◇願望
アルミンが配慮からか渋るミカサを連れ立って出て行ったので、室内はエレンとユーリの二人だけとなった。
彼の幼馴染二人が腰掛けていた椅子のひとつに座り直し、ユーリは話が切り出されるのを待った。
しかし話があると持ちかけた割には、エレンは中々口を開こうとしない。
(まあ…良いか。私もまだエレンに用事があったしね。)
それをそのまま口にすると、彼は少々不思議そうな表情をする。ユーリは言葉を続けた。
「今日さあ、私がここに来たのは何も貴方に対してブチギレたかったからじゃないのよ。……驚かした?ごめんね。」
はは、と短く笑みを零して…ユーリは未だエレンの周囲に留まり続けている緊張を解そうとした。
懐、ジャケットの内ポケット。持って来た薄い紙で包まれたものを取り出す。
そのまま渡そうと思ったが、いつか父親になされたように受け取ってもらえずに捨てられるのは嫌だった。
だから、その場で開梱して中身を取り出す。落ち着いた茅色のマフラーの編み目はキチンと揃っており、我ながらプロにも劣らない良い出来だと思った。
「約束通り、完成したんだよ。受け取ってくれるよねぇ?」
答えを待たず、ユーリはそれをエレンの首へと巻いてやった。
そして襟元でゆるく留めてやってから、「似合う、似合うよ。素敵。」と満足そうに呟いた。
「引き止めてくれてありがと。これを貴方に渡すことが出来て嬉しいよ。」
…で、貴方の用事はなぁに?
ユーリは笑って、エレンに言葉を促した。
彼は何かを躊躇しているようである。だが、こうしていても仕様がないと分かってはいるらしく…やがて、ゆっくりと口を開いた。
「ユーリさん、すみませんでした…。」
「…………どうしたの?急に。」
「別に急じゃないですよ。オレは貴方の言いつけを破って兵長の到着を待たなかったので………そしてその結果がこんな…このザマ、ですよ。」
「このザマなんて…そんな。………。何はともあれエレンが生き残ってくれたんだからさぁ、あの巨人らは貴方目当てにまた来てくれるって。まだまだ挽回のチャンスは全然あるじゃん?」
ユーリは出来るだけ軽快な口調を心がけて応えるが…どうも、それは今の場に相応しく無いようにも思えた。「ごめん」と一言自分の軽薄さを謝り、やや居住まいを正す。
「それに……私も、貴方と信頼関係をうまく築けてなかったから…悪かったって…。」
「別に…。……信頼していないわけじゃ。」
「………………………。そう?」
ユーリは適当な相槌を打っては足を組み直す。
見るからにエレンの元気は無かった。(どうしたものかな。)ユーリは考える。どうすれば、元気になってくれるかな。と。
ユーリは自分の膝の上に置いていた掌を、緩慢な動きでエレンの手の甲へと移動させた。
………当然、彼は訝しげな表情になってこちらを見る。ユーリは両の手でエレンの右手の形を確かめるようにして包み、暫し繁々とそれを見下ろした。
「私はさ。気が利かないから…正直、貴方にしてあげられることも、かける言葉も思い浮かばないなぁ……。」
そこに視線を落としたままで、ユーリは呟くように言った。
…………親指の付け根。綺麗なもので、噛み付いて傷をつけた痕跡なんてまるで残っていない。良かった、と思う。汚い痕なんかが残ってしまうには勿体無い、綺麗な掌だ。
「私がしてあげれることなんて、貴方の味方でい続けることくらい……なのかな。」
『私が、傍にいるから………』
『どんなことがあっても、私が傍にいるから……』雨に濡れそぼって帰って来たあの夜にかけてもらった、優しくて切ない声が蘇る。
あの言葉に救われて、きっと自分はここにいるんだと思った。
(私、ナナバさんみたいに上手には出来ないけれど…………)
ユーリは顔を上げて、少年の掌から瞳へと視線を移す。………こう言う時、自身の前髪が邪魔で真っ直ぐ見つめてやれないのがもどかしかった。
「………エレンにとって私は…まあ。大勢の先輩上司の中の一人なのかもしれないけれど。私にとって貴方はたった一人の、初めての後輩なんだよね。」
(そう、初めてだったの。)
ここに急に連れて来られて、毎日すごく不安だった自分と同じように辛くて寂しそうな。
だから、うんと優しくしてあげたかった。自分が色々な人に優しくしてもらったように。
(…………今度こそ、私は皆みたいな良い人間になりたかったの。)
お為ごかしに利用して、ごめんなさい。
