◇◆話題
まるで植物のようだと思った。
一人寝かされていた部屋へと戻り、エルヴィンは大きな溜め息を吐く。
白い月は相変わらず空に浮かび続け、糸のように細い光を窓から斜めに垂らしていた。
そこへと残された片腕を伸ばせば、自分の白い掌の筋や窪みに沿って色濃い影が形作られる。
しかしそれだけだ。触れることは出来ない。まるでどこかの誰かのように。
(いや、違う…………。)
エルヴィンは瞼を閉じ、頭を振った。
そうして伸ばしていた掌を元の位置に戻し、今一度煌々と光る満月を眺める。
…………触れようとしないだけなのだ。
ユーリは月光や薄闇のように実態の無い存在ではない。確かに存在する肉体に触れれば温かいだろうし、その気になればこの腕で抱くことだって出来るのだ。
しかし、それを行う時は二度と訪れない。
むしろそんな気持ちを、願望を抱くわけがないと…
考えもしなかったことだ。
(ユーリは。)
子供というものは。
まるで植物のようだ。
丹精込めて世話をしてやることも愛情を注いでやることもせずに、ほとんど放置していたというのに。
いつの間にか地に根を張り、枝を伸ばして成長していく。豊かに葉を茂らせ、花すらも咲かせる。
(ユーリは………)
確かに成長し、変化したのだろう。
一体いつの間に……自分が気が付かないうちに。誰によって。
(間違いなく、俺に因るものではない。)
(…………。未練があるのか?)
そんなことは無い。ある筈が無い………。
だが…時折考えるのだ。
もし何の不自由もなく、自分たちが
まともな家族だったなら。ユーリは一体どんな人間に成長したのだろうと。
彼女は学が全くないが、飲み込みは悪くなかった。
きちんと教育すれば、それなりに賢くなったのだろうか。学者や、医者のような人の役に立つ道を選び取る将来もあったのかもしれない。
だがやはり突出しているのは運動能力だろう。器量もそれなりだと我が子ながら思う。それならば
踊り子……いや、彼女の出自のような場所ではなく。もっと大きく煌びやかな劇場で…皆から憧れられる存在に。
若しくは、平凡でいてこの上ない幸せを手に入れては誰かと結ばれるのだろうか。
それともやはり兵士になるのか。自分の傍にいたいから…と彼女らしい馬鹿みたいな理由で…っ、
(都合の良い妄想が過ぎる)
(そんなものは)
(そうはならなかったのだ)
(違うか?)
エルヴィンは思考することに疲れ、丸めた毛布が所在無さげに端へと寄せられていたベッドに腰掛けた。
傷んだ床が、ぎっと鈍い音を鎹で鳴らす。
それを聞きながら、彼はぼんやりと降るような星空を想った。今夜は満月である。その明るさに打ち消されて、細かい星々の煌めきは全くもって拝むことは出来ない。
(………暗闇の中でしか、見えないものがある。)
彼は清浄な空気に渇えた。部屋のどこからも空気の洩れるところがないということが、ますます息苦しく胸を締め付けた。
耐えきれなくなり、立ち上がって窓を明け放つ。
冷たい空気が皮膚の上を滑っていった。やや強い風が着ていた草臥れたシャツを煽っていく。
真っ白い月を見上げて、エルヴィンはハッと瞳を開いた。蜘蛛の眼がキラキラ閃光を放つような細かい金色の光が月の傍で、零れ落ちだようにただひとつ…されど強く光っていた。
*
数年前ーーーーーーーー
「…………お前の娘はよく働くな。」
ポツリと、ザックレーの口から吐かれた言葉を聞こえなかったふりをして、エルヴィンは無反応に徹した。
だが老齢の総統は「聞こえなかったのか」と言葉を重ねてくる。
「…………………。娘ではありません、あんなものは。」
エルヴィンはザックレーの方へと視線を向けないようにして応える。
総統は「ほう、」とさして興味が無さそうな反応をした。
「血の繋がりがないのか?」
「……………………。」
「あるのだろう。それならば父親がどういう心情を抱こうとも、あれはお前の子供で、娘だ。」
「それを証明する手立ては皆無です。」
「なら何故否定をしない。」
エルヴィンはひとまず口を噤んだ。
そうして少し目を細めながら実に気怠げな気分で、自分の血を分けた存在のことを思い浮かべた。
……………それすらも厭われる。
いつからか、顔を見たく無いという気持ちがより強くなっていた。
日増しに奴と自分との相違点が目に止まるようになっていく。それをひとつずつ発見する度に、ひどく堪らない気持ちになった。
「…………本当に、そうなのでしょうか。」
考えながら、エルヴィンは呟いた。
ザックレーは言葉の意味をよく理解できなかったらしく、些か訝しげな表情をする。
「血の繋がりがあるからと言って…父子になれるとは限らないのでは。」
「………………。その逆も然りなのでは?血の繋がりが無くとも双方の絆が確かなら親子になることは可能だろう。」
