◎ 真冬の光
仰向けにベッドに横になったまま、ヨゼファは天井を見つめていた。
辺りの空気の暗さから、夜になるまで眠っていたことを理解する。そのままでゆっくりと瞬きをした。
「泣いているのか」
頭の右上から声が降ってくる。ヨゼファが顔をそちらへ向けるのと、小さな明かりがぽつんと黒い杖先に灯るのは同時だった。
ヨゼファはぼんやりとしたままスネイプの色の悪い顔を斜めに見る。それからベッドの上に力なく伸びている自分の右手へと視線を落とした。
「魘されているように見えた…」
彼は囁いて、握っていたヨゼファの手を離す。
そしてスネイプに向き合うために起き上がろうとする彼女を制し、寝ているように手の動きで指示した。
「母親を呼んでいたな。」
「え?そうなの……」
「夢でも見たのか」
「覚えてないわ。」
「まだ恋しいと思うのか。」
「いいえ、思わないわ。」
ヨゼファは呂律があやしい口ぶりながらきっぱりと言った。スネイプは応じることはせず、何かを確かめるように彼女の額に触れた。
「やはり熱が上がっている」
彼が言うように体温が上がっているヨゼファは、額や頬に触ってくるスネイプの掌の冷たさを心地良く感じて薄く笑った。
「いつからそこにいたの……」
元のように手を握っているように促しながら、握り返してヨゼファは小さな声で尋ねる。
「つい先ほど…。」
「どのくらい前?」
「数時間前になるだろうか、夜中に熱が上がるのは分かっていたから戻ってきたところだ。」
「つい先ほどって言わないでしょう、数時間前は…。今は何時?」
「日付を超えていくらか経ったくらいだろうか」
「貴方と一緒に過ごすのは夜ばかりね。馴染み深い時間だわ……」
ヨゼファは額に浮いていた汗を空いている手の方で拭った。消耗したその様子をスネイプは眉根を寄せて見つめる。
「解熱の薬とかって無いのかしら。ひどく熱いわ。」
「今は何をしても無駄だ。耐えるしかない、」
「そう………。でも貴方が傍にいてくれて良かった。心強いわ…」
私、この手が好きなのよね…と小さく呟いて、指の節が太い彼の手を頬の辺りに持ってきて触れさせた。応えるように掌全体で撫でられる。どこか遠慮がちな接触が微笑ましくて、ヨゼファは表情を和らげる。
ヨゼファの深い息遣いが暗がりの中で繰り返される。
彼女はやがて膝を抱えるようにして、荒い呼吸を鎮めるためか身体を丸く縮めた。スネイプが気遣わしげに肩へと手を置くので、平気だと首を横に振って伝えた。
スネイプはその手を移動させて彼女の背中へと触れた。汗ですっかりと濡れていた寝間着が肌へと触って、ヨゼファは不快感から眉をひそめた。
「着替えた方が良い。」
スネイプはそのままヨゼファの背中に腕を回して半身を起き上げさせた。
「……その前に身体を拭くべきか。」
「うん……?」
朦朧としていたヨゼファはスネイプの腕に身体を支えられながら曖昧な相槌をする。
しかし、彼の手が自分の寝間着の前を合わせている帯へと伸びるのを認めて首を横に振った。
「大丈夫、自分で出来るわ。」
スネイプは熱の籠ったヨゼファの肉体を抱いたまま、また…半日前のように、無言で彼女の顔をじっと見つめた。
窓から差し込む冷たい月明かりがその高い鼻を滑った。ヨゼファは彼の深い色の瞳を見つめ返した。と、その顔は何かきまり悪げな貌へと変わっていく。
「すまない」
低く澄んだ声で謝罪をされた。そして微笑が彼の薄い唇のあたりを漂う。ヨゼファは眉を下げ、「謝らないで…」と苦しげに返した。
頭をスネイプの肩へと預けると、その首の辺りから馴染み深い香りを覚える。苦味があるような、
薬草を強く感じる…だがそれだけではない、落ち着く匂いだった。
「ねえ…それじゃあ、背中を拭いてもらっても良い?」
耳元で頼むと、ヨゼファを支えていたスネイプの腕が戸惑いがちに身体へと回されていく。抱擁を受け入れながら、ヨゼファはより苦々しい気持ちになった。
(本当に………)
もう、自分にはほとほと呆れてしまう。
愛している人なのだ。甘えたい、傍にいて欲しい、優しくして欲しい、そのもっと多くを望んでしまうのは当然だろう。
(この中途半端がいけない、)
ゆるゆると関係を続けて、いつかまた取り返しがつかないほどに傷付くのが恐ろしい。
