骨の在処は海の底 | ナノ
 扉

 もう随分前から、ヨゼファはベッドの中で目を覚ましていた。

 薄目をチラと窓の方へと向けると、鎧戸の隙間から白い日光が細く差し込んでいる。この季節に陽が昇る時間のことを考えれば、もうベッドの中にいるべき時間ではないのだろう。


 ヨゼファは瞼を下ろしては深く深く溜め息をした。昨日の出来事を思い出すと未だ混乱した。心臓が掴まれたような感覚になって苦しい。


「……………っ」


 胸元の服をいつの間にか握りしめてきつく目を閉じる。


「ヨゼファ?」


 ドアの向こうから聞こえてきた同居人の声に、ヨゼファの思考は一気に現実へと引き戻される。

 ベッドから跳ね起きてはそこからほとんど転がり落ち、縺れる足と足が絡まって転びそうになりながら、マクゴナガルが扉一枚隔てているであろうところに辿り着いては開けてやる。

 ヨゼファはマクゴナガルと顔を合わせた時に何故かひどく懐かしいような感慨を抱いた。「先生、」小さな声で呟くがすぐに気を取り直す。


「ミネルバ、昨日はお騒がせてしまってごめんなさい…!!」


 開口一番頭を下げて謝るヨゼファを、マクゴナガルはぽかんとして見つめた。


「貴方が謝ることじゃないでしょう、セブルスが勝手に押しかけて来たんですから。それに、別に構わないわ。面白いものが見れたもの。」

「ちっとも面白くなんかないわ。」

「私にとっては人ごとですからね。」

「ミネルバは薄情だわ…私は……、本当に、、もう…どうすればいいのか……」


 手の甲を口元に持っていき、黙り込んでしまうヨゼファへとマクゴナガルは笑いかけた。その微笑みの意味がよく理解できず、ヨゼファはかぶりを緩く振った。


「ヨゼファ。ご飯にしましょう、もうブランチの時間だわ。食べられそう?」

「ええ、お腹が減ったわ。」

「逞しいことね。」

「大変な時こそちゃんと食べないと。身体と心は別々のものではないもの。」

「そうね、その通りだわ。」


 そう言って、マクゴナガルはヨゼファの肩に手を置いた。二人は少しの間互いを見つめ合うが、やがてマクゴナガルの方が「顔を洗っていらっしゃい。」と促す。


「今日は陽が出てるから、外で食べましょう。焔をいくつか魔法陣で作ってもらえる?3つくらいあれば寒くないでしょう。」


 ヨゼファは頷いては廊下の窓へと視線を向けた。「あら、本当。」そしてようやく微笑んだ。


「いい天気ね……」


* * *


 --------------浅黄色の色硝子を張ったような空の色だった。散り雲ひとつない、ほとんど濃淡さえもない、青一色の透明さで、昨日の悪天候を思えばなにか信じられないような美しさである。


 まだ飲みはじめたばかりの紅茶には空が映っている。ヨゼファはマクゴナガルとふたり、つつましい小さな庭に白いクロスを敷いたガーデンテーブルに向かい合って座っていた。

 マクゴナガルはパンケーキをゆったりと切り分けながら、時々よく澄んだ空の方を見た。なにかが少しぼんやりしているような朝だったが、ヨゼファは不思議と身体が楽になっていることを感じていた。


「今日は無口なのね。」


 不思議と嬉しそうな彼女に話しかけられ、ヨゼファは「そうかしら……」と相槌をした。


「色々と考えることが多すぎるのよ。」

「手放しに嬉しそうではないわね?プロポーズされたのに。」

「プロポーズなのかしら?あれ……。まるで嵐のようだったから肝心の部分の印象が薄いわぁ」

「とても意外ですが…彼はひどく情熱的な一面があるのね。」

「知らないわよ、困った人なんだから。」


 ヨゼファが頬杖をついてパンケーキに片手でナイフを入れる様を、マクゴナガルは眉をひそめて嗜めた。ヨゼファは微笑み、「はい、ママ。ごめんなさい。」と素直に聞き入れては姿勢を正しくする。

