◇会話 1
覚えのある後ろ姿を街中で認めて、ヒストリアは足を止めた。
人違いかと思ったが、じっと見つめてみるとやはりそれはユーリその人だった。
……彼女の髪色は、目立つのだ。
最もヒストリアもそれに近い金色の頭髪をしていたが、自分の柔らかで透明感のある色彩とはまるで異なっているような。
彩度が高くてぎらついた色彩を帯びたそれは、夜へと向かう橙色を含んだ風に煽られてパサパサと揺れていた。
正直に言えば、好みの色ではない。派手すぎて目に痛い。
そんな印象を持たせるのは、彼女独特の如何にも斜に構えた軽薄な言動からだろうか。
兎にも角にも、まだ知り合ってからの日は浅いが(というよりも向こうがヒストリアのことを認識しているかどうかすら定かではない)、ユーリへの印象は攻撃的な人間、好きになれないの一言に尽きた。
(と言うよりも…誰も彼もを今は好きになれないの。)
(誰も私のことを好きじゃないし、私だって誰のことも好きじゃない……。)
………ヒストリアは、疲れていた。
新しい関係を自分と人との間に築くのも、今までの関係を持続させるのも。
心をすり減らしてまで、自分は良い子を続けていく必要はあるのだろうか。
ただ一人真実と言えた友人に捨てられた事実が、彼女の心にずっとその様な暗い影を齎していた。
(…………ん、)
ヒストリアが何とは無しに視線で追っていたユーリが、商店が立ち並ぶ一角で足を止める。
意外なことに花屋の店先だった。彼女は店頭でひっそりと風に煽られる花弁の並びを、繁々とした面持ちで眺めていた。
……何かを考えるようにして小首を傾げた。そして引き続き顎の辺りに指をやり、赤茶けたプランターに植わった花のひとつずつを確認するようにして見下ろしている。
やがてユーリは、花も無くボウボウと草ばかりが茂って隅の方に追いやられていた鉢植えを指差しては、笑いながら店員に何事かを言う。
どうやら購入するらしい。代金を支払うと、彼女は至極嬉しそうな表情をして鉢植えを受け取った。
(………姿勢、良いなぁ。)
ヒストリアはぼんやりとそんなことを考えた。
暗い色をしたシャツに包まれた彼女の佇まいや身体の曲線は、スッキリとしたラインを描いていた。
兵士とは少し違う筋肉の付き方をしているような。バレリーナや、舞踊家に近しいような。
ふと、ユーリの足元に小さなクマのぬいぐるみが転がってきた。
どうやら傍を歩いていた少女が落としたらしい。
彼女は愛想よく笑って拾い上げてやると、少女と視線を同じくする為に屈んでは縫いぐるみを手渡した。……が、それは受け取られることは無かった。
少女はユーリの袖から覗く黒い紫色に変色した傷跡に大層怯えてしまったらしい。
固まってしばらくその箇所を眺めていたが、やがて彼女の掌からクマをひったくるようにして取り去ると、一目散に逃げ出してしまう。
ユーリはしばらくその幼い後ろ姿が遠ざかっていく様を眺めていたが、やがて軽く溜め息を吐いてから立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。
夕日はいよいよと赤くなり、辺りの空気は錆びついたような赤色に移り変わる。極彩色を帯びているのに、いつもこの時間の空は寂しそうだった。
ヒストリアはそんな彼女の背中を、緩く目を細めて見送った。少しの間、立ち尽くして。
*
「あれ、クリスタじゃん!」
驚いたような声が、背中のすぐ後ろからかけられた。
応えて振り向けば、覚えのある少女の顔が二つ並んでこちらのことを認めていた。
訓練兵時代の友人だった。今彼女たちは駐屯兵団に配属されている為に、その繋がりは既に希薄となっていたが。
むしろ友人と知り合いの狭間の関係か。いやいや、どちらかと言えば知り合いだろう。
表面上はうまくやっていたが、あちらからあまり良く思われていないことは分かっていたし、ヒストリア自身も彼女たちに気を許してはいなかった。
「やー、本当にクリスタだ!!なんだか雰囲気変わっちゃってたから分かんなかったよ。」
「まさかクリスタが調査兵団入るなんて思ってなかったよ、全然キャラじゃないもんねえ。」
「なんかそっちは配属早々大変だったみたいだね。私たちは書類処理してたからよく知らないんだけど。まあ、死んでなくて良かったよー。」
「ほんとほんと、クリスタなんか一番最初にダメになっちゃうタイプじゃんね。か弱いから。」
「身体も小さいし装置の使い方もあまりうまくなかったもんね?」
彼女たちは明るい声で早口に言葉を紡いでは、おおよそ笑いどころが見当たらない会話の中でケラケラと陽気な笑い声を上げる。
いつもならそれに合わせて愛想笑いのひとつでもするところだが、その時のヒストリアは無反応に徹していた。
