骨の在処は海の底 | ナノ
 星降る夜のビート

 朝から雨が降る日であった。

 冬の冷気に晒された雨粒は氷のように冷たく、湿った空気は気持ちをより重たくさせる。

 石造りのホグワーツは暗い雨の中に沈み、遠目には闇が塊になっているかのように見えるのだろう。


「そんな…………、」


 マクゴナガルは続ける言葉を無くして口を噤んだ。しかし気を取り直しては魔法省の役人と数人の闇祓いたちの方へと向き直る。


「冗談ではないのですよね。あの状態から人間の姿を取り戻すなんて…」

「我々がわざわざジョークをお伝えするために貴方の元へ訪れたとでも?」

「そんなことを思ってはいませんが」


 老齢の美しい魔女は額のあたりに手の甲をあて、冷静になろうと努めた。

 静寂の背景には、校長室に鎮座する不思議な魔法を帯びた用途不明の物体たちが、規則正しくそれぞれの動きを繰り返していた。それに伴ったささやかな音が単調に続いていく。


「状況をご理解頂けた上でお尋ねしてもよろしいでしょうか、マクゴナガル先生。」

「ええ、どうぞ……」

「彼女の居場所をご存知でいらっしゃいますか。」

「え?」

「ヨゼファは確かに肉塊の状態から黄泉還りました。そして、消えたのです。」

「消えた、」

「それも抜け出すのがひどく困難な筈の留置所から。」

「ちょ、っと待ってください。なぜヨゼファが留置所に。あれは犯罪者が置かれる場所ではありませんか。」

「死喰い人の女です。充分そこに置かれるに値する。」

「それには理由があると何度も私は申し上げたはずです、現に貴方がたはある程度の死喰い人たちには情状酌量の余地を認めているじゃありませんか。」


 役員の魔法使いは、今はその話をしにきたわけでは無いと、やや億劫そうに会話の方向修正を図る。マクゴナガルはそれを遮るために言葉を重ねたかった。だが今はヨゼファの安否の方が気にかかる。緩く溜め息をしてから口を開いた。


「私はヨゼファの居場所は存じ上げませんが…。セブルスが……、セブルス・スネイプ教授が何かを知っている可能性が高いかと。恐らく彼女と一番親しい魔法使いですから。」

「ええ、承知です。しかし残念ながら彼も何も分からないらしい。ヨゼファが人間の形を取り戻してから消えるまでの間…そして現在も、彼は私たちの監視下に置かれています。二人の接触は不可能と言える。」

「セブルスの家やこの学校の彼のオフィスには、」

「もちろん調査済みです、」

「そうでしたら私に心当たりはございませんわ。」

「他にヨゼファが親しくしていた魔女魔法使い、あるいはマグルをご存知ではありませんか。彼以外の教師や生徒は」

「あの子が生徒を頼るとは考えにくいことです…。そして同職の教師たちにも。」


 いつもどこか、少しの距離を取って人と接している子でしたから。

 その…個人的なヨゼファという魔女に対する感想を口にはせず、もう言うべきことはないとマクゴナガルは首を横に振った。



 彼らが来た時と同じように暖炉を通じてホグワーツを去った今、冷たい石の城へと降り注ぐ雨の音がより一層静寂を深めていく。

 鉛線によって菱形に区切られた窓へと、マクゴナガルは視線を向けた。蜂蜜色の石壁はすっかりと雨に濡れて灰色になっている。家禽類も今は梟小屋に閉じこもり、眼下に広がる泥だらけの道には人影もない。

 こんな道を見ていると、マクゴナガルはなぜか人生を思い悲しくなった。


 歴代のホグワーツの校長たちの肖像画で埋められた壁面に視線を移す。ほとんどの者が焦燥して疲れ切ったように目を閉じ、あるいは眠りについていた。


「アルバス、」


 小さな声で呼びかけると、その中で一際馴染み深い魔法使いの肖像画がパチリと目を開く。薄いブルーの瞳が潤んだように光ってマクゴナガルのことを捉えた。


「私はどうすれば良いのでしょうか……」


 彼が口を開く前に、マクゴナガルは心弱い問いを投げかけた。彼女は…この肖像画があのアルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアとは似て非なるものであると理解っていた。だからそれは独り言のようなものだったのかもしれない。