 パンケーキにとろとろとかけたシロップは金色で、うまいぐあいにバターと溶け合っていた。「上等なパンケーキね。」とヨゼファはささやくような声でそう言った。


「まだ、傷痕は痛むのですか。」

 マクゴナガルはヨゼファの傷付いた右手がナイフを丁寧に扱う様を眺めながら尋ねる。


「時々ね。少し熱が出る時とか……。でもセブルスが薬を作ってくれるからね、安心だわ。」

「それは良かったわ…。これからもずっと、安心ね。」

「それはどうか分からないわよ。人生なにがあるか分からないし。」

「そういうことを言うのはおやめなさい。どうも素直に喜ぶことをしない人だわ、貴方はこんなにひねくれていたかしら?」

「……………。」


 だって、と、子どものような口ぶりで言ってしまってはヨゼファは口を噤んだ。眉を下げて、困ったように笑う。珍しく不安定な気分だった。喜びはまだ湧かない。驚きと不安ばかりが心の中で存在感を増していく。

 背を温めていた日向が影になると、流石に冬の冷たさがくぐまっているのを覚える。苦しい、と思った。そうしてスネイプの考えが分からないと今朝ベッドの中で延々と考えていたことをまた思考する。


「なにを不安がるのです、愛し合っているのでしょう?」


 マクゴナガルが気遣わしげに言うのが申し訳ない。また…彼女に心配をかけてしまっている、とヨゼファは自分に対してうんざりとした。


「分からない………。私にはセブルスの愛の在処なんて分からないわ。ずっと考えないようにしていたもの。自分に愛情が向いていないことを知っていたから。それを改めて思い知るのが恐ろしくて…。」


 半分も食べ切らないまま次の一口が進まなくなってしまった香ばしい色のパンケーキを見下ろして、ヨゼファは今まで終ぞ誰にも打ち明けたことがなかった本当に気持ちを零した。

 少しだけ震える右手をテーブルの下に隠そうとするのを引き止められた。……朝食を共にする、この賢い魔女はどうやらヨゼファの気持ちを分かってしまっているらしい。手の甲に重ねられた彼女の掌が、温かかった。


「愛がないのではないわ。愛し方が下手なのです。仕様がない、不器用な男性ですよ、、、」

「セブルスじゃないわ、私よ。私はずっとずっと、触れ合いを避けてしまう子どもだった。人とぶつかったり寄り添ったりして互いを高め合うことをしないで生きてきたから、……不器用にしか人間関係を築けない。」

「ヨゼファ先生・・が?そうはとても見えないわ。」

「生徒たちはたしかに可愛かったわ、でも私は…生きる意味が欲しかっただけよ。誰かに必要とされたかった。私は私が許されたかっただけで、子どもたちに真実の心で向き合ってなんかあげられなかった。綺麗ごとばかりで、ちっとも良い先生なんかじゃない………」

「そんなこと、言うものじゃありませんわ。」

「ごめんなさい。」

「私だけに留めておきなさい。……大丈夫、責めるつもりはありませんよ。教師なんてみんな不安なんです。教育に答えはないのですから。」


 冬の光を反射して甘やかに光るオレンジを渡されながら、ヨゼファはひとつ頷いた。そして、自ら発光しているようにほのぼのと明るい太陽のようなそれをナイフを使って切り分けてはマクゴナガルに薦める。彼女は礼を言って受け取ってはまた…言葉を続けた。


「生きる意味など、難しいことを深刻に考えるのはお止しなさい。もし貴方のような若い年齢で人生の意味をもう分かっていたら、これ以上生きる必要もないわ。人生の意味がまだ分からないからこそみんな手探りで生きているのだし、生きる必要もあると言うものじゃないかしら。」

「若い……。私が?もう四十路に近いのよ。」

「あら、私から見たら、まだ女学生みたいな年だわ。」


 ヨゼファは気が抜けたように笑ってしまった。

「ミネルバには敵わないわね…。」

 呟いては優しい気持ちになり、パンケーキを再び切り分けては口に運ぶ。


「美味しいわ。」


 呟いて瞼を下ろす。優しい甘さには懐かしい香りが漂っていて、小鳥のようにささやかな魔法陣の焔に暖められて丁度いい冷たさになった冬の風が心地良く肌の上を滑っていった。


