◇悪態
「……………そんな顔して睨まないでよぉ。」
部屋からつまみ出されたユーリは、それでもヘラリとした表情で扉の前に仁王立ちしているミカサへと言葉をかける。
そんな彼女とは対照的に、ミカサの視線は至極冷ややかであった。「えぇー…なんかこの子めっちゃ怒ってるんですけど…」とユーリは助けを求めるようにしてアルミンのことを見た。
アルミンは苦笑をしてから、「えーっと……。ミカサはエレンをすごく大事にしているというか、過保護というか…とにかく、彼に対することにはちょっと過敏なんですよ…。」と言葉を選び選び応対する。
「へえー。そっかそっかぁ、つまり貴方はエレンが好きすぎる人なんだね!」
「………なにもつまってませんよ。そのまんまじゃ無いですか。」
「で、私にエレンが取られちゃわないか心配で心配で仕様がないんだねぇ?」
「ちょっ…だからあんまりミカサを挑発するようなことは」
ミカサの眼は全くもって光を帯びずに瞳孔のみが開いていく。洞窟の奥に控える闇のような黒々しい色でユーリを見下ろすその様に、焦ったアルミンは先輩兵士の軽率な言動を諌めようとした。
だが特に彼女はそれを聞き入れず、むしろ「でもねぇー、ミカサ。」と言ってはミカサとの距離を詰めてしまう。
わざとなのか天然なのか、ユーリのあまり空気の読めなさにアルミンの顔面からはさめざめと血の気が引いていく。
「安心して大丈夫だよ?私はもっと成熟した大人の男性が好みだし、恋愛の対象としてはどっちかっていうと貴方の方が気になるからさァ」
はははとユーリは軽快に笑ってみせて、少し背伸びしては自然な動作でミカサの頬に口付ける。
「「!!??」」
至極当然のようでいて、あまりにも唐突過ぎるユーリの行為にミカサとアルミンに激しい衝撃がよぎる。
しかし彼女は特に気にした様子はなく、「あらビックリした?大丈夫、取って食いはしないよぉ」とケラケラ笑う。
「明日の作戦は貴方らにも何やらお手伝いして欲しいことがあるらしいよ?お気張りやすなァ」
そしていかにも軽薄な態度で今一度ミカサの胸の辺りをポンと軽く叩くと、ユーリは鼻歌交じりのご機嫌な足取りでその場をさっさと後にしていく。
アルミンは元より、ミカサすらも唖然としてそれを見送ることしか出来ない。
遠ざかる背中が突き当たった廊下を右に折れて見えなくなるまで、二人はその場に立ち尽くしていた。
「…………………。」
ユーリに軽く口付けられた頬の辺りを実に嫌そうな表情でさすりさすりしているミカサを眺めながら、アルミンはふ、と胡散な気持ちを抱いて顎のあたりに指をやった。
(…………。あの人、なんで僕らの名前知ってたんだろう。)
いや…何もおかしい話ではない。彼女がそこそこマメな性質で、新兵全ての名前を覚えている可能性だってある。
(人は見かけによらないし…。意外と情に厚そうでもあった。それに僕らは審議所にも列席した身だから、一応幹部連中に顔と名前は把握されている…そこからなんらかの形でユーリさんが知るところになったのか。)
いや、でも。
自分たちを除けば一番に新参者の彼女がどうしてそんな内部事情を預かり知るのだ?
