◇応答 2
肩を抱いていた掌を少し移動させ、白い首筋へと伸びている痕をなぞる。それを感覚したユーリの身体に緊張が走る。それを気にせず、薄手のカーディガンと皮膚の隙間へとゆっくりと指先を滑らせた。
「いや……与えさせてくれないか。」
ユーリにとって一番に忌むべき醜い皮膚を隠すその薄い布地を、彼女を恐怖させないように細心の注意を払って少しずつ肩からずらして、剥がすように下ろした。
「で、無いと……こっちも中々、罪悪感がある。」
ようやくユーリにも自分が言わんとしていることが伝わったのか、その動揺が分かりやすく伝わってくる。
やはり…どうすれば良いのか分からなくなっているに違いない。青い夜の空気の中に晒されている自分の皮膚を、ユーリは絶望的な表情で眺めていた。
きっと、今すぐに再び隠してしまいたいのだろう。耐えきれなくなったのか、唇を噛もうとする例の悪い癖の気配がした。急いでそこに触れ、「噛むな。」と念を押す。
これ以上、新しい傷を作らないで欲しいと思った。その逆もまた然り。傷付かず傷付けずいられる、ユーリの心から安らげる場所になってやりたかった。
(だから、俺の前でこれ以上自分を卑下するのはもう……やめて欲しい。)
ユーリは瞳を閉じた。諦めたのか、受け入れようと決めたのか。
燻んだ灰色のカーディガンを脱がそうとすれば、素直に従って腕を袖から抜いた。
それでもやはり、人に肌を晒すことにはひどい抵抗があるらしい。「ははは…」と乾いた笑いを漏らして、ユーリは自分の腕を汚す浅黒い痕をなんとも言えない表情で見下ろしている。
「言ってくれ。」
身体ごとユーリに向き合ってやりながら、ミケはゆっくりと言った。
「お前は、何が欲しいんだ?」
ユーリは斜め下を眺めながら、「そうですね…」と小さく呟く。
「プランター………」
そして、微かな声で続けた。
一瞬何を言っているか分からずに、ミケは「は?」と聞き返す。
「いえね…プランターが欲しいんです。花瓶も良いけれど、やっぱり土から生えてる花の方が綺麗だから………」
ユーリは少し申し訳なさそうにしながら言葉を補った。
「…で、そこに植えた花の名前も今度はちゃんと調べて、覚えておくんです。私はものぐさだから、上手に育てられる自信はあんま無いんだけど…。」
話しながら、ユーリは段々と皮膚を晒されている不安から逃れていくらしい。笑顔も明るいものになっていき、ミケのことを見上げながら言葉を続けた。
「でも欲を言えば、庭が欲しいなあ。…庭がある、家。自分のお家に沢山の花が咲いていたら、すごく幸せな気分になれると思うんです。毎日……帰るのが本当に楽しみになるような、わ、わたしの……いえが………」
楽しそうに夢見がちなことを話していたユーリだったが、その言葉の途中に苦しそうな音が混ざる。
ハッとしたミケがその顔を覗き込むと、ユーリは片手で顔を覆い、泣いている顔を見られないように下を向いてしまう。だがそれでも涙は留まらないようで、雫が顎を伝って垂れて行くのがよく見えた。
「本当に……お前はよく泣くな。」
呆れたような口調で言いながらも、ミケはひどく辛い気持ちになった。触れば凹凸に刻まれた痕が分かってしまう裸の肩を撫で、抱いて、更に自分の傍へとユーリの身体を寄せた。
彼女は首を振って、「ち、ちが ………っ」と必死の否定を返してくる。
「………別に責めているわけではない。落ち着け。」
そのまま彼女の細い質の髪を梳き、安心させる為に旋毛の辺りに口付けた。
「そ…じゃなくて、私が泣き虫なのは…ミケさんの前だけだから……………っ」
嗚咽が堪えきれなくなったのか、ユーリの言葉は聞き取りにくかった。
それでも……ああ、と思う。
どうしたものかと。
自分でも信じられないほど、骨身に沁みてその全てが愛しいと感じた。
「そうか……。それなら、今のうちに思う存分泣いておけ。」
彼女の耳元で、ひとつずつの音を確かめるようにして言葉を紡いだ。ユーリは黙ってそれに耳を傾けている。
そして……その涙をどうすれば留められるか、とミケは少しの間考えてみた。
「……………これから、別の意味で鳴くことにもなるからな。」
「…………………………。」
「…………………………。」
「………………はぁっ!!!????なに貴方ありえない、こんな時に下ネタ!!????とんでもないところでオヤジですね、涙も引っ込むっつーもんですよ!!!!!!????」
少し沈黙の後…………打って変わって激昂した彼女を見て、慣れないことはするものではないな、とミケは苦笑する。
一応目論見通りに彼女の涙は収まってはくれたのは良かったのだが。だが……このままでは当初の目的の方が流されやしないかと、この時ばかりはミケも結構反省した。
ユーリは深々と溜め息をして、今一度「マジありえない…」と呟いた。
だが、ミケの危惧に反して彼女はクッと笑いを吹き出す。…やがてそれが堪えきれなくなるらしく、ユーリは肩を揺らして笑った。
「あはは…でも、そういうところが…いや、そういうところだけじゃなくってさぁ………。」
そして独り言のような言葉を漏らしながら、ユーリは笑いながらミケの方へと向き合う。
「うん、全部好きだなあ。私ね、ミケさんのことが大好き。」
そして無邪気で子供っぽい笑顔を浮かべながら、些かはにかんで自分の想いを伝えてきた。