「これからが長いんですよ。人生は」

「そうね……。これから……」


 ヨゼファは素直にマクゴナガルの言葉を聞き入れ、自分の未来について空想してみようとする。……だが、想像がつかなかった。しかし不思議と恐怖を覚えることはない。

 彼女は自分の未来に少しの希望を見出したような気持ちがした。初めての感覚である。この世界を生きていきたいと思うことができた。


「そうだわ、ヨゼファ。貴方が寝ている間にセブルスが梟便を寄越して、言付かっていたものがあるのだけれど。」

「その名前を聞くと身構えてしまうわね…。なにかしら、『昨晩の出来事はやっぱり無かったことにしてください』とか?」

「無礼者ね。引っぱたいておやりなさい。」

「いやねえ、引っぱたいたりなんかしないわよ。でも姿をクモにでも変えてやろうかしら。」

「魔女らしい仕返しね。」

「魔女ですもの。」


 お互いにひどくおかしい気持ちで雑談をかわしながらヨゼファはスネイプから送られた封書の口を切った。


「…………。これ、手紙じゃないわ。」


 ヨゼファは首を傾げては出てきた紙きれをしげしげと眺める。紙きれと言っても優雅な模様が箔押しされた厚みがあるものだったが……


「じゃあなに?」


 若い娘のように生き生きとした表情でマクゴナガルは尋ねた。ヨゼファは無言でそれをマクゴナガルの方へと渡す。


「あら素敵ね、早速デートのお誘いかしら。」


 掌中に収まったものを認めては微笑んで彼女は言う。ヨゼファは困ったように笑うばかりだった。


「私が好きな曲……よく、覚えてくれていたものだわ。」


 そしてマクゴナガルから返されたコンサートのチケットを眺めては、しみじみとした口調で言うのだった。







『貴方が好きなところに行きましょうね。』


 雨の夜、この家で交わした約束をスネイプは覚えていた。

 顔を上げて、まだ夢の中にいる少年のスネイプはよくよく自分に会いにきてくれる黒衣の魔女へと言葉をかける。


「ベファーナ、今日は君が行きたいところに行こう。」

「私が……?」


 ベファーナはいつものように落ち着いた声色で言葉を返してくる。音もないような雨が降っていた。

 彼女とスネイプはそれぞれに傘をさしてゆるゆると坂を降りているようだった。霧雨がしっとりと身体を濡らさぬように、重い傘をゆらゆらと支え、少しずつ角度を変えながら歩いた。

 その様子をベファーナは微笑ましそうに見守っている。少しの沈黙の後、彼女は再び口を開いた。


「ここは貴方の夢だから、私の願いを叶えることはできないの。でも嬉しいわ…ありがとう。」

「君の願いを叶えることが僕の願いでもか?」

「……………………。」


 ベファーナは深い青色の瞳をはた、と開いてはまた伏せた。


「そんなこと、言わないで。胸がいっぱいになるわ。」


 優しい子ね、


 しみじみとした声色で黒衣の魔女は呟いた。そして細かい雨を落としてくる空を見上げた。


「ベファーナ。君は夢じゃなく現実の世界でも存在するんだろう、」

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるわ……」

「はっきりと言ってくれ」

「………。まだ…貴方の現実には存在していないわ、きっと。私がベファーナ≠ノなるのは、もう少し後のことだから。」

「もう少し後?」

「でも、私と貴方は必ず巡り合うでしょう。忘れないで、…誰かが…私が…いつでも貴方を想っていることを。」

「待って、」


 歩みを止めない彼女の手を握って留まらせる。………心なしか、自分の背丈が伸びたような気持ちがした。身長の差を先ほどよりは感じない。


「現実なら…現実の君をちゃんと見つけることができたら、そうしたら願いを叶えてやることができるのか?」

「………そうね。」


 ベファーナは傘を畳んで、改めてスネイプのことをまっすぐに見つめた。表情は穏やかで、鮮やかな色の唇が彼の名前を小さく呼んだ。

 引き寄せられるのに逆らわなければ、彼女の長い腕に巻かれて胸の内に収まった。スネイプの手から傘が落ち、硬い地面を引っ掻くような音を立てた。しっとりとした雨が服を湿らせて、皮膚へと触れていく。


「その時を、待っていても良い?」

「………うん。」


 彼女の黒い服に額を擦らせて、言葉に応える。今まで、彼女がこんなにも積極的な行動に出たことは無かったから驚きはしたが。嬉しかった。


「私、貴方が好きだわ……」


 いつもより幾分もひそめた、彼女の心の音が耳を掠める。ベファーナ、強く抱かれる中でその名前を呼んだ。


「君は一体、誰なんだ」


 ポツリと呟いて、消えてしまった彼女の身体を求めて雨の中に腕を伸ばす。

 だから目を覚ました時、自分の腕が天井に向かって真っ直ぐと伸びているのをぼんやりと眺めることになった。何故こんなことを、と考えるがよく分からなかった。夢の内容を思い出すことはできない。


