道化の唄 | ナノ

 ◇混声 1


「私は……。別に、平気なんですけどね。」


ユーリは薄い磁器のカップに水を注いでミケに渡しながら、ポツリと呟く。

彼女の部屋には椅子がひとつしか無いのでミケがそこに着席し、ユーリはそれに向かい合っては粗末なベッドに腰を下ろしていた。


(暗い部屋だな。)


心許なく青白い炎を吐き出す煤けた蝋燭を眺めながら、ミケは思う。まともな灯りを置くという発想はこの人間に無いのだろうか。


「私よりも、エレンが…心配かなあ。って思います。」


………ミケを気遣ってか、ユーリは新しい蝋燭を2本ほど取り出して室内に灯りを足していく。

暖色の新しい光に照らされて、飴色に光る彼女の長い前髪を眺めながら…ミケは、「エレンが…?」と応える。


「自分より他人の心配が出来るようになるとは…お前も成長したんだな。」

鼻で笑ってやりながらカップの中の温い水を飲もうとすると、ユーリが「そりゃ心配しますよ…!」といつになく真面目な様子で返事をする。


意外なその反応に、ミケはカップを口へと運ぼうとしていた手の動きを止め…まじまじとユーリの顔を見る。

彼女はこちらを見ずに、ひび割れた床の板の目へと視線を落としていたままだったが。


「せめて、声くらいかけてあげたいって思いますよ。あの子、いくら傷がすぐ治っちゃうからって…あんな大怪我したんです。すごく心配だけど…私、エレンには嫌われてるし……。」


ユーリは自分の膝を抱えるようにしながら、小さな声で言葉を紡ぐ。

ミケは、その様を不思議に思った。

先ほどは冗談のつもりで言ったのだが…。彼女は、いつから他人に対してここまで情が寄せれる人間になったのだろうと、思わず考え込んでしまった。


「……やけに心配性だな。」

「だって……。あの子、泣くんですよ。夜に魘されて。……信じられますか、あのエレンの口から母さん…って寂しそうな言葉が漏れるんです。私は堪らなかったですよ…………。」

「………ん?」


神妙な面持ちでユーリの言葉を聞いていたミケだったが…ふ、と気になる点があって声を上げる。

手にしていたカップを取り敢えずはものが山積みにされていた脇の机へと置き、自身の顎髭に触っては…しばし、考えを巡らす。が、どう考えてもおかしいものはおかしかった。


「待て。……待て待てユーリ。お前…何故、エレンが寝ているときの行動を知っている?」

「え?そりゃあ……一緒に寝たことがあるので。」

「はあぁあっっ!!????」

「うおっ、どうしました急に。」


唐突に大きな声を上げたミケの方をようやく見ながら、ユーリが尋ねる。

だがミケにはその質問に対して丁寧に回答している余裕はなかった。………というか、答えなくても分かれよ、と叱りたい。

何故…こう、この人間は。中途半端に人に気を使う癖に、肝心のところが抜けてしまうのだろうか。


「ね、寝る………?」

「うん…?寝る…ですよ。だからどうしたんです。」


(えっと………、いや。恐らく…そう言う意味では無い筈…だよな。うん。ユーリから情事後独特の臭いがしたのは例の時だけで…。だから、恐らくは単純に同衾しただけだろう。いや、それでも十分に問題はあるのだが。……と言うか何かあってこの態度だったら、お前はどれだけ鬼畜なんだと怒鳴りたい)


ミケは頭をフルに回転しながら、目まぐるしく移り行く思考を整理しようと努めていた。

…………一応、ある種の疑いはすぐに晴れたのだが…それでも、やはり気分が良いことでは無かった。

然しながらそんなミケの気持ちをユーリはこれっぽちも理解しておらず、その頭の中はエレンへの心配で埋め尽くされているらしい。

本気で悩んでいるユーリには悪いが、その事実はミケの気持ちを幾分か不快なものにした。


す、と片手を伸ばしておもむろにその肩を掴んでみた。ユーリがやや驚いたようにしてこちらを見る。薄暗い闇の中で、僅かに覗いた青い瞳が鮮やかに光った。

……いくらか肩が痩せたように思えた。そのまま押し込むようにして力を加えると、ユーリの身体は呆気なくベッドの上へと沈んだ。


彼女は、分かりやすく不快を顔に表した。

先ほどから我慢をしていたが…正直に言えば、この態度は生意気だと思う。至極腹が立った。


(都合が良い人間にはなれないと、言った筈だ。)


首元を掌で捕まえる。片手で軽々と掴めたその場所に圧をかけると、引き攣った呼吸がユーリの唇から漏れた。

そのまま彼女の身体に覆い被さるようにして傷付いた唇を塞いでやろうとするが…それは適わなかった。


「…………。はは…なんです、急に。今そういう気分じゃ無いんで、勘弁してください。」


自分とミケの唇の間に掌を差し込んだまま、ユーリは呟く。

……その様を、ミケは睨むようにして見下ろした。


「だから……。さっきから何なんです。それとも何か怒ってるんですか?」


意味分かんない、とユーリは言葉を付け加える。

意味分かんないはお前の方だ、とミケはこの馬鹿をそろそろ本気で叱ってやりたくなった。しかし堪えて、一度僅かに身を引く。相変わらず、視線は険しいものになってしまっているのだろうが。


