◆告解 1
人間っていうものが嫌いだったんだと思う。
勿論それには自分も含まれていた。
誰も私のことを好きじゃないし、私だって誰のことも好きじゃない。
(……………だって、何考えてるか分かんないんだもん…。)
今思えば、それは嫌いって言うよりも怖かったんだと思う。
折角、お父さんに連れて来てもらった…明るくて綺麗なものがいっぱいある、この地上。
そこにいる優しい人や素敵な人の目に、自分はどう映ってるんだろう。
地下出身って知られたらどうしよう。
身体を売るような真似をして生きて来たって知られたらどうしよう。
人を悦ばす為だけに、赤の他人を悪趣味に傷付けて来たって知られたらどうしよう。
私が擁護ができないくらいに、嫌な奴だって知られちゃったらどうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。(……怖い………………。)「だからさ、貴方らといると落ち着くんだよねぇー…………」
そう呟きながら、ユーリは健康的な褐色を帯びた馬の皮膚にペチ、と掌を当てる。
「変な話だけどさァ、どんな雑務よりも厩の掃除が私は一番好きだよ。こーやって貴方らに愚痴を聞いてもらって随分と気持ちも楽になってるし……。」
そこにブラシを当てて丹念に毛並みを揃えてやりながら、何とは無しに話しかける。
ユーリが彼らに愛情を持って接しているからだろうか、どうやら彼らもユーリのことを快く思ってくれているらしい。そのうちの一頭が信頼を示すように鼻先を擦らせてきた。
「うーん…。次の壁外調査もまだ先だからねぇ、こんな狭いところで退屈っしょ?今度ちょっと遠くまで行ってみようかぁ……。」
応えて首のあたりにぎゅっと抱きついて、普段のユーリを知っている人が聞いたら驚くような甘えた声で彼に語りかけてみる。
「それ良いねえ。私も一緒に連れてってよ。」
「うん、それは勿論………、…………………ってぇええええぇぇえええええ!!!?????」
…………てっきり人間は自分一人だと思っていた馬ばかりの空間で返された、明らかに人語の言葉。
驚いたユーリは足元のバケツに蹴躓いて転びそうになる。それは声の主のしなやかに長い指に腕を掴まれることによって何とか回避できた。
「………………そんなに驚かなくても良いじゃない。」
「おっ、おっお、驚きますよぉっ!!!!気配消して近づかないでください、ナナバさん!!!」
「別に気配消して無いよ。ユーリが自分の世界に浸りすぎてたもんだから、気が付かなかっただけでしょ。」
で、何してたの。と言いながら、ナナバは先ほどまでユーリが抱きついていた馬の首の辺りをゆったりとした手つきで撫でる。「ミケの馬にさ。」と付け加えて。
「…………え、あぁ。この子ミケ分隊長の馬だったんですか。」
「あれ、てっきり知っててイチャついてるんだと思ってた。」
「うん?何でです。」
「いや、本人とは中々イチャつけないじゃん。」
「まあそりゃあ……イチャつく気も無いですが。本人とは。」
「へえ………そっか。てっきりイチャつきたいんだと思ってた。」
「…………いや、意味分かんないんですけど。さっきからイチャイチャ言い過ぎですよナナバさん…。」
「ちなみに私とはイチャつきたい?」
「えっ…………うん?いや……まぁ、ミケ分隊長よりは。」
そっかぁ、それは嬉しい。と笑いながら、ナナバはおもむろに両手を広げて見せる。
ユーリは実に訝しげな表情でその様を眺めた。
「………………。なんスか、それ。」
「いや、ほら。遠慮せずにおいでよ、私の腕の中に。」
「うーん…。私掃除中なんで臭いですよ?」
