骨の在処は海の底 | ナノ
 トロイメライ

「…………フランスに?」


 まだ全て剥き終わっていないリンゴへと手を伸ばすヨゼファの掌を軽く払いつつも、マクゴナガルは訝しげに彼女の言葉を繰り返した。


「ええ、フランスに。行くことになると思うわ。イギリスにいても肩身が狭いもの。」


 払われた手を大人しく引っ込めてはベッドの上で軽く腕を組み、ヨゼファはマクゴナガルに応対する。


「マダム・チェンヴァレン…いえ、ロードの方がいいのかしら。彼女が直々に来てくださって少しこの国を離れるように勧められたのよ。ボーバトンのオリンペに話をつけるつもりでいるわ、あそこなら安全でしょう。」

「確かに一理ありますが。ホグワーツだって充分に安全な場所です。」

「ええ、その通りではあるけれど………」

「何を不思議そうな顔をしてるのです?まさか貴方はホグワーツに戻らないつもりでいるんじゃないでしょうね。」


 美しい花細工で飾られ切り分けられたリンゴが盛られた皿をヨゼファにズイと差し出しつつ、マクゴナガルはやや語調を強くして言う。


「他の学校よりうち・・の学校のことをお考えなさい。英国の若い魔女魔法使いの教育を放棄されるおつもりですか?優秀な教育者の流出は我が校としても是非避けて頂きたい事態です。」

「……………。私、ホグワーツで先生を続けられるのかしら。」

「続けて頂かねば困ります。もし貴方が必要以上に罪悪感を覚えているのであれば尚更、勤めを続けることが償いとなります。」

「…………………、」


 ヨゼファは視線をマクゴナガルから逸らし、特別病室の広い窓によって切り取られた空へと視線を向けた。そのまま小さな声で礼を述べてくる。


「ありがとう。でも、やはり生徒たちのことを思えばこそ、私はフランスに行こうと思うの。」

「どうして?………いいえ、分かっていますよ理由は。」


 自分の思い通りの返答を得られないことに苛立ち、マクゴナガルは強い語調のままで彼女へと詰め寄るようにした。

 ヨゼファは困ったように笑って両掌をあげる。そうして首を緩く横に振った。


「違うのよ、貴方が予想してることだけじゃないわ。生徒たち彼らのお母様やお父様の気持ちを考えてのことよ。大切な自分の子どもを7年間も預ける学校なのだから、不安にさせてしまっては申し訳ない。」


 リンゴを一切れ銀のフォークにさし、自分の口へと運ぶ穢れた右手を見下ろして彼女は言う。

 マクゴナガルは溜め息をし、なるほど…。と呟いた。


「ですがセブルスだって立場は同じですよ。彼も貴方が一緒にいた方が心強いでしょう。」

「いいえ、同じじゃないわ。彼の行動は全て学校のためであったと説明がつく。」

「貴方もそれはそうでしょう。違うのですか?」

「ええ、もちろん。でも私が闇の魔術を深く識り、研究をずっと続けていたことはどうしても言い訳できない。闇の印と違って隠せる範囲の痕で無し…共に研究の一部を担ったダンブルドア先生の名前にも傷が付く。」

