道化の唄 | ナノ

 ◇応答 1


青ずんだ空には月明かりに照らされた銀色のうろこ雲が、明るくなったり暗くなったりを繰り返して渦巻いていた。

ユーリは大きめの薄いカーディガンを身体に巻きつけるようにして羽織っている。

彼女が窓まで歩んでそこを開けると、吹き込んでくる冷たい風によってそれが煽られて、彼女を蝕む痕が首から背中にかけて覗いた。

無意識なのか意識してなのか、ユーリはたなびくカーディガンを抑えてそれがミケの目へと触れるのを留める。


…………そんなことはしなくて良い、と思った。


だが無理に見せろと言うものでもない。ユーリの気が済むまで待ってやるのが、彼女よりひと回りふた回りほど年かさのある自分の勤めだと思っていた。


(しかしながら………)


今回の壁外調査で骨身に沁みた実感は、ミケにある種の不安を抱かせた。


エレンという存在の出現によって、今までとは何かが決定的に異なろうとしている。

壁によって閉塞されてきた堂々巡りの世界が終わっていくような、歴史が違える瞬間が近いような…新しい世界への匂いが辺りに満ち始めた感覚が確かにあった。


それは喜ばしいことだ。

だが、革新には必ずより多くの犠牲が伴う。

これから、この兵団の状況はかつてないほどに厳しいものになるだろう。壁内にも人間の姿を纏って巨人が存在するとなれば、この世のどこにも安全な場所などありはしない。


明日我が身が、そして眼前のある種…素直に認めたくはないが愛しい人間が、忽然といなくなる可能性は非常に高いのだ。

……………不安は育ち、どうにも堪えが効かなくなった。

だから今夜、賭けをしようと思っていた。

この部屋の扉の施錠がなされていなければ、それを伝えて…承諾を得ようと。


そして扉は開いていた。


だがこうしてユーリを目の前にして、何から切り出したものかよく分からなくなっている。


何も言わずただベッドに腰掛けるミケのことを特に訝しがる様子もなく、ユーリは弱い夜風を感じるようにして暫し窓の向こうの青い星空を眺めていた。

時折長い前髪が煽られて揺れるので、しばらくしてそれを耳にかけては顕になった瞳をゆっくりと閉じる。


(なんだ。)


と思う。

自分よりも随分と年下の癖に、余裕に見える態度が些か癪だった。

毎度のことながら自分ばかりが気まぐれなユーリに振り回されているような気がして、仕様がない。



「………私ね、逆に慰められちゃいましたよ。」


ミケの方を見ないで、彼女は唐突に話を切り出した。

なんのことだと思って続きを待てば、ようやくユーリはこちらを見て「エレンですよ、エレン。」と言葉を捕捉する。

件の少年の名前を聞き…ミケは「そうか。」と相槌を打ちつつも、未だ何の話なのかよく分からなかった。そして何故今エレンの話になるのかと、僅かに幼稚な苛立ちを覚える。


「ミケさんが慰めてやれって言うから彼のところに行ったんですよ……うん。………でも、そうしたら返って慰められちゃいました。逆に気を遣わせちゃったのかも。…………。私ってつくづく格好悪いなあ…。」



