◎ 金輪際
降りしきる雪の白さも飲み込むような黒い夜だ。腐れて毒となったような夜だった。
黒には底に秘めたる力がある。スネイプはこの夜を暗色ではなく黒色だと思った。深い穴を除くような気持ちがする。冷たな舌で舐めるように風が皮膚に当たった。
--------------------闇雲に姿現しをしたために、ここがどこなのかを少しの間考えなくてはならなかった。
(ああ、)
マクゴナガルの自宅の近くである。暫く歩めば、巡らせた鉄線に《立入禁止》の粗末な看板を掲げた禿山の空き地に至った。マクゴナガルの魔法によって姿を眩ませたその家である。
今夜は来るな、家に戻って身体を休めろとヨゼファに言われていたことに思い当たる。
それどころではない、と記憶の中の彼女に反駁した。今は会わずにいた方がよほど身体に毒だ。
張り巡らせられた鉄線は容易に手で広げることができる。敷地内に足を踏み入れた時に何かしらの防衛魔法に攻撃されるのを恐れたが、それも稀有に終わった。
安堵したのも束の間、茫漠と広がる果てし無い空き地を見渡し、どうすれば彼女の元にたどり着けるのかが全く分からなかった。家屋の影などどこにもない。
ここに立ち止まっていても仕方がなかった。歩き出し、延々と続く湿った黒い土を踏みしめて前へと進む。やがて気持ちが逸った。足の進みは早くなり、走り出す。
そうして奥歯を噛んだ。走る速度を上げれば両腋から汗が出る。背中が棒のようになった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。腹が立つ。無念になる。非常に口惜しくなる。
我慢して到着すべき場所を探し続けた。堪えがたいほど切ないものを胸の中に忍ばせて。その切ないものが身体中の筋肉を下から持ち上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残酷極まる状態であった。
それでもヨゼファがいる場所の気配は全く現れない。黒々とした土地が色濃い夜の匂いを漂わせて永遠に続いていく。
走るうちに、冷え凍っている胸の底から、ほとほと音を立てて燃えてくるものがあった。久しくそれは聞いたこともなかったものだ、否、もう二度とそんな気持ちを覚えそうにないと思っていた、凪の日の海面に似た優しい情感で、温まっては滴り落ちる雫のような音である。
よくよく覚えている。これは恋だ、これが恋だった。人を愛するということだった。
『フランスから戻ってきたヨゼファを優しく迎え入れ、温かい言葉をかけて、強く抱きしめれば全て許されるなどと決して思わないことですな。』 先ほどマリアへと放った言葉が、刃の鋭さを持って自分へと戻ってくる。
降りしきる牡丹雪が白い呼気を吐き出す口の中に入り込んだ。咳き込んで喉を痛めた。だが足を止めることはできない。
今の時代、こんな時代に素直に人を愛し、信じて、その愛情の灯を守り続けていく人間は馬鹿に見えるのかもしれない。だが自分は馬鹿ではない。ヨゼファが馬鹿ではないのと同様に。
自分が灯した小さな明かりを絶やしてはいけない、絶やしてはなるものか。
『結局のところ、貴方はヨゼファを支配したいだけだろう。思い通りにならないから仕返しに揺さぶりをかけてみる。生殺しの状態で傍におきたいだけだ……。まともな人間の感覚ではない。』「違う!!!!!」
嗄れた声で叫び、黒い杖で周囲を埋め尽くす暗闇へと光の刃を放った。
引き裂かれた闇の狭間へと、温かな光が零れ落ちる。その向こうに、小さな慎ましい家屋があった。マクゴナガルの
魔法によって守られたそこはヨゼファの住処としてふさわしい。そんなことを考えては暗闇を抜け出し、弱い光に満たされた家の前に立った。
外はひどい寒さだと言うのに、身体は燃えるように熱い。乱れた息を整えないまま呼び鈴を鳴らした。反応がない。もう一度鳴らす。
施錠が解かれる微かな音がした。少しの間が永遠に思える。扉が細く開き、怪訝な表情で杖を片手にしたネグリジェ姿のヨゼファが顔を覗かせる。……そして、スネイプのことを認めて面食らったらしく息を呑んだ。
開いた扉に身体を滑り込ませてほとんど押し入る形で中へと踏みいった。
二の句を告げることのできないヨゼファを抱き締めれば、その衝撃で彼女は蹌踉めく。しかし、それでもいつものようにしっかりとスネイプの肉体を抱き留めた。その腕から杖がすり抜けて落ち、床に当たる乾いた音がする。
胸の奥から呼吸を吐き出し、彼女の身体を抱く力を強くする。頬を寄せてその冷たい体温を確かめた。(愛おしい)感慨がひとしお強く心に浮かび上がる。
「こんな夜更けに一体誰です…!!」