でも、どうか私が貴方を大事に思うことを許して欲しい。「折角縁があってさぁ、うちらは会えたんだから。私をエレンにきちんと関わらせてよ……。」
ねえ、と呼びかけてから、ユーリはエレンから掌を離した。
そして目を細めて笑い、彼の方にも笑顔を促そうと試みる。
しかし、それが功を成すことはなかった。彼は目を伏せて、今しがた触れ合っていた自らの掌を無表情に眺めている。
(…………疲れてるんだね。そろそろ、休ませてあげなきゃ。)
そう思って、ユーリはここから立ち去る為にゆっくりと両の足を地面へとつける。
椅子から腰を上げるのが、なんだか名残惜しかった。
「結局………。何の、成果も持ち帰れませんでしたが……」
しかし、エレンがそれを引き止めるようにポツリとした声で言葉を零す。
ユーリは少し首を傾げて彼の方を見た。ついでに持ち上げかけた腰を今一度椅子へと落ち着かせる。
「あの………。でも、オレ…。今日…ユーリさんに会えて、良かったと思いますよ。」
エレンはそろりと視線を上げて、ユーリの方を見つめる。
真っ直ぐに視線が交わった。
彼の意図がいまいち読み取れず、ユーリは数回瞬きを繰り返してしまう。
「何も、今日だけじゃないかもしれませんね…。………。お礼が言いたかったんですよ。いつもユーリさんはわざと馬鹿やって、雰囲気が気まずくならないようにオレのこと気遣ってくれていましたよね。そう言うこと…薄々分かってましたから。」
エレンはポツポツと言葉を零しながら、一度離れた掌を繋ぎ直すようにしてユーリの手を取った。
ユーリの両手を同じようにふたつの掌で握って、しっかりと力を入れてくる。…………相変わらず、彼は真っ直ぐにユーリのことを見ていた。
「オレがこの兵団で今日まで頑張ってこれたのは、きっとリヴァイ兵長やその班員の皆…それから、ユーリさんのお陰だと思うんですよ。」
その真っ直ぐな視線は、ユーリのような日陰者には眩しくて痛いほどだった。然しながらどうしてもそこから目を逸らすことが出来ず、彼女は苦い気持ちになって少しだけ眉根を寄せる。
「ありがとうございます。」
視線と同じように、真っ直ぐな言葉だった。エレンは自分が言った言葉の意味を確かめるように一拍置いてから、ひとつ溜め息を吐く。
そしてユーリの掌を握り直した。…いつの間にか、随分と強い力で掴まれている。
何かを言いかねているようだった。だが…やがてゆっくりと吐き出すようにして、彼にとっては辛いであろう言葉を紡ぎ出そうとする。
「………でも…そうですね。何も、役に立たなくて…。何も返すことが出来なくて、本当に…ごめんなさ「役に立たなかったなんてこと、ないよ!!!!」
彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ユーリは声を上げてエレンの謝罪を打ち消す。それと、座っていた椅子を蹴るようにして彼女が立ち上がるのは同時だった。
そのまま、ユーリは掴まれていた手を掴み返して力一杯握る。先ほどと同じように、ベッドに片膝をついてエレンの近くに身を寄せた。彼は驚いたように、今一度ユーリのことを見つめ返す。
「エレンは、頑張ってたじゃんか!!!」
どうしても、居ても立っても居られなかった。冷静になれないことを恥じる暇もなく、ユーリは言葉を連ねた。
「貴方自分の年を考えてご覧なさいよ…!たったの十五歳だよ…!?そんな年端もいかなくて一番若いエレンが頑張ってくれてたから、うちらもやろう、目的に向かって自分が出来ることを精一杯やろうって思えてたんだよ!!」
エレンは訳が分からない、という風に大きな瞳を瞬かせていた。
その下瞼を沿うようにして、青い隈が緩いカーヴを描いている。彼の眠れない夜のことを思って、ユーリは胸の奥がぎゅっと掴まれたような苦痛を覚えた。
「そりゃ…ほとんどの人たちが成果至上主義だよ。こんな切羽詰まった状況なら尚更…。でも絶対それだけじゃない、それだけなんかじゃないってば…!!過程で出会ったことや築いたものが無価値なんて、私は絶対誰にも言わせないよ!!!」
自分の声色やエレンの掌を掴む手の力、胸の奥の悲しみとも憤りとも寂しさともつかない感情。それ等の烈しさと対照を為すように、窓の外から差し込む陽光は柔らかだった。
エレンの瞳と同じ色をした澄んだ金色の木漏れ日が、彼の髪の毛が作り出す繊細な輪郭を縁取っている。
その優しい光に溢れた光景を眺めながら、ユーリは臓腑を抉り出すようにして同じ言葉を繰り返した。