(でも大丈夫……、もうすぐ私はフランスに行くの、、、)
フランスに行こう。遠くに行って精一杯仕事をしようと思っていた。
一年間も離れていれば、やがてはお互い冷静になって距離を取れるようにもなるだろう。
そう思えば安堵もするが、それ以上に辛くなるのは何故だろうか。決まっている。未練だ。
(本当は、ずっとずっと傍にいたいのよ)(貴方に愛されたい) 冷たい水を固く絞った布が裸の背中にあてがわれ、ヨゼファは思わず溜め息をした。
スネイプはよほど丁寧に彼女の身体を清めているらしい。ゆっくりと、時間をかけて皮膚に浮いている汗を拭っている。
頸に唇の感触を覚えてヨゼファは息を呑む。
首を後ろに回すと目が合った。暫く二人は無言のままで互いを認め合う。
ヨゼファの腕を取り、上腕を拭っていたスネイプは前を向くように促した。それには緩く首を横に振る。
「前は良いわ。自分でやるから。」
「何故」
「何故って…。………、恥ずかしいもの」
「今更?もう何度も見ている。何なら身体の中身…内臓まで拝ませてもらった」
「そう言うこと言わないでよ…」
「照れることもない、ついでだ。」
ヨゼファはスネイプに従って身体を彼の方へ向けた。汗で首筋に張り付いていた髪を横に流し、皮膚を晒す。
彼は表情を違えず、黙々とヨゼファの肩や腹の辺りを拭った。
「…………君は変わらないな。」
独り言のように呟かれた言葉にヨゼファは苦笑した。
「何言ってるの…。変わるわよ、もうずいぶん歳をとったわ。」
「いや、年の割りに変わっていない。」
「そうかしらね…。一体何年経つかしら。貴方に初めて身体を見られてから」
「つい最近のことのようだ。」
「本当?私にはずっとずっと昔に思えるわ。」
君は変わらないな、とスネイプは同じ言葉を繰り返した。重たい乳房に布をあてがわれると、彼の掌に合わせて肉が沈む。
ヨゼファは笑みを弱々しくして、貴方は昔から私のここが好きね、とぼやいた。
「ふふ……、嫌そうな顔しないで。からかったわけじゃないのよ。」
一度布の水を絞り、今度は脚の方を清めていくスネイプをさせるままにしてヨゼファは言葉を続ける。
「私はね、昔から自分の身体の大きさがあまり好きじゃないの。繊細さに欠けるようでなんだかみっともないから。」
スネイプから渡された着替えに腕を通して、不快感から解放された気持ち良さに思わず細く長く息を吐いた。
「でも、貴方がそれを気に入ってくれたなら良かったわ。少しは報われた気持ちになる。」
「別段ヨゼファの身体的特徴に興味はない。」
「そう?」
「ただ…君はずっと美しい。昔から変わらず……」
ヨゼファは寝間着を整えていた手を止め、スネイプの顔を見上げた。狭い視界が奇妙にぐらついて頭の重さが増す。
どう応えれば良いのか分からない。彼の言葉を嬉しいと思ってしまったことが、また、馬鹿な自分らしくて笑えた。
スネイプはヨゼファが元のようにベッドへと臥せるのを助けた。彼に礼を述べ、ヨゼファは再び横になる。
先ほどよりも幾分か熱の下がった掌を当たり前のように取られる。スネイプはヨゼファの青白い手を両手で包み、握り返すようにと視線で訴えた。逆らわず、それに従う。
「ありがとう、セブルス…。おかげですごく楽になったわ。もう大丈夫だから、そろそろ貴方も帰って眠らないと。」
「ヨゼファが眠るまでここにいる。」
そう言って手を握る力を強くする彼にいじらしさを感じて微笑んだ。瞼を下ろし、「もう寝たわ。」と呟く。スネイプもまた弱く笑っているのが気配で分かった。
「おやすみ、ヨゼファ。」
静かな声で。聞き取れないほど静かな低い声で。告げられた挨拶と共に、暗い部屋の中で覚えていた彼の気配が希薄になっていくのをヨゼファは肌で感じていた。
*
マクゴナガルの家宅を後にしたスネイプは直接自分の家に帰ることはしなかった。
当てもなく、雪が積もり始めた夜の中を歩く。
青い月光はその深祕さで空から降り続ける氷の欠けらを照らしていた。美しい光景だった。
彼は、自分の気持ちの整理がかなりまとまっていたのをしみじみと感じていた。そうして、それ以上にまとまっていくのを感じた。
ヨゼファを愛しく思えたことは、恐らく自分自身を赦すことが出来たということなのだろう。
