◎ ペトリコール
数カ所が凹んで形が変わった銀器のポットとカップを二脚携えて、暗い廊下を歩む。
扉を細く開き、先ほど二人並んで腰掛けていたソファにヨゼファが変わらず着席しているのを認めて心から安堵した。
彼女は緩く脚を組んでは書籍を開いて視線を落としていた。こちらには不自由な方の横顔が向いている。その輪郭を、蝋燭の焔が鈍い金色に縁取っていた。
「セブルス、どうしたの?」
廊下と部屋の境界線に立ち、しばらくの間一歩も動かないでいたスネイプへとヨゼファは顔を上げて尋ねる。
「いや………」
スネイプはぎこちなく応対しては再び歩を進めた。
足取りが覚束なかったために床に敷かれたカーペットに躓きバランスを危うくする。盆の上に乗せた茶器類が鋭い音を立てた。ヨゼファがハッとして立ち上がり、「大丈夫?」とこちらに近付く。
彼女は錆が目立つ銀盆をスネイプから受け取ってソファ前のローテーブルに置いた。ポットの蓋を持ち上げて茶葉の様子を確認してから縁のかけたカップへと中身を注いでいく…が、ふと再び顔を上げてこちらを見る。
不思議そうな表情で、ヨゼファは「座らないの」と聞いた。先ほど同様に固まって立ち尽くしていたスネイプは挙動不審に相槌をし、彼女の隣に腰を下ろした。
膝に頬杖をして、ヨゼファの所作を見守る。
ささやかな灯りは彼女の手の甲に浮かんだ傷痕ひとつずつに影を落とす。青白い掌。長い形の爪。やはり、掌だけよりもその先に肉体がある方がずっと良いと改めて思った。意思を持って、二人の時間のために配膳をする動きが得も言われず愛おしい。
温かな湯気が昇るカップを手渡された時に、再三度瞳が互いを捕らえ合う。思わずそれを逸らした。逸らした先で気まずくなり、うまい弁明はないものかと思いを巡らせる。
先ほどから、あまりにも露骨に見過ぎていた。……気付かれているのだろう。
「ヨゼファが、あまりにも綺麗だから」
消え入りそうに小さな声で呟きつつ、差し出されたカップを受け取る。
「見惚れていた……。」
ヨゼファは瞬きを数回してから、分かりやすく困惑を表情に浮かべた。困ったように笑い、「へんなことを言うのね。」と応える。
「少しもへんなことではない。」
「……………。」
ヨゼファはそれ以上返すことはせず、目を伏せては笑みを寂しげにする。
その反応から、自分の本意はまるで伝わっていないのだとスネイプは理解した。だが続ける言葉を見つけることもできず…、ただ、無言の時間が続いた。
お互い何かに気を取られ、口に含む茶の味などもろくに分からないのだろう。隣り合ったままで、視線も合わせないままで沈黙が積もっていく。時折茶器が触れ合う硬い音が微かに鳴った。
「痕は痛むのか。」
ポツリと尋ねると、彼女は少し目を細めてこちらを見る。微笑んだまま、「少しね…」と穏やかな声色が返された。
「見せてくれ。力になれるかもしれない。」
手を伸ばし、胸郭の辺りをそっと指で触れた。ヨゼファはスネイプが触れている胸の上を少しの間見下ろしていたが、やがて黒い詰襟の上から小さなボタンをひとつずつ外していく。
喉から鎖骨、そして先ほど触れていた胸の上辺りまで…順番に彼女の肌が現れた。青白い肌に赤黒い呪いの痕が広がっている様は、乳に血液が垂らされて緩やかに揺蕩っているようだった。
直に肌に指を滑らせ、顔を寄せて近くで観察をする。
「傷が少し熱を持っている。怠さを感じることは?」
感触を確かめながら質問した。
「ええ、でも疲れているだけかもしれないわ。」
「疲れ?体力だけが取り柄の君が。」
「失礼ね、体力以外にもあるわよ…取り柄は。」
「確かに。訂正しよう。」
顔を上げると、想像した以上にお互いの距離が近かった。いつの間に雨が上がっていたのか、割れた雲の隙間から差し込む月光がヨゼファの傷付いた顔を真っ直ぐに照らしている。
(本当に……)
暫く、ただただその静謐な白い
面に見惚れていた。また…心の奥を握り潰されたような痛みを覚えて息を呑む。引力じみたものを感じて唇を重ねそうになるが、咄嗟に掌でヨゼファの口を覆った。だが気持ちに抗いきることが出来ず、自らの手の甲にそのまま口付ける。
