◎ カナリア
スネイプは、病院らしい重い空気を感じながらその幅広の階段を昇った。
そうして受付を担当するナースに毎度同じとなる用事を簡潔に伝え、同じ答えを受け取る。それならばここで待っていても構わないか、と尋ねた。
彼女は困惑を隠さないながらも一応の了承をする。しかし、「待っていても、出てこられる可能性はほぼ無いかと…」と小さな声で付け加えた。
最後まで聞かずに、待合所の長椅子の端に腰掛ける。
負傷者の数はこのひと月ほどで減りつつあるが、それでも聖マンゴ病院は平素よりもずっと多くの患者が留まっては治療を受けていた。
包帯で顔半分を覆ったパジャマ姿の男や足を引きずる痩せた女、身体のいずれかが欠損した男か女か分からぬ二人が談笑する様子等々が、先の戦争の悲壮さを物語っている。
石のように座したスネイプは、それらを遠い世界の物事のように感慨を抱かずに眺める。時間の流れが遅い。
この建物のどこかに、彼女がいるのだろうかと思った。
それならばふいとここに訪れて、
『待たせてごめんなさい』手を取り、
『帰りましょうか』並んで同じ場所に戻れそうなものであるのに。
* * *
「ねえ…また来てるのよ。」
「ああ、スネイプね。相変わらず
吸血鬼みたいに真っ黒な人だこと。」
困ったものだわ…と呟き、先ほど受付でスネイプに応対したナースは夜を固めたようにして動かない彼を遠くに見やった後、同僚へと眉を下げて目配せをした。
二人は元々グリフィンドールの同窓生で、スネイプにはこっぴどく絞られた経験が多々あった。そのせいか今でも見かけるとへんに緊張するのだ。向こうはこちらのことを全く覚えていないだろうが……
「隔離病棟のヨゼファ先生に会いに来てるのよね。」
「そうよ。」
「もしかして彼に追いかけられてるから隔離病棟へ?ストーカーかしら。」
「ストーカーの可能性は高いかもしれないけれども。そんな理由じゃ隔離病棟の…しかも特別室には入らないわよ。」
「でもストーカーされるような仲だったっけ?」
「どちらかと言うと仲が悪かったような気がするけど、スネイプと仲が良い人を見たことがないからなんとも」
「ヨゼファ先生、スネイプに借金でもしてるんじゃない。」
「確かに取り立ての方がしっくりくるわね。…そう言えば噂を聞いたらしいホグワーツの学生たちが同じ用事で何人か来てたわ。」
「借金の取り立てに?」
「違うわよ、お見舞い。もちろん会わせてあげることはできないけれど。」
「噂はどこからでも漏れちゃうのねえ」
「千客万来だわ、さっきも人を一人通したところよ」
「え?関係者以外誰も通してはいけない筈でしょう。」
「関係者も関係者、その指示を出した本人が来たんだもの。言うこと聞くしかできないわよ。」
同僚は肩をすくめては溜め息をする。ナースの女性はスネイプの方を今一度見て、ゆるゆると首を横に振った。そうして「困ったものだわ…」と再度呟いた。
*
「ヨゼファ先生!」
両手をしっかりと握られて名前を呼ばれるが、ヨゼファの方はぼんやりとした様子でただただ眼前の魔女を眺めることしかできなかった。
「本当にお久しぶりです。…私を覚えてますか?」
「ええ、もちろん覚えているわよ。立派になったわね。」
曖昧に笑い、ようやく取り繕うことに成功する。
ヨゼファは隔離病棟…しかも特別室…の中々に居心地の良いベッドから起き上がり、自分を訪ねて来た魔女たちに応対しようとする。しかしそのままで構わないと、床の上に戻された。
彼女たちの厚意に甘えてベッドに留まったまま、自分の手を握っていたテレサ・チェンヴァレンのしっとりとした掌を握りかえす。
「今は何をしているの。」
分かり切ったことではあるが質問をする。彼女の背後にはその母親であるマリア・チェンヴァレンが控えていた。ヨゼファはその方を見ないようにしながら、教え子であるテレサとの会話がもう暫し続いてくれるように願った。
