいと思った。他でも無い自分に。
自分たち二人の関係はなんだ、と考え直してみる。間違いなくただの同業者で、同じ目的を共有している故に協力関係にあるだけだ。
それにこの心は未だリリーのものである。
彼女に対して苛立ちをぶつけることは完全に間違いであり、そんな資格は微塵も持ち合わせていない自覚は勿論のことあった。
(………………。)
だが…ヨゼファの愛情が自分以外に向いた時にひどい不快感を覚えることは事実だった。
最近は生徒に相対する彼女の態度すらもその対象になっている。ひどいものだと思った。
少し顔を離すと、ヨゼファは非常に草臥れた様子ながらいつものように笑っていた。そして「………で、」と切り出してくる。
「授業の相談があったんでしょう。どうしたんです、スネイプ先生。」
「嘘だ。」
間髪入れずに応える。ヨゼファは勿論のこと訝しげな表情をした。
「相談も用事も無い。」
端的に述べ、軽く目を伏せる。
暫時の沈黙が深い緑色の闇の中に訪れた。
やがてヨゼファが掌を伸ばし、自分の黒い髪へと触れてくるのを感覚した。愛情深い仕草で少しの間そこを撫でられる。
「用事なんか無くても…貴方が呼んでくれるならいつでも、すぐに。」
すぐにね、
とヨゼファは穏やかな口調で繰り返した。
溜め息を深く吐いて、彼女の肩の辺りに頭を預ける。
身体にゆっくりと腕が回された。片腕だけ。その距離感が今はどうしてももどかしくて、こちらから両腕で強く引き寄せた。
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