「良いよ良いよ。私とイチャつきたいんでしょ?」
「いえ……。別に。」
「えぇー…」
ナナバは両腕を広げたままでなんとも不服そうな声をあげた。
ユーリは溜め息を吐く。それから、(この人、なに考えてるんだろう…。)と心底不思議に思った。
……………調査兵団に入団して数ヶ月。
この眉目秀麗な上司は、何かと自分に友好的な姿勢を示してくれるのだ。
いくら今年の新兵が自分一人とはいえ、分隊長という立場の人間がこうも下っ端も下っ端を気にかけてくれるものなのだろうか。
ユーリはナナバにペコリと会釈をすると、立ち尽くす上司に背を向けて引き続き厩の掃除に当たった。
…………正直、早く自分を一人にしてほしいと思った。
面倒臭いのだ。人に気を遣うのが。
「…………怖い?」
ポツリと、ナナバが背後からユーリへと声をかけた。
応えて、ゆっくりとその方へと振り向く。何のことだと不審に思いながら。
「ユーリ……。君、怖いんでしょ。他人が。」
その言葉に、ユーリは表情を僅かに硬くした。それとは対照的に、ナナバは相変わらず柔和に微笑んでいる。
「それは当たり前かも分かんないね…。だって周りの兵士皆も、君の得体が知れなくて怖いんだもん。」
ねえ、とナナバはミケの愛馬へとにこやかに同意を求めた。彼は鼻を鳴らしてそれに応える。
「……別に嫉妬しているわけでは無いんだよ。君の実力は皆知ってるし、認めて尊敬してると思う。でも…それが、君からしたらどうも距離を置かれているように感じちゃうのかもね…。」
それはユーリに語りかけていると言うよりは、独り言のような響きを持っていた。
「……別に、怖くは無いですよ。ただちょっと、皆が何考えてるか…私、良く分からないので。」
「それは私たちが君が何を考えてるのかよく分かんないのと同じ。だからきっと、お互い距離を取り兼ねてるのかな。」
やはりナナバは自分の世界の中で呟く様にして言葉を連ねる。
そしてゆっくりとユーリの方へと視線を向けた。
「ねえユーリ。君は私のこと…好き?」
「……嫌いじゃないと思いますよ。ナナバさん優しいし。」
「それなら好きになってよ。そうすれば、私だって素直に君のことを可愛く思って、好きになれる。」
……そうですか。とユーリは愛想無く応えた。
然しながらナナバは「だからさ、」と言葉を続ける。
ユーリはどうしたものかと思った。何故ここまで会話を早く切り上げたい意思を態度で示しているのに、この物好きな上司は愛想を尽かさないのか。
「自分を好きな人のことを好きになるって、一番簡単なことなんだよ?ユーリが私たちのことを好きになればこんなに早い話は無いのに、なんで分からないのかなぁ。」
ねえ、とナナバは厩の赤茶けた石壁に凭れながら語りかけてくる。
ユーリは何も応えずに美しい上司の言葉を聞いていた。
……正直なところ、何を言っているのかよく分からなかった。
自分は周りの兵士とは当たり障りなく、問題も無く関係を築けているというのに。何か不満があるのだろうか。
いや……本当は何を言っているのか、言われているのかは理解出来ていた。
だが理解は出来ても、この上司が望むような人間に自分はなれないのだ。やり方だってよく分からない。
(それが分かるなら、こんな苦労はしないって…。)
ユーリは自分と父親の間に横たわる気まずく重たい空気を思い出して、うんざりとした気持ちになった。
彼女を取り巻く雰囲気が暗くなったのを理解したのか、ナナバは「ごめん、お節介を許してね。」と苦笑した。
「でもね…ユーリ。」
ナナバはユーリの双肩へと掌を置き、こちらを覗き込むようにしてくる。
ーーーーーー顔を見られてしまう…!!