「お母様のお手伝いかしら?」
「はい、秘書の真似事みたいなことをしています。」
「立派ね…闇祓いは大変な仕事でしょう。状況が状況だもの、今は特に忙しいんじゃないの。」
「いえ、私は母のサポートが主な仕事ですから。でもそれも楽しいですよ。」
明るく笑う教え子の表情に、ヨゼファはやや和らいだ気持ちになって一緒に笑った。
「テレサ、ヨゼファ先生はご病気の身なのよ。お身体に触っては大変だから早く本題に入らなくては。」
二人の会話の区切りが付いたところで、マリアはニコリとして言う。テレサは母親の言葉を受けて「いけない、」と小さな声で呟いた。
「先生、御免なさい。お気遣いできなくて。久しぶりなものだからつい嬉しくて。」
そして形の良い眉を下げ、礼儀正しく謝罪をする。ヨゼファは笑顔で首を横に振った。
「私が先生にお話しするわ。少しの間外で待っていて。」
「はい、お母様。」
「外ではお母様と呼ぶのはお控えなさい。」
テレサが二人に会釈をして病室を後にすると、華やいでいた場の空気は深々と重たくなっていく。
笑顔が失せたマリアと暫くの間無言で見つめ合う。ヨゼファは椅子を手で示し、「おかけにならないんですか?」と尋ねた。
薦めに従い、彼女は椅子の傍へと歩み寄っては腰掛けた。視線の高さがヨゼファと同じになる。
二人の顔の距離は近かった。マリアはヨゼファの残された左眼の中を至近にじっと覗き込み、ヨゼファもまたそれを拒絶しなかった。
「ごめんなさいねヨゼファ先生。娘には公舎に待機してもらうように言ったんだけれど。会いたいと言うものだから。」
「あら、それは嬉しい。光栄です。」
「フランチェスカやアンジェリカも先生のことが大好きなみたい。御礼を言うわ…ホグワーツで娘たちがとてもお世話になったわね。」
ともすれば顔が触れ合いそうな異様な距離感ながら、会話はあくまで教師と生徒の保護者間でなされるものを逸していなかった。
やがてヨゼファは溜め息をして視線を逸らす。この時間を早く終わらせたかった。
「顔、」
マリアの一言と共に、その指がヨゼファの頬を滑る。予想外の接触に驚き、再び視線を彼女へと戻した。
「随分と傷付いてしまったのね………」
「…………………。」
ヨゼファは自分に触れてくるマリアの掌を無言で制した。美しい魔女は素直に手を離しては下ろす。
----------------聖マンゴ魔法疾患傷害病院は、ロンドン都市部の雑踏から少し離れた静かな場所にひっそりと建っている。
特別室と呼ばれる高級な造りの広い病室は窓からの景色が殊更良く、遥かに麦畑が続いた向こうにうち拓けてなだらかな丘陵の起伏が望むことができた。のどかな田園風景である。
僅かに開けた窓から入ってくる風は、その空気の清涼さを多分に含んでいた。
「フランスにお行きなさい。」
静けさの中で、マリアが今日訪れた本題であろう事柄を告げる。
「フランスに……」
ヨゼファはそれを鸚鵡返した。
「闇の帝王と関わりが浅かった死喰い人たちと同様に、お前の咎は少しの償いで済むわ。だが私たち魔法使いと死喰い人とに生じた軋轢は今回の戦争でより一層深まった。これからも冷たい戦争が続くでしょうね……」
マリアは脚を組み、窓から室内へと運ばれる冷たい空気に感じ入るように小さく嘆息する。
「お前は魔法使いにも死喰い人にも歓迎されない。どちらにとっても裏切り者であるのだから。」
「私はどちらの裏切り者でもなければ味方でもないわよ。」
「お前の心の在り方など今はどうでも良いの、周りがどう見るかよ。その身体の醜い痕がお前と闇の魔術との強い結び付きを示しているじゃない、私たちからすれば言い訳の余地なく裏切り者よ!」