(………僕のこと女だと思い込んでいる節の発言をしてた癖に、アルミン君って呼んできたよな。本当は間違えてなんかなくて…ただ、)
「アルミン」
ミカサが自分の名前を口にするので、アルミンの思考の深追いはとりあえずのところ中断される。
「どうしたの、ミカサ。」とアルミンが応えて顔を上げれば、そこには表情に深々とした闇を落とし込んだ幼馴染の姿があった。
これはマズい、とアルミンはまたしても血の気が失せていくような気持ちになる。
「調査兵というのは、巨人だけではなく人間の頸をも削ぐ権限は持ち合わせてはいないの……?」
「いやいやいやいやいや、それヤバイよミカサ。あと多分あの人頸削いだくらいじゃ簡単に死なないんじゃないかな。」
「じゃあどうすればいいの!欠けらも残さず粉砕すれば…あのアバズレの汚れきった掌からエレンを救うことができる…?」
「何故君はそう極論しか言わないんだ。もう少し歩み寄る努力をしよう。」
「歩み寄るくらいなら死んでやる…!!」
「そ、そこまで嫌わなくても」
本日何回目になるか分からない苦笑を顔に描きながら、アルミンは色々な意味で前途多難そうな調査兵としての生活を憂いた。
*
公舎の中庭を囲む回廊を、ユーリはゆっくりとした足取りで歩いていた。
黄色く色付いた葉を鈴なりにつけた樹々によって、中庭を漂う空気は金色に輝いていた。昼下がりの太陽がそれに明かりを垂れ、セピア色の柱や石床へと鮮やかな色彩を運んでくる。
金に白色を混ぜた色の光は回廊の向こうまで、ひとつずつのアーチから同じ角度を描いて真っ直ぐに差し込んでいた。
そして廊下の奥、連なる光の向こうで誰かが自分のことを待っている。
嫌だな、とユーリは思った。彼が自分の前に現れる時は大抵良くないものを持ってくる。
出来れば踵を返して、父親には会わず……心穏やかに今日という日を終えたかった。
(でもそれが…できないんだよねぇ。)
(私って奴はさァ、学習しない愚かの極みの人間だから。)
(困ったよ、ほんと。飛んだマゾ野郎だ。バカみたい。)
自分の頬を激しく打ってやりたい衝動にかられながらも、ユーリは平素を気取ってエルヴィンの傍まで足を運んだ。
「おこんにちは?ご機嫌麗しゅうございますかねぇ、エルヴィン団長。」
いつものように軽快で軽率で軽薄な態度を心がけて笑いながら、ユーリはエルヴィンに挨拶をした。
「…………敬礼くらいしたらどうだ。」
こちらに一瞥をくれて彼は言う。相変わらずの突き放すような物言いである。
然しながらそこそこそういった応対にも慣れていたユーリは、軽く肩をすくめて「すみません。」と謝罪して形ばかりの敬礼をするに留まった。
エルヴィンはそれには何も応えずに…ちらと瞳だけ動かして、回廊に面した部屋へ繋がる扉を示す。
ユーリは彼の意図を察するが、にべもなく「嫌です。」と答えた。
訝しそうな視線を送ってくる父親へと、彼女は「だって貴方、二人っきりになったらまた私に冷たくするでしょ。」と言っては室内に入ることを拒否する。
「…………約束を忘れたのか、ユーリ。」
エルヴィンはそれに対して特に何の感慨を抱かないようで、無表情に言葉を返す。
「衣食住と生活の安全を保証してやっている。それ以上のものを望むのは、お前には贅沢すぎるだろう。」
「生活の安全?壁外でも壁内でもヤブ蛇突っつくような真似ばっかさせてる癖によく言いますよねぇ。」
「それは論じるに値しないことだ。………口を閉じろ。お前の軽薄さにはつくづく辟易とさせられる。」
ユーリには分かっていた。
ここは公の場だ。勿論のこと唇の動きも声量もお互い最低限に留めていたが、万が一この会話が誰かに聞かれでもしたら自分も父親も何らかの被害を被ってしまうのだ。
調査兵団の長である彼の敵は少なくない。家族の存在が知られるところになれば、それを利用しようと考える者が必ず出てくる。
だが、これくらいの八つ当たりは許して欲しいと思う。きちんと仕事だってこなしているし、愛情を強請るつもりも今更無いのだ。今だって、一度は反抗するがやがては従順に命令を聞き届けるつもりだった。
ユーリは再度形ばかりの敬礼を行い、父親の脇をすり抜けて一度はその場を後にした。………エルヴィンは、それを見届けて目を細める。
やはり嫌だった。
見ないで欲しいと思う。その視線の冷たさに、彼の目に映る自分が如何に汚く矮小な存在なのかを再三思い知らされる気持ちがするのだ。
………エルヴィンが、先ほど示した扉の奥へと消えていく気配を背中で感じる。
ユーリは出来るだけゆっくりとした足取りで、長い廊下を歩んだ。この回廊が無限に続けば良いとすら思う。父親なんかに会いたくなかったし、話もしたくなかった。
だが…どんなにエルヴィンに対して負の感情を募らせようとも、ユーリは父親で兵団の長の男から逃げることだけはしたくなかった。
恩があるのだ。
どんな形であれ、それが打算のみで構成されたものに由来する行為であれ、彼のお陰で自分はこの柔らかな陽光が差し込む場所に今…いることが出来る。
堂々巡りの自らの思考と同じようにぐるりと回廊を巡って、ユーリはエルヴィンと言葉を交わしていた元の場所へと戻っていく。
そして先ほど彼が消えていった扉のノブへと手をかけて、開く。
親子なのに、何故こんな回りくどいやり方をしなければ一緒にいられないのと、誰に対してでもなく胸中で悪態を吐きながら。
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