「遠慮は必要ないです、アルバスの名前には今回の件でいくつかの傷が…既に。」


 そうかしら、と彼女はリンゴを美味しそうに食べながら相槌する。


「今生フランスに行ってしまうわけじゃないのよ。チェンヴァレンさんも仰っていた、ほとぼりが冷めるまでだって。」

「…………。出発はいつになるんです。」

「チェンヴァレンさん次第ね。彼女が準備を整えてくれたら、すぐにでも。」

「そんな、すぐに行く必要は……、いえ。身体をもう少し養生してからでないと。」

「でも病院の外にもう出たいわぁ、退屈だもの。」

 ヨゼファはハァと息を吐いてはベッドの背に背中を預ける。


「そう、退屈…。では良い機会だから教科書でも差し入れてあげましょう。つい最近貴方の学生時代の試験の答案が偶然出てきて「えっやだ、ちょっと待って。」

「待ちません。特に苦手だったのは呪文学と数占いと薬学ね。もう一度勉強し直しなさい。ああ、セブルスを講師に呼びましょう。妙案だわ。」

「全然妙案じゃないわよ、ひどいわミネルバ。意地悪なんだから…!」


 もう…、とヨゼファは掌に額を当てて参ったようにする。そんな彼女の慌てた様子が妙におかしくまた好ましく思えて、マクゴナガルはようやく表情を和らげて笑った。


「病院から出して差し上げましょうか?フランスへ行くのをあと少し待ってくれるのなら。」

「どういうこと?」


 二切れ目のリンゴを口へと運びながらヨゼファは応対する。


「私の家にいらっしゃい。貴方には身体と心を休める必要があるのだから。」

「………………。」


 深い青色の瞳がマクゴナガルのことを真っ直ぐに捉える。ぽっかりとした光が浮かんだ、子供のように純粋な眼差しである。そうして少し首を傾げ、彼女はとても心弱く笑った。







「セブルス、」


 マクゴナガルが声をかけると、彼はソファに腰掛けた状態からこちらを緩慢に見上げては素っ気ない挨拶をしてくる。

 だがそれ以上は何も喋らず、ぼんやりと斜め下の床へと視線を戻す。言い知れぬ嫌な予感がして、マクゴナガルは言葉を続けた。


「どうして貴方が病院ここにいるのです、……理由はだいたい見当がつきますが。」

「ヨゼファに会いに来ている。」

「彼女への面会は無理だと何度も釘を刺したでしょう!まさか毎日来ているわけではないでしょうね…!!」

「毎日来ている。問題が?」

「あるに決まってるでしょう!!!」


 全く…!!とマクゴナガルは眉根を寄せるが、自分の大きな声が些か恥ずかしくなって思わずロビーを見回す。……元より人の出入りが多く騒々しいこの場所ではさして問題にならない声量だったが。


「ヨゼファの罪の執行には猶予が与えられているとはいえ未だ取り調べの対象ではあるのですよ。貴方との接触は魔法省からのいらない誤解を招きます。」

「…………。ヨゼファが会いに来ないのが悪い。」

「貴方がこんなに会話が通じない人だとは思いませんでしたわ。」

「それは結構。」


 頑固な人だわ…、とマクゴナガルは非常に呆れた気持ちになった。だが先ほどの病室でのヨゼファとの会話を思い出しては気を取り直す。


(……………………。)


 彼の協力が必要だと思った。そうでなければ、我々・・はヨゼファを失うことになると確信を持っていた。


「セブルス。私は今までヨゼファと面会していましたが…」

「なぜ貴方がヨゼファと面会できて私ができないのか」

「不満そうにしないでください、校長先生・・・・には敬意を払っていただけますか。校長先生?」

「失礼いたしました、校長先生。」

「ああ、今貴方と口喧嘩している暇は無いんですよ。………、このままではヨゼファはフランスに行って、二度と帰らないことになってしまう。」

「……………。何故。」

「チェンヴァレンの意思が大きく動いているようです。今回の戦争においての重要人物だった…という理由以上に、なぜか彼女たちはヨゼファに執着しているように思えます。」


 スネイプは何かを考え込んでいるのか、いつも以上に険しい表情をしては口元に指先を持って行く。暫時の沈黙の後、彼は今までの緩慢な動きが嘘のように勢いよく立ち上がった。


「待ちなさいセブルス、どこへ行くのです!」

「ヨゼファに会いに行く。」

「無理に決まってるでしょう!よほどの理由がなければ面会は適いません、」

「よほどの理由でないと?」

「そうは言っていませんが…、セブルス、それだけじゃありませんよ。貴方はヨゼファに避けられているじゃありませんか…!」


 マクゴナガルの言葉に、今にも走り出しそうだったスネイプはハッとしたようにしてこちらを振り返った。

 二人は少しの間見つめ合う。その時のスネイプの表情を、どう形容して良いのか…マクゴナガルは分からなかった。

 ただ強いて言うのであれば、つい先ほどのヨゼファの瞳の色に似ていた。子供のように純粋な色の光を宿している。


「セブルス。一緒に考えましょう、ヨゼファをホグワーツに留める方法を。」

「…………。」

「ヨゼファが貴方にとって大切であると同時に…私にとっても大事な教え子です。ホグワーツを悲しい思い出にして欲しくない。このままフランスに行かせるわけにはいかないのです。」