エルヴィンはただ…眼前の三つの兵団を束ね上げる男のことを見つめた。
彼は何やら勘違いをしているらしい。エルヴィンは緩く頭を振っては再度口を開いた。
「何かの……交渉材料になるかと思ったのです。小綺麗な顔の造りをしていたので。」
「………あの身体でか?」
「そう、あの身体…………。あそこまでひどいものと知っていれば…」
「だがお前の元に来てから作った傷も多い。」
「ええ、仰る通りです。ですが最近は随分と使い勝手も良くなり痕を作る機会も減った。お陰で手離しにくくて困っている。」
「………………お前はあれを憎んでいるのか。」
「いいえ。煩わしいと思っているだけです。」
「なら…。儂が引き取ってやっても良い。」
思いもかけない総統からの持ちかけに、エルヴィンはほんのひと時言葉に窮した。
暫時二人は互いの瞳の中を覗き込み合うが…すぐにエルヴィンは平素の落ち着きを取り戻し、「ご冗談を。」と微笑した。
「とてもユーリは貴方の美的感覚に適うものではありません。」
「ほぅ、そういったつもりは無かったが…それはそれで面白い結果を生みそうだな。」
「そのつもりは無い?ではどういうつもりで。」
「一人、補佐官が欲しかった。五月蝿過ぎずに柔軟でそれなりに腕が立つ……前から、良いとは思っていた。」
ザックレーは少しの間、向かいに座る調査兵団の長のことを伺うようにした。
エルヴィンは応えて発言しようと唇を開く。…しかし言うべき台詞が何も思い浮かばない。どういう訳か、ジリとした焦燥が胸を焼いた。
「…………………し、しかし「分かっておる。」
ようやく紡いだ言葉は敢え無く遮られる。
薄暗い室内とは対照的によく晴れ渡った窓の外で、鵲が声を鳴き渡らせるのが聞こえた。
「確かにあの能力の高さは中々手放し難いものだ。だが常に傍に置く必要も無いだろう。お前が望む通り…いやむしろもっと巧く使用してみせる……ので、安心して良い。」
ザックレーは手にしていたペンの尻でトントンと自分の顳神を軽く叩きながら、白い光を室内へと投げ掛け続けている広い窓へと視線を送った。
暫時そうして目を細めた後、彼は再びエルヴィンへと向き直る。
「………どうだ。お前がそれほどにユーリを煩わしく思っているなら、中々魅力のある提案だと思わんか。」
エルヴィンは……ただ、次の言葉を告げずに口を噤んでいた。
こういう時にうまくやる術は充分すぎるほど心得ていると言うのに、何故かその時の彼は言葉を選ぶのに多大なる苦労を強いられた。
暫時の沈黙が室内に立ち込めるが、ザックレーはそれを終わらせるように「なるほど、」と呟く。
「複雑だな。」
総統が呟いた言葉をエルヴィンは否定しようとする。
しかしザックレーはそれを諌める仕草を掌で示した。
「……………お前がそう思うなら、儂はそれを容喙するつもりも権利も無い。どんな人間にもそれぞれの事情があるからな。」
一度言葉を切り、老齢の重役はひとつ溜め息をする。……眼鏡越しの灰色の瞳は、改めて観察すると予想よりも幾分か淡い色をしていた。
「だが……お前は何故あの狂った劇場からユーリのことを連れ帰った?何を思ってあれをわざわざ見つけ出そうと思ったのだ。そんな手間をかけなくても、そこいらの浮浪児を捕まえてくれば済む話だ。お前が望む条件を満たす少年少女が特に希少な訳でもあるまいに。」
ザックレーは独り言のように呟きながら、こちらの瞳の奥を探るようにして眺めてくる。
ただただ表情を硬くして……エルヴィンは彼の言葉を聞いていた。
「打算だけならば……名前をくれてやったり、文字や教養を指導してやる必要も無いだろう。お前は未来を見通す力は確固として守成しているにも関わらず、自分のことをまるで分かっていないのか。」
言葉を区切り、総統は考えるようにしてまた白々しい光を室内に投げかける窓の外を見やった。
エルヴィンもまたその方を眺める。大きな鵲が女の悲鳴のような声を上げながら眼前を横切って行った。
「いや……分かろうとしていないのか。」
「馬鹿を言わないで下さい。」
総統の独り言のような呟きを打ち消すようにして、エルヴィンは低く呟いた。
ザックレーは視線だけ動かしてこちらを見つめてくる。
老獪な彼が次の句を告げるのを防ぐために、エルヴィンはすぐに続けて言葉を並べた。
「私も人間ですから。ある種の情がないと言えば間違いになります。ですが…所詮それは同情の枠を出ることはない。」
少し間を置いて、彼はまた口を開く。
「………それまでのことです。」
締めくくる為の言葉を吐き、これで話は終いだとエルヴィンは意思表示をした。
ザックレーはそれに逆らわず、二人はの会話はいつのまにか別の方向へと逸れていく。
それきりユーリのことが話題に上ることは無かった。
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