その恐怖から、ユーリは素早く面を伏せた。
この時はそれが何よりの恐怖だったのだ。父親からの言いつけを破れば、また叱責を受けてしまう。
しかしナナバはそれに構うことはなく、ゆっくりと口を開いた。淡い色の唇が僅かに濡れて光っているのが印象的で、綺麗だった。
「好きになるのは、なにも怖いことじゃない。」
ね、とナナバは優しく目を細めた。そして掌をユーリの肩から離しては、ポンと軽く頭を撫でてくる。
「君が思うほど、人間っていうのは薄情な生き物じゃないんだよ。」
それだけ言い残して、ナナバは狭い厩を後にする。
その姿勢の正しい背中を見送りながら、ユーリはどう言うわけか堪らない気持ちになる。思わずそっと下唇を噛みしめてしまった。
*
「……驚いた。あの子の首さ…見たことある?」
たった二人で深夜の残務に追われていた最中、ふとナナバがミケへと語りかけてくる。
ミケは何の話をされているのかよく分からず、ただ黙って友人の方へと顔を向けた。
「ここさ、火傷…かなぁ。けっこうエグい痕があったんだよね。襟に隠れて全容はよく分からなかったけど。」
ナナバは自分の白い首筋の辺りをトントンと軽く指で叩きながら、何かを思い出すようにして言葉を続けた。
そこまで言われてようやく誰の噂か理解したミケは、「ああ…。」と相槌を打つ。
ミケはユーリの痕の原因が何に依るものなのかを知っていた。…ので、彼女の気持ちを汲んでこの話がこれ以上続かないようにと気のない反応をした。
過去を掘り下げられるのは、恐らく望むところではないだろう。
「あとはなんかさ、必要以上に人間不信だよね。思わない?」
「……そうか?それなりに問題なくやっているように俺には見えるが。確かに若干ドライだが、今時の若者というのは得てしてそういうものだろう。」
「いやさ…。私もそう言う性格の子なのかなあって思ってたんだけどね。今日…偶然見て驚いちゃったんだよ。」
「何をだ。」
「ユーリがさぁ…。ミケの馬に恋しているような勢いで甘ーい声をかけて可愛がっていたとこ。」
「あまっ………。…………まあ…、動物が好きなのかも…しれないな。」
「いや、違うね。アレはミケの馬に恋してるんだ。」
「………………すごい憶測を言うな。」
「じゃ、ミケに恋してるんだ。」
「やめてやれ……。ユーリが可哀想になってきた。」
「まあそれは冗談だけど。」
「冗談かよ。」
「なんか…単純にただ淡白な子、って言うだけじゃないと思うんだよね。……ねえミケ。私が言いたいこと分かる?」
「さあ。俺は占い師じゃないから分からん。」
ミケの答えに、ナナバは殊更大袈裟に溜め息を吐いて呆れを表現した。
その演技がかって大仰な友人の態度に、ミケは些かムッとする。
「……うちの兵団は兵士の数も少ない小規模なものじゃない。今ここで信頼関係をきちんと築いておかないと、壁外で命取りになるでしょ。」
「ユーリの実力はそれなりに信頼しているが。」
「でもミケ、ユーリ自身のことは苦手でしょ。」
友人の的確な指摘に、ミケは一瞬言葉を詰まらす。
それをナナバは見逃さなかった。「ほらさ、」とまた小さく溜め息を吐く。
「別に……私も君も人間だ。苦手な人物がいたって何もおかしくないし、私にそれを責める謂れは無いけどね。」
ごめん、とナナバは謝った。ミケはそれに、いや、と一言返すに留まる。
「……ユーリにも、私たちのことを信頼してもらう必要があるんだ。きっと彼女は察しが良い。悪意に敏感なんだよ。ミケがユーリに対してどんな心象を持っているかも分かっていると思う。」
「まあ……。それは、そうだな…。」
「ユーリは…なんだか、複雑だよね。やっぱりあの怪我が原因なのかな……。人間があまり好きになれずにいる印象を受けるよ。」
ナナバは自分の白い首に今一度そっと指を滑らせた。
……ミケも、覚えてはいた。あの淀んで臭気のこもった劇場の中で浮かび上がるように…あの時はまだ完治していなかった為に、膿んでひどい有様だった…彼女の傷を。
(肩から…乳房にかけて。それから下腹部……下肢に至るまで。)
痕が無い場所を見つける方が難しいに違いがない。
だが、残念だが同情はしてやれなかった。彼女自身も、別の誰かを同じような目に合わせてきたのだから。
(…………………………。)
「だが……動物には、優しくしてやれているのか…。」
独り言のように呟く。
ナナバは頬杖をついてそんなミケの様子をじっと伺っていた。
「確かに……。相互の信頼が築けていない今の状態は…良く、無いな。」
一言そう零すが、ミケの心は暗かった。ナナバの指摘の通りに自分はユーリが苦手なのだ。向き合うのが正直億劫だった。
………優雅な外見から一転して情が厚い友人の性格をミケは良く理解していたし、それがナナバがナナバたらしめる所以だとは思っている。
だが、それに思いがけず重圧をかけられることになるとは。
「…………………………。」
それから二人は会話らしい会話を交わすことなく、日付が変わる頃まで黙々と各自の作業を進めた。
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