 大丈夫ですよ、

 いつもの固く冷たい表情の下に流れる彼の悲しみを汲んで、マクゴナガルは声をかけた。

 スネイプは黙っている。だがゆっくりと下ろした瞼が微かに震えていた。

 大丈夫ですよ。もう一度、心を込めて言葉をかけた。
 






 ナースのモイズが病室に入ると、病人服ではなく…かつて学校で見慣れた黒いローブをまとったヨゼファがこちらを振り返って挨拶をする。

 懐かしいその姿に目を細め、「先生」と言葉を返した。


「退院、おめでとうございます。」

「どうもありがとう。貴方のおかげで楽しい入院生活だったわ。…少し寂しくなってしまうわね。」

「ええ、私も。」


 ヨゼファは微笑み、杖の一振りで荷物がまとめられたトランクをパタンと閉じた。それはスゥと空中を泳ぎ、彼女の手の内へと収まる。


「先生はこれからホグワーツに?それともご自宅でしょうか。」

「しばらくミネルバのところに厄介になるわ。」

「マクゴナガル先生のお家……。」

「ホグワーツにいた時でさえ日常の所作の注意をしょっちゅうされていたからね。一緒に生活するようになったら気をつけないと。」


 ヨゼファはクスクスと可笑しそうに笑みを零した。先生なら大丈夫ですよ、とモイズは励ます。


「そうだ、退院したらスネイプ先生にも会えますね。」

「セブルスに?」

「ええ。ご存知ないかもしれないけれど、スネイプ先生はよくヨゼファ先生のお見舞いにいらしてたんですよ。もちろんそれが適わないにも関わらず。すごく会いたいみたいでした。会いに行ってあげたらどんなに喜ぶか。」


 ヨゼファは微笑んだままで、「そう」と短く相槌をした。「あの……」そこでモイズは、常々気になっていたことを尋ねるために少しモジモジとしながら言葉を切り出す。


「ヨゼファ先生とスネイプ先生は一体どのような関係で……」

「仲の良い友達かしらね。なぜか気が合ったのよ。」

「…………。嘘ですよ、絶対にそれ以上の関係です。」


 返答に対して不満げにすると、ヨゼファは表情を曖昧にしては言葉を濁す。


「なんで隠すんです、珍しいことでもないのに。」

「隠してるわけじゃないわよ。本当にただ仲が良かっただけだもの。お付き合いしていたりとか、恋人だったことは一度も無いわ。」

「でもそれにしては悲しそうです。」

「悲しそう?」

「スネイプ先生も、今のヨゼファ先生も……」


 ヨゼファはなにかを応えることはなく、短い相槌をするに留まる。会いに行ってあげてくださいね、と釘をさすようにしてもどこか返事は煮えきらず、なんだか草臥れたような表情をする。


