◇建前
ドアをノックしようと思い、拳を握って傷だらけの扉の前にかざす。
………その姿勢を数秒取った後、ミケはおもむろに拳を下ろした。
少し考えてから、明かり取りの為にくり抜かれた小さな窓に鼻先をくっつけるようにして中を覗き込む。埃と汚れ、そして何やら引っ掻いたような跡によって、相変わらず見通しは最悪である。室内の様子など何も分かりはしなかった。
(………………………。)
空気に腐食され青く変色してしまった金属臭いノブを握り、捻ってみる。
硬い手応えがあって、扉はビクともしない。……そのことは、ミケに些かの落胆とも苛立ちともつかない気持ちを引き起こさせた。
今一度、拳を握って扉を叩いた。二度、三度した後に、「はぁい」というお馴染みの緊張感の無い返事がなされる。それから、「だぁれー?」と扉越しのくぐもった声で質問された。
「俺だ」
端的に返事をすると、部屋の奥からパタパタと彼女がこちらにやってくる足音がする。
ややあって、カチリとした金属的な解錠音の後に扉が開かれ、ユーリが顔を出した。
「や、ミケさん。おこんばんはぁ…。」
ニッコリと唇に弧を描いて、ユーリは夜の挨拶をしてくる。
それには応えずに、ミケは「…………鍵を、閉めているのか。」とだけ呟いた。
「え?当たり前じゃないですか。」
普通誰だって自室の施錠くらいするでしょう、とユーリは至極不思議そうな表情をして答えた。
「お前……。今まで、施錠なんかに気を使っていなかったじゃないか…。」
「そうでしたっけ?忘れちゃいましたよ…………。んふ、でも防犯意識の芽生えは良いことでしょ?」
「………………………。」
「………………。やだ、何難しい顔してるんですか。ミケさんこそこんな夜に何の用事です?」
「用が無ければ、来てはいけないのか。」
「別にいけなかァ無いですよ。でも褒められたことじゃ無いですよね、私たち上司と部下ですし、異性ですし。」
ドアの桟に凭れながら、軽く腕を組んで言うユーリは実にリラックスした自然な様子だった。………しかしその発言でぴしゃりとして硬質な拒否の姿勢を示され、ミケは面食らう。
(……………一体、何なんだ。)
いや……。昨日の早朝、自分の部屋に来た時から小さな違和感は覚えていたのだ。それが気になったこともあり、尋ねてみればこれである。
彼女の他人行儀とも言えるこの態度は随分と久しぶりであり、懐かしくもあった。昔を思い出して、ミケはすこぶる苦い気持ちになる。
(折角、俺が今日…今までやって来たことを、無下にするのか?)
胸の内側で、怒りに似た感情が沸き起こるのが分かった。
…………しかし、今ここで自身を感情に任せてはいけないと思った。つい最近、その所為でこっぴどく失敗をしたばかりなのである。
(分かっている。………ユーリの本質はただの臆病だ。傷付くのを、常に怖れて………)
ミケは、表情が険しくなるのを留める為に軽く咳払いする。
その様を、ユーリがじっと見上げていた。長い前髪に隠されて、彼女が何を考えているかまでは分からなかったが。
「いや……。それも、そうだな。」
ユーリに同意する言葉をかければ、彼女の唇はゆっくりと弧を描いていく。……その唇が随分と乾燥しては傷付いていることに、ミケはこの時に初めて気が付いた。
自然な動作で指先をそこに軽く触れさせ、「ここを、どうした。」と尋ねる。
……ユーリが小さく息を飲む気配がする。数秒ほど、辺りの空気が分かりやすく硬直した。
「はは………。最近忙しくてケアを忘れてまして。切れやすいんですよぉ、ここ。」
その手から逃れるように、ユーリは薄暗い自室の中へと一歩身を引く。ミケは大人しく手を元の位置に戻し、「そうか………。気を付けろよ。」と、取り敢えず呟いた。
「そうだな…。一応は、心配して来たんだ。」
ユーリが退いた分だけミケは足を踏み出し、彼女の方、部屋の内部へと身体を入れる。
「お前と特に親しかった、ペトラがいなくなったろう。随分と応えているんじゃ無いのかと………。」
如何にも早く帰って欲しそうにしているユーリを無視して、ミケは言葉を続ける。
やがて、彼女は弱く溜め息を吐いた。そして、室内に入るようにと手の動きで示す。
………その頬に、部屋の中から這い出して来た彩度の低い闇が滑っていく。それが如実に彼女の不安と自分への不信を示しているようで、胸が痛んだ。
prev /
next