『魔法省は…ヨゼファの黄泉還りを利用して、彼女に先の戦争の罪を多く背負わせるつもりでいる。』


 暫時の思考の後、肖像画はポツリと呟いた。「ええ、そうでしょうね。」マクゴナガルはそれに相槌をする。

哀れな仔羊スケープゴートと言うには少しあの子は大きすぎる気がしますが…」

『彼らよりも先に、ヨゼファを見つけ出してあげなさい。』

「私にそれが出来るのでしょうか。検討もつきません、この広い英国…いえ、もしかしたら最早国外に出てしまっているのかもしれない。どこにヨゼファがいるのか……」

『ミネルバ、問題など何もないのだよ。急いだ方が良かろう。今頃どこかで雨に打たれて…たった一人で寂しい思いをしているに違いない。』


 そこまで言って、ダンブルドアの肖像は瞼をゆっくりと下ろす。マクゴナガルは金色の額に縁取られたそれに再度呼びかけをするが、返事は為されなかった。







 無人のホグワーツ城の中を歩み、階段を昇り……そうして、彼女がいなくなってから幾度か足を運んだその執務室兼自室へとマクゴナガルは辿り着く。

 巨大な建物全てがすっぽりと灰色の雨の中に包み込まれ、辺りには物音ひとつしなかった。ゴーストの気配すらない。

 無人と分かりきっている室内に向かってノックをする。返事を期待するような数秒間。すぐに気を取り直し、ドアノブに手をかけた。


 大きな窓を持つヨゼファの部屋には、鈍色の光がサラサラと運び込まれている。その中に視線を漂わせて、手掛かりを見つけようとした。

 このホグワーツではなく…ヨゼファの家…夏のバカンスを過ごしている家宅に戻っているのではなかろうかとも考えるが、闇祓いたちがそこを捜査していないことは考えにくかった。それに最早あれを家と呼ぶことは難しい。柱が一本か二本、哀れな有様で海風に晒されているだけである。


 そしてこの、彼女の部屋。全てが終わって訪れた時にはほとんどの私物が処分されていた。スネイプがそれなりの物を持ち出したこともあって、今はもぬけの殻と言って差し支えない。


(本当に……、還ってきたのだろうか。まだ信じられない、)


 湿った大地の匂いがする。

 窓から外をみれば、水晶を糸にしたような冷たい雨が万物の上に降り注いでいた。

 ------------ヨゼファの髪の色に似ている空模様だった。

 学生時代は髪を長く伸ばしていたのだ。身の丈の高さを恥じるように背を丸めては長い廊下を所在無さげに歩む彼女の姿がぼんやりと思い出される。


(…………………………。)


 あの痩せた少女が、自分がよく知るヨゼファと同一人物だとはにわかに信じ難い。だが…ヨゼファは快活そうに見えて、少女時代のセンシティブな部分を内に秘めていることは共に過ごしたそれなりの年月の中で察することができた。


チェンヴァレン


 水辺にいることが多かった気がする。悲しいことや遣る瀬無いことを耐えようとする時、彼女は水の流れがある場所でぼんやりと立ち尽くしていた。


『ヨゼファ・チェンヴァレン

『聞こえないのですか?』

『また勝手に抜け出して』

『言い訳するならハッキリと言葉でお伝えなさい。』

『………なんですか、』

『何を笑っているのです』

『何が、おかしいのですか』



(え?)