掌一枚隔てたその唇がひどく恋しかった。溜め息をして手を下ろす。謝罪を呟くと、ヨゼファは首を横に振って構わないと応えた。
露わになったままのヨゼファのデコルテに頭を寄せると、受け入れるように彼女から肩を抱かれた。安堵して、それに甘えて頭を預ける。皮膚を擦らせると、伴って下着の下の乳房が柔らかく形を変えた。
そのまま、暫くの間ヨゼファの肉体に身を任せていた。身体へと腕が回され更に強く抱き寄せられる。いつものように頭を顎の下で撫でられた。気持ちが安定しない夜などは、朝までこうして過ごすことがよくあった。一番好きな抱かれ方だった。
(ヨゼファ)
今、ここでヨゼファに想う気持ちを伝えれば良いのだろうか。
だがどうやって、一体何を口にすれば良いのかが分からなかった。彼女を責め苛んだ自らの行為をもちろん覚えている。胸はつまり、今はどんな言葉もみな嘘になるような気がする。
(私のヨゼファ)
抱きたい。抱かれたい。
だが今だけは願望を堪えなくてはならない。なけなしの誠意をどうか認めて欲しい。
「セブルス…」
ヨゼファはスネイプの髪をそっと撫でながら、優しげな声で名前を呼んだ。
「私、そろそろ帰らないと。」
顔を上げ、今一度彼女へと向き合う。声色と同様、表情は穏やかだった。
「
ママに心配かけちゃったら悪いからね…。」
スネイプの額に軽く唇をつけてから、彼女は言葉を続ける。
「また会いましょう。ちゃんと約束をして…二人で、どこかに出かけるのも悪くないわ。貴方が好きなところに行きましょうね。」
声を囁きに変え、今度はこめかみへと口付けられた。しっとりとした抱擁の名残だけを置いて、そのままヨゼファは溶けるように消えてしまう。
自分を支えていた肉体が無くなってしまったので、スネイプの身体はそのままソファへと沈んでいく。先ほどまでヨゼファがいた空間には、細い光の線で描かれた魔法陣がぼんやりと浮かんでいた。そこへ手を伸ばすが、頼りない儚げな曲線たちはすぐにサラサラと形を崩して跡形もなくなる。
暫く、そのままで中空に掌を留めていた。やがて緩慢に起き上がり、ぼんやりと暗がりの虚空を眺める。
ローテーブルに視線を落とすと、ヨゼファが使用した飲みかけのカップが目に止まった。引き寄せ、しげしげと観察する。
彼女が口を付けた場所に唇を重ね、すっかりと冷め切っていた残りの紅茶を全て口に含んだ。暫く口内に留めてから、喉へと流し込む。身体の中に液体が落ち込んでいく感覚を覚えながら深く溜め息をした。
『貴方が好きなところに行きましょうね。』 耳元に残る、彼女の台詞を思い返す。「私が好きなところ…?」そして反復した。
「そんなものは……、君がいれば、どこでも良い。」
ソファの背もたれに頭を預け、両掌で顔を覆った。ヨゼファ、と恋しい名前を呻くように呼ぶ。
ヨロヨロと立ち上がり、暗い屋内、軋む床を一歩ずつ踏みしめて寝室へ続く廊下、階段を歩んだ。
寝室の壁にはヨゼファの黒いローブが変わらずにかかっている。
その前に立ち、少しの観察後壁から外して共にベッドへと至った。
広がる皺のひとつずつに月光を蓄えたシーツに彼女のローブを広げる。一面の白の上に黒色はよく映えた。
暫くの間その様を見下ろし、指を滑らせて艶やかな黒いローブの肌触りに感じ入っていた。
ベッドを新調しなくては、とふいに思った。
人並みよりも身体が大きい二人である。並んで横になってもゆっくりと休めるような、もっと大きなベッドを買わなくてはいけない。
マットに膝を乗せると、古びを感じさせる軋みが上がった。彼女のローブの隣に身を横たえる。滑らかな生地を掌全体で撫で、その下にある肢体を再三度思い出す。
そうやって自分を慰めるのは何回目になるのだろう。ほとんど毎晩のように行ってきたことだから、最早習慣になっている。
黒い袖に口付け、胸の辺りに顔を寄せて衣服全体を抱きしめる。自然と口からは…やはり。幾度となく呼んできた彼女の名前が呟かれた。