先ほどのヨゼファと同様に杖を片手にしたマクゴナガルが一足遅れて玄関にたどり着いた。ヨゼファの腰に片腕を回したままで顔をこちらに向けさせて口付ける傍、彼女の頭越しにそんな老齢の魔女と瞳が合う。
マクゴナガルは自宅の玄関先で繰り広げられる出来事を把握できず目を白黒させるが、スネイプと目が合うとハッとして視線を逸らし、口元に手を当てて少しの間何かを考えた後…急いで踵を返して家の中へと戻っていった。
邪魔する者がいなくなったのを幸いに、スネイプはヨゼファの唇をより丁寧に堪能することにする。思えば彼女と口付けを交わすのは実に久方ぶりなのである。
絡ませていた舌をちゅ、と吸うと腕の中のヨゼファの肉体は小さく震えた。いつの間にか、こちらの胸元の服が強く握られていたことに気が付いてその行為をいじらしく思う。
行為の最中にヨゼファ、と小さな声で名前を呼び、愛情を示すため労わるように背中を撫でた。吸い上げた唾液をすっかりと飲み干してもまだ足りないと思った。濡れてしまっていたヨゼファの唇をまた弱く啄むと、彼女は何を思ったのか少しを身を捩って抵抗の意思を見せた。
鼻、額を合わせてから少し顔を離し、ようやく今一度ヨゼファと見つめ合う。彼女はたったひとつ残った目で呆然とこちらを眺めていた。
両肩に手を置き、近い顔の距離のままでヨゼファ、と、今夜、そして今まで何度となく呼んだ名前を口にする。
「結婚しよう。」
自然と口にした言葉だった。
ヨゼファは「え…?」と小さく情けない声で応える。
沈黙のままで、少しの時間が経過した。やがてヨゼファの瞳の中に正気を感じさせる色が戻ってくる。彼女はようやく今の状況を整理し終えたようである。
「返事をしてくれ、今。」
掴んだ両肩を揺さぶるようにして、逸る気持ちを隠さずに言った。ヨゼファは眉を下げては「え、あの…。」と要領を未だ得ない。
「………。あの、セブルス。」
ヨゼファは自分の肩の上のスネイプの掌に手を重ね、一度離すようにと促した。不服に感じたが今は大人しく従う。
「私の言うことをよく…、聞いてね。」
小さな声のままで彼女は言った。困ったようにして弱く笑っている……胸の内の心理を理解しかねる不可思議な表情だった。
「もしも貴方が何か責任を覚えてしまっているなら、、それは不必要なことよ。どうか私のことで何も気に病まないで欲しいの……。」
彼女はそろそろと右手を伸ばした。傷ついた掌が、スネイプの頬を撫でて滑っていく。
「これから貴方は貴方のために人生を歩むんでしょう?…自分だけの幸せのために。違う?」
「違う。」
自分から離れて行こうとしたヨゼファの手を掴み、彼女の言葉を強く否定した。「違う……!!」もう一度同じ言葉で否を示す。
「それは違う、違う、違う…!!ヨゼファ、どうしてそんなことを言うんだ!!!」
一度解放した肩を捕まえて、いつの間にか追い詰めていた壁に押さえつけて怒鳴った直後…ハッとして手を離した。すぐに謝る。情けなくて目頭が熱くなった。
言わせているのは自分だった。
そして自分は、言わずとも伝わると思っていたのか気持ちを一度として口にしていない。
『貴様は自分がしたことを分かっているのか、ヨゼファを突き放しては気まぐれに愛情に似て非なるものを投げつけて…!!』「違うんだ………、」
すっかりと弱々しくなった声で、同じ言葉をまた繰り返した。
マリアに対して言った言葉が全て自分に戻ってくるのだ。あの憎たらしい女と同じことをしてきた。
(だが違う)(決して同じではない)
「……ヨゼファ、、、」
こみ上げる嗚咽を咬み殺せば代わりに涙が垂れた。ヨゼファの表情には戸惑いが浮かぶ。
「ど、どうか、、、そんなことを言わないで………。」
言葉を探し、上手く見つけられず、一言ずつ区切ってどうにか絞り出す。子供のように拙い有り様だった。
「愛しているから、…ぼ…、っ私は貴方を愛しているから……、」
自分の情けなさに合間って、積年の感情が吐露されることに込み上げてくるものが声を引きつらせた。
「あ、貴方を愛して、、、家族に、なりたいのです………っ」
きっといつかヨゼファに言うのだろうか、言うのだろうと思っていた。
「お、お願い………で、頼む、ヨゼファ。お願いします……だから結婚して、結婚してください………」
だがまさかそれが今、こんな…涙と鼻水を垂らして彼女に縋りつく、世界一みっともなく情けない告白になるとは予想だにしていなかった。
ヨゼファの表情からは笑みが消えていた。ただこちらをじっと見つめている。
彼女は瞼を下ろし、ゆっくりと首を横に振った。
深い溜め息。顔を覆って、膝を折り、壁に背をこすらせてうずくまる。それに合わせて、スネイプもまた床へと片膝をついた。