 ふと、マクゴナガルは顔を上げる。そうして変わらずに雨が降り続ける外へと視線を向けた。


「まさか」


 この雨の中を、と続けながらも、マクゴナガルは記憶の中で見た景色へと向かって歩みを進める。部屋を後にして冷たい石造りの廊下を進み、階段を降りた。


(そう……、この廊下。階段。)


 沢山の教室、空き教室、開かない教室、優雅な象嵌細工で飾られた石の床がそれらを繋いでいる。


 学校というのは小さな社会である。人気や羨望を集める者がいる一方、人に馴染むことが出来ず、この冷たい床ばかりをじっと見つめながら校内を歩んでいた生徒がいることもマクゴナガルは分かっていた。

 教師というのは難しい職だった。全ての生徒たちの幸せを願いながらも、彼らのために行えることはごく限られている。


 灰色の空気に浸された芝へ繋がる巨大な扉に至り、外へ出る。雨避けの為に杖先からさした透明な傘の上を雨粒が滑っていった。

 茂る草から覗く赤土も今は黒く濡れ、古色蒼然たるホグワーツの石階段には苔の青色のさびがある。


 足元を探るようにしながら一段ずつ石段を降った。歩む彼女の傍を一樹、思うままに雨粒を滴らせた針葉樹の枝ぶりが見送っていく。

 雨音の中に別の水音……サラサラと静寂な響きが混ざってくるのが聞こえた。-----------水場が近い。


『この湖の底に、溶けて消えてしまえたなら』


 ドローレス・アンブリッジから逃れるために、この学校から逃れた彼女が数年前に戻ってきたのもその静かな水辺だった。その時、微かな声で呟かれた言葉を聞き取ることがどうしても難しくて。
 

『消えて無くなってしまえたなら、』


 薄闇に沈む湖畔にヨゼファの姿は無かった。

 立ち止まり、目を見張って確認する。飛び石が影を水面に沈めているのが見えるだけである。

 それをさして気にせず、濡れそぼった草を踏み分けて歩いていく。

 微かな声、歌が聞こえたからだ。音程が妙に外れて下手くそな歌が。


 やはり彼女はそこにいた。

 すり鉢状になっているために丘陵からは隠れて見えずにいた湖畔に、その魔女はこちらに背を向けて座り込んでいる。


「ヨゼファ、」

 
 声をかけると歌声は止んだ。

 風が吹き、雨が斜めに飛んでいく。黒い森の方へと雨粒は渡っていき、樹々はざわざわと戦慄いた。

 彼女は手の動きを止めるが、こちらを振り向くことはしない。


「聞こえないのですか?」

「聞こえていますよ。」


 存外確かな声で返答がなされる。

 ヨゼファは暗い湖の向こうをぼんやりと見ているらしかった。

 掌中には、辺りの野草を摘んで作ったのだろう、緩く編まれた草がぐるりと輪を作って収まっている。……一体なんの意味があるのだろうか、と考えた。

 やがてヨゼファはゆっくりと身体を起こした。こちらを向いた彼女の唇の端から白い息が漏れる。

 異様な顔面だと思った。息を呑むのを隠すことができず、喉の奥では引きつった音が鳴る。彼女が成した呪いはその肉と骨身に沁みて、更に魂にまで焼き付いてしまったらしい。変わらぬ白い面を保った左顔面と、右眼から頬のあたりにかけての有様の対比が痛々しさを一層際立たせている。

 ヨゼファは残された左目でこちらを少しの間伺うが、雨に濡れそぼった灰色の髪で自らのグロテスクな容貌をそっと隠す。荒れ冷えた風が吹き、夜に近付く空気がその顔にどす黒い影を差し込ませていた。







『寒くて身体に触りますから…ミネルバ、屋根があるところに戻った方が良いでしょう。』


 水を吸った薄い着物一枚がピタリとその肉体に張り付いているだけの自身の様子を棚に上げ、ヨゼファはそんな寝ぼけたことを言った。

 色々と言い返したかったがマクゴナガルはそれを口にせず……二人の魔女は連れ立ってホグワーツの校長室に戻ってきた。

 彼女はダンブルドアの肖像画を見つけると嬉しそうに手を振って挨拶をした。しかし肖像は瞳を閉じて眠っている最中のようで、無反応である。


 杖の一振りで彼女をしとどに濡らしていた水分を払ってやると、よくよく見慣れたヨゼファの姿シルエットが現れる。淡い灰色の髪はホワホワとして軽やかで、こちらを認める親しげに形を緩くする瞳も。左目に限ればの話ではあるが……