その様を不思議に感じたらしい少女たちは、少々訝しそうな表情で顔を見合わせる。
「…………クリスタ。本当に雰囲気変わったね…。」
「なんていうか暗い?」
「なに……私たちなんかした?」
「何もしてないよね?」
「ちょっと感じ悪くない…」
「あれ、そう言えばユミルはどうしたの。」
「いつも一緒なのに。喧嘩でもした?」
ユミルという単語を思いがけず耳にしたことによって、ヒストリアは内臓の奥で麻痺したような不快を感覚した。
恐らく顔色も固く険しいものになっていたに違いない。思わず、そのままの顔で挑むように二人のことを睨み付けてしまう。
しかし彼女たちはそんなヒストリアの様子に気が付か無いらしく、無神経な言葉を重ねていく。
「そりゃアンタ達が喧嘩するのは勝手だけどね、だからって私たちに八つ当たりかぁ。」
「そういうのってどうかな、ねえ。やっぱり思った通りだよ。結局はそういう風に…人間なんだって。所詮女神様≠烽ウ。」
「顔が少し良いからって」
「良い気なもんだよね」
「上位に入ったのだってどういう手を使ったんだか」
「あー分かった。それで遂にユミルにも愛想尽かされた感じで、」
そこまで聞いて、ついにヒストリアは我慢が出来なくなって少女のうち一人に掴みかかろうと石畳を蹴った。
…………が、まさに眼前の女の胸ぐらを鷲掴もうとしていた自分の掌が目的に至ることは無かった。
後ろから首の辺りを強く捕まえられて、身体を元の位置に戻されるの。その際に、喉の奥が低く鳴ってしまった。
どうやら腕で抱きすくめられるように首を掴まれているらしい。………誰、と驚いてその方を振り返るが、その前に「ねえ、」と気怠げな声が頭上から降ってきた。
「貴方ら、うちの子になんかよう?」
ポツリと零されたのは、確かに聞いたことがある声だった。
しかしそれはヒストリアに対してではなく、眼前の少女たちへと向けられたものだった。
声をかけられた彼女たちは、突然の部外者の乱入に「えっと…」と戸惑った様子を見せる。
そのうちの一人が「別に用なんか無いけど、……」と言いかけた。
だがヒストリアの首に回っているユーリの腕に刻まれた、明らかに普通では無い類の痕が目に入ったらしい。息を呑む引きつった音が、微かに聞こえた。
やがて二人はまた顔を見合わせてから、そそくさと無言でその場を後にしていく。
こちらに一瞥もくれず、挨拶もせず。折り合いが良く無かったとはいえ、三年間は共に生活した仲だというのに。実に薄情なものだった。
(だから人間って嫌い………)
ヒストリアは目を伏せては思った。簡単に裏切っては分かり合えることは決して無い、この人間という生き物が本当に大嫌いだった。勿論、それには自分も含まれる。
「………………ねえ、大丈夫だった?」
彼女の後ろ向きな思考を打ち切るようにして、ユーリが声をかけてくる。
その方を見上げると、長く垂れた前髪の影の中で光る青い瞳と目が合った。
(…………目。初めて見たかも…)
ぼんやりとそのまま眺めていれば、ユーリはヒストリアの首に回していた腕をそっと離すようだった。
背面に触っていた彼女の体温がゆっくり遠ざかっていき、ヒストリアはなんだか心細い気分になる。
二人は暫しの間お互いを見つめ合うが、やがてユーリの方が「…………もしかして余計なことしたかな。」と小さな声で零した。
「えっと……今期の新兵の子であってるよね。待ってねぇー、名前思い出すから。あっ言わないで。ちゃんと覚えてるから、」
ヒストリアが喋らないのを良いことに、ユーリは硬直した場の空気を切り替えるように愛想よく笑って言葉を並べていく。その片腕の中には先ほど購入していた、まるで色気が希薄な植物が植わった鉢が抱えられていた。
暫し彼女は大袈裟に考える素振りをした後に、「あっ、思い出した!」と明るい声を上げる。
「あれでしょ、スケルトンちゃん!!」
「違います。」
…………正解にカスリもしていない名前を呼ばれて、ヒストリアは愛想なく言葉を返した。
そして彼女の身体の脇を通り過ぎてさっさとその場から立ち去ろうとする。
「うおっ、待て待て待て待て待て、ごめっちゃんと思い出すから!待って待って、」
ユーリは大いに慌てたようにしながらヒストリアの腕を掴んで、早口に言葉を紡ぐ。
そうして再び考えるようにして、真っ赤な夕日が燃える中空へと視線を向けた。
その時に弱い風が吹いて彼女の長い前髪がパサパサと揺れるが、今度はその瞳の色を確認することは出来なかった。
その目元には、いつものように黒い影が落ち込んでいる。
「あー…、アレだ。クリスタ。」
やがて、彼女はゆっくりとした声でヒストリアの偽りの名前を述べた。
