◇混声 2
「体が……目当てなら。もうとっくにそうしているだろう。敢えてこの微妙な距離感を保とうとする気遣いなど、無用なのだから。」
そう説明してやるが、ユーリは納得のいかない表情のままである。
ミケは思わず深く溜め息を吐いてしまった。色々と拗らせすぎなのだ、お互い。
「お前と俺の宙ぶらりんな関係が…一体、何年続いていると思うんだ。」
そして自分の服の肩口を下がらないようにと抑えていたユーリの掌を取って、自分の方へその身体を引き寄せようとする。
「…やめてくださいよ。」
しかし、その手は敢え無く振り払われてしまう。
ユーリは斜めにミケの方を見る。やはりその顔には室内の闇が深く落ち込んでいて、彼女の内面の不安と不信とを色濃く表すようであった。
「そんな風に私を試すようなこと言って、楽しいんですか。」
その声は硬く、冷たかった。
また服が肩口から少し下がって、赤く走るその痕が露わになった。ユーリはしきりにその様子を気にするようにして、服を元の位置に戻す。
……しかしながら、彼女の痕は衣服で隠しきれない首筋にまで及んでいるものもあるのだ。無益で無駄な行為だと、ミケはそれを見ていて哀れになった。
「気まぐれに恋とか愛とか…口にしないでください。きっと貴方、私に同情してるだけなんです。憐憫の情と恋愛感情とを混同していらっしゃる。」
ユーリは生地がだらしなく伸びきったシャツを正すことを諦めたらしい。
そこからは手を離すが…それでも、無意識の中で自分の首筋の傷の辺りを触る。時折爪を立てながら。
「言い切りますよ。貴方は絶対に今の発言を後悔する時が来る。」
「……言ってみろ。例えば、どんな時だ。」
「……………。貴方が、本当に結ばれたい人に出会った時…。」
ミケは思わず鼻で笑ってそれを一蹴する。
そして、自分の皮膚に爪を立てるユーリの手を抑え、「やめろ。」と短く言った。
「なんだ…。今日は随分と素直じゃないな。お前は俺のことが嫌いなのか。」
ミケに従って、ユーリは大人しく掌を膝の上に戻した。
そして少しの間を置いた後…ひどく弱々しい声で、「……違う。そんなことないよ…。」と呟く。
「ミケさん…。私、貴方のこと尊敬してますし、すごく格好良いと思っています。貴方の優しさや暖かさは充分知ってますから…。」
先ほどの硬質な口調は徐々に鳴りを潜め、ユーリは如何にも頼りない様子で言葉を紡ぐ。顔を伏せるので、平素から読み取りにくい表情が完全に分からなくなった。
「だからこそ…ですよ。本当に好きな人に巡り合った時に、私を捨てることが出来なくて…それで思い悩んで、キツくなるのが分かるんです。そんな辛い思い、させたくありませんよ…。」
そしてそれは私にとっても………相当、しんどい。
囁くように付け加えて、ユーリはようやくこちらのことを真っ直ぐに見上げて来る。
そして、笑った。痛々しいほどの無理が透けて見える笑い方である。血が滲んだその唇で描かれた緩い弓型を、ミケは見ていたくなかった。
ユーリがミケの手に、そろりと自分の掌を重ねた。平素の粗野で良い加減な態度からは考え辛い、恐ろしいほどに優しい触り方をする。
そのまま彼女はミケの掌を取って立ち上がり、同じように立たせる為にそこを引いてきた。
そして手を繋げたまま…先ほど彼が入ってきた自室の扉の傍まで導いていく。僅かにそこを開けるので、廊下に灯されていたランプの白い明かりが糸のようになって室内に垂れ込んだ。
「今夜聞いたこと、私は忘れますよ…。」
ユーリは呟きながらそこを人ひとり分開いた。白々とした光は更に室内へと多く差し込み、彼女の輪郭をなぞっていく。
「これで、この話は終わりにしましょう。」
ユーリは静かに発言してミケのことを見上げた。出て行くように、促しているのだろう。
(これが…ユーリなりの。精一杯の優しさなのだろうか……。)
見つめ返してやりながら、ミケは慎重に彼女の心の内を探った。
……そういうことなのだろう。今、彼女に従ってこの部屋を出て行ってやるのが…恐らく、その不器用な優しさに応えてやる唯一の手段だ。
だから、足を一歩踏み出してやった。彼のその様を見て、ユーリの表情に分かりやすく安堵が走る。それがどういう訳か凄まじいほどに、癪だった。
(だが…!そんな優しさなど、いるものか……!!)