「先生、もしかして顔の傷痕を気にしていらっしゃるのでは」

「そういうわけでは無いのよ。」

「差し出がましいようですが、聖マンゴは顔のお直し・・・専門の施術士も多くいます。いつでも紹介しますよ。」

「ありがとうジョゼ、でも私はさして痕を気にしてないのよ。お直しをするつもりはないわ。お気遣いありがとう、優しいわね。」


 モイズをファーストネームで親しげに呼びながら、ヨゼファはゆったりとした口調で言う。昔と変わらぬ、眠気を誘うような静かな声色で。


 「傷はそこに人が生きた証だわ。そこまで悪いものでは無いのよ。」


 また会いましょうね。と、ヨゼファは短い入院生活の終わりと別れをモイズに告げる。モイズもそれに応え、弱く笑って頬へのキスに応えた。







 マクゴナガルに通された部屋を見回し、それからヨゼファは口元に手を当てる。小さな笑みを零してから、「素敵」と彼女は呟いた。


「客間なんてもう随分長いこと使っていなかったから少し埃っぽいかもしれないけれども…。」


 ごめんなさいね、と謝罪しつつマクゴナガルは閉ざされていた鎧戸を開いた。夕刻近くの彩度の低い光が、部屋の中に柔らかく差し込んでくる。

 ヨゼファの方を振り返れば、まだ何か可笑しそうな含み笑いをしつつ彼女もこちらを見ていた。


「一体なんです、」


 つられるようにして笑って言葉を返せば、ヨゼファは「いいえ…少し、」と少し照れたようにして応える。


「なんだか、ホグワーツで初めて寮に入った時のことを思い出していたんですよ。」


 さしたる重さもない鞄を机に置き、ヨゼファは目を伏せた。


「私はグリフィンドール寮に…貴方の寮に入りたいと、入学前からずっと思っていました。それが叶わなくて残念だったけれども、家を離れて新しい生活が始まることに期待がないわけじゃなかったの。沢山のホグワーツの新入生同様に、自分だけの小さなベッドがとても可愛く思えて…ドキドキとしてしまったわ。」

「あら、それならグリフィンドールに入れてやれれば良かったわ。貴方は色々抜けているから、十代の時からみっちり教育して差し上げれたのに。」


 えへへ、といったようなよく分からない笑い方をしてヨゼファは場を誤魔化そうとする。

 仕様が無いんだから、と呆れたようにヨゼファの胸の辺りを押しながらもマクゴナガルは少しの幸福を感じていた。彼女と同様、これから初まる新しい生活…久方ぶりの同居人との生活に心が踊っているのかもしれなかった。


(あの人がいなくなってから、一人を寂しいと思うことがないくらいに忙しかったけれども。)

(やはり私も年を取ったのだわ)


 肩に巻いていたストールを解き、椅子へとかけるヨゼファのことを眺める。そこから、彼女の学生時代の面影を見つけようと努めてみた。

 背丈も身体の作りもすっかり成長してしまった為にこれが少しばかり難しいのである。だが顔は幾分も傷付いてしまったとはいえ元の雰囲気を残しているし、笑い方は変わっていないように思える。そして、髪と瞳の色も。


「伸びましたね。髪が…」


 無意識に触れると、予想した通りにふわふわと柔らかい感触である。ヨゼファは「そうね」と相槌した。


「これを機に伸ばしてみてはいかが」

「それも良いのかもしれないわね。」

「そうして私に結わせてちょうだい」


 ヨゼファは瞳だけ動かしてこちらを見てから、表情を穏やかにする。

 薄暗い曇り空からはゆっくりと雨が垂れてくるようだった。糸のような静かな雨が、万物を灰色に濡らす音をさやさやと耳に触らせていく。







 簡単な夕飯を済ませた後、調理をした時と同じように二人は台所キッチンで並んで後片付けをしていた。

 汚れを落とした皿をまとめてヨゼファの方へと杖の動きで寄越すと、彼女はそれを器用に受け止めて食器棚へと戻す。その際「それで……ヨゼファ、」とマクゴナガルは言葉をかけた。彼女は「なあに?」とのんびりとした声色で応える。