「…………違います。」
ヒストリアは、それにも愛想の無い返事をする。
「え?今度は結構自信あったんだけど。」
「クリスタなんて…そんな人間、最初から存在しませんよ。」
「ふーん?まあそれは別にどうでも良いや。私は貴方の名前が知れたらそれで良いし。」
ねえねえ、二度と忘れないからちゃんと教えてよぉ。とユーリはヒストリアの腕を掴んだままで声をかけてくる。
ヒストリアは黙っていた。しかしユーリは掌の力を一向に緩めることはなく、相変わらずの笑顔を浮かべたままでこちらを見下ろしてくる。
「………………………。名前教えてくれないと、とびきり面白い渾名付けて呼んじゃうよ?」
そして更に笑みを濃くしながら恐ろしいことを言うので、仕方なく「ヒストリア。」と小さな声で名乗る。
「ああ、そう。ヒストリアかぁ。」
そかそか、とユーリは嬉しそうにその名前を鸚鵡返した。
愉快そうにしている彼女に反して、ヒストリアは良い加減に腕を離して欲しいとイライラしていた。
その旨を行動で示すが、まるで無視される。思わず舌打ちをしたくなった。今度は言葉で「そろそろ腕を離してくれませんか。」と訴える。
「ねえねえ、ヒストリア。貴方お腹減ってない?」
…………しかしながらまるで会話が噛み合わない。
今度は力づくで彼女の掌を自分の身体から引き剥がそうとするが、勿論それは為されることが無かった。
先日目の当たりにした豪快とも言える戦い方から想像は出来たが、ユーリはかなりの馬鹿力らしい。その指の力は強く、ヒストリアがどうこう出来る類のものでは無かった。
「別に、減ってません。」
取り敢えずこのトンチンカンな状況から一刻も早く脱したいが為に端的に回答するが、ユーリは「え?」とキョトリとした声で聞き返してくる。
「夕飯まだでしょ?そろそろ良い時間だけれど。」
「あまり…食欲が無いので。」
「兵士なんだからご飯食べて身体作るのも仕事のうちだよ。奢ってあげるから、なんか食べていかない。」
「…………。いえ、いりません。」
「ええー、ご飯ちゃんと食べないからそんな身体ちっちゃいんじゃない?ホラァ、おっぱいもそんな可哀想なサイズで「胸の話は今して無いでしょ!!!!!!!」「うおっ、」
ヒストリアが急に大きな声を出すので、ユーリは驚いたような声を出す。
…………それから少しの間を置いて、彼女は愉快そうにカラッとした笑い声を上げた。
どこに笑いどころがあったのかサッパリ分からず、ヒストリアはただただ不快を隠しもせずにユーリのことを睨む。それは全く意に介されないようだったが。
「……まーまー。それなら何か甘いものでも食べに行こうか。女の子は甘いものは別腹ってよく言うじゃない?」
「いえ、だから…本当に私、そう言うのは……」
「あとはさ、私は貴方と話したいことがあったのよ。ちょっと付き合ってやってよねぇ。」
そうして、ユーリは有無を言わさずにヒストリアの腕をそのまま引っ張って歩き出す。
彼女が腕を掴んでくる力はやはり強く、逃げることは不可能な状態だった。仕方なく、ヒストリアはユーリに手を引かれてその後ろに続いて歩み出す。
一日はいよいよ終わりへと向かうらしく、太陽の色は呪われたような真紅となっていた。
深い赤色の光はそのままヒストリアの前を歩む人間の派手な髪色に反射して、毒々しいほどの色を帯びる。
しかし、ユーリを取り巻く空気はその攻撃的な色彩に反比例してしめやかだった。
もしかしたら、掴まれた腕だってその気になれば振り解けたのかもしれない。だがそれを試すことはせずに、ヒストリアはただただ筋の正しい彼女の背中を眺めながら歩を進めた。
やがて、道の脇の街灯が点り始める。
下水の匂いがする運河にその光はひとつずつ反射して、揺らめいては玉を解くようにして水面上を煌めかせて滑っていく。
時々、ユーリがこちらを振り返って何かを話しかけてくる。
全て無視をしたが、彼女は特に気にした様子は無かった。
楽…だったのかもしれない。
今自分の手を引いている人間は、クリスタのことを知らない。
だから、無理に気を使って良い子だった嘗ての自分を演じたり、ユミルに見捨てられたことから立ち直ったフリをしなくても良いのが楽だった。
口を噤んだままのヒストリア、散漫な言葉をただ零し続けるユーリ。
まるでチグハグな二人が、青い宵闇が漂い始めた街の中をただ歩いていく。
自分の腕を掴んだユーリの手は、いつの間にか掌の方へと移動していた。重なったその場所を微かに握り直して、不思議と泣きそうになる感覚をヒストリアは辛うじて堪えた。
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