◇言葉
「大丈夫ですって。………ミカサもアルミンも、訛りがシガンシナのもので一致しています。あの二人は真実にエレンの幼馴染なんでしょう。」
ディアマントの形に鉛線とガラスとで几帳面に組まれた窓から、彩度の低い光が斜めに差し込んでいる。
それによって影が薄く落とし込まれた父親の端正な顔を眺めながら…ユーリは彼からの言葉少ない質問に答えていた。
「でもねえ。あの時にエレンが巨人化するのを見てた訓練兵…で、今期うちの兵団の新兵になった子らはほら、例のシガンシナの襲撃直撃世代でしょ?結構身元が分からない子らも多かったですよ。中には苗字不詳とかもいたし。」
「何も成果が無かったと言うことか。」
「いや…そうとも言えますがそうとも言えませんねぇ。」
「と言うと?」
「私は頭と察しが悪いんですよ。」
「そうか。知っている。」
「(……………。)なので、私に出来るのはマテリアルを揃えることまでで…後のことは聡明なお父様らの判断に任させてもらいますよ。取り敢えずは、彼らを調べる中で見つけた思いがけない副産物のご報告をいくつか。」
エルヴィンと向かい合って着席していたユーリは、机上に広がった書類の一部を引っ張り上げながら言う。
その際に、机の上に白く積もっていた埃が指先に触った。薄汚れてしまった掌を父親に見られないよう、ユーリは殊更に気を使いながら彼へと書類を手渡す。
「随分良いところのお嬢様が、こんなところに何故か…ね。」
じっと真剣に、自分が作成した書類へと視線を落とす父親を眺めながら…ユーリは言葉を補足する。
「何故かってこともないんですけどね…。彼女隠し子なんですよ。正規のレイス家の娘じゃぁありません。と……まあ、そう言った複雑な家庭のご事情はどこにでもあるんですねぇ。」
エルヴィンが黙っているのを良いことにペラペラと喋っていたユーリだったが、そこで一旦言葉を切り…「すみません。」と謝罪した。父親は小さな声で「いや…」と短くそれに応える。
「後はね、この子は調査兵じゃなくて憲兵に志願した子なんですが……。結構珍しい姓をしてたもんで気になって調べてみたんですよ。余計なことだったかもしれませんが、彼女も例の時…トロスト区でエレンが初めて巨人化を解いた際、それを目撃した人物らに含まれてましたから。」
「レオンハートが…?珍しくはあるが無くはない姓だろう。」
「聞き馴染みがあるのは今から十数年前に流行した小説の主人公にレオンハート姓がいるからでしょう。あと男性名としてはそこそこ聞きますよね。でも……実際この国でレオンハートを姓に持つ家族は二世帯しかいませんよ。ひとつは限界集落にいる独居老人で身寄りもいませんし、もうひとつはトロスト区の一件で一家諸共死亡したのが確認されています。…そう言ったことを考えれば、今この時この場所にレオンハートさんがいる辻褄は合いやしませんよね、違います?」
ユーリは組んだ両手の甲に顎を乗せながら、つらつらと言葉を重ねた。
「アニ・レオンハートは一体どこから来た女の子なんでしょうね?」
エルヴィンは娘の方に視線を向けることはなく、黙ってそれを聞くらしい。
白い光が、彼のやや痩けた頬に陰影を落としていた。まるで大理石の彫像のように人間味がなくて美しい男性だと、ユーリは場違いに感心した気持ちを抱く。
「とまあ、私からの報告はこんなところですかねぇ。他にも気になるところはいくつかあるんですが、あんまり沢山の情報が錯綜しても仕様が無いでしょう。以上で切り上げさせてもらいます。」
「……そうか、ご苦労だった。お陰で…随分と明日の作戦を仕掛ける場所の目星が絞れた。」
「いえいえ、お仕事ですのでお構いなく……。あ、でも…そうだ。労いついでにお願い聞いて頂きませんかね、団長ぉ」
……エルヴィンが嫌な予感を覚えたのか、ごく怪訝そうな顔をしてこちらに視線を上げてくる。
ユーリは汚れてない方の掌をスッと彼の前に差し出す。彼は暫しその掌とユーリの顔を交互に見比べては…訳が分からない、と言った表情をした。
「いえねぇ、エレンを心配し過ぎてし過ぎて胃に穴が空いちゃったんで、治療費頂けます?」
「……お前なに言ってるんだ?」
「手当てでどうにかなりません?」
「なりませんよ?」
「あらヤダ、ケチんぼ。」
ユーリはケラケラと笑っては机の上に散らばっていた資料をまとめた。
そして渋い顔をしている父親に対して、「別に現金じゃなくても良いんですよ?偶にはちょっとくらい褒めてもらいたいだけで。」と言っては斜めに見上げる。
ほんの少しの期待を込めて暫時彼の出方を伺う…が、エルヴィンはただこちらを見つめてくるだけだった。