繋がれていた掌を離し、逆にその腕を掴んで強い力で自分の方へと引き込む。
ユーリの身体が予想していなかった衝撃によろめくので、そのまま首の辺りに腕を回して身体ごと抱き寄せた。開けられていた扉を速やかに閉め、錠を下ろす。
何を…と声を上げようとするユーリの耳元で、「静かにしろ、今を何時だと思っている。」と低く囁いた。
…………ひとまずは黙っていてくれるようである。あるいは驚いて声が出せないのだろうか。
兎にも角にも逃げられないように、しっかりと強い力で彼女の身体を後ろから抱き直す。そして言い聞かせるように、その耳の傍でゆっくりと言葉を続けた。
「確かに……。始まりは、憐憫の情が伴っていたことは否定しないでおこう。」
抱いたままで、彼女が先ほど執拗に気にしていた肩口の傷…恐らく、身体の中で一番目立ってはひどい胸元へと至る痕…を服の上から包むようにして触れた。ユーリの表情は分からないが、その身体がビクリと戦慄くのが伝わってくる。
「ユーリ。……俺を信じることが出来ないのか。」
「出来ることなら、信じたいですよ…。私だって………。」
「愛している。」
「………………っ、」
ユーリが引き攣った音を喉の奥で鳴らした。どうやら凄まじい動揺が彼女を襲っているらしい。
落ち着かせるように、痕の上を服越しに静かに撫でた。乳房ではなく、その心臓へと自分の体温が届くようにと願いながら。
「何故自分のことを好きになるのか分からないと、お前はさっき言ったな。俺はこう言った感情を言葉にする行為は不得手だが…敢えて言うなら……。そうだな、」
浅い呼吸を短く繰り返すユーリの息遣いが、自分の言葉の間を縫って微かに聞こえる。
恐らく、言って欲しくないに違いない。聞きたくない、と突っぱねられるのをミケは一番に危惧した。頼むから最後まで聞け、とユーリを抱く力を更に強くする。
「俺は随分と長い間、巨人を討伐しこの兵団を律することだけに気持ちを傾けてきた。…自分が成したことが形に残らなくても構わないと思っていたんだ。そう言ったことは、もっと大層な人間に任せておけば良いと……。」
ユーリはギリギリの状態ではあるが…大人しくしてくれるようである。
そのことに安堵し、ミケは傷の上を撫でていた片掌を彼女の頭髪の方へと移動する。そして出来るだけ優しくするように心がけて、その真っ直ぐな髪を梳くようにして指を滑らせた。
「だが……お前がここに来た。最初こそ持て余し気味だったが、段々と心を開いてくれるようになったな。それを見て、自分のような人間でも残せるものがあるのかと…。……感慨深かった。」
彼女の髪を指先と掌とでゆっくりと撫でながら、言葉を連ねる。
自分でも驚くほどに饒舌に喋ることが出来た。
そして喋ることによって、自分の気持にも少しずつ整理がなされていくのが分かる。………もう迷う必要は無いのだな……と…何かが腑に落ち着いてくる確かな実感があった。
「ようやく…ここまで来た、と思う。………頼むから、俺が築いたものを無下にしてくれるな。」
分かったか、と呟く。
…………返事は無い。
暫時の沈黙。
そこから再び、言葉を続ける。
「だが…そうだな。やはり一番の理由は、お前が俺のことを好きだからだろう。ここまで純粋に愛情を傾けられれば、愛してみたくもなる……。」
言葉と言うのは恐ろしいものだな、と彼女に語りかけながら思う。発言することによって、より強くの気持ちを思い知らされる。
「ユーリ。」
そっとユーリの頬に自分の頬を寄せながら、その名を呼んでは瞼を下ろした。………ユーリの匂いがする。嘗ては苦手だったように思う……しかし、最早良く慣れ親しんだ夜の匂いだった。
「お前は…俺のことが好きだろう?」
確認する為に尋ねた。
やはり返事は無い。
それを待つ。
色濃い沈黙が、辺りに充満していく。
ユーリの呼吸音すら既に止んでいた。辺りは真実の静寂で、彼女の身体を僅かに抱き直した際の微かな衣擦れが生々しく聞こえるほどであった。