以前より少し伸びた髪から覗くヨゼファの耳が、まるで何かの病気のように赤かった。
そこに触れると、びくりと彼女の肩は震えた。髪を耳にかけさせて、真っ赤に染まった耳をスネイプはしげしげと観察する。
「はい…………。」
やがて、蚊が鳴くような声で応答がなされる。顔は手で覆ったままだったが、確かに言葉はこちらに向かっていた。
「………私と結婚…、してください……。」
愛しているわ……… 本当に微かな声で答えたヨゼファは、それきり何も言わなくなった。
ゆっくりと抱き寄せても腕の中で死んだように動かない。
だが早鐘のように強く刻まれる心臓の鼓動を、服越しに感じることができる。
* * *
「セブルス、本当に……大丈夫だから。下ろして。」
「足腰が立たない癖によく言う。」
「重いもの、、、私。」
「重い自覚があるなら大人しく運ばれなさい、これをマクゴナガル女史にやらせるおつもりか。」
それに…重くなどない。と言って、情けなく弛緩しきったヨゼファの身体を横抱きにしたまま狭い階段を昇る。
彼女は全く身体に力が入らないらしく、抵抗らしい抵抗も全くせずにスネイプの胸の内に収まっていた。
まだ色濃い耳の赤さは頬まで達していて、こちらと視線を合わせないようにか目元を手の甲で隠している。
ここか、と確認してマクゴナガル邸の中ささやかにあつらえられたヨゼファの部屋の扉を開け、ベッドへと下ろしてやった。
最後に顔が見たいと思い、その目元を隠す腕をどかそうとする。ヨゼファは顔を背けてベッドの上で身体を丸め、「ごめん……、本当に…今日はもう………」と情けなさが過ぎる声で応対した。
彼女のこんなにも覚束ない様子は珍しい。いつも気持ちに余裕がある魔女だとばかり思っていた。
新たな一面を認めて少しの笑みを浮かべ、すまない、とスネイプもまた謝罪した。
髪を梳いて耳にかけさせ、少し覗いた頬に唇を落とす。「愛している」と囁き、少しの間色素の薄い灰色の髪を愛情を持って撫でる。
「おやすみ、ヨゼファ」
そう言って、彼女の部屋を後にした。
部屋を出たところすぐに、マクゴナガルが様子を伺うようにして立っていた。
「結婚する。」
彼女へと端的に告げる。
女史は弱々しく笑っては「ええ、そうでしょうね。」と応えた。
「ねえセブルス。でも聞いて良いかしら……一体貴方たち、いつから…」
「今だ。」
「え?」
「つい今しがた……。ようやく愛し合った。」
「……………。」
「だが貴方が仰ることの意を汲むのなら、もう…恐らく、二十年近い付き合いだった。」
「随分と昔からだったんですね。」
「出会って間もない頃だった。すぐに好きになった。ヨゼファは優しく魅力のある女性だったから……」
随分と素直になったものだな、とスラスラと喋る自分がおかしくなって、スネイプは頬に皮肉な笑みを浮かべた。
「でも。それなら何故今なんです。むしろ…何故今更……」
「分からない。だが強いて言うのであれば……目に見える形で絆が欲しかった。いなくなったヨゼファを探し回るのはもう疲れてしまった…。」
スネイプは夜分遅くの失礼を今更詫びた。マクゴナガルは呆れたようにそれを受け入れる。
「ねえセブルス……私には貴方たちのことをとやかく言う資格などはありませんが、それでもひとつだけ良いですか。」
無言で続きを促すと、彼女は微笑んでは少し首を傾げた。
「結婚式を挙げてください。」
彼女の要求を聞き、スネイプは数回ゆっくりと瞬きをした。真意を視線で尋ねてみる。
「どれだけ規模が小さくても、二人だけの挙式でも良いのですよ。ヨゼファはずっと普通の女性が経験する多くのことを知らずに生きてきたから…せめて、安心させてあげてほしいのです。不安で、目に見える確かな絆が欲しいのは、貴方ばかりではないでしょう。」
マクゴナガルは微笑んだままで言葉を続けた。
連れ立って廊下を歩んでいた二人はやがてダイニングの大きな暖炉の前に至る。
彼女は杖で火を強く起こし、フルパウダーをスネイプへと促した。
「老婆心から、最後にもうひとつ言わせてくれませんか。愛情も絆も、言葉にせず形にせず存在し続けるのは困難です。必ず……想うだけでなく、言葉と行動で示してあげてください。あの子が行ったように」
スネイプは頷き、暖炉の中に受け取ったフルパウダーを投げ入れては自宅の在処を伝えた。
「…………。必ず。」
誓って、と老齢の美しい魔女へと向き直る。改めての感謝を告げ、スネイプは自宅への道を暖炉の中に辿っていく。
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