 ヨゼファは笑顔で礼を述べてきた。マクゴナガルはそれには応えず、「何を笑っているのですか」と小さな声で尋ねた。


「ん…どうしたんですかミネルバ。」

「それは私の台詞です。」

「…………。ごめんなさい、急にやってきてしまって。」


 マクゴナガルは首を横に振る。そうではない。責めているわけでは無いのだ、と伝えてやりたかった。しかし二人の意思疎通はどこかが掛け違ったままである。ヨゼファが実のところ何を思っているのか、マクゴナガルは未だにその本質を見抜けないままでいた。

 一瞬、魔法省の人間たちがヨゼファへと向けている疑惑と同じものを抱きそうになる。

 溜め息をした。(貴方が悪い、)と思う。彼女が肝心なことを何も話してくれないからだ。


「笑っているのは、ミネルバに会えて嬉しかったからですよ…。」


 ヨゼファは赤い火が燃える暖炉へと掌をかざしながら言った。右手の甲にも柘榴色の呪いの痕が斑らに広がっているのが恐ろしくて、マクゴナガルは視線を逸らした。


「……………。どうしてここに?」

 そのままで尋ねる。

 ヨゼファは黙っていた。暖炉に燃える焔の中で、薪が折れる音が小気味好く響く。


「私は……、帰らないと…、って思ったんです。」


 返答は息遣いのように小さな声だった。逸らしていた顔を、再びその方に向けた。ヨゼファは暖炉に両の掌をかざしたまま、赤い焔が蠢く様を空虚な面持ちで見下ろしている。


「でも、家は壊れちゃったし。」

「家族はいないのですか?今更ではありますが」

「私の家族を…。ミネルバ、貴方は覚えていますか?私の母は貴方の後輩ですよ。」

「え?」

「いいえ…分からないのなら良いんです。なんでもありません。これ以上話すと私の命が危ないもの……」


 夜へと移り変わっていた窓の外へと視線を向け、ヨゼファは呟いた。いつの間にか雨が上がり、空には青い暗闇が冷たそうに鎮座している。


「結果はどうあれ、一度は生徒たちや貴方の信頼を裏切る形になってしまった。ホグワーツここが帰ってくる場所なんかじゃないことくらい、分かっているつもりなんだけれど」


 手を伸ばして、彼女の右手の甲に触れた。ヨゼファがこちらを見てやんわりと微笑んだ。静かに遠ざけられた右手をこちらに戻すように仕草で示す。

 存外素直に戻され、自らの手の内に置かれた彼女の不気味な手の甲を見下ろした。


「おかえりなさい。」


 呟いて、視線をヨゼファの草臥れた顔へと戻す。彼女は眩しそうに目を細めて僅かに首を傾げた。そしてゆっくりと瞼を下ろす。


「ただいま、校長先生。」


 そう言って、ようやく繋がった手を握り返してくるのだった。







『喋れる筈だろう、嘘をつくんじゃない』

『魔法を学びにきておきながら声が出ないとは何事だ?呪文をどうやって唱えるつもりでいる。』

『入学証を偽装したのか、見かけによらず器用な奴だ』

『医者にかかっても悪いところは無いと診断されたそうじゃないか。』

『私を馬鹿にするのも大概にしたまえ。』


 呪文学の教室から出て来たヨゼファは、通りすがったマクゴナガルを認めてはニコリと笑い、礼儀正しく一礼をした。

 格別に厳しいことで有名な当時の呪文学教授の叱責を、個人的によくよく受けていることは小耳に挟んでいる。だが当の彼女は実に澄ましたもので、気にする素振りもない……と言うのがマクゴナガルの感想だった。

 廊下に聞こえるような声で叱りつけられていた今でさえ、涙を流す気配すら微塵もない。


 灰色の長い髪を持つ、背の高い、痩せた、そして声を持たないスリザリンの女学生である。


 すれ違いざま、彼女の髪がふわりと風に煽られた。ふと、そこから覗いた耳が真っ赤になっているのに目が留まる。ハッとして今一度そこを見ようとするが、既に曇り空のような重たい色の髪に覆われて、見えなくなってしまった。