ユーリは「すみません。」と苦笑しては再度謝り、まとめた書類のうち渡すものを父親に渡しては残りを小脇に抱えて立ち上がろうとする。
だが…エルヴィンはゆっくりと瞬きをした後に、ふと何かを思い付いたように自身の胸ポケットに指先をやった。
「今はこれくらいしかやれるものが無い。悪いな。」
そう言っては、細い銀色のペンをユーリの方へと差し出す。
「えっ…?」
予想外の父親からの反応に、ユーリは暫し言葉を忘れて固まってしまった。
しかしすぐに気を取り直すと、「いやいやいやいや、いらないですよそんな高価そうなもん。」と言っては掌をヒラヒラとさせる。
「第一それ貴方のイニシアル入りじゃないですか。質にも入れられないんでもらっても困りますよぉ。」
「………。質に入れるつもりだったのか。」
「いやっ、冗談冗談。全然冗談。」
慌てたユーリは、今度は掌をパタパタと振ってそれを否定する。
その様を眺めながら、エルヴィンは少しの間口を閉ざして何かを考えるようにした。が、やがて「まあ…」と一拍おいては再び喋り出す。
「遠慮するな。どうせ人からのもらいものだ。」
「え?」
「どうした。何か褒美が欲しかったんだろう?」
「いやっ…そりゃそう強請ったけどさ。人からそんな…わざわざ名入れしてもらったものなんか受け取れないよ。絶対大事なものでしょ?」
「いや?俺もこれに殊更の愛着があるわけでは無い。むしろ持て余していたんだ。」
「え………?」
エルヴィンは細く丁寧な造りをした万年筆を節が目立つ指で弄びながら、如何にも不思議そうな顔をする。
「別段好意を抱いていない人間から贈られるものほど、困るものはないだろう?」
本当に…何の悪気も悪意もなく、平素の会話の延長線上に突如としてその片言は現れた。
父親から放たれた一筋の軌跡を描く矢のような言葉に、ユーリの喉の奥から聞いたこともないような引きつった音が鳴る。
………体温が、数度ほど下がったのではないかと思った。
先程まで僅かに舞い上がりかけた胸の内が、深々と実感を持って冷え込んでいく。
寒くなって、ユーリは思わず自分の腕の辺りを片手で抱きこむようにした。
そして脳裏に過るのは……ゴミ溜めの中で得体の知れない液体に汚され、ひび割れのような皺が無数に寄っていたあの紙の袋だった。
本当に………何の感慨も感動もなく捨てられたのだな、と思った。
いつだって呆気なく。
彼にとってはそれだけのもので、自分はそれだけの人間なのだ。
……やばい、と思う。
目の前の人間と、自分の思惑の噛み合わなさが。潔いほどの気持ちのすれ違いが。決して交わることのない、自分の情とか愛の無意味さが。
笑ってしまいそうなほどに。やばい。
中々万年筆を受け取ろうとしない娘に対して、エルヴィンは呆れたようにして溜め息を吐いた。
何故ユーリが混乱しているのか、彼にはまるで分からないに違いない。
だがそれはユーリも同じで、父親が考えていること、いや彼と言う人間をまるで理解出来なかった。
「どうした。いらないのか?…まあ俺としてはどちらでも良いんだが。」
未だ指先でペンを手持ち無沙汰に弄んでいるこの男に対して、ユーリは初めてとも言える感情を胸に宿した。
今すぐにでも、この端整な造りの顔を張り倒してやりたい。
胸ぐらを掴んで激しく揺さぶりながら、言いたいこと、訴えたいことを全部ぶちまけてやりたい。
だがそれに何の意味も無いことくらい、分かっていた。
「私はバカだ……………。本当にすくいようが、ない」
だから気持ちを行為に現すことなく…ただ、弱々しく笑う。
ユーリが呟いた言葉が聞き取れなかったらしく、エルヴィンは僅かに首を傾げた。
それと、今まで固まっていたユーリが弾かれたように動くのは同時だった。驚いたエルヴィンの口から、小さく息を呑む音が漏れる。
父親の掌中から瀟洒な造りの万年筆を引ったくるようにして取り上げると、彼女は長い前髪の間から父親のことをじっと眺めた。
しばし中空で、同じ色を持った瞳同士から放たれる視線が混ざり合う。それを逸らずに、ユーリは口を開いた。
「これは、預かっておきます。」
そして、一音ずつ確かめるようにして言う。
「いや…?だからそれはお前に「駄目です、預かるだけです。ちゃんと返してくれって言ってください。」
エルヴィンを遮っては言葉を連ね、ユーリは万年筆を胸ポケットに収めた。そしてガタリと椅子を蹴って立ち上がる。
「ものを大事にしない人、私嫌いです。」
父親を一瞥してはそう言い捨てて、ユーリは振り返らずに部屋を後にした。
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