◆罵倒
「ああ、ミケ分隊長にも先日誘われましたよ。」
ナナバがミケからの誘いを持ちかければ、ユーリは人好きにする笑みを浮かべてそれに応える。
「とっても行きたいんですが、その日はちょっと用事があって。」
そして、案の定判で押されたような言葉で断られてしまう。ナナバはちょっとだけを肩を竦めた。
「えー。なんの用事があるの?」
「ちょっと……医者にかかってるんです。」
「どこか悪いところでも?」
「あはは……、虫歯ですよ。甘いものを食べ過ぎたみたいです。」
「…………。ふーん。」
その割にはちゃんと食事も摂ってたよね、という言葉を飲み込んで、ナナバは溜め息をした。………これはどうにも、来てくれそうになさそうだ。
「…………ミケと、私の班は酒豪が多いからさあ、いつも夕方から結構夜遅くまで飲むよ。どこかでちょっとだけでも顔出せない?」
「あははー。」
笑って誤摩化された。
これでは、部下を無理矢理飲み会に誘う厄介上司である。事実その通りではあるのだが。
「じゃあさ、ユーリが都合良いときっていつなの?」
「まだちょっと見通しがつきませんね。今度分かったらお知らせしますよ。」
あ、これ絶対お知らせしてこないやつだ。
ナナバは腕を組み、細い眉をしかめてみせる。そんな様を、ユーリはおかしそうに笑いながら見守っていた。
「うん………。ねえ、ユーリ。ユーリはどうか分かんないけど、ここの皆は君と仲良くなりたいんだよ。」
「それは嬉しいですね。」
「だからさ、君と仕事以外でも話したりしてみたいんだよ。」
「………。そうですか。」
「私たちはたしかに調査兵団という機関に所属した上司と部下だけど……いや、それだからこそ、相互理解や信頼関係が大事だと思わないか。」
「ええ、仰るとおりです。分かりますよ。」
「ああ、君はなんにも分かっちゃいない。」
ナナバはユーリの双肩を掴んだ。束の間、ユーリの長い前髪の向こうでその瞳が驚いたように見張られた。ぱちぱち、とそれは不思議そうに瞬きをしている。
「君はなんでもそつなくこなすから、周りの助けなんかいらないと思ってるんだろうけど。」
「…………。はい。」
「正直だな!!」
ユーリの物言いに、思わずナナバは突っ込んでしまう。そして暫時唸り声を上げたあと、そのままで言葉を続ける。
「……周りの皆はね、君の助けが必要なんだよ。」
「はあ……。」
「けど、君がどんな人か分からないと…仲良くなれないと、助けて欲しくても助けてと言えないんだ。」
「へえ……。」
「だからさ、もっと私たちと仲良くなって欲しい。」
「…………。」
ナナバは真っ直ぐにユーリの青い瞳を見つめる。しかしその視線は彼女の長い前髪に遮られて、幾ばくかも届いていないようだった。
………諦めにも似た、虚しい気持ちがナナバの胸の中に広がる。そっと、ユーリの双肩を掴んでいた掌を解いて、一歩後ろに下がった。
「………それに。私は君のことだって助けてあげたいんだよ………。」
ぽつりと呟いたナナバの言葉に、ユーリは無反応だった。彼女の注意は、やや乱れた自身の制服の襟を正すほうへすっかりと向いてしまっていた。
「でも、君が助けてって言ってくれないと、助けてあげられない。」
それだけ零して、ナナバはそこを後にした。残されたユーリは、どこか不思議そうな顔をしてその後ろ姿を見送った。
*
「………怪我をしたのか。」
エルヴィンは、自室の椅子に腰掛けては書類に目を落としている。落としたままで、目の前にいるユーリのことをちらとも見ずに呟いた。
「ええ、でもかすり傷ですよ。」
ご心配なく、とユーリはいつもの薄い笑顔を崩さずに応える。
心配などはしていない、と呟きながら、エルヴィンは掌中の書類をめくった。
「ただ………。今回の彼はあくまで、自身の一存で行方をくらませてもらわなくてはならない。………現場に、血痕などの不穏を残されると厄介だ。」
「………………。そんな、粗相はしませんよ。」
「粗相ではない………。では、なんだ。何故お前は怪我をした。部屋でいつもと変わらず本を読んで過ごした休日≠ナあったのに関わらず、何故お前は怪我をした?」
そこで、初めてエルヴィンはユーリのことを見た。
光っているかのような鋭い視線であった。青く冷たく、透き通っていて美しい。
自身と同じ色をした彼の瞳が、その時のユーリにはとても恐ろしかった。思わず息を呑む。
いつの間にか立ち上がっていたエルヴィンが、言葉を失った彼女の方へとゆっくりと歩み寄る。
ユーリの背中に冷や汗が伝った。眼前の男が怖くて仕方がなく、震える。しかし逃げるという選択肢はまったく無かった。彼女はただ、動くことを忘れてしまったかのようにそこに立ちすくんでいた。