* * *


 服を………、と考え、マクゴナガルは自宅のクローゼットの中を覗き込んでいた。

 ヨゼファが着ていたのはあまりにも簡易的な白いローブで、見ている方が落ち着かない。とは言え、自分の衣装を彼女が着るのもサイズ上無理があるだろう。


(『風船』呪文で膨らませても良いけれど…)


 何着か取り出したローブのうちひとつを広げて眺める。若い魔女が着用するにはデザインが今ひとつ野暮ったいような気持ちもした。


(……………………。)


 浴室から、サワサワと細く水の流れる音がする。自宅に人がいる気配を覚えるのは久しぶりのことだった。

 自室を後にして、今は物置になっている部屋へと向かう。部屋の暗がりを杖先の明かりで照らしながら目当てのものを探り出した。

 深いブルーのローブの上には銀色のボタンが弱く光っている。昔はこれを随分と大きく感じたものだけれど、今見ていると存外そうでもないのが不思議だった。


* * *


「ミネルバ、もう使わないなら渡してくださいな。洗いますから」


 そう言って差し出された腕は、青色のローブの袖が少しばかり足りずに手首が覗いてしまっていた。


「手袋をしていないんですね、」


 呟きつつ、型に流したパイの生地が入っていたボウルを促されるままにヨゼファへと渡す。彼女は微笑してそれに応える。どういう心の表れかは判断しかねる表情だった。


 ホグワーツの校長室の暖炉からヨゼファを連れて自宅に戻ったのは数時間前である。

 雨ですっかりと身体を冷え切らせていた彼女をバスルームへ無理やり押し込んだのは正解だった。若干皮膚に血の気が通い、表情もスッキリとしているようである。

 右半身が変質してしまった容貌のインパクトが大きかった所為で暫くは落ち着かなかったが、慣れてみればヨゼファは以前と何ひとつ変わらないように思えた。相変わらずよく喋ったし、よく笑っては愛想が良い、社交的な性質をしていた。


「これ、ステキなお洋服ですね。」

 彼女は笑顔のままで話題を切り替えるので、付き合って相槌をする。

「喜んでもらえて何よりです。男性のものですが…それでも貴方には少し小さいんですね。」


 食器や調理器具を洗うためのシャボンの泡を杖先で軽妙に操っていたヨゼファは、残された左目をチラと動かしてこちらを見た。


「ミネルバ。詳しく聞いてもいいんですか?」

「ええ、ですがお話するのはまた別の機会…太陽が出ている時にでも。湿っぽくなってしまいます。」

「そう、分かりました。じゃあまた今度。」


 パイを竃の中に送り出した時に台所内の調理に使用したものが全て綺麗さっぱり片付いているのを認め…マクゴナガルはぼんやりと、娘がいたらこんな感覚なのだろうかと考える。

 長い付き合いながら、並んでキッチンに立ち共に調理するのは初めてだった。お疲れ様、焼き上がるまで少し待ってと労えば、ヨゼファは穏やかな表情で頷く。


「それにしても…貴方はやっぱり大きな魔女ね、アルバスよりも上背があったかしら」

「そうかもね。特に学校では踵の高い靴を履いてたから…。」

「ハイヒールが好きなのね。」

「ええ、なんだか姿勢がシャンとするの。自分の身の丈の大きさを気にしてる癖に、なんだか矛盾しているんだけれど。」

「あら気にしてたんですか。物を取ってもらう時便利なのに?」

「やだ、私梯子じゃないのよ。」


 ヨゼファは明るく笑ってマクゴナガルの肩をポンと叩いた。二人は娘同士のようにどこかくすぐったい表情で顔を見合わせる。


「でもホグワーツにはハグリットがいてくれたからね…。あんまり悪目立ちせずに済んで助かったわ。」

「病院でも彼のための特注のベッドが用意されたのよ。感謝ついでにお見舞いに行っておやりなさい」

「病院…。そう、まだ怪我は治らないの。」

「退院はしていますよ。ですがもう平気だとか言って通院を渋っていて。少しは医者の言うことを聞いてもらいたいものですわ。」


 マクゴナガルの言葉に彼女は苦笑する。そうして「会いたいわ、懐かしい」と感慨深そうに言った。


「…落ち着いたら、セブルスにも会いに行ってあげると良いでしょう。」
 
「………………………。そうね。」


 テンポ良く続いていた会話だったが、ヨゼファはそこで声を一段小さくした。不思議に思ったマクゴナガルが「ヨゼファ、」と呼びかける。彼女はハッとしては咄嗟に、ごめんなさい、と謝った。