「エレンは、頑張ったじゃないか…っ!!」
エレンは……ゆっくりと瞬きをしている。この邪魔な前髪をすぐにでもはらって、嘘をついているんじゃ無い、と眼で証明してやりたかった。
それが出来ないので、願うだけだった。せめて言葉だけでも伝わってくれるように。
「私は、私たちは……。ちゃんと、見ていたよ。」
確かめるようにゆっくりと言いながら、これはエレンに対してのみ言ったのでは無いな、と思った。
いなくなってしまった皆に………。残されてしまった皆に、失わせてしまった父親に。
何よりも、自分に。
誰かから、言って欲しいと願っていた。
ユーリは、エレンの皮膚から掌を離す。
本当は抱きしめてやりたかった。けれど相手の気持ちも考えずに、そういうことをしてはいけないと思った。
だからそろそろと身体を引いて立ち上がる。
エレンは金色を透明にしたような光の中で、今しがたまでユーリのものと重なり合っていた自身の掌へと再び視線を落としていた。
ちら、とこちらを見てから、また同じ場所へと視線をやる。
「…………そうですか。」
小さな声で彼は言った。そして、そっと目を細めては笑う。
「はは…。」
心許ない笑い声である。だが、表情は穏やかだった。
「あーーーー!!」
そこでユーリが空気を読まずに大きな声を上げるので、エレンは驚いて肩を揺らす。
「笑ったね!」
彼女がそう言って再びベッドへと片膝を乗せては身を乗り出すと、エレンは若干慌てたように「あ、すみません…」と謝る。
「いやいやいや、何謝ってんの!!私、エレンが笑った顔初めて見たよ…!」
嬉しい、本当に嬉しい…!!と、ユーリは心の中を正直すぎるほどに言葉にする。そして先ほど思い留まったのにも関わらず、ついついエレンの体にぎゅっと抱きついてしまった。
「ちょっと…急になんですか…!!」
エレンは至極嫌そうな悲鳴に似た声を上げて、ユーリの身体を引き剥がそうとする。
しかしながらユーリに取ってそんなことはどうでも良いのだ。病み上がりの彼の抵抗などいともたやすく制して、抱きしめる力を強くする。
「やっと笑ってくれたね…。ありがとう………!!」
やがてエレンが諦めたのか抵抗をしなくなるので、自分よりも幾分か大きい背中をよしよし、とさすっては…ありがとう、ともう一度感謝を伝えた。
そして、そっと身体を離して今一度その顔を覗き込む。
もう既に先ほどの儚いまでの笑顔は失われて、代わりにそこには苛立ちとも呆れとも判別のつかない…とにかく不機嫌そうな表情をした、彼の端正な顔があるだけだった。
「ねえエレン。もう一回笑ってよぉ。」
そのことが不満で、ユーリは彼の双肩に手を乗せては首を傾げ今一度笑顔を促す。しかしながら彼はふい、とそっぽを向いては「嫌です。」とにべもなく断ってみせた。
「あれエレン、随分血色良くなったよねぇ。私のおかげ?」
「んなことあるわけないでしょ。」
「私が抱きついちゃったから嬉しかったんでしょ?もしかして照れてくれてる?」
「ちがっ、…………。ほんと自意識過剰ですよね…。そう言うのうざいですよ。」
「アァン?ちょっとひどくなぁい??何よ貴方私のこと嫌いなの???」
「別にそういう問題じゃないでしょ!?いっつもそういうことばっか聞いてきて…もう嫌です、嫌いですよ!!」
「テメェーもういっぺん言ってみろ、吐いた唾飲まんときよこの野郎ォ」
「上等っすよ!大体ユーリさん言葉遣い汚いんですよ、下品です!!さっきも散々オレのことお前だのてめえだのこの野郎だの言って!!」
「そりゃぁ悪ぅござんしたねえ!何分貴方様と違って育ちがよろしくなくてですねぇ!??」
「そうやってすぐ拗ねる!大人気ないんですよ、恥ずかしくないんですか!!??」
「てめっ…こんのクソガキ!!可愛くねえなオイ!!!!」
「怪我人を攻撃するんですか!!オレがクソガキならあんたはクソ人間ですよ、自分のこと棚に上げて!!!」
「うっさい!!人間なんて一皮剥けば皆クソだわコンチクショウ!!!第一怪我人って貴方無傷じゃん、完治してんじゃん!!!病人ヅラしてないで起きろ起きろ、働けぃ!!!」
室内の凄まじい罵倒の応酬は部屋の外まで響き渡っていた。
廊下で待機していたミカサの本気拳骨がユーリの頭蓋にヒットするまでの時間は、そう長くは無いに違いない。
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