やや語調が強くなった母の言葉にヨゼファは耳を傾け、そして素直に頷いた。「そうね。」小さな言葉を続ける。
その反応が気に障ったのか、マリアはサイドテーブルに置かれた書籍を叩き落とす。硬い床に埃っぽい音を立ててそれらは落ちて行った。
(相変わらず烈しい人…。)
ヨゼファは何故か不愉快さを感じることはなく、けれども「本は大切に扱わなくてはいけませんよ。」と嗜める言葉を口にした。
マリアは返答せず、杖を動かしてそれらを元の場所に戻した。そしてまた、言葉を続ける。
「だからヨゼファ。フランスにお行きなさい、フランスならまだ受け入れてもらえる土壌がある。」
「確かに…今の私がこの国で生きていくのは難しいのかもしれないわね。」
「悲愴がることはなくてよ。数年かあるいは一年ほどで充分でしょう…ほとぼりが冷めたら戻れば良い。」
「………………。」
「ボーバトンで非常勤をしていたのよね?あそこなら安全だわ、私から話をつけておく。」
「いいえ、お手を煩わせることではありません。自分で出来ると思うので…」
ヨゼファはマリアと会話しながらも先ほど落とされた書籍を開き、視線を落とす。世話をしてくれるナースの一人が退屈を心配して差し入れてくれたものである。
「でもね、チェンヴァレンさん。」
なんとなく頁を目でなぞりつつ口を開くが、その本が恋愛沙汰の
物語だと理解するとそれ以上を読み進めるつもりにはなれず、サイドテーブルに戻す。
「私は魔法使いにとっての裏切り者であっても生徒の味方ですよ。死喰い人の子ども、魔法使いの子ども、そしてマグルの家の子…全て差別なくホグワーツの学生は私の可愛い教え子です。だからどうかやめてくださいな。死喰い人の家系の子どものホグワーツ入学の資格を剥奪するなんて。」
「剥奪するなんて誰に聞いたのかしら、人聞きが悪い。彼らのために別の学校施設の編成をするだけよ。」
「区別はやがて差別となるのをご存知でしょう。お互いを知ろうとしなければ更に溝を深めます。」
「裏切り者の自覚がお有りなら差し出がましいことを言わないでくださいませんか?ヨゼファ先生。」
「申し訳ありません。ごめんなさい。」
ヨゼファは瞼を下ろし、静かな気持ちでかつての母親との会話に興じていた。
お互いの言葉が途切れる。静寂の狭間、のびのびとした鳥の声が遠くに聞こえた。
「お前は本当に父親とそっくりね。」
ヨゼファの方を見ず、窓の先、遠くの丘陵を眺めながらマリアは独り言のように言う。
「私はあの人の故郷に行ったことがない……。彼も自分の郷に帰りたくはないようだったから。」
マリアの肖像画のように端正な横顔を眺めながら、本当に自分はこの人の血を受けているのだろうかとヨゼファはぼんやりと考える。
やはりどう見ても顔は似ていないように感じたが、自分の顔面半分のカタストロフを思えばそれはもうどうでも良いことだった。
「フランスとはどう言う国なの。大して距離は離れていないけれども英国と違うのかしら。話して頂戴。」
藪から棒な質問に面食らって、ヨゼファは瞬きを数回する。しかし彼女の意を汲んで、かつて教壇に立った時と同じようなゆっくりとした口調でそれに応えた。
「そうですね。何からお話しすれば良いのか…、フランスはイギリスよりも建物の壁が明るい色なんですよ。路にはマロニエの樹が植えられていることが多くて、初夏はその薄い葉を通した光が小麦色の石壁にチラチラと黄金に照り返します。綺麗な国ですよ。エレガントとでも言うんでしょうか……イギリスよりも、柔らかな形が多いと言うか。」
あとはとにかくケーキが美味しくて、とうっとりとして甘味の思い出を語ろうとするが、母の深い青色の眼差しがひどく真剣なために思い留まる。そうして
「どうしたの?」
と思わず尋ねた。
「
同じ場所なのよ。この部屋で…同じベッドにずっと横になっていた。肺が悪かったから、部屋はいつもスチームを炊き込んで湿っぽかったのを覚えているわ。」
