◇発言
ミカサが運んできた食事を摂る為に、エレンはベッドから半身を起き上げては木製の匙へと手を伸ばした。
握って、ほとんど湯のような薄さのスープを掬う。その様をミカサとアルミンが気遣わしげに見守っていた。
「………もう少し、うまそうなもんは無かったのかよ…。」
はは、とエレンは空笑いしながら呟く。
………沈痛な場の空気を和らげる為に言った、冗談のつもりだった。
アルミンはその意図を汲んだのか、同じように無理矢理に笑ってくれようとする。その気遣いが、今は辛かった。
「エレンは怪我人なんだから…それくらいの方が、消化に良くて相応しいっていう配慮じゃないのかな。ねえミカサ。」
アルミンの隣に並んで腰を下ろしていたミカサが、それを肯定する為に一度頷く。
彼女の方は無言だった。言いたいことは色々とあるに違いないが。だが言わないのは、この幼馴染なりの優しさなのだろう。
「………人が沢山死んだな…。」
エレンのその呟きには、誰も何も答えなかった。
ので……黙って、ほとんど味のしないスープを胃の中へと流し込む。
内臓が仄かな熱を感知した。臓腑に何かが落ち着くその感覚を、随分と久しぶりに味わったような気がする。
僅かに開いた窓から、風が沙耶と吹き込んで外の冷たい空気を運んでくる。それを皮膚に感じながら、エレンは小さく溜め息を吐いた。
(………与えられた役割もロクに果たせなかった…。リヴァイ兵長やエルヴィン団長には合わせる顔が無いな…。)
窓の外では、色付いた葉が枝に鈴なりになっていた。それらが日光を浴びて黄金色に光っている。当たり前の風景なのに、何故かそれがひどく美しく思えた。
…………そしてエレンは、揺れる木立の向こうに良く見知った人物の姿を発見した。
遠くで木漏れ日に所々を眩しく照らされて、見覚えのある金色の長い前髪の持ち主が誰か複数人と並んで歩いていた。
ユーリと一緒にいた兵士たちを、エレンは知らなかった。
いや、厳密に言えば顔は知っている人物も何人かはいる。
だが…エレンは調査兵団に所属してから、主要な幹部数人の他にはリヴァイ班のメンバーとしか関わりがなかった。故に、ほとんどの兵士の顔と名前が一致していないのだ。
(そう言えばユーリさん…元はミケ分隊長の班だったんだっけ…。それでリヴァイ兵長に引き抜かれて……………)
だから、恐らくはユーリが仲睦まじそうにしているのは元所属していた…そして今再びそこへと戻った班員の面々なのだろう。
ユーリにはエレンの知らないユーリの世界が既にある。あのリヴァイ班はもう失われてしまったのだ。
自分が知らない兵士たちの中にすっかりと溶け込み、その一員として歩むユーリが随分と遠く思えて…エレンは何だか胸の奥を掴まれたような、堪らない気持ちになった。
ふ、とそのエレンの視線に応えるように、ユーリがこちらを見る。思いがけず瞳同士が合ってしまった。
彼女は勿論のこと窓越しのエレンの存在に気が付いたのだろう。黄金色に彩られた眩しい木漏れ日の中、こちらのことじっと伺うようにして眺めてくる。
エレンもまた、彼女のことを見つめ返した。そして溜め息を吐く。
…………ユーリにも、合わせる顔はもう無いと思った。
あの時、何故彼女の指示に従って兵長の到着を待つことが出来なかったのだろうか。流石のユーリも、自分への信用を失っているに違いが無い。
エレンは彼女に対してひとつ会釈をし、未だぶつかり合っていた視線をそっと伏せて違えた。
だから、今のユーリがどういった表情をしているのかエレンは分からず終いだった。……最も、あの前髪である。きちんと見ていたとしても、その顔色など分かる筈も無いのだが。
「エレン、どうしたの。」
食事を摂る手が止まっていたエレンに対して、ミカサが声をかけてくる。
「いや……なんでもねえよ。」
エレンはそれにゆっくりとした調子で応えた。
そして、自嘲的に苦笑する。アルミンは彼の様子がおかしいことに気が付いたのか、大丈夫?と小さく声をかけてきた。それには一度だけ頷いて応え、食事を再開する。
しかし相変わらずスープは味がせず、まずかった。無理矢理にそれを食べながら、エレンはまたひとつ溜め息を吐く。
……………。自分は間違えてばかりだと、つくづく思った。
周囲からの信用も希薄になった。そしてそれ以上に、自分が自分へと抱いていたある程度の信頼も最早形も無く失せている。
それが辛かった。自分の無力さを思い知ることが、何よりも辛かった。
「こらああぁあぁああぁぁあ!!!!お前何様のつもりだこのヤロォオおおぉぉお!!!!」
然しながら辺りのしめやかさを打ち破るような騒々しい声と、蹴って開けたであろう激しい扉の開閉音によって室内の静寂は見事に終止符を打たれる。
唐突すぎるその出来事に、部屋にいた三人は思わず目を点にしてその方を見る。