エルヴィンは、ユーリの双肩に掌を置いた。彼の長い指が、その頼りない肩を潰してしまうほどに強く握られる。痛みに堪えきれず、ユーリの喉が引きつった音を漏らした。
「殺すのを、躊躇ったのか。」
エルヴィンは、自身よりも幾ばくか背の低いユーリに覆い被さるようにして、その耳のごく傍で囁いては尋ねる。
彼女は、相も変わらず動くことも話すことも出来ないでいた。ただ一刻も早く、ここにいる時間が終ることを祈るだけであった。
「何故躊躇った」
エルヴィンの低い声は、実に落ち着いていながらユーリのことを激しく責め立てながら続けられる。
ユーリは耳を塞いでしまいたかった。しかしそんなことが出来る筈がない。せめての抵抗として、瞳を固く閉じる。しかしその行為にはなんの意味も効果もなかった。暗くなった視界は、返って恐怖を増長させるだけである。
「自分の存在意義を思い出せ」
たっぷりとユーリに恐怖と辛苦を与えられたことを確認したエルヴィンは、やがて掌を離した。
娘に覆い被さっていた身体を起こし、高くなった視点から今一度見下ろしてやる。
ユーリの表情は、長い前髪に隠された上からでも分かるほどに青ざめていた。
「――――――理解ったか。」
尋ねれば、彼女はぎこちなく首を縦に振った。
それを見届けて、エルヴィンは先程まで腰掛けていた椅子の方へと戻っていく。
「それならば構わない。」
エルヴィンの簡潔な返事を聞いて………怪我をした腕や、強く掴まれた肩では無く………ユーリの胸には、じくりとした痛みが走った。
それは、彼女が最近とみに感じる不愉快な感覚だった。
(身体の痛みには、慣れている。)
ユーリは数々の野蛮な暴力の中で育った人間だった。見せ物ということもあり、幾分か守られてはいたが。
だから、痛みには慣れている筈だった。しかし、この……本当に小さな胸の痛みにも関わらず……感覚だけは、いつまでも馴染めずにいる。たまらなく、焼け付くような苦痛を伴って。
「今夜は、もう良い。」
エルヴィンは、最早ユーリに対する興味を微塵も感じていないようであった。
机上に規則正しく積まれていた書類を今一度手に取って見直しながら、一言そう述べる。
「え………、でも。それは………」
「一度躊躇った者の仕事は信用出来ない。」
返す言葉を探すようにしていたユーリの声を遮って、エルヴィンはにべもなく言った。
…………仕方が無く、彼女もまた口を噤む。
「次の指示があるまで、何もしなくて良い。」
ユーリにとって、エルヴィンからのその言葉はどんな罵倒よりも辛かった。
父親から必要されなくなることが、今の彼女にとっては一番の恐怖であった。
*
「えー…………。」
いつも利用する街の酒場にて、ナナバは間の抜けたような声を上げた。
その向かいには、ユーリがにっこりとして腰掛けている。
………自分から誘っておいたのにも関わらず、今ここに彼女がいることにナナバは心底納得いかないような様子だった。
「お、見ない顔がいるな。」
当然のような顔をしてその場にいたユーリに気が付いたゲルガーが彼女に声をかける。
彼もまた、珍しくユーリが酒の席にいることに驚いたようだった。
「珍しいじゃねえか、天才ちゃんがこんなところ来るなんて。」
「なによその天才って。」
その隣にいたリーネが不思議そうにゲルガーに尋ねれば、彼は鼻をふん、と鳴らした。
「決まってるだろ、主席で品行方正なこいつの通り名だ。」
「いや、そんなの私初めて聞いたけど。」
「当たり前だ、俺がたった今つけたんだからな。」
すでに相当出来上がっていたゲルガーは、ユーリの背中をばしんと叩く。結構な力がこもっていた為に、ユーリの口からは苦しそうな呻き声が漏れた。
「それにしても、確かに珍しいね。あんたはこういう場が苦手なんだとばかり思っていたわ。」
痛そうにしている彼女の背中を軽く擦ってやりながら、リーネが言う。ユーリはその言葉に、曖昧に笑い返した。
「ええ……。まあ、正直あんまり得意ではないかもしれませんね。」
「じゃあなんで来たの?」
「それは……今夜の予定≠ェ諸事情によって無くなったのと…………、あとは、まあ。」
そこで言葉を切って、ユーリは向かいのナナバのことをちら、と見た。その唇にはいつものように薄い笑みが描かれる。
「ちょっと、皆さんと仲良くなりたかったのかもしれません。」
人を食ったような態度ばかりが目立つ新入りの意外過ぎる言葉に、その場にいた面々は思わず顔を見合わせてしまう。
周囲のそんな反応がおかしかったらしく、ユーリはくっくと喉の奥でおかしそうに笑った。
その様子を、ミケは少し離れたテーブルから眺めていた。
暫時なにかを考えるようにしていたが、やがてヘニングに話しかけられ、その思考は中断された。
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