「怒りもするだろう…。」


そのままで、囁くようにして言った。

ユーリはこちらのことをじっと見上げている。


「自分の恋人が他の男と同衾すれば、怒りもするだろう。」


ユーリが、え…。と小さく声を上げた。瞳が一瞬見開かれる。何やらひどく驚いているらしい。やはり意味が分からないのはお前の方だと思いながら、ミケは自分と彼女を隔てていた掌を掴んでそこから避けた。


随分と久しぶりにユーリに口付けしたような錯覚がした。

彼女の抵抗を許さないように、先ほど捕まえた掌をしっかりとゴワつくリネンに縫い付ける。

唇の生傷を時間をかけてじっくりと舌先でなぞれば、いたい、と合間に声を上げられる。

当たり前だ、痛くしているのだから。と思う。虐めるようにして執拗に同じ場所を舐める。どうやら一際痛む場所があるらしく、時折その身体がビクリと痙攣した。


一通りの行為を終えて、ミケは少しだけユーリから顔を離してやった。それでも、お互いの鼻先が触れ合うほどの至近の距離で視線が交わる。

その状態で、ひどくゆっくりとした口調で囁いた。


「お前はとんだ馬鹿だ。」


ユーリはミケの行動と言葉が未だに理解出来ないらしい。


「俺の気持ちなんて、微塵も汲んではくれない。」


言葉を連ねてやってもその訝しげな表情は変わらない。

苛立ちを抑えるように、低い声で続ける。


「何故俺が…昨日の朝、部屋の錠を開けておいたと思う。……その理由なんぞ、お前は全くもって考えなかったのだろうが……。」


ユーリは、黙ってミケの言葉を聞いていた。黒ずんだ緑色に沈んだ辺りの闇の中で、鮮やかな青い瞳だけが濡れたように光ってこちらのことを捉えている。


「地下に行って帰ってきたときも。今回も。いや、いつも……。いつだって…だ。」


ユーリの掌を握っていた力が自然と強くなった。首にかけて掴んだままだった指先の力も同じように。彼女の浅い脈が皮膚へと直接伝わってくる感覚が、ひどく生々しい。


「もう一度言う。自分の恋人が、他の男と関係を持って良い気持ちになる人間が…変態以外にいると思うのか。」


しばらくの、間があった。

ユーリは…ゆっくり数回ほど瞬きをする。

また、時間をかけて何かを考えるようだった。

それからようやく小さな声で、「恋人……?」と呟く。


「誰と、誰が。」


そして質問の体をとって言葉を続けていく。ミケに対して、と言うよりは独り言に近いようだったが。


「俺と、お前が。」


答えてやると、ユーリは少しばかり肩を竦めてみせた。それから「ええ…。」と呟いて苦笑する。


「…初耳ですけど。」

「そうみたいだな。…思えば俺も初めて言った。」

「はは、意味分かんないですよ…。ほんと。」

「意味が分からんのはお前の方だろう。聞いてやるが、それならばお前と俺の関係は何だと思っていたんだ。……普通の上司と部下ならば…こんなことは、しないだろう。」


ユーリは再三度、何かを考えるように唇を閉ざした。瞼をわずかに伏せて、斜め下を見ながら微かに息を吐く。そうして半開きの瞳のまま、ミケの方へと視線を戻した。


「……………。いや……まあ。セフレ的なもんだとばかり。」


彼女の発言に、ミケは思いっきり虚をつかれて吹き出す。

その飛沫を直に浴びたユーリが、「おわぉぅあ!!!?きったないですねぇ!!」と悲鳴に似た声を上げた。


すっかりと緊張を削がれてしまったミケは…ゆるゆるとユーリの拘束を解いてやり、身体を起こしては自分の眉間の辺りを揉んだ。


「俺とお前が…肉体関係を持ったことは一度も無いだろうが…。」

「まあ、それはそうですけど。」


ユーリもまた身体を起こし、ミケの隣に並んで座り直す。

その際に緩い襟口がずり落ちて白い肩が幾分か露わになった。そこに刻まれた痕も、同じように。


「でも…ですよ。恋人って、お互いが好き合う関係を言うんでしょ?私は…ほら、なんて言うか、結構可愛いしスタイルも良いと自負していますが。」

「お前ってつくづく謙遜っていうことをしないよなぁ。」

「それでも…貴方が、私みたいに荒んだ小娘を好きになる理由が……。思い当たらない。」


ユーリは、無意識に肩口に刻まれた歪な痕を触るようだった。…そして、そこが露わになっていたことに気が付いたらしい。

ハッとしては、服を元の場所へとずり上げて戻した。

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