 窓から滑空してきた梟が新聞をくわえていたので上げていた腕を下ろさずにそのまま受け取る。適当な駄賃を胸に下がった皮の袋の中に入れてやると、梟は愛想なく再び窓の外へと飛び立っていく。


 一面を確認することはなく、中ほどの紙面、劇場の公演の目録へと視線を滑らせた。魔法大戦の時分から未だ穴が目立つそれらの中に、ふと見覚えのある名を確認することができた。中規模でパッとしない劇場での演奏会、ピアノを弾く奏者の名前だった。

 起き上がってはその…中規模でパッとしない劇場に梟便を送ってみる。返事はすぐに来て、席の空きが充分にあることを伝えてきた。







 ヨゼファはぼんやりとした気持ちのままで、与えられた自室の中で頬杖をしていた。未だ夢見心地である。


(考えたこと、なかったわ。)


(妄想ならいくらでもしてきたけれども。現実にならないことは理解していたもの。)


(夢を見るには年を取りすぎているのよ。)


 ブラシを手に取り、少し伸びた髪を梳かした。父譲りの柔らかい毛質が顔に刻まれた傷痕をやんわりと隠してくれている。

 鏡の中に、昔の自分の面影を見ているような気持ちになって手を止める。ブラシを机に置いて、不健康そうな青白い少女の方へ、鏡面の上へと指先を触れる。

 青い瞳が自分を見つめ返していた。冷たい色だった。馴染み深い、真冬の海のように重たく凍てついた色彩だと長い間思っていた。


「私………」


だから、優しい深緑色のあの瞳に嫉妬していたのだろう。(当然よ)そんな自らを浅ましく思った。(血は争えやしないわ)


「………私、生まれてきて良かった…のかしら、、、」


 鏡の中から視線を逸らし、目を伏せて呟いた。


 かつての少女の自分に、生まれてこなければ良かったのだと言うことは憚られた。けれどもまだ、自分の生を肯定することは難しい。


(消えてしまいたい?)


 自分の横顔に向けられたままの、鏡の中の青い視線が言葉を伝えてくる。ゆっくりゆっくりと首を横に振り、小さな声で「いいえ」と否定した。


「消えたくない…………」


 鏡の中にはくたびれた自分の顔が映っていた。それと少しの間見つめ合い、ヨゼファは大きく大きく溜息をする。


(消えたくない)


 後ろを振り返ると、数少ない持ち物である衣装が全てベッドの上に並べられていた。……何を着ようか、本気で悩むなどいつぶりだろうか。初めてのことかもしれない。

 散らかった部屋の様子を認めては苦笑して、ゆったりと足を組む。目を伏せては笑みをこそばゆくして、「馬鹿ね」と呟いた。


「馬鹿ね、馬鹿よ。貴方………本当に……」


 誰に向けてるとも分からない言葉を唇から漏らして、ヨゼファは伏せた目を軽く掌で覆った。

 そのままで、少しの間動かずにいた………


* * *


(あら………?)


 リビングに据えられたささやかなクリスマスツリーに鮮やかな青色の蝶が留まっているのを認め、マクゴナガルは瞬きをした。

 彼女の視線に応えるかのように蝶は優雅に羽を動かして壁際の観葉植物の方までゆったりと飛んで行く。少し羽を休めたこと思うと、また舞い上がっては扉から暗い廊下の向こうへとどこともなく飛んで消えてしまった。その行方を見送りながら、マクゴナガルは不思議に思っていた。

 やがて蝶が消えた先から…正確には2階から降って廊下を通ってきたのだろう…ヨゼファが現れてはマクゴナガルへと微笑みかける。


「ミネルバ、暖炉をお借りしますわ」


 彼女の様子を認めてはマクゴナガルも微笑んだ。

「結局いつもの服にしたのかしら」

「ええ……。着慣れないものを着る自信が無いのよ。」

「少しずつで良いんですよ。若くて綺麗なうちに、お洒落を楽しまなくてはね。」

「そんなこと言ってくれるの貴方くらいだわ。ありがとう、ママ」


 ヨゼファはマクゴナガルの頬に軽くキスをしては暖炉へと向かった。中規模劇場の行き先を告げては炎を緑色に染めている彼女の所作をマクゴナガルは見守るが、何かを思い出したように声をかけた。「なにかしら、」と振り向いたヨゼファへと、声を潜めて言葉を続ける。