「そろそろ聞かせてはくれないのですか?」


 洗い立てのカトラリも同様に渡してやりながら会話を続ける。

 ヨゼファは銀のナイフのくもりを気にしてか、一本を丹念に布で磨いた後に棚へと収めた。だが質問に応じることはないようで、マクゴナガルはひとつ溜め息をする。
 

「セブルスは元より、貴方も肝心なところで口数が少ないんですよ。貴方たち二人の間に何が起こっているのか、私にはまるで分からない。」


 じっと見つめると、ヨゼファは申し訳なさそうに「ごめんなさい」と小さく謝った。謝らないで、同じように小さな声になって返した。


「お酒でも飲みますか」

「良いの?」

「退院祝いですから。」

「嬉しい、ありがとう。」

「…………。」



 --------------------スネイプは結局、ヨゼファについて…またヨゼファと自分について、多くを語ることは無かった。

 断片的な言葉と情報からしか、マクゴナガルは彼らの関係を推し量るしか無い。だがそれにしても、しっくりとくる考えが浮かばなかった。

 スネイプは…ただの自分の片想いだった、と述べるに留まっている。

 確かに思い返せば、ある一時からスネイプはヨゼファを常に視線で追っていたのだ。険しい表情をしていたから、余程彼女のことを嫌っているのかと思ったほどだ。二人を知る大勢の生徒たちも同じような感想を持つだろう。

 スネイプの気難しさはヨゼファの気安さを苦手とする理由に充分値したし、そもそも彼の他者に対する興味は希薄なことは傍目から見ても明らかだった。

 彼がヨゼファをああまでも慕っていることには、まずひとしきりの違和感があったのだ。


 そうして、ヨゼファは今スネイプを避けている。だが…決して会うことが無いようにと注意を払っているにも関わらず、彼を疎んでいるわけでは無いのだ。むしろ恋しそうに、会えぬことに辛さを覚えているのが分かってしまう。


「分かってしまうのよね、」


 声に出して言えば、机上に灯った蝋燭を挟んだ向かいに腰掛けていたヨゼファが「え、」とグラスから顔を上げてこちらを見た。


「どういうわけか、分かってしまうんですよ。」


 空になったマクゴナガルのグラスへとワインを注ごうとするヨゼファを手で軽く制し、「貴方ももうそれくらいになさい。」と言っては水を飲むように促す。彼女は素直に従い、マクゴナガルが注いでやった水をゆっくり口へと含んだ。もう結構な量を飲んでいる。珍しく頬が色付いていた。


「貴方はセブルスが嫌いなのですか。」


 尋ねれば、ヨゼファはゆっくりと首を横に振る。


「ではどうして避けているのです。頑なに会ってやろうとしない。私はセブルスが哀れに思えてきますよ。」

「だって、こんな顔見せたくないし…」

「本当にそれだけの理由で?」


 ヨゼファは口を閉ざし、頬杖をしては斜め下を見つめていた。

 ………それでも、二人が男女の関係であったことは揃ってヴォルデモートの元に降った時から薄々と…そうして今は確信していた。


「愛しているのでしょう。」


 彼女は言葉を返すことは無かったが、残されたたったひとつの瞳の動きだけでこちらをそっと見つめる。微笑み、「そうですか、」と返した。


「セブルスも気持ちは同じでしょう。」

「いいえ、それは違う。」


 ヨゼファはようやく口を開き、掠れた声ながら応答する。酔いが大分回っているらしく、言葉尻が弱々しい。


「………………、ミネルバ。」


 彼女は掌を机の上に軽く組んで、こちらを正面から見据えて名前を呼んだ。


「セブルスは…リリーを…私たちの同級生、ハリーのお母様のことを愛しているのよ。」


 抑揚なく言葉を続けるその声は低かったが、威圧感はない。表情も不思議に穏やかだった。

 唐突に、そうして初めて聞かされたことに、マクゴナガルは素直に驚きを表した。ヨゼファはそれを可笑しそうにする。


「二人はまだホグワーツに入学する前からのお友達なのよ。セブルスはずっとリリーに憧れていて…想いが遂げられずとも…ずっと…その尊い愛情が彼の心を闇の中から救い、光に繋ぎ止めた。知っている?ハリーのことをいつも影から助けていたのよ。最も彼は男の子で、少し父親似なところもあったから、なかなか素直には出来なかったみたいだけれど。私はセブルスのそういう真摯さを尊敬している。一途な愛情は彼の財産だわ…。」