「うん…………。」
ようやく……ユーリが、本当に極々僅かな声で返事をする。聞き逃さないように身体中の全神経を傾けて、その声に集中した。
「……………好きです。」
囁く、と言うよりはほとんど唇の動きだけだったように思う。しかし確かにハッキリと、彼女はそう言った。
「大好き……………。」
それだけ絞り出すように言い終えて、彼女は再び口を閉ざした。身体中の力が抜けきっているようで、いつの間にかこちらへすっかりと体重が預けられている。
「……………。そうか。」
ユーリの言葉の意味をしばらく吟味してから、ミケは応えてやった。
なんだか可笑しくて、空気を読まずに笑ってしまいそうになる。…………否、可笑しいと言う感覚とは少し違うのかもしれないが。
「ありがとう。」
ポツリと礼を述べる。
そうだ……。嬉しかったのだ。
これだけの短い単語を吐き出すまでに、ユーリはどれだけの葛藤を強いられていたのだろうか。
裏切られ続けた彼女の歴史を考えれば…これには途方も無い勇気が必要だったに違いない。
…胸が痛むのか、締め付けられるのか……。兎にも角にも、ああ、と思う。
後ろから拘束するように抱いていた腕の力を緩め、ゆっくりとその身体を解放した。
向き合うように促せば、ユーリは素直に従うらしいが…こちらを見ようとはしない。
だから双肩に手をかけて、こちらを見ろ、と言う。
……少しの逡巡の後、そろそろと彼女がこちらを見上げてきた。
長く垂れた前髪を払って耳にかけさせる。情けない表情が露わになったのが恥ずかしかったのか、ユーリは再び顔を逸らした。しかし、逸らしきる前に顎を掴んで口付ける。
唇を触れ合わせるだけに留めて顔を離すと、ようやく何にも遮られずに視線を合わすことが出来た。綺麗な顔をしている、と素直な感想を述べる。
ユーリは眉根を寄せて、いつか見た…懐かしくもある、迷子の少女に似た不安げな表情をしていた。
……きっと、どうすれば良いのか分からなくなってしまっている。後悔もしているのだろう。言ってしまった、と言うショックがその顔に有り有りと浮かんでいた。
余計なことを考える余裕を与えないように、今度は正面からしっかりと抱いてやる。改めて抱いてみて、ユーリはこんなにも小さな身体をしていただろうか、と不思議に思った。
…自分が並より体格が良いこともあるのだろうが、それにしても………
少しだけ膝を折り、包むような感覚で抱き直す。やがて、自分にもユーリの腕がそろそろと回される感覚がした。辿々しくぎこちないその行為がいじらしくて、ひどく堪らない。
(…………震えているのか。)
どうにか安心して欲しい、と頬を寄せて愛情をしっかりと示す。
………これだろう。欲しかったんじゃないのか。何よりも、お前は俺からの愛情が欲しかったんじゃないのか。
何故、そんなにも恐怖する。(まだ、絶望的な未来への想像を払拭出来ずにいる。)
そんなにも…お前の目に映る俺は、軽薄なのか。
良い加減な気持ちで言っているのではないと、いくら馬鹿なお前でも分かることだろう。(だが、よくそれに耐え…もう一度、正直に気持ちを打ち明けてくれた。)
(…………勇気だ。臆病に打ち勝て。お前は自分に足りないものを、補っていくことが出来る。)
愛している。
ユーリの気持ちに応える為に、もう一度声に出して言った。
………ユーリは無言だった。しかし、自分のことを抱く力が痛いほどに強くなる。背中へと回っていた掌で衣服を掴まれた。その力もまた、強い。
「大好き………。」
本当に
私の
わたしだけの
散漫な単語を言葉少なに並べた後、ユーリは今一度沈黙した。気が済むまで抱かれてやる、と伝える為にミケはその背中を数回ほど軽く叩く。
雲間が割れたのか、背後に開いていた窓から月の光が差し込んできた。赤い月だ。鮮烈な紅が、燻んだ夜の闇を切り裂いて進む。
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