「今夜は帰ってくるんです?」


 ………ヨゼファはゆっくりと瞬きをしては苦笑した。


「さすがに……。帰ってくると思うわよ、、、」


 それからおかしくてたまらない様子で笑い出すヨゼファを眺めては、マクゴナガルもまたこそばゆい気持ちになって笑った。(いいものだわ。)と思う。(人を愛すると言うことは)(人の幸せを願うと言うことは)


「ねえ…貴方もそうは思いませんこと……。」


 一人になったリビングで、マクゴナガルは小さく呟いた。橙色の炎に戻った暖炉の上、マントルピースの隅に飾られた写真に向かって。


* * *


  腕を捻り上げられるような感覚を覚えたヨゼファは声を上げた。目を白黒させては強い力に逆らえずに緑色の炎の中から引っ張り上げられる。口の中に灰が入り込んでじゃりじゃりとするのがなんとも言えず、思わず咳き込んでしまった。

 誰の仕業かは察しがついていたので苦笑しては「もう、」とその方を見上げた。スネイプは灰にまみれたヨゼファが立ち上がるのを助けては、その服についた汚れを軽くはらってやった。


「せっかくお洒落してきたのに。」

「いつもと特に変わらない」

「変わるわよ、よく見てちょうだい……。それから私じゃなかったらどうするつもりだったの、さすがに怒られるわよ。」


 スネイプはヨゼファの小言を無視しては待ち合わせていたパブの出口に向かおうとする。


「もう行くの?まだ公演まで時間があるから一杯何か飲んで行きましょうよ」


 店の外に出たスネイプは首だけ動かしてヨゼファの方を振り返り、彼女が追いついてくるのを待った。髪で傷痕を隠したその顔を少しの間じっと眺めた彼は、聞こえるか聞こえないかの声でポツリと呟いた。


「来ないかと思った」


 薄く色の悪い唇から、言葉とともに漏れ出た吐息が白く舞い上がるのをヨゼファは目で追う。


「そんなことあるわけないでしょう………」


 表情を変えないままで、ヨゼファは本心を応えた。


「私、貴方が好きだもの。」

「そうか、」

「貴方は?」

「好きだ」


 思いがけず即答が返ってくるのでヨゼファは驚く。


「世界で一番…………」


 消え入りそうな言葉が続くのを聞き届けて、ヨゼファはひとつ深呼吸をした。


「そんな顔をしないで。」


 彼女は掌を取り、それを引いて歩き出す。姉に手を引かれる弟のように、スネイプは素直に従った。


「誘ってくれて嬉しかったわ。ありがとう。」


 返事はない。

 雪がちらちらと降り始めた薄暗い道を、それきり黙って二人は歩いた。







「ボックス席って初めてだわ。」


 ふかふかとした座席の背面に身体を預けながら、ヨゼファは心地良さを表すためか瞼を下ろして笑った。

 スネイプは共に笑うことはせず、心ここに在らずといった様子でとりあえずの相槌だけをした。ヨゼファは彼の様子を特に気にした様子はなく言葉を続けていく。


「ボックス席って、人と来るところじゃない。公演中もおしゃべりできるように…。私は今まで音楽を聴くときはいつも一人だったから。」

「なぜ」

「友達がいないのよ。」

「なるほど。」

「だから友達と来れて嬉しい。」

「………私は君の友達ではない。」

「友達よ。」

「……………………。」


 ヨゼファは閉じていた瞼を開き、スネイプの顔をたった一つの残された瞳で真っ直ぐに見つめた。深い青色の光彩の中に透明な光が宿っているのを認めて、彼の胸の奥は驚くほど強く締め付けられて、痛かった。


「ずっと…友達でしょう。私、貴方と友達になりたかったもの。」


 傷ついた右の手を伸ばし、ヨゼファはスネイプの掌を取った。

 その言葉の真意がわからずスネイプは戸惑う。


「貴方とお付き合いしても、結婚しても、それだけじゃないはずよ。十幾年育んだ友情は確かで変わらない……」

「…………………。」

「なにが言いたいのか、よく分からなくてなってきたわ。いやね、私っていつもそう。話が長いくせにまとまりがないって、生徒にも貴方にもよく言われてきた。」

「ヨゼファ………。君は、」


 開演を知らせるためか館内の照明がゆっくりと落とされていく。何かを言いかけたスネイプは口をつぐんだ。それで良かったと彼は思う。新しい関係を始めるためには付き合いが長すぎた。お互い接し方を手探りしている状態である。