「…………。私はそんなに父親似なのかしら。」
「似てないわよ、お前なんかと似ても似つかない。」
「さっきはそっくりだと言っていたのに?」
声を潜めて話すうち、自然と二人の頭は近付き、またも顔の距離が触れ合うほどになる。頬に触れる手を、今度は拒否せずに受け入れた。胸の奥がジンと痺れるような妙な心持ちになる。
「私はフランスの言葉が好きだわ。さやさやとして、まるで妖精の国の言葉のよう。」
マリアが色素の薄い睫毛を伏せるとその目元に淡い影が落ちた。全く年齢を感じさせない美貌である。年相応でないのが不気味に思えてしまうほどに。
「ねえ、何か話して。あの人の国の言葉で。」
「話して、と言われても…。何を話せば」
マリアの深い青色の瞳の中に映る自分を見つめながら、ヨゼファはやはり拒否をすることが出来なかった。
そして、破れぬ誓いとして血縁を無に帰したことが正解だったとつくづく考える。愛憎が絡まり合っていつまでも身動きできずにいる母娘だった。救いようがなく、今でもずっと。
触れるだけの口付けの最中、マリアの長く艶やかな髪が頬に触れる。色は同じでも髪質は違うのだなあとしみじみとした気持ちになった。
『私と貴方って髪質が似てるわ。』 ふと昔のことを思い出してしまい、マリアの肩を押した。
溜め息をして、首を左右に振る。いつになるのか…あれは
彼の髪を梳かした時のことだ。浴室で。
『色は全然違うのにね。』「フランス行きのことはよく考えておきなさい…。協力できることがあれば
魔法省が手を貸すわ。」
「ありがとうございます。」
何事もなかったように言葉を交わし、簡単な別れを告げてマリアは部屋を後にした。
一人残されたヨゼファはあまりにも遣る瀬無い気持ちとなり、眉根を寄せた。
『セブルス』 少女の時から、何をする時でも彼のことを考えてしまうのは習慣だった。
彼が
彼女を考えるのと同じように。
「私、人魚姫のように綺麗な泡になって消えることも出来ないのね……。」
小さな声で呟き、ヨゼファはゆっくりと顔を両手で覆う。視界からすべてのものを奪うために。
「どうして私の愛情はこんなにも重たくていやらしいのかしら」
指先に柔らかく絡む黒い髪の感触を鮮明に思い出しながら、奥歯を噛み締めた。
その髪に触れて、撫でてやると彼は目を閉じて嘆息するのだった。そうされるのが好きなのだと思う。だから身体を抱く時、それからキスをする時にゆっくりと繰り返し行った。
もう二度とそうすることもないだろうけれども。幸せな時間だった。それは間違いがない………
* * *
「テレサ」
二人の魔女は病院の長い廊下を無言で歩んでいたが、やがてテレサは呼びかけられて母親の方へ首を向ける。
「ヨゼファ先生をうちでお引き受けすることになるかもしれないわ。」
「うちで?先生は魔法省に所属なさると言うことでしょうか。」
「いいえ、うちはうちよ。チェンヴァレンのこと。」
彼女にしては珍しく突拍子のないことを言うものだ、とテレサは少し首を傾げつつも「そうですか」と相槌した。
「別に今すぐではないわ…英国内が少し落ち着いたら。ひとまずヨゼファ先生には予定通り暫くフランスに行って頂く。」
「はい、分かりました。でもどうして急に?」
「問題あるかしら。」
「問題はないですけれど。」
「……………。肉体が闇の魔術に侵されたままだったのを見たでしょう、私たちの目に届くところにいてもらった方が…何かと…、」
母の様子がおかしいことにもちろんテレサは気が付いていた。だがその理由は思い当たらず…また尋ねることも憚られて、ひとつ頷くに留まる。(でも……)
「大丈夫ですよ。ヨゼファ先生は善い魔女ですから。お母様が不安がるようなことは…何も。」
