◇伝言
「ミ、ミケさん。」
ユーリが、辛うじて…と言ったような掠れた声で呟いた。
「もう………朝じゃないですか、明るいですよ…………。」
そう指摘されてようやくミケは少し顔を上げ、窓の方へと視線をやる。
確かに彼女の指摘通りに、白々とした透明な光がそこから斜めに差し込んでいた。部屋の中の埃がその中に舞い込み、白く燃えるようにして輝いている。
……どうやら我を忘れるほどに夢中だったらしい。もうここまでの時間が経過していたことに、ミケは少々驚いては瞬きをした。
「…………す、すみません……………。もう…私…………。」
ユーリが死にそうな声を自分の体の下で上げる。
その方を見下ろせば、声と同じように彼女の表情はぐったりとしてまさに死にかけだった。ミケはひとつ溜め息を吐き…「どうした。若いのに情けないな。」と呟いた。
「んなこと知らないですよ……。ミケさんの体力が無尽蔵すぎるだけですって…。」
「………なるべく丁寧に、と心がけていただけだ。」
「丁寧とねちっこいを貴方履き違えてません?普段淡白気取ってるくせに……クソ」
畜生、このスケベ野郎……とユーリはついに悪態をついた。
些かムッとしたミケは、「……口が悪いな。お前の良くないところだ、直せ。」と指摘する。それには「善処しまぁす」と気の無い返事がなされた。
「…………と言うわけで。ちょっとは寝ないと今日に応えますよ。特にミケさんなんか分隊長なんだから……」
「人の心配をするとは…まだ少しくらいは余裕があるらしいな。」
「いやぁー…無い無い。全然無い。あるように見えるんならミケさんの目は飛んだ節穴ですよ。眼か頭のお医者にかかることをオススメします……」
ほら、ちょっと離れて……。とユーリはミケの胸板を押してくる。
流石にミケもこれ以上を望むのは酷だろう、と従って離れてやった。ユーリはホッとしたらしく、細く長く息を吐く。
「……繰り返しますけど、本当にミケさんも短い時間で良いから寝てくださいね。貴方は皆の分隊長なんですから…。私個人の都合でその体調を崩させちゃうわけにはいかないんですよぉ…。」
自分の肩の辺りに頭を寄せながらユーリは呟く。ミケは何か言おうとしてその方に顔を向けるが…もう、彼女はスコンと気絶するように眠っていた。どうやら本当に体力の限界だったらしい。
(…………。無理をさせていたのか?)
この時に、ようやくミケも申し訳ないという感慨を抱く。
そして……暫し考え込んだ後に、ユーリを起こさないように気を払いながらゆっくりと身体を起き上げた。
彼女には休むように言われたが、正直そこまでの疲れは感じていなかった。むしろもっとを望みたい気分である。
そして更に言えば、このベッドは狭かった。ユーリと並んで、大柄な自分がゆっくりと体を休めることはとても出来そうにない。
勿論自室に戻るという選択肢もあったが……ここから離れることもなんだか気が進まない。まるで後ろ髪を引かれる思いだった。
安らかな寝息を立てるユーリのことを暫し見下ろしてから、ミケは地面に足をつけて立ち上がる。
風邪を引かれては困るので、乱雑に丸まっていた毛布を彼女の上にかけ直してやった。その際に僅かに身動がられるが…一度寝返りを打つと、ユーリは引き続き安らかな寝息を立て続けた。
床に落ちている自分の着衣を拾い上げながら白い光に照らされた窓の方を見ると、一羽の白い鳥がそこを横切った。
風が吹くのか、樹々も淡い金色に朝日を照り返しながら揺れている。至極穏やかな朝の時間だった。
(家が……。家族が欲しいと……言っていたな。)
シャツに腕を通しながら、昨晩の彼女の言葉を思い出す。思い出しながら、瞼を下ろして朝の弱い光に感じ入った。
(思いがけず、平々凡々とした夢を持っている。)
…………………適えてやろう、と思った。
幸せにしてやろうと、心から思った。
安心しきって深く眠っているユーリのことを今一度眺める。
…………毛布から覗く肌には、自分がつけた跡の他にもやはり…幾つかの古い傷痕が浮いている。
出来る限り、これ以上の傷を負わせたくない。
彼女の過去を肯定してやることは残念ながら出来ないが、その未来を否定することもまたしたくなかった。その権利は誰にもない。自分にも、彼女の唯一の肉親の…父親にも。
衣服を身に付け終わり、持て余した時間をどう過ごすかと思考を巡らすうち……ふ、と机の脇に据えられた屑籠が目に入る。
普段そこは大抵空なので気にも留めていなかったが、今日はその中に何か…本のようなものが投げ入れられているのが見えた。
なんの気はなしにそれを拾い上げてみれば、思いがけず覚えのあるものだった。
それと同時に、いつか随分と強引に彼女に肉体関係を迫ろうとしたことがまざまざと思い出されて、苦い気持ちになる。
………彼女が一向に目を覚まそうとしないことを今一度確認してから、ミケはその頁をパラパラと捲った。
(………………。なんだ、特に使い終わったから捨てた、というわけでもないのか。)
見てみると、まだ終わりの頁までは空白の余裕が幾許かある。
あの時から幾年か経つが、ユーリはそのズボラな性格上マメに日記を記していた、という訳では無いらしい。相変わらず日付は飛び飛びで、ひどい時は数ヶ月ほど期間が空いている時がある。
ミケはユーリが最後に記したであろう文字列にまでたどり着く。日付は、昨日のものだった。
(…………………………。)
長くは無い文章を、ミケは何回か繰り返して読む。
そして閉じて、それを持ったまま……ゆっくりとした足取りで部屋を後にした。
*
もう既に執務室の机の前に腰を下ろして何事かの書類を処理していた男に、ミケは手にしていたものを差し出す。
……………彼はミケの突然、しかも早朝の訪問を諌めることはしなかったが、訝しげな表情をしてそれを手に取る為に腕を伸ばしてくる。
「なんだ…これは。」
そして受け取ったエルヴィンは当然の疑問を向けてきた。
ミケは読んでみろ、と仕草で促す。
「まあ…ユーリの日記だ。……日毎に記している訳では無いが。むしろ月記という名前の方がふさわ「ユーリの………?」
ミケの言葉が終わらないうちに、エルヴィンは相も変わらず怪訝な様子で呟く。
頷いてそれを肯定すれば、彼は暫し無言で娘の日記を改める。
「これを……、お前は、どこで。」
そして、目線を上げることはなくエルヴィンは呟いた。
「ユーリの部屋だ。屑籠に捨てられていたものなので……いらないのだろう。だから俺がそれをどうしようと大した問題では無い。」
「いや……、そこはどうでも良い。」
「どうでも良いのか。」
「問題は、何故お前がユーリの部屋の屑籠事情を預かり知っているかだ。」
「何故……と言われても。目に入ったからとしか言いようがない。」
「……………………。そうか。」
何かを目紛しく思考しているらしい上司のことをミケは少し首を傾げて見下ろすが…やがて、「用事はこれだけだ。非常識な時間に済まない。」と取り敢えずの謝罪を述べては速やかにそこから退室する。
ユーリが目を覚ます前に、自分は彼女の部屋に戻らなくてはならない。
目覚めた時に自分の姿が見当たらないと、ユーリはひどく寂しがっては不安に駆られてしまうだろうから。
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