喋りながら、ユーリはミケの傍までゆったりとした足取りで戻って来た。露わになった垂れ気味の青い瞳が滑るように動いて、彼のことを捉える。

そして無造作に置かれていた椅子に腰を下ろし、恋人と向かい合う形になっては溜め息を吐いた。


「………そうか。何と慰められたんだ。」


ミケは…如何に少年とはいえ、自分以外の男の話題は早いところ終わらせて欲しいと思いながらも、ひとまずの反応を示した。

勿論のことユーリは彼のそんな内心を知る由もなく、「そうですね…。」と先ほど開けた窓の方へと視線をやりながら応えた。


「会えて…良かった、って言ってもらえました。」


ミケの方へと視線を戻さないまま、ユーリはポツリと呟いた。


「今日まで自分が頑張れたのは、リヴァイさんと班員と……私のおかげだって、そんなこと…。」


ユーリは両の掌をそろそろと顔を上げ、目頭の近くを抑えて瞳を閉じる。


「嘘でしょ…可愛い…………。」


そう言って眉をひそめたユーリの瞳の端から、一筋涙が溢れた。


その光景を目の当たりにした瞬間、臓腑の奥が麻痺したような…続いて胸の内で何かが激しく爆ぜるのを、ミケは強く感覚した。


未だ目頭近くを抑えているユーリの手を掴んでそこから離し、強く握る。驚いた彼女がようやくこちらを見た。アイスブルーの瞳が暗い部屋の中で鮮やかに濡れて光っている。


「………悪いな。」


彼女のことを見つめ返しながら、ミケは呟くようにして言った。


「子供相手に、本気で嫉妬した。」


彼の言葉に…ユーリは数回瞬きをしてから目を伏せ、またしても視線を逸らす。

その反応に苛立ち、ミケは「きちんとこちらを見ろ。」とやや強い口調で言った。


「……………すみません。…こう言う時ってどうすれば良いのか、よく分かんなくって…」


結局こちらを見ることはせず、ユーリは消え入りそうな弱々しい声で返す。

どう言うことだ、と問えば…彼女は空いている方の手で再び顔を半分ほど覆ってしまう。

よくよく見れば、指の間から覗く頬や耳の皮膚が言い訳の余地が無いほどに赤くなっていた。


…溜め息を吐く。

純粋過ぎる反応が、ひどく意外で堪らなかった。てっきり、ユーリは男女の関係については人並み以上にスレた性質をしているのだと思っていた。


ユーリがようやくこちらを向いては弱々しく笑う。


「……生きてるって、色々たまんないですね。」


そうして彼女の胸の内全てを詰め込んだような一言を、囁くようにして零した。

ユーリは顔を覆っていた掌を離し、自分の手を握っていたミケの甲へと重ねる。


「ミケさん…。貴方、私よりも結構長く生きてますよねぇ。」

「……お前、人が気にしてることをさらっと言うよな…。」

「あはは、違いますぉ。そんなつもりじゃなくて。ミケさんは大人の魅力たっぷりなんですからそう言うこと気にしなくて全然大丈夫ですよ?」

「そ、そうか。」

「でもって…私よりも随分長いことこの兵団にいらっしゃる。ミケさんってすごい人だったんですねえ、あ…馬鹿にしてるんじゃないんです。ただ………そんな長い間こんな気持ちとか…寂しさとか、孤独に耐えてきたんだなぁってね……。もし自分がその立場だったら?って考えたら途方も無い気持ちになって…すごく、怖いですよ。」


ユーリは、ははは…と小さく笑い声を上げた。

何か憑き物が落ちたような、晴れ晴れとした笑い方だった。それでいて、少し寂しい。

彼女はミケの掌から手を離し、頬の辺りにそっと触れてきた。…少しだけ触れるが、何かを躊躇うのか指を離してしまう。

そのもどかしさに焦れて、指先を捕まえてやればまた心弱く笑われた。


「…………ごめんなさい。いつも自分のことばかりにいっぱいいっぱいで。……貴方を気遣うことにはまるで覚束ない、ダメな人でしたよねぇ…私。」

「お前は何が言いたいんだ……。随分としおらしいな。らしく無い。」

「そうですかねぇ。たまにはこう言うのも可愛くて良いでしょ?」

「………………………。」

「そんな顔しないで下さい。ミケさんたら折角格好良いのに、台無しですよ。」


ユーリはまた例のなんとも言えない笑い方をしてみせる。それから少しだけ何かを考えるようにしてから…「ううん、もしかしたらちょっと違うかも…?」と呟いた。


「ごめんなさい…じゃなくて、ありがとう、かもしれませんねぇ。」

掴まれていた手をそろそろと離すように促して、ユーリはそれらを自分の両膝の上で重ねて居住まいをキチンと正す。

すっきりとした顔の輪郭の際で、夜空を滑る雲に反射する青い灯が淡く光っていた。


「貴方だって辛いことが沢山あるのに、それでも私のこと大事にして…優しくしてくれて、………どうもありがとうございました。」


そして、ユーリはそのままで深々とこちらに頭を下げる。

その様を見て…ミケはどうしたら良いか分からず、ただただ瞬きを数回した。

ゆっくりと顔を上げたユーリは彼の戸惑いに気が付いたらしく、困ったように笑った。そして、「慣れないことはするもんじゃないですねぇ」と呟く。


「で…まあ。それで。折角なんでミケさんにお礼がしたいんですが、何が良いですかねぇ。最もあんまり高価なものはダメですよ?」

「なんだ、相変わらずケチ臭いな。」

「違いますって、本当にお金無いんですよ。………全部使っちゃったんで。」


ユーリは下ろしていた足を上げて、椅子の上で胡座をかきながら軽快な笑顔を作った。

……そしてそのままでニヤニヤとしながら「肩たたき券なんていかがです?」とふざけたことを言うので、その頬をそこそこの力を込めてつねってやった。


「おわっ、やめてやめて痛い!!ほっぺた取れちゃう!!!」

「そうか、取れてしまえ。」

「ほんとスミマセン二度と年寄り扱いしませんったら!!!ミケさんたら若い、セクシー、目元がエロい、最高にクールですってばほんと、マジで!!!」

(…………こいつお世辞が天文学的に下手だな。頭悪そうで可哀想)

「ちょっとなに哀れみがこもった目で見てるんですか、怒りますよ!?」

「こう言うことにだけは敏感なんだな………」


堪らなくなって、ミケはついに笑い声を零した。そんな彼の様子を、ユーリはようやく解放された頬をさすりながらじっとりとした目で睨んでくる。

ミケは未だ笑いの気配が入り混じる声で、「悪かった。」ととりあえずは謝る。そして今一度ユーリの手を引いて隣に来るように促してやった。彼女は素直に従って、ミケの隣すぐ傍に腰を下ろす。


自分の手が届く場所にユーリが来たことで、ようやくミケの気持ちは安堵する。肩を抱いてより近くへと寄せた。

ユーリは小さく息を飲んで身を固くする。

しかし少しの間そうしていると、気持ちが落ち着いてくるらしく自分の方へと軽く体重を預けて来た。

そのままで、彼女は呟くようにしながら言葉を連ねる。


「ねえミケさん。自分が欲しいものはいずれ教えるって言ってくれたじゃないですか。それ…教えてくださいよ。私も貴方になんかあげたいんです。」

「…その前に、お前が欲しいものを教えて欲しい。」

「え?」

「気持ちとか…愛情とか。そう言った、形の無いものしかお前はいつも望まないだろう…。最も、俺が与えることが出来るものもそれくらいしか無かったが…。」

「いえ………本当に私は…そんな、」

「形があるものを望んで欲しい。…与えてやりたい…と…。思う。」


我ながらぎこちない持ちかけだと思った。

そして予想した通りに、ユーリもまたぎこちなく「別に…そんなの、良いですよ。」と応える。

普段あれほど調子の良い性質の癖に、こう言う肝心の時に欲深くなれない人間がユーリだ。謙虚さを示す場所が全くもって間違っている。そこがもどかしくて、いじらしい。

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