それに返事がなされることをいつも夢に見ていた。この薄暗い部屋でヨゼファを想って零される劣情が、いつか全て受け止めてもらえる日を願って。
「ヨゼファ…っ」
掠れた声で何度も名前を喘ぐ刹那、頬から涙が垂れた。また…泣いている。人生の中で、愛することは全て悲しみだった。気持ちが強ければ強いほどに。
ぼんやりと意識が眠りへと落ち込んでいく中、視界の端に青い蝶がゆらゆらと飛んでいるのが目に留まった。
『良いのよ』 蝶が囁いてくる幻聴を覚える。耳を傾けながら、ゆっくりと瞼を下ろした。
『悲しみがなくては心が冷たくなってしまうわ。』
『悲しみがなくては愛が何かも分からないもの。』
『ああ…でも。全く、不器用な人ね……。』*
「おはよう、ママ。」
今しがた外から戻ってきたところ…と言ったように、冷たい外気を纏ったヨゼファがマクゴナガルの姿を認めて朝の挨拶をした。
「…………。何をしてるんです。」
早朝も早朝、普通であればまだ頭も働かない時間帯に
台所に立つ彼女へと、マクゴナガルは尋ねた。
バゲットやらフルーツやら野菜、卵などなどを鞄から機嫌よく取り出すヨゼファは「朝ご飯の買い出しに行ってたのよ。この辺りは市場が立つのが早いのね…おかげでなんだか買いすぎちゃったわ。」とこちらを向かないまま答える。
「買い出しにしては随分長い時間をかけましたね。深夜から?」
「気付いていたの?」
「夜間に寮を抜け出す困った学生のせいで神経が敏感なんです。貴方もその口だったかしら。」
「いいえ、私は規則なんて一度も破ったことのない模範生よ。減点なんてほとんどされたことないんだから。加点にも縁がなかったけれどねえ。」
「誇らしげに言うことですか。当然のことですよ、」
欠伸混じりに言えば、ヨゼファは可笑しそうに笑みを漏らし、外套を脱いで椅子の背にかける。
「ミネルバ、まだ寝てても大丈夫よ。朝食は私が作るから。」
「お気遣いどうもありがとう。朝は強いので心配はいりませんよ、なにせ年寄りなので」
手伝いましょう、と言ってヨゼファの隣に並ぶ。彼女は礼を述べては笑みを優しげにした。
「昨晩はどこに出かけていたのです。軽率に出歩くことは控えてもらいたいものですわ…。自分の立場をよく考えなさい。」
小言を言う最中、軽く洗った葉野菜を手渡されるので、食べやすいサイズに千切ってはボウルに敷き詰めていく。ヨゼファは溶いた卵に砂糖を加えながら「そうね…」と相槌をした。
「セブルスに会ったわ。」
「え?」
「会うつもりなんて微塵もなかったから、会ってしまったと言うべきかしら……」
トロトロとした溶き卵に食べやすい大きさに裁断したバゲットを浸し、ヨゼファは呟くようにして言った。
「でも、会ってしまった時のことはそれなりに想定して、自分の行動をシミュレートしていたわ……。お別れするつもりでいたの。いえ、付き合ってもいないのに別れるなんて変な表現ね。とにかく…もう、私のことなど構わずに生きて欲しいと伝えるつもりだった。………少し不安だったけれども、出来るつもりでいたのよ。」
よく熱した黒いフライパンの上に、ヒタヒタと卵液の沁みたバゲットがのせられるとジュウと温かい音がする。しかしヨゼファの表情はいつの間にか無表情に、冷たい雰囲気を漂わせていた。
「でもダメね。……やっぱりダメだったわ。私は……」
あの人が好き、
消え入るような声を押し殺して言うヨゼファの背中に、マクゴナガルはそっと掌を添え、幾分か痩せたそこを労って撫でた。
「焦げてしまいますよ。」
注意を促すと、ヨゼファは頷いてフライパンの中に出来上がった黄金色のパン・ペルデュを皿へと盛り付ける。
いつの間にか空の半分が明るく、しかし半分が暗澹とした、冬らしい朝の光が窓から差し込んでくる。
寒々と霧がかかる外の景色の中、街灯がひとつ、鈍いオレンジ色の光を眠たげに辺りへと投げかけていた………。
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