言いたいことを言って満足したのか、ユーリは瞳を閉じてもう一度「うん…。」と何かを確かめるように頷く。
「…………ってワケで。今度はミケさんの番なんですが…。」
ユーリは、はは…となんだか苦しそうに笑いながら言葉を濁す。そして、躊躇いがちに続けた。
「なにを…、…………。貴方は、何が欲しいんですか?」
首を傾げて、問われる。
その金色の髪が、冷たい夜風に煽られて細かい光を辺りに散らした。
未だ躊躇が隠しきれないユーリとは反対に、ミケは迷うことなくその頬に掌を添えて口付けた。
彼女のやや厚めの唇を自らのもので押して、舌先で少しなぞれば僅かな逡巡の後に薄く開かれていく。それを逃さずに滑り込み、その舌を絡め取っては強弱をつけ、角度を変えて、時には歯を立てた。
ここまで濃厚に口付けられるとはユーリも思っていなかったらしく、驚いて腕を胸板のあたりに突っぱねてくる。だが、腑抜けたその抵抗は特に問題にはならず、構わないで今度は上顎の辺りに舌を執拗に擦り付けた。
びくりと背中が弓なりになって跳ねるので…そうか、ここか。と思う。
ひとまずのところ、顎のあたりを持って上を向かせた。ユーリはその意味を察したのか、口内で互いのものが混ざり合った唾液を苦しそうに嚥下する。
解放してやれば、ミケの名残惜しさを表現するように唾液が細く白い糸で二人の口内を繋げていた。
…しばらくその様を眺めていたかったが、我に返ったユーリが咄嗟に手を伸ばしてそれを断ち切るように自分の唇を片掌で覆う。
「…………な、いや…。ちょ、」
混乱しているのか、意味をなさない音をユーリは並べるが……ついに何も言えなくなるらしい。諦めて小さく呻いては顔を伏せる。
全てにおいて覚束なくなってるユーリとは対照的に、ミケは気持ちの赴くままに彼女の身体を抱いて引き寄せた。
だが未だユーリは状況についていけていないようで、「ちょっと、」「ミケさん…」「あの、待っ………」と辛うじての単語を繋いで言葉を伝えてくる。
「…………安心しろ。プランターなら百平米くらいあるのを買ってやるから。」
「それもうプランターじゃなくないっすか!???畑ですよそんなん!!!!」
「じゃあ畑でも良いんじゃないのか。花だけじゃなくて野菜も育てた方が色々と便利だろう。」
「誰が世話するんですかそんなだだっ広い畑!!!??」
「まあ…百平米は冗談として……。お前にその気があるなら協力しよう。」
「えっ…、はぁ…………。どうも。」
「……………だが、俺も庭付き戸建てが買えるほどの金は持ち合わせていない。もう少し待ってくれ。」
「はい…?」
「なんだその薄い反応は……。俺が言いたいことが分からないんなら、お前はやっぱり相当な馬鹿だぞ。」
「お、あ…………。ウンウン、分かる分かるー。ミケさんが言いたいことが手に取るように分かるわー……」
「そうか、やっぱりユーリは馬鹿だったのか…。」
「ちょっ!!!決めつけないでってば!!!私馬鹿じゃない!!!!」
「まあこの話はお前の頭がもう少し賢くなったらとして……。一旦今の状況が落ち着いたら、それまでの繋ぎとしてひとまずの鉢と種は買ってみるか。お互い園芸は経験が無いからな、まずは簡単なものからやってみるとしよう。」
抱きながら語りかけ、指通りの良い髪を撫で続けた。
この触り心地が好きだった。そこを繰り返しなぞるうちにどんどんと切ない気持ちになって、堪えが効かなくなっていく。
気が付くと、そこを随分と乱すようにしてしまっていた。彼女の髪を結わえていた黒く細いリボンが落ちて、真っ直ぐな毛も同じように重力に従って落ちてくる。
それに伴って、自身の敏感な鼻腔がユーリの香りを骨に応えるほどに感知した。もうそろそろ、本当に我慢がならなかった。
「良いか。………もらうぞ。」
彼女の頭を自分の胸板に押し付けるようにしながら尋ねる。
「………良いのか。」
確認するように、耳元で今一度。
「………………逆に…ですが。」
ユーリが、そろりそろりと怯えたような仕草でミケのことを抱き返してくる。自分の胸板に声が吸収されていることも多分にあるだろうが、それにしても弱々しい声だった。
「本当に、欲しいんですか。ねえ………、ミケさん。」
遠慮がちに自分の体に腕を回した後、ユーリはキュッと強く服の背面を掴んでくる。
少しの間を空けて、「こんなのが………。」と続いた言葉が終わらないうちに、ミケはその体を抱きしめる力を加減することなく強くした。
「………欲しい。」
安心させるように、穏やかに言ってやろうと思ったのに、自分の声は予想外に掠れていた。
…………当然か、と思う。こちらだってもう良い大人でいてやる余裕は微塵も残されていないのだから。
「欲しい……!」
繰り返して言えば、ああ、こんなにも…だったのか、と痛いほどに実感した。
そう、欲しかったのだ。いつでも、堪らなく。
ゆっくりと身体を離してやって、ユーリの瞳の色を確認する。
子供のように純粋で透き通った瞳だと思った。
そしてやはり、透明に青色を浸したような鮮やかな色をしている。
あの夜と、全く同じだった。
いつかユーリを初めて抱いてしまおうと思った、あの夜と。
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