 竃の中で、暖かな炎がパイを膨らませている和やかな音がする。


 マクゴナガルはゆっくりと瞬きをしてからヨゼファのことを見上げた。彼女の視線の動きや表情にどこか静かで冷たい感情が潜んでいるのを感じ取る。


「セブルスは、貴方のことをいたく恋しがっていますよ…。」


 ヨゼファは今、恐らくその魔法使いのことを会話にして欲しくないのだろうと予測するが、やはりその通りだった。彼女は困ったように眉を下げる。ゆっくりと腕を組むので、それに伴って深い青色のローブが衣擦れする。スルリと滑らかな音がした。


「何があったのかは知りませんが、お付き合いしている人に対してはそれなりの義務と責任がありますよ、ヨゼファ。貴方たちふたり、愛し合っているんでしょう。」


 黙ってしまったヨゼファへと、年配者として今更ながら助言じみたことをする。彼女の服の青さがいやに目についた。……昔の自分へと伝えたい言葉でも、あるのかもしれない。

 だがヨゼファは弱く首を横に振った。


「いいえ。私とセブルスはお付き合いなんかしていないわ…。愛し合ってなどいない。」


 彼女はマクゴナガルとは視線を合わせず、暖かい炎が宿るオーブンを覗き込んではぼんやりとした口調で応える。


「ただの…私の、一方的な片想いよ。」


 赤い焔は、ヨゼファの蒼白な顔面の輪郭を眩しく照らしていた。その表情はいつものように微笑するばかりで、思考を読み取ることは難しい。

 だが、髪から覗いている彼女の耳が赤くなっていることにマクゴナガルは気が付いた。手を伸ばして指先をそこに触れる。彼女は驚いたらしくびくりとしてこちらを向いた。


「耳が赤くなっていますね。」

「本当?少しのぼせたのかも……」

「片思いのはずないでしょう」


 耳に触れた指で、そのまま顔の右半分を隠していた前髪に触れる。耳の後ろに流してやり、初めて真っ直ぐに彼女の顔を見た。怖ろしい容貌だと思う。そして、痛々しくて可哀想だった。

 ヨゼファは何も答えずに瞼を下ろして溜め息をする。「ミネルバ、」暫時して、小さな声で名前を呼ばれた。


「残念だけど、私……夕飯はご一緒できないわ。」

「……なぜです。」

「セブルスがここに来るから。」


 マクゴナガルの返答を待たずに、ヨゼファは竃の中の炎を杖先で細く取り出して移動の為の魔法陣を中空に描く。


「ごめんなさい、貴方の大切なお洋服をお借りしていくわ。」


 一瞬だった。必ず返しに来るから、との言葉が終わらないうちに、赤い炎の魔法陣は青白く変色して爆ぜた。ヨゼファの姿はもうそこに認めることができない。


 ------------- 少しの静寂の後、来客を告げる乾いたベルの音が玄関先からカラカラと聞こえる。暖炉を通してやってこないのは彼なりの礼儀なのだろうか。否、マクゴナガルの家の暖炉には死喰い人避けの魔術が施してあった。今夜のヨゼファのように、マクゴナガル自身と一緒にやって来るわけでもなければ、あの魔法使いに利用することはできない。


 玄関へと至り、誰かを尋ねることはせずに扉を開く。予想通り、暗澹たる夜そのものが凝固して出来上がった如くの男の姿がそこにはあった。不健康そうな土気色の顔だけが暗闇に浮かび上がっているように錯覚する。