「仕事中はお母様と呼ぶのをお止しなさい。」
「ごめんなさい。………。きっと、それが適えばフランチェスカとアンジェリカも喜ぶでしょうね。私たちと先生は偶然にも髪や瞳の色が一緒だから、お姉さんができたみたいになって、」
年が離れすぎているわ、マリアが無表情で呟く。でもまるきり有り得ない年の差ではないでしょう、と笑って返すと母もつられるようにする。
心弱く、不思議な翳りがある微笑は彼女の細面に美しく映えていた。
*
「スネイプ先生ですよね…?」
遠慮がちに声をかけられ、ふと顔を上げる。
癒者の緑のローブとは異なり、白い制服に身を包んだナースが声色と同様やや緊張した面持ちでこちらを見下ろしていた。
スネイプは腰掛けたままで質問を肯定する短い返事をした。
「ああ、やっぱり。学校の外でお見かけするとなんだか別の人のようで。数年前までハッフルパフの学生だったので…お世話になっていました。」
礼儀正しくこちらに一礼する元生徒のことを、スネイプは不思議な心地で眺める。
学生や元生徒と学校の外で言葉を交わすことは滅多になかった。他の教授たちと違い学生と必要以上の付き合いをしないスネイプにとっては尚更である。
見かけることは勿論あるが、大抵は気がつかぬふりをして…むしろ向こうがそそくさと逃げ出すのを横目にして、やり過ごすのがほとんどだった。
「ふふ、気にしないでくださいね。スネイプ先生は私たちにとってたったひとりの魔法薬学の先生でしたけど、先生にとっての私たちはあんまりに沢山でしたから。成績も目立って良いわけではありませんでしたし。」
彼女は何かを汲み取ったのか笑顔で言葉を続ける。
「先生を病院で見るなんてなんだか不思議です。早く良くなるといいですね。」
「別段身体が悪いわけではない。」
「そうですか。ではお見舞いでしょうか。」
頷くと、人の良いナースは笑顔のままで「素敵です」と応えた。
「よろしければお部屋にご案内いたしましょう。どなたのお見舞いに?」
「………………。ヨゼファ…ヨゼファ先生への面会は…適いますかな。」
彼女の名前を口にすると、ナースは一拍置いた後に「ヨゼファ先生に…?」と小さな声でそれを繰り返す。その後、緩く笑って「ああ、そうですか。」と穏やかな口調で言う。
「何か問題でも?」
「いいえ何も。ただ、スネイプ先生がわざわざヨゼファ先生のお見舞いにいらっしゃるなんて、と思って嬉しくなっただけですよ。」
「…………………。」
「スネイプ先生はヨゼファ先生のことを…失礼ですがあまりお好きでは無いのかな、と傍目には見えたので。」
彼女は顔を上げ、どこか遠くを眺めた。
何かを思い出しているらしい。少しの例外を除き、ホグワーツで過ごした時間は魔女魔法使いにとって懐かしく優しい思い出となっている。それを改めて感じさせられるような表情だった。
「でもごめんなさい、とても残念ですがヨゼファ先生には限られた方しかお会いすることが出来ないんです。」
「知っている。」
「え?」
「それは分かっていることだ。」
彼女はスネイプの返答にどう応えれば良いかを迷うらしい。少し困ったように、気弱そうな表情をする。
「スネイプ先生とヨゼファ先生は、本当は…仲が良かったんですか。」
「……………、………。それなりに。」
否定しかけるが、考えて否の一言を取り下げる。
確かに仲は良かったのだ。友人関係の範疇であれば親友という言葉も、差し支えがなかっただろう。
彼女はスネイプの答えに満足をしてひとつ頷く。素敵です、とまた同じ言葉を繰り返した。
「ヨゼファ先生にお会いすることは難しいんですが…でも、今のご様子をお話しすることはできますよ。本当はそれも、あんまり良いことではないんですけれども。」