様々な迷いや恨み、怒り、悲しみなどの負の感情がなくなったわけではない。居場所を変えただけでやはり自分の中にある。しかし今はそれによって乱されることはなく、自分の一部だと認めることができた。
大きく息を吐けばそれは白く煙っていく。
傷ついて消耗しながらも、ベッドの上で微かな呼吸をして眠っていたヨゼファの姿を思い出す。
疲れ果てて昏睡した痛ましい寝姿であったのかもしれないが、それはどこか…鳥が自らの柔らかい翼に嘴を埋めて、静かに夜が明けるのを待っている形を思い浮かべさせた。
生きているのだと思った。
懐にいつも忍ばせていたヨゼファの掌がない所為か、胸が驚くほど軽い。
もしヨゼファが帰ってこなくても、腐敗しない彼女の掌と一緒に生きていければそれで満足だとも思っていた。
だがやはり生きている方が良い。身体を拭いてやった時にまざまざと見た、傷付いた肌もまた嬉しかった。
そうまでして戻ってきてくれたのだ。
(寒くなった。)
後ろを振り返り、雪の上に残る自分の歪な足跡を眺めては外套の襟を合わせた。
白い霧が立つ夜の中を再び歩き始める。
満たされたような気持ちがした。毎度の年の瀬、冷たい夜に感じる孤独など少しもなく明るい。最もそれは、彼の行く先に暖かく家路の灯が一面に広がっていた所為でもある。
-------------------貴方は、辛い道を、苦しみを、長い間、、とてもよく堪えて、ここに来てくれたのね。
嬉しい。本当に嬉しい。これは特別なことだ。 小さな日記に綴られていた言葉を噛みしめて思い返していた。
その頁だけは諳んじることができるほどに読み込んでいる。
私がして欲しかったことを、うんとしてあげよう。
貴方が辛い時、苦しい時、それを取り除ける力を、神さま、私にどうか
時間も手間も体力も、惜しいものなんてなにもない、、 だから今度こそ、私は善い魔女に、、、 一週間後に控えたクリスマスに向けて色めき立つ街中をいつもと表情を違えないままで歩けば、ふとした拍子によく磨かれたショーケースに自分の不吉なほどに血色の悪い顔が映る。
よくよくヨゼファには贔屓目が入りすぎた賛辞を容姿に受けてきたが、自分の姿を改めて認めるたびに彼女は視力が壊滅的に悪いのではないか、眼の癒者の元に連れて行ってやらねば、と考える。
だが確かに…自分がヨゼファの取り返しがつきそうに無いほど損傷してしまった姿が愛おしいように、彼女の目に映るこの姿はその言葉の通りなのだろう。信じることができた。
よく、愛してくれたものだと思う。
(長かった………)
この場所に来るまでは長い道程だった。
学生時代を共に過ごすことは出来ず、今日までのヨゼファの孤独を救ってやることは叶わなかったが、これからは出来る限り傍にいようと思う。
(だが、これからだ。)
これからだ、と口の中でも呟いて家路へと急ぐ。
このままではまた幸福を取り落としてしまうのは目に見えていた。今の二人の関係からは変わる必要がある。
どのように、どうやって…まだそれは分からないが………
*
ぼんやりとしながらも変に頭が冴え渡る矛盾した感覚を覚えながら……ヨゼファは、暗い部屋にひとりでぽつんと腰掛けていた。
頬杖をつく小さな可愛らしい机の上には簡易的な鏡がある。ドレッサー代わりにマクゴナガルが置いてくれた気遣いなのだろう。
暫くの間、彼女は鏡の中の自分と見つめ合っていた。
だがやがて目を伏せて視線を逸らす。大きな溜め息が口を吐いて出た。
額のあたりに掌をやり、熱が日中よりも下がっているのを認める。
(やはり丈夫さが取り柄なだけあるわ…。セブルスのおかげね。)
目を閉じると、暗闇の中でじっと自分を見つめていたスネイプの夜色の瞳が思い出される。見たことがないような、知らない
男性のような表情だった。
(熱い……)
視線が、熱かったのだ。その温度を思い出せるほどに。
(いつからあんな目をするようになったのだろう、あの人は)
触れてくる行為全てに労わりと優しさを感じた。へんな気持ちになる。色々な感情が昂りすぎて苦しかった。
皮膚の上をなぞった彼の指先の軌跡を思い出しながら同じ場所に触れてみた。
「愛しているわ」
気持ちが妙に掠れた声で自然と吐露される。