 透明な水が溜まったグラスを手持ち無沙汰に揺らしながら、ヨゼファは何かを夢見るようにうっとりと語った。

 マクゴナガルはひとまずの情報を整理しながら、「そうですか…」と相槌する。


「でも今は?……ヨゼファ。セブルスは貴方のことを」

「そうなのかもしれない。…そうなのかもしれないわね。でも彼の人生と私を愛することはどうしても相入れないのだから。やはりそれは違うわ…」


 ヨゼファはぼんやりとした視線を漂わせては暗い夜色に染まった窓を見つめる。弱い雨が街灯の明かりを反射して、硝子の欠片のようにチラチラと光っていた。


「全部承知で彼のことを受け入れたわ。…お互いとても寂しかったから。それで構わないと思っていた。でも…やはり………」


 私だって、ずっと好きだったのに。


 ヨゼファの呟きに、いつから、と問うた。貴方の生徒だった時からよ、と彼女は穏やかな声色のままで応える。


「辛いことを話させましたか、私は…」

「いいえミネルバ。誰かに聞いて欲しかったの、私。いくら気安い関係でも生徒には話せないことだし。」

「ありがとう、……では次の機会には…私の話を聞いてくれますか。」

「もちろんよ。生きていると辛いことばかりだけれども、話せる友達がいるのは幸福だわ。感謝しなくては。」


 机上に置かれたヨゼファの手の甲にそっと掌を重ねる。相変わらずそこは冷たいが、以前より人間らしい体温になったような気がした。

 壮年とは言え、自分に比べたら若者の手だ。節や筋は目立たず、皮膚も滑らかである。


「私があともうひとまわり年上だったら、貴方に恋をしていたでしょうね。」


 握り返しながらポツリと呟かれた言葉に、馬鹿なことを言うのはお止しなさい、と返した。


(だが…)

(セブルスに妬けないわけではないわ……。)


 冷たい雨の音を耳に覚えつつ、マクゴナガルはゆったりとした微笑みを頬に浮かべた。




 


 ヨゼファは眠らず、静かな雨が続く外の景色を、窓際の椅子に腰掛け縁に頬杖しては眺めていた。


(知らない部屋だわ…)


 ちら、と今自分がいる空間へと目配せをしてからそっと微笑む。屋根が斜めの簡素なこの部屋に足を踏み入れた時から、ヨゼファはここを気に入っていた。


 燐光のように鋭く黄色に光る街灯がガラス越しの雨の中で滲んでいる。人のいない部屋で柱時計がひっそりと鳴るらしい。

 馬車が家の前を過ぎる度に、光が陰ったり射したりして、菱形に区切られた窓の間から朱色が射しこんでくる。風がぴたりと留まると、雨音が柔らかに耳へと触った。


(明日の朝ご飯は私が作ろう)


 マクゴナガルと過ごした穏やかな半日を思い返し、ヨゼファの心は…本当に久方ぶりに、喜びのようなものを覚えた。


(パン・ペルデュなんてどうかしら。卵は確かあったかな…砂糖と牛乳はキッチンで見かけたけれども)

(…………………。)


 ヨゼファはふいと立ち上がり、杖でクローゼットから外套を引き寄せた。手の甲にも伸びる痕を隠すために、衣服と同じ黒色の手袋も一緒に。


 雨の夜は好きだった。

 どこか夢見がちに良い気分で、散歩と買い物も兼ねてこの辺りを歩いてみようと…彼女は足音も立てずに部屋を抜け出し、マクゴナガルの私室の前を過っては階段を降りる。

 扉を開けば黒い夜の中に雨が延々と垂れている。杖の先に雨除けの傘を広げ、ヨゼファはそろりと空を見上げた。 

 透明色のこの傘の良いところはこうして雨を見上げられることである。水の底から空を見上げるような気持ちがする。夜空のてっぺんには雲の隙間から覗いた細い月がじわりと白い光を滲ませていた。


 道路と区切られた鉄の柵へと至る。マクゴナガルの家はブラック家の邸宅と同様特殊な魔法がかけられており、道路側からこの鉄柵を見れば『危険/立ち入り禁止』と表札された荒涼とした空き地が広がるばかりだった。マグルに家屋の面影など認めることはできない。