やや声を潜めた彼女を値踏みするように眺めてから、スネイプはゆっくりと腰を上げて隣に並ぶ。「それならば何故?」同様に声を一段低くして尋ねた。「何故でしょう…」彼女は相変わらず困ったようにして応える。
「ただ…私は先ほど言ったように目立って成績が良いわけではありませんでしたが、魔法薬学は好きだったんですよ。今こうして医療に従事している理由の一端でもあります。」
二人は人が多いロビーから離れてゆっくりと歩き始める。外来診療の受付から、入院している患者たちが生活する棟へ続く廊下へと至る。
ホグワーツの校舎よりも小ぶりではあるが、それでも似たようによく手入れされた中庭を頂く陽当たりの良い病棟が眼前に現れた。
「薬学は教科書を丁寧に読み込めば失敗することはなく、望む通りの薬が調合できます。他の魔法の授業よりも博打や感覚的な要素が少ない。それが好きでした。……ホグワーツの生徒全てが冒険好きで未知への興味に満ちているわけではありません。ただただ毎日を穏やかに過ごすことを望む私にとって、薬学の勉強は癒しでもあったんですよ。」
「…………。他の教科と同様、薬学にとっても教科書だけが全てではない。」
「ええ、知っています。だから言ったでしょう?成績が目立って良いわけではなかったと。」
「だが大切なことだ。先人の知識に敬意をはらうことは……」
目を細めて青い草が茂る中庭を眺める。陽がいっぱいに射したそこに鮮やかな花が燃えているように生えていた。
「君は愛の妙薬の調合が人一番優れて上手かった。ミス・モイズ。」
「光栄です、先生。望んでもいない特技で…一度も自分で使う機会はありませんでしたが。でも良いお小遣い稼ぎにはなりました。」
「一度も?」
「ええ。だって、虚しいだけですわ。」
スネイプは瞼を下ろしてひとつ頷いた。あそこです、と彼女が手で示す方向を見るために、再度瞳を開く。
「ここから見える最上階…そのフロア全てが隔離病棟の特別室です。あちらにヨゼファ先生はいらっしゃいます。」
「………贅沢な広さだ。」
「でも自由はありませんから。あまり良いものではありませんよ。」
病棟の造りは上に行くほど細くなってはいたが、それでも病室としては広すぎることが伺える。そこを見上げて、いるのか、と心の内で尋ねた。(君はそこに、)
「ヨゼファ先生も、私のことを覚えていてくださいました。」
「君たち生徒が思うほど教師は薄情ではない。」
「ええ、本当に。その通りですね。」
下から見上げる窓からは室内の様子を伺うことはできない。何かの気まぐれで彼女が窓から外を望んではくれまいか、と考えるが…その気配はなかった。
「
病院は、辛い治療のせいで気力を失った人や希望を持てなくなってしまった人が大勢います。ヨゼファ先生も半身にひどい怪我を負われていましたが、どうしてでしょう…それでも学校にいた時とお変わりなくいつもニコニコとしていらして。」
「変わりはないのか。」
「ええ、あくまで表面上は。」
「………。肉体が傷付いていれば心も傷付く。身体と心は別々ではない……、」
「でも笑顔でいてくださることは私たちにとっても励ましにもなります。やはり、お変わりはありませんよ。今も昔もヨゼファ先生は優しくて。」
そうだ、変わってなどいない。
無機的に陽の光を反射する窓ガラスを見つめて眉根を寄せる。(変わっているはずなどいない)胸の内で強く繰り返す。
(今も愛してくれているならば…)
(何故会いにきてはくれなかった)
(何故避ける、私を)
私がお伝えできるのはここまでです、と告げられ、戻るように促された。来た時と同様に長い廊下を渡り、受付へと帰ってくる。
モイズと別れた後も、病院から立ち去ることができなかった。近くにいるのに会うことができぬもどかしさから、思わず下唇を噛んだ。
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