再び瞳を開いて鏡の中の自分と向き合う。もう自分の顔…右部分を占める呪いの痕跡の有様には慣れたが、それでも直視すると憂鬱になる。
大して容姿に頓着があるわけではないが…やはり、美しさへの憧憬はあるのだろう。想像以上にショックを受けているらしい。
「馬鹿ね、もともと大した顔してるわけじゃないでしょ…」
しょげかえっている鏡の中の自分へと、わざと明るい声色で言ってやる。
『差し出がましいようですが、聖マンゴは顔のおなおし専門の施術士も多くいます。いつでも紹介しますよ。』 優しいナースのモイズの言葉を思い出して苦笑した。弱々しく首を振る。
顔の
おなおしをするつもりは無い。
顔と身体に残った醜い呪いとは生涯付き合う覚悟ができている。せめてもの償いであると同時に、自分の魔法を否定することはしたくない。
(私の魔法よ、生みの親が愛してやらなくてどうすると言うの。)
急速に闇が深まり、重たい泡の音が耳の裏に響く。鎖から解放されて暗闇の中を自由に泳ぐ異形の魚が部屋の壁面から壁へと、その巨体を滑らせていく。
「誇っていいのよ、貴方はホグワーツを救ったのだから。」
醜いお互いを慈しむように認め合ってから、巨大な異形は闇の奥底へと再び潜って行った。
「大丈夫…私がちゃんと、
貴方のことを愛している。」
『あの子の顔にはおなおしが必要だわ。』(…………………。)
顔をなおすことを頑なに拒否する理由には、もちろん意地もあるのだろう。
だから、その意地に彼を付き合わせるのはいかがなものかと…そんな、気持ちもする。
『君は美しい』 本当にそう思っているのだろうか。思ってくれているのだろうか。
もしもスネイプが自分に対して責任を感じているだとか…同情、良心の呵責、それらと似た類の気持ちを抱いているのだとしたら最悪だった。
「同情されたくて愛したわけじゃないわ」
不安と孤独に苛まれてどうしようもない時、傍で助けに応じてくれる人間に愛情に似た親密を覚え、心を許してしまう心理を知っている。
今までだってその延長線上の傷の舐め合いみたいな関係だったのだ。同じ毒で互いを慰め合い、同じ毒で消耗し続けている。
「貴方の好きにしていいのよ…。………思うように生きて…」
彼の幸せを考えると気持ちが優しくなるのが好きだっただけだ。幸せになって欲しい。
だがその幸せに自分は必要なかった。むしろ、不幸せにしてしまっていたのだろう。
「ごめんね」
微笑んで、ヨゼファは鏡の中の自分と再び見つめ合う。
「ねえ…でも。嬉しかったわよね。綺麗って、言ってもらえて。」
濡れて熱を孕んだ彼の瞳を思い出すと、つくづく胸がざわついた。机上の腕に頭を乗せて瞼を下ろす。
(その目で……)
青い月光が空から降りしきる氷のかけらを反射させる煌めきを、窓の明かりから感じる。冷たい光の中でヨゼファは浅い微睡みを覚えた。
『美しい』 そう言ってくれたのはスネイプが初めてだった。
男の人と手を繋ぐことも、抱擁を受けることも…キスやそれ以上のことだって、沢山の初めての喜びが彼から与えてもらった。
気持ちに信頼や優しさで応えてもらえることが嬉しかった。
一過性の、気の迷いのような言葉でも良いではないか…とやがて思えるようになった。その一言に勇気をもらって生きてきたのだ。
別れに絶望しない自信なんかない。きっととても辛い。
だが、彼を愛することは自分にとっての光だった。だから誓ったのだ。
(愛されずとも)
愛し続けることを………
* * *
鏡の前で突っ伏して眠りに落ちてしまったヨゼファの頭の回りを、彼女を観察するように青い蝶がヒラヒラと飛んでいた。
やがて蝶は古めかしいながらよく手入れされた鏡の方へと踊るように漂い、スルリと鏡面を滑って
鏡の中へと消えていく。
鏡の中の世界へと戻った青い蝶は麗しい黒髪の少女の姿を取り戻し、目の前で深い眠りへと落ち込みつつあるヨゼファを少し首を傾げて眺める。
『ベッドで寝なきゃダメじゃない』 呆れたように形の良い眉をひそめて言う。そうして溜め息。
『大人って、大変ね。』 濡れた青い瞳を細めて、少女は目の前にいながら触れることのできないヨゼファを見た。
彼女のことを呼ぶ。
まだ、声は届かない。
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