 ……握ったままだった手のことを思い出し、スネイプは緩慢に指を離す。同様に緩慢な動作で彼女の指先に引き留められる。応じて、改めて冷たい掌を握ってやった。


(愛しい)


 ふとその言葉が心の中に浮かび上がる。ヨゼファの横顔の輪郭が舞台を照らす灯りによってチラチラと淡く光った。


 すまない、と心の中で詫びを入れる。

 きっとこの公演は自分も彼女も全くもって集中して聴き入ることはできないだろう。


(だから、また来よう。)


 奏者が舞台袖から出てきては深々と客席に頭を下げている。疎らながら親しみのこもった拍手がそれに応えた。


(何度でも)


 繋がっていない方の腕を伸ばし、彼女の身体をこちらに向き合わせた。

 ヨゼファは少し首を傾げてから、傷ついた右の顔を恥じてか隠すようにやや俯いた。


「落ちている……」


 視線で…彼女の膝から滑り落ちたささやかな演奏会の案内を指し示した。

 ヨゼファもまた俯いた先にそれを認めて「あら、、」と呟く。

 薄い冊子を拾い上げるために屈んだ彼女の細長い身体はボックス席の中で窮屈そうだった。少し伸びた髪の間から、白すぎる頸が覗いている。くっきりと脊椎の形がそこに浮かび上がる様を、少しの間スネイプは見つめていた。

 手を伸ばして、そろりと触れて、握る。驚いたらしいヨゼファが首をこちらに向けた。(すまない、)再びの謝罪の言葉を胸の内に浮かべ、スネイプは溜め息をした。

 ヨゼファの側に同じように片膝をつき顎を指先で持ち上げる。口を弱く開いて舌をそっと差し出し、彼女にも舌を出すように促す。ヨゼファは拒否をしなかった。望まれるままに静かな劣情に塗れた口付けに応えようとする。

 腕が背中に回るので、抱き返すと安心したように力を抜いていく様子が可愛らしくて、少しだけ笑った。

 静かなピアノの調べが耳へと触っていく。また来よう、と繰り返して思った。美しく優しい調べだ、次はきちんと集中して聞くことにしよう………と……


(私は君を守りたい)

(傷つける存在ではなく)

(守ってあげたい)

(側にいて………)



(愛している)






 ヨゼファを家まで送る間、ふたりは一言も言葉を交わすことはなく、ただ無言であった。

 繋がった掌の先にいる愛しい人をスネイプが見やれば、彼女は顔にかかる長く伸びた前髪を耳にかけて微笑んだ。すぐに大きな傷を隠すために灰色の髪は下ろされてしまったが、そのささやかな仕草は彼を幸せな気持ちにさせた。


「セブルス、送ってくれてありがとう。」


 声をかけられて、もうヨゼファとマクゴナガルの家のすぐ前に来ていたことに気がついた。

 彼女はスネイプの黒い髪を撫で、耳の後ろへと流していく。頬、それから唇に触れるだけの愛情深い口付けがなされた。


「おやすみなさい。」


 挨拶に頷いて返す。吸い込まれるようにマクゴナガルの守護の魔法の内側へと帰っていく彼女を見届け、「わたしの…………」小さな声で呟いた。


「愛しい人よ……。」


 眉間に皺を寄せ、祈るように両手を組んだ。言いようのない感情が胸の内に起こり、歯を食いしばる。泣きたくなるが、悲しいだとか悔しいだとか、そういうわけではない。ただ言葉にならない感情が身体の内側から湧いていく。

 寒くなったと思えば、一度止んだ雪がまた空から降りて来ていた。スネイプは襟を合わせて、夕靄に点いた街の灯の方へ歩きはじめた。

 なにかが胸いっぱいに満ちている。ヨゼファといた時間を寂しく感じることはもう微塵もなく、明るかった。それは彼が帰る行先に暖く家路の灯が一面に広がっていたせいでもあろう。

 足早に往く彼の色の悪い顔の皮膚に雪が滑る。濡れて雫になって、頬を滑っていく…………



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