道化の唄 | ナノ

 ◇不通


「お、大きい。」

これはたまげますねえ…と呟いて、ユーリはそれを見上げた。


「あの花…こんなに大きい木になるんですね。びっくりしましたよぉ。」

凄いなあと素直な感想を漏らしながら、ユーリはゆっくりと瞼を下ろし…冷たい風に煽られてやってくる、懐かしくて色濃く甘いその匂いをそっと吸い込んだ。

やはり花は散り時で、背の高い木立からは次から次へと白い花弁が降って来ていた。


「……見せたかったものって、これですか。」

上に向けていた視線をそのまま横にずらし、ユーリは背の高い上官へと問い掛ける。


ユーリは……ミケの傍に近付き過ぎないように心がけていた。

ここに至るまでも彼の隣には並ばないで、一定の距離を保ったまま後ろからついて歩んだ。

本当はもっと近くにいたかったけれど。仕様がない。


ミケは応えるように彼女の方を見下ろしては頷いた。そして口を開く。


「お前は意外にも植物が好きだったことを…これを見つけて、思い出してな。」

「そんなに物凄く好き、ってわけでも無いですよお。でも…この花は綺麗だし、良い匂いだから……」

「そうか…。なんという花なんだ。」

「…………。知らないです。」


ユーリは軽快に笑ってみせる。それから手を伸ばすようにして、遠く高い場所にある真っ白い花弁に触れようとした。勿論、届かずに無理だったが。


腕を伸ばしたままで、ユーリは「ここまで大きくなっちゃうと…もう、昔みたいに摘めませんね。」と呟く。

言っていて、じんわりとした感情が胸の内側で広がっていくのが分かった。


遅い、遅い、遅過ぎる……私の初恋ーーーー



「ユーリ。」


ミケが名前を呼ぶので、素直に彼女は「はい。」と応える。


「……もう少し、近くに来い。」

そう言われて…ユーリはしばらく上官のことを見つめていたが、やがて困ったように笑って「遠慮しておきますよお。」と応えた。


ふ、とユーリは足に予想外の衝撃が走るのを感じる。

若干のラグがあって状況を理解する。どうやらユーリはミケから綺麗なまでに見事な足払いを食らったらしい。

身体のバランスが崩れいくのを感じながら…ユーリはまるで意味が分からず、んなっ、と驚きの声を上げる。


来たるべき衝撃に備えて身を固くするが、その必要は無かったようで…気が付いた時には、ユーリはしっかりとミケに抱かれては身体を持ち上げられていた。

……先程よりも、というよりもここ最近の中では一番と思える近い距離で二人は再び視線を交えた。

ユーリは…ミケの静かな色の瞳から仄かな怒りを感じ取り、思わず「はは…」と愛想が入り混じった声で笑った。


「ミ、ミケさん……。なんか、怒ってますかねえ。」

そして尋ねてみる。彼は何も答えない。だが瞳だけは鋭く、まるで睨むようにユーリのことを見つめていた。


「えっとォ……。取り敢えず私を地面に下ろしましょうか。重いでしょうし。」

「まあそれなりにな。」

「ひどい!なんでこういう時だけソッコーでレスポンスするんですかあ!!」


……しかしながら、一向にユーリが下ろされる気配は無かった。

この状況を喜んで良いのか、それとも憂うべきなのか、彼女は良く分からなくなって来てしまう。本心は、勿論嬉しいのだけれど。

随分と久し振りに彼の腕の逞しさや、薄いシャツ越しに感じる胸板の厚さを確認した気持ちがする。

首もしっかりと太く、そこに浮き上がった喉頸もまたごつりとしている様を眺めながら、(男の人なんだなあ。)とユーリはしみじみと実感した。


「ミケさん…。子供みたいで恥ずかしいから…そろそろ、やめて下さいよ。」

自分からもその首に腕を回してしまいたい衝動を堪えながら、ユーリはゆっくりと再度、下ろすように要求する。

しかしミケは小馬鹿にするように鼻で笑って、彼女の発言を一蹴してしまう。


「子供みたいなものだろう。人の迷惑を顧みずに叩き起こしてからに…とても成人しているとは思えない。」

「ね、根に持ちますねえー…。」


ユーリは苦笑いするが…今のミケの心理がいまいち分からず、不安な気持ちに苛まれる。

再び普通に会話を交わして、更にはこうして触れてくれていることから…自分に対する嫌悪は和らいでいるようだが。ようなのだが………


(……………。そんな事されると…すごく嬉しくて、余計に辛いよ。)