「ヨゼファはどこにいる。」


 挨拶もせず、スネイプは開口一番にそう尋ねた。


「……ここにはいませんよ。」

 マクゴナガルは正直に答えた。真っ黒な瞳が探るようにこちらを見据える。


「それよりもセブルス、まずいことが起こりましたよ。」

 スネイプが向けてくる威圧をかわしつつ言えば、彼は訝しげな表情をした。


「一人では多過ぎる量の夕飯を作ってしまいました。」

「は?」

「そして今、ヨゼファのことを魔法省の闇祓いたちが躍起になって探しています。彼らより先にあの子を連れ戻さないと。」


 大変なことになる、と呟きながら、マクゴナガルは気難しい同僚を家の中へと招き入れた。


「セブルス、少し話してくれますか。私も少し…今起きたことを、話しますから。」


 今ひとつ状況が飲み込めないでいる彼へと続けて言葉をかける。


「ヨゼファのことですよ。彼女はつい今まで、ここにいたのです。」







 雨上がりの夜に、月は走る雲の中薄く姿を現していた。

 冬らしい荒れ冷えた風が吹き、何となく誰かの身体の一箇所に自分の手を触れていたくなる。


 ヨゼファは「寒い」と呟き、男性ものの青いローブの前を掻き合わせて冷たい夜を凌ごうとした。


 帰らなくては、その一言が目覚めた時から心の多くを占めている。

 一体なにに急き立てられているのかは分からないし、自分の帰る場所など知る由もない。だがそれでも帰らなくてはいけない、(誰か)どうしても帰らなくては(私を)と当てもなく真夜中の暗闇を彼女は歩いていた。(待っているのだろうか)


『待っている』

『待っていた』



 この言葉を自分へと贈ってくれるのはいつでも彼だったとヨゼファは思い出していた。大切には…想ってくれていたのだろう。確かに二人の間には友情があった。


(私も貴方が大切よ。)


 立ち止まり、空を見上げて白い息を吹いた。夜空のてっぺんは冷たくて、冷たくてまるで灼きをかけた鋼である。そして星が一杯だった。


「ずっと……、」


 と呟いては馴染み深い胸の痛さを覚える。やり切れなさに眉を顰めれば、傷んだ顔の筋肉はゴワゴワと強張って不快だった。

 いつかの夜も、ホグワーツの無限に続くと思われる廊下をフラフラと歩いていた。裸足に石床は冷たくて、肩から止まらない血が流れて「痛い……」呟き、今はそんな些細な・・・傷などどうでも良いような有様の右肩へと触れる。


 そして行き着いたのは海辺、よくよく見慣れて親しみのある家の廃墟だった。

 支えるべき屋根をなくした柱が数本空に向かって真っ直ぐに伸びている。


 壁も屋根もないこの場所を最早家と呼べるのだろうか。破壊された壁を乗り越えて、かつてのだだっ広い・・・・・リビングに至った。

 樫製の巨大なテーブルは潮風に傷んではいたが、形を保っている。地に根を下ろした時の巨大さが伺える立派な天板を指でなぞり、横を過ぎる。

 骨が剥き出ているソファの横を同様に通り過ぎてベランダへ。晴れた日にはガーデンチェアとテーブルを出してお茶をするのが好きだった、自慢のベランダはまるで見る影もない。今すぐにでも海へと崩折れて行きそうな残骸は、真っ暗闇に浸りきって寒々しい。


 所々が折れた手摺に両腕を乗せ、体重を預け、ヨゼファは暫く月の映った水面を眺めていた。異形の生物のような海草がゆらゆらと漂い流れていく。

 彼女はそのうちにすぐ目の前のさざ波がきらきら立っているのを見つけた。どこかの光を反射しているらしい、と顔を上げれば、遠くに明るく街が望める。


 ヨゼファは身体を起こして真っ暗闇の中の誰かへと手を差し伸べるような仕草をした。『さあ姫、お手を』ほとんど呼吸のような声であの夏と同じ言葉を囁いては手を下ろし、ゆっくりと微笑む。