開け放した扉の傍には、恐らく先ほどの場所から全速力で走ってきたと思われる為…肩で息をするユーリの姿があった。
その長い前髪の隙間から光るようにして青い瞳が覗いている。
まさにギロリという表現が相応しい視線でエレンのことをねめつけると、彼女は断りもせずにツカツカと室内へと入ってきた。そして有無を言わさずエレンの両肩に手をかける。
「お前ええええ!!懇切丁寧に可愛がっては愛情を注いでやった私を無視するとはマジに良い度胸してんな!!???前から思ってたけどねええええ、てんめぇの私に対する態度はマジでどうかと思うのよ!!」
「べっ別に無視したわけじゃ…………」
「はああああ!???こちとらこの二日間テメェのことが心配すぎて胃に穴が開くかと思ってたんだわ!!!つーか開いた、今開いた!!滅茶苦茶痛いわどうしてくれるんだよ、慰謝料治療費払えんのかコラこの野郎???」
エレンの両肩を強く掴んだまま、ユーリはほぼほぼ恐喝と取れる言葉を捲したてる。
………しかしながら胸ぐらを掴んだり身体を揺さぶったりしてこないところは、彼女なりの配慮なのだろうか。
「…………まあ。胃に穴が開いた治療費は金髪横分けクソおやじに請求するとして」
(エルヴィン団長のことかな………)
「貴方さぁ…。…………。なんつー顔してんのよ。そんなんされたらこっちはもう飛んでくるしか無いっしょ………。」
「え……?」
ユーリの言葉の意味が分からず、エレンは数回瞬きを繰り返した。そして今一度、彼女のことを見つめ返す。
エレンのベッドに片膝を乗せ両肩をしっかりと捕まえてくるユーリの瞳からは、いつの間にか先ほどの激しい眼光を失せていた。ただただ、気遣わしげな視線を投げかけてくるのみに留まっている。
「なんつー顔…って、言われても……。」
「だからそういう顔だよんもうぅうこの野郎おおおぉぉおお!!!!!」
ポツリとエレンが呟けば、ユーリは今一度ヤケクソのように叫んでエレンの頭髪をぐしゃぐしゃと掻き回してくる。
しかし、あくまで触り方は優しく力は全く強くなかった。
今までこんなことは気が付いたことが無かったのだが。何故か今日は…ユーリの滅茶苦茶でふざけた言動の裏に、別の思惑があるように思えてならなかった。
「…………やめて。貴方、誰。」
ユーリによるエレンへの私刑はミカサの冷ややかな声によってようやく遮られる。
両手をミカサに捕まえられ強引にエレンから引き剥がされるので、ユーリはきょとりとした表情でその方を見る。
「ユーリだよぉ。」
そして凍てつくような視線を投げかけ続けるミカサとは対照的に、明るい調子でヘラリとして答えた。
「………誰。私は貴方なんて知らない。」
「ひどいな、同じ調査兵団じゃんか。名前くらい覚えてねぇミカサちゃん。」
ははは、とユーリは軽快に笑う。そして「手、離してくんないかなあ」と呟いた。
「………離したら、貴方はまたエレンにひどいことするでしょう。」
「しないしない、今までもこれからもひどいことなんか絶対しないって。信じてプリーズ?」
「汚い手でエレンに触らないで。早くそこから退いて。」
「ふうん…成る程。貴方はエレンの彼女なんだ?」
「……………………………。違う。ただの家族。」
「へえ、まあそれはどうでも良いや。………んじゃあ彼女はこっちか。」
「いや、僕は男なんですけど…………。」
突然に話を振られたアルミンは苦笑をしながら応える。
それを聞いたユーリはまじまじと彼のことを見つめた後、「うっそお!もしそうなら私は鼻からスパゲッティー食べたげるよぉ。」と言っては笑った。
「本当に食べろよ、鼻から…。」
その様を眺めながら、エレンはボソリとツッコミを入れる。
…………なんだか、ユーリの介入によって全部が馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまいそうになった。
そして……この人間が見え透いた道化の演技をしていることが、何となくではあるが分かってしまった。自分たちを、自分のことを気遣って。もしかしたら今までも……気が付かなかっただけで。
(いや、薄々知ってはいた……。)「………貴方は…。その、本当にユーリさん…ですか?」
ミカサに捕まえられた状態のままのユーリへと、アルミンが少々躊躇いながら質問する。
彼女は「そうだよ?」とそれを不思議そうにしながら肯定した。
「私こそが調査兵団唯一の真人間のユーリだよ。よろしくねぇアルミン君。」
「えっと………。そう、ですか。なんだか噂に聞いてた感じと違いますね…。」
「あれっ私の噂?困ったなあ、すぐ噂されちゃうもんだから美少女は生きてて辛いよね?」
「は…はは…………。」
アルミンは引きつった笑いを浮かべて、エレンに助けを求めるような視線を送る。エレンはどうにもならねえよ、と諦めるように首を振って促した。