ユーリは愛想笑いを浮かべたままで、少し首を傾げた。

ミケはそんな彼女のことを何か考えるようにしてしばしじっと見つめていたが、やがて視線を上の方へと動かす。

ユーリもそれに倣って視線を上げる。


そこにはふっさりと柔らかく花開いたいくつもの白色が、豊かな花弁をハラハラと粉雪のように落としていた。

その骨身に沁みてくる匂いを間近で感じながら、ユーリは目眩を覚えるような気分になった。


「……ほら、取れ。」

「え?」

ぼんやりとただただその景色を見上げていたユーリへと、ミケが声をかける。


「これでお前にも届くだろう。……手を伸ばして、取れば良い。」


そう言って、ミケは促すようにユーリの身体を抱き直した。その際、気の所為か…いや確実に彼がユーリを抱く力は強くなった。

ユーリは堪らなくなった。今すぐ下ろして、とミケの身体を突っぱねたくなる。

だが…自分の力如きではこの逞しく体格の良い上官はビクともしないだろうし、ここでまた彼と揉めたくは無かった。

だから…ひとつ深呼吸をしてから静かな声を心掛けて、言った。


「…………やめておきましょう。わざわざ抱いてもらって、ありがとうございます。」


ユーリの発言を、ミケはやはり黙って聞いていた。

彼の方は見ずに視線を漂わせたままで、ユーリは…「でもまた来年…ここで…この花、見れたら良いなぁ…。」と呟くようにした。


ミケさんと、一緒に。


と続けたかった言葉をどうにか飲み込んで。


然しながら、それでも一向にユーリが下ろしてもらえる様子はない。

(良い加減そろそろ…本当に、重くないのかな。私体格そこそこ良いし。)とユーリは心配になり、再度下ろしてくれと要求しようとする。

しかしそれは、「ユーリ。」とミケがまた彼女の名前を呼ぶ声で遮られる。

彼は相変わらずユーリの長い前髪の内側に隠された瞳を探るようにして、じっと見据えたままで言葉を続ける。


「お前…今日、本当は何をしに俺を尋ねたんだ。」


…………彼の質問の意味が分からず、ユーリは「えっと…」と若干口ごもる。

そしてもう一度頭上の真っ白な花を見上げながら、「だから…ご機嫌取りですよ。」と答えた。


「ミケさんと喧嘩したまま壁外に行くなんて、嫌だったんです。」


ポツリと呟くユーリに向かって、花弁が透明な朝日の中を泳ぐようにして降りてくる。


「嫌いにならないでくださいよ……」


ミケの方を見ないままで、彼女は言葉を続けた。

いつになくしおらしい態度のユーリのことを、上官は繁々と眺めているらしい。ミケの視線を横顔に感じて、なんだか彼女はいたたまれなくなった。


「…………なんだ。」

そして彼はゆっくりと口を開いた。目を細めたのか、その視線が少し鋭くなるのを感覚で覚えて…ユーリはそこから逃れるように顔を伏せる。

しかしやはり変わらず、ミケはユーリへとその淡い灰青色の瞳で眼差しを注ぎ続けていた。


「また…エルヴィンから叱責でも受けたのか。」

予想外の彼の言葉に、ユーリはようやくと行った体で顔を上げて数回瞬きをする。


「別にそんなことないですけど…。」

そして不思議そうに答えた。何故今、ミケが自分の父親の名前をここで挙げたのかがよく分からなかったのだ。


「俺は……お前の父親ではない。」

しかしユーリの疑問を察することはなく、ミケは独り言のように言葉を重ねる。


「………生憎だが、そんな都合の良い人間にはなれない。」

ユーリがようやく彼の方を向いたと言うのに、逆にミケは彼女の頭を通り越して、白く細い光を垂らす空の方へと視線を向けていた。

………だからユーリは…彼の言葉を、遂に自分へと言い渡した決別なのだと自分なりに解釈した。


(そうか。)


そして思った。(ははは、ですよねー…)と胸の内で続けて。


やがて強く風が吹き、白い花弁は朝日を反射して星屑のように輝きながら辺りに散らばった。

それをぼんやりと眺めながら、ユーリは(でもね…)と声には出さずにミケに語りかける。言葉にならないそれは、勿論彼に伝わることはないのだが。


(ミケさん…。別に貴方のこと、お父さんの代わりだなんて思ってないですよ。)