 『最後の晩餐』へと戻り、壊れ掛けの椅子でその前へと腰掛ける。

 頬杖をつき、ヨゼファはただただぼんやりと幸福なあの夏についての思いを巡らせた。


「不思議ね…。ずっと昔から夏休みはここで過ごしていたのに、貴方と過ごした夏ほど楽しかったことはないわ。」


『愛さなくても、良いのよ。』

 
 ハッとして、両手で顔を覆った。

 何かを堪えるように、彼女は首を横に振る。「違う、」小さな声を漏らした。


「嘘じゃない…。それで貴方の気持ちが楽になれば、私も嬉しかったもの。」


 だがそれは独り善がりの感覚に過ぎない。善意や優しさは人を傷付けることがあるのも、もう充分に知っていた。自分の身勝手な優しさのつもり・・・のせいで、ひどく彼を消耗させていたのだろう。親切が重荷になることを気付かぬような人間ほど始末の悪いものもない。


「こんな身勝手な想いなど、早く散って仕舞えば良かった」


 喉の奥の方で、か細い声を零す。


 ずっと……自分の存在に意味を見出せないことが、心から恐ろしかった。

 だから肉体や魂がいくら削られようとも大したことではない、ホグワーツを守る使命は唯一の生命の拠り所だった。

 そうして、幾許かの生徒たちが救われた。だがその分、多くの命を奪ったのだ。

 歴史の中の多くの人間と同様に、大切なものを守り通す為に成した殺戮が、果たして正しいかどうかなど。誰の知るところでもない。


「ごめんなさいセブルス」


 謝り、伝わることのない言葉を続ける。


「私、愛されたい、、、、」


 ずっと生きる意味が、理由が欲しかった。人に必要としてもらいたかった。誰かにとっての唯一≠ノ自分もなりたかった。

 思い出すと、胸を押さえつけられているようで苦しくて息ができない。そこかしこに蟠る暗闇がざわざわと蠢いた。重たいあぶくが潰れる音が低く幾重にも鳴る。


僕を見てくれ


「もう良い。もう良いわ、………私は」


 もう私でいたくない。

 彼と同じ時代に生まれたことを呪う。

 影ひとつささぬ自分の心の奥底に、かぎりなく孤独な私の奥底に消えさりたい。



「恋は遠くにあって手に入らないものを求める気持ちなのだから、もともと孤独なものなのね…。」


 ね、そうよね…セブルス、と、ここにいない彼へと、また、伝わることのない呼びかけをした。

 ふと、東の空に優しい桔梗の花びらのようなあやしい底光りを感じて顔を上げる。夜明けが近いのである。


 少しずつ薄明かりに包まれる景色の中、自分の背後に何者かの気配を覚える。ヨゼファにはそれが誰なのか姿を確かめなくてもわかっていた。振り向かずに、笑って言葉を掛ける。


「今度は、留置所の中でももうちょっと広い部屋を用意してくれると嬉しいんだけれど。あとトイレには仕切りが欲しいわ…」


 ヨゼファを追いかけてやってきた闇祓いたちは複数人いるらしい。「否、」そのうちの一人が無機質な声で応えた。


「我々は君を留置所には連れていかない。」

「それじゃあどうするのかしら。一緒にホグズミードにでも遊びに行く?」

「行くのは聖マンゴ病院だ。」

「病院…。なんで?」


 いつの間にかずいぶん近くで…自分の四方を囲んでいた魔法使いたちに対して彼女は尋ねる。


「怪我をしているからだ。」

「怪我……。」


 言われて、自分の顔や右半身の闇の魔術の痕跡のことだとヨゼファは思い至った。確かに、無理やりこじ開けた傷口を放置したような、そんな歪な痕が幾重にも浮かんでいるのだ。


「兎にも角にも今の君は犯罪者でも容疑者でもなくなった。」

「ということは今まで犯罪者か容疑者だったのね。どうしてそれが覆ったの?」

「君に会いたがっている人がいる。彼女の思惑だ、」

「それは一体誰かしら。」

「マリア・チェンヴァレン。君も名前くらいは知っているだろう。」


 緩く微笑みを浮かべていたヨゼファの表情に、冷水を浴びせたようなハッとしたようなものが入り混じる。

 そうして闇祓いたちに肩へと触れられ、彼らと共に姿をくらました時に朝が来た。鶏が、遠くで鳴いた。



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