「…………アルミン。このアバズレ女のことを知っているの。」
「うわひっで…。私貴方になんかしたっけ?」
「僕らと近い世代の調査兵で、立体機動が達者な人がいるっていうのはそれなりに有名な話なんだよ。エレンも知っていたよね?……だから、名前だけは。」
「ねえねえ、美少女っていうことでは私有名じゃないの?」
「その噂は全然聞きませんね。」
ざっくりとしたアルミンの回答に、ユーリは「ええー」と声を上げながら実にガッカリしたような表情をした。ミカサがようやく腕を離してくれるので、お馴染みのさめざめとした泣き真似もしつつ。
「まあ……、でも。とりあえずは、その長い前髪を避けてくれないと美少女であるかどうかも判別出来ない…っていうか………。」
アルミンがフォローするように言葉をかける。それを受けてエレンは「そりゃそうだ。」と呟いた。
「大体ユーリさん…。貴方、自分の外見に自信満々な割にはその前髪切ろうとしませんよね。なんかそれって矛盾してません?顔を見せたくない理由でもあるんですか?」
「………………………。まあ、家庭の事情ってやつ?」
「は?」
泣き真似の為に顔を覆っていた掌をゆっくり離し、ユーリはポツリと呟いた。
そしてエレンの訝しげな視線には応えず、ニッコリと笑って再びこちらへと向き直る。
「…………。このベッド、硬いね。こんなベッドじゃ治るものも治らないんじゃない?」
「………………………?」
そして脈絡もなく、エレンが寝かされ自らが腰掛けているベッドについての感想を述べた。
話についていけず、彼はただただユーリのことを見つめ返すに留まった。
「エレンはさ……。ストレスを溜めると眠れなくなる節があるよね。………どうすれば、少しでも休めるようになるかな。」
ポツポツと言葉を連ねながら、ユーリはエレンの頬の辺り、そして下瞼の辺りをそっとなぞってすぐに指先を離す。
瞬時ミカサの視線が鋭くなるが、すぐにユーリは彼女へと「大丈夫、エレンには何も痛いことしないって、ねぇ。」と安心させるように声をかけた。
「ペトラちゃんの部屋のベッド、もらったら?………しばらくは誰も使わないし。あれは彼女が最近マットを新調したばかりだから、すごく寝心地が良いんだよ。」
何なら運んできてあげるからさあ。
そう言って、ユーリは笑ったまま首を傾げた。
……………思いがけずペトラのことを思い出させられ、エレンは言葉に窮して息を飲む。
「野郎が使い回した臭いベッドよりはずっと安眠できると思うけどね?」
その様を少しの間眺めてから、ユーリはちょっと戯けた調子で言う。そして一拍おいては、続けて口を開いた。
「遠慮しなくても大丈夫だよ。きっとペトラちゃんなら、良いって言ってくれると思うからさ…。」
優しい声色だった。
この人はこんなに穏やかな言葉を紡ぐ人間だったのだろうか。
…………やはりエレンが何も応えずにいることを見届けて、ユーリは立ち上がった。そしてミカサとアルミンに対して「ごめん、お邪魔したよねえ。」と一言詫びを述べる。
「明日には市街地でエレンの力が必要な作戦があるらしいよ。……また金髪横分けクソバカおや……、いやエルヴィン団長から声がかかるんじゃない。それまではゆっくり休みなね…。」
(やっぱりエルヴィン団長のことだった)
ユーリはほんの少しの間、その場に留まってエレンのことを見下ろしていた。
そして、ミカサとアルミンの方へも何かを考えるようにして順繰りに瞳を向ける。
「ねえ。」
最後にアルミンの顔へと視線を留め、ユーリは彼へと声をかけた。アルミンは不思議そうにしがらもそれに返事をして応える。
「貴方も、ミカサと同じくエレンの家族なの?」
「いえ…?僕はエレンとの血縁関係にはありませんよ。…まあミカサも血は繋がっていないんですが……でも三人共小さい頃からずっと一緒にいたので、ほとんど家族みたいなものかもしれませんね。」
「そう………。」
良いね、仲良しで。
ユーリは唇の動きだけで音のない発言をする。
ミカサとアルミンには分からなかっただろうが、彼女とそこそこに付き合いが長くなっていたエレンには確かにそれを読み取ることが出来た。
ユーリは来た時とは正反対の静かな所作をなして三人に背を向けた。そして部屋を後にするらしく歩き出す。
背中に背負った自由の翼が、窓からの金色の光を浴びて霞むようにして淡く光っていた。
「あの……。…ユーリさん、ちょっと待ってください。」
その様を眺めていたエレンの口から、彼女を引き止める言葉が自然と漏れた。
「オレ、貴方に言わなくちゃいけないことがあるんです……。」
ユーリのことを眺めながら言えば、彼女は不思議そうな顔をして振り返って首を傾げた。傍にいたミカサやアルミンも同じように。
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