(だって私が一番辛い時に傍にいてくれたのはミケさんじゃん………)

(これからも、ずっと…傍にいて欲しいし、いたいんだけれど。)


ユーリはそっとした動作でミケの首へと腕を回した。そして、少し力を入れて彼の身体を抱き寄せる。

これで最後かな、と思うと腕により一層の力がこもる。ミケがユーリのことを抱きしめる力もまた強くなるのが、一層切なかった。

そして何度目になるのだろう、とユーリは考えた。彼のことを好きだと思い知らされるのは。知っていたつもりなのに、その感覚を覚える度に毎度気持ちが強く大きくなるのに驚かされる。

そしてそれが適わない現実を思い出しては、心が無理やり毟られ千切られるような痛みを感じるのだ。


『分かり合って、増して幸せにしてやることなんか無理に決まってんだろ……。』



こう言う時に頭を過るのは…例の男に突きつけられた残酷な、しかし紛れもない真実を語った言葉だった。


『お前…自分が選ばれるとでも思ってるのか?』

『てめえの身体を見てみろよ。』

『よくそんな自惚れたこと考えられるよなぁ…』



そうなのだ。誰が見える地雷を自ら踏みに来ると言うのだろう。


『夢見るなよ……、辛いだけだろ。』



ユーリは、ゆっくりと息を吐く。自分の首筋に顔を埋めたミケの髪の感触がこそばゆかった。予想外に柔らかく、繊細な髪質をしている。


(この人の優しくて温かい愛情が、いつか他の人に向いてしまう時が来るのか……)

そこをそっと指で梳いて撫でながら、ユーリは考えを巡らす。


(…………嫌だな。)


そんな未来は、想像するだけで死にたくなるほどの苦痛だった。だが、確実にその時は来るのだ。


(私……ずっと、恋とか愛とかどんな感覚なのかよく分かっていなかったんだけど………)

ユーリは緩やかに顔を上げ、静かに輝き始めた太陽を露草色の空の中に見る。透明の光は樹々の葉に投じられ、葉も枝も白く清らかに輝いていた。


(今抱いているこの感覚が、きっと好きって……大好き、愛してるって気持ちなんだね。)


皮肉なことにつくづく世界は美しいのだとユーリは思った。今日はひとしおその感覚が身に沁みて、辛い。


(好きですよー…。大好き。優しいミケさんが、本当に好き。)


こんな形で気が付きたく無かったなあ、とユーリはミケのつむじの辺りに視線を落としながら思う。そして「あーあ。」と彼に気づかれないように小さく漏らした。

ミケが、ユーリの首筋に軽く口付けている感覚がする。同じところに、角度を変えて何回か。思わず彼女は目を細めて声を上げてしまいそうになった。


諦めないと。


ユーリは思った。嫌だったけれど。

でも本当に好きなら、幸せを願ってあげないといけない。自分は彼を幸せには出来ないから。

どんなに望んでも手に入らないものが、この世にはある。分かってはいたが、改めて思い知らされると中々堪えるものがあった。


(ミケさんが好きなのに……。)

(優しいミケさんが、大好きなのに。)


無益で伝わることのない告白を、ユーリは何度も胸の内で繰り返す。

自然と涙が出てきそうになる。それを堪える為に唇を噛んだ。何度となく噛み締めていたそこで、塞がりかけていた傷口がまた開いていく。肉体的ではなく生理的な痛みが走った。


(泣いたら駄目だよ…。泣いたら、優しいミケさんはまた私に同情しちゃうから………。)


ユーリは意を決して笑顔を作る。

ミケが顔を上げてこちらを見るので…今までで、一番可愛くて綺麗な笑顔にしようと精一杯頑張った。成功したかどうかは分からないが。


彼の唇に、最後に口付けたかった。


だが、ユーリは思い留まる。


これ以上、大事なこの人を汚してはいけないと思った。


その代わりに、ありがとうと心優しい上官に伝えようと思って彼女は口を開く。

しかしその言葉を遮るようにして、ミケの方から唇を重ねられる。

いつもより深々と時間をかけて行為がなされるので…遂にユーリは、彼に気持ちも言葉も伝えられないままとなってしまった。

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