 冷たい鉄柵に手をかけ、そっと押す。ヨゼファをこの家の住人として既に認識していた鋳物の扉は抵抗もなく開いた。蔦と複雑な装飾に覆われた柵の中にぽっかりと開いた、外部への出口へとヨゼファは足を踏み出した。


 今一度傘の下から空を見上げて溜め息をする。息は白くなって、空へと昇っていった。


(…………………。)


 再び正面へと視線を戻すと、ほんの少しも隔たっていないところ黒い人影が佇んでいた。

 ヨゼファがそれを凝視するのと同様、影もまたヨゼファのことをじっと睨め付けている。


「奇跡だ」


 彼が口を開くと、唇から白い息が煙のように舞い上がった。傘もささずにただ濡れていた掌が開いて、ヨゼファの腕を強い力で捕まえる。声を上げる間も抵抗する間もなく、二人の姿はその場所から幻のように消え失せた。




 


 よく知っている部屋だった。

 
 ヨゼファの記憶の中の姿から、家具の配置から壁紙の破れた箇所、漂う空気に至るまで変わったものはほとんど無い。

 色褪せた壁紙をした壁面に双肩を押さえつけてくる力は強く痛みさえ覚えたが、それは大した問題ではなかった。


 ヨゼファは自分の視界のほとんどを占めて…顔と顔が接するほどの距離で、恨みすら含んだ鋭い瞳をこちらに向ける彼をじっと見つめ返した。

 顔と同様、身体同士もほとんど距離も無く、壁面と黒尽くめの服に覆われた肉体に挟まれていると圧迫感を強く覚えた。


 雨に濡れた黒い髪がその額に張り付いて、頬に雨粒が滑っていく。

  ……風邪をひきやしないか、場違いに心配になった。

 その時、ヨゼファの頬にも熱い涙が滑った。

 声を出そうとしても、陸に打ち上げられた魚のように何も吐き出すことができず、ただ喉を塞がれたように苦しいばかりである。


 腕を伸ばし、彼の胸元に両掌を添えて衣服を掴む。そこに顔を埋めた。鼻腔が残酷なほどに懐かしい匂いを脳へと直接送り込んでくる。


「あっ、、、会いたかっ、、…………」


 理性から切り離された本能が口を衝いて出て行ってしまった。

 これで全てが水の泡である。予想し得る限り最悪の再会だった。会ってしまえば、顔を合わせてしまえば自分の決心など砂上の楼閣のように崩れ去ってしまうことは知っていたのだ。

 いつかアズカバンから戻った時でさえもそうだった。まるきり同じである。また同じ過ちを飽きもせずに繰り返してしまっている。


 袖に水気を多分に含んだ腕が身体に回り、肩を抑えられていた時と同様に強い力で抱きしめられる。伴って、そのローブからじわりと水が沁みて皮膚へと触った。

 雨に打たれていたにも関わらず、その肉体は相変わらず暖かい。


「ごめん、なさ…い」


 掠れた声で謝罪する。

 殊更愛おしむように頬を寄せられる様にゾッとした。それでも、やめてくれなどと、突っぱねることなどは出来るはずもない。為すがままにその感情を受け止めるに留まる。


「構わない」


 低い声で耳元に囁かれる。甘い響きを伴って、脳が痺れるような心地がした。

 残されたたったひとつの瞳から流れる涙は滔々と続き、一人で立つこともままならずに身体を委ねる。


「何も、問題はない。」


 濡れた手で髪を撫でられる最中、その体温がやがて自分へと移っていくのを感じる。けれども寒くて仕方がないのは



『僕を見てくれ』



 フランスに行こう、行って、二度と戻らないでいよう、と強く心に思う。

 もう二度とあのような痛みに堪えることはできない。


(愛している)


 思い知って、想い知っただけの愛だった。


 暗闇の中雨の音だけが息衝くこの夜に、自分の肉体を潰すほど強い力で抱くスネイプの心の内を、ヨゼファはもう…まるで理解することが出来なかった。



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