◆嘘
彼女と出会ったのは、生臭い匂いがする地下街の中、一際悪臭のこもった場所だった。
酔っぱらいの笑い声がどこか遠くの方で残響のように鳴り、地上での雨が汚水となって辺りの壁から滲み出す。
大きな溝鼠が辺りを素早く走ることを気にせず、汚れた壁に向かって何事かを呟き続ける気の触れた女に、足が萎えて立ち上がれず俯く乞食。娼館の窓からは肌を露出させた痩せぎすの女がこちらを伺ってから、路に唾を吐き捨てる。それらすべて汚れた匂いを嗅ぎ分け、俺はその場を一歩一歩、エルヴィンの後について歩いていた。
…………目当ての部屋には、眼光ばかりがするどい痩せ細った10人にも満たない子どもがいた。
皆、やつれていながら顔立ちが美しく整っている。痩せ過ぎの身体に小綺麗な頭部のアンバランスさがひどく不気味だった。
エルヴィンはその内の一人、金髪の子どもに何事かを話かけている。
…………一瞬、彼と会話を交わしていた子どもがこちらを見る。真っ青な冷たい瞳の中には爛々とした狂気が宿っていた。恐らく………それが、彼女がここで生きてこれた理由だろう。
狂った場所で生き抜く為には、まともではいることはひどく難しい。
*
「ミケ。数年前、地下街で摘発した劇場について覚えているか。」
とある日、ミケはエルヴィンの自室に呼び出されては問い掛けられた。
肯定を示す為に無言で頷けば、あの日に嗅いだすえた匂いが敏感な鼻孔の中に蘇ってくるような気がして、ミケは軽く咳払いした。
「そこで俺は……見せ物≠フうち一人を保護した。」
エルヴィンは、ミケから窓の外へと視線を移しながらゆったりとした口調で告げていく。
「…………例の、青い眼をした子どもか。」
ミケは、エルヴィンが何事かを話かけていた子どもの顔を思い出しながら尋ねてみる。
「そうだ……。青い眼などと、よく覚えていたな。」
どういう訳かエルヴィンは意外そうな表情をする。ミケは無表情のままで「物覚えは悪い方では無い」と返した。
「……………………。」
暫時、エルヴィンは黙って何かを思案するようだった。
部屋には沈黙が訪れる。ミケはエルヴィンと同じように、窓の外、枯れ木に辛うじて繋がっている黄ばんだ葉っぱを眺めた。
「その……子どもの事だが。」
ようやくエルヴィンが口を開く。ミケは続きを待った。
「今期訓練兵を卒業し、調査兵団への配属が決まった。」
「そうか…………。」
何の感慨も感じずに、ミケは応える。
「所属を、お前の分隊にしようと思うのだが………構わないか。」
ミケは枯葉を眺めながら数回瞬きをした。その間に吹いた一迅の風によってそれは哀れな姿で煽られる。
そうして、ミケはエルヴィンの方に向き直る。彼もまたミケを見ていた。双方はお互いの瞳の中を、何かを確認するように眺め合った。
「………なんでまた、俺の所に。」
「さあな……。ただ、お前ならああ言った人種とも上手くやれると思ったのさ。」
「人種………?奴はアジア人という訳でも無いのだろう。それならば俺たちと人種は変わらない筈だが。」
「変わるさ。」
エルヴィンは綺麗に笑ってみせながら、窓の傍で風に煽られていた葉を指先で触れる。それはあっという間に樹木から離されてしまった。
黄ばんだ葉が、きりもみになって風の中に消えて行くのを確認してから、エルヴィンは再び口を開く。
「あれ等と、私たちとの間には越えられない種としての溝がある。」
あまりにも断定的に、一人称をわざわざ私≠ニ言い直してエルヴィンは言ってみせた。
「お前は些か優し過ぎるところがあるからな……。奴の上司となるからには、ゆめゆめそれを忘れないことだ………。」
エルヴィンの微笑は相変わらず、優雅で美しかった。
だがミケには、それがどうにも不気味に思えて仕方が無かった。しかし、彼は兵士として自身の個人的な感情を殺す事に長けていた。………故、全てを飲み込んで、「それの、名前は。」とだけ尋ねる。
「名前はユーリ。一応女で……今期の主席だけあって能力は優秀だが………」
エルヴィンは微笑を少し苦いものに変えて、ミケの肩を叩いた。そうしてまた、双方お互いの瞳の内を探るように覗き合う。
「中々、厄介だ。」
そうして零されたエルヴィンの言葉は、何もミケだけに言った訳では無いようだった。
恐らく、これは彼自身の独り言でもある。
ユーリという少女に、エルヴィンは且つて無い程複雑な感情を抱かされているようだった――――
*
その、顔色の悪い少女とミケが顔を合わせたのは、それから少しも経たない頃だった。
ひどく不健康な顔色とは対照的に、金色の前髪の隙間からは爛々とした真っ青な眼光が覗く。
以前初めてその姿を見た時からは、幾分肉もついて人間らしくなったように思えるが……それでも、不気味な印象は変わらなかった。
何よりもミケは参らせたのはその匂いだった。……劇場の摘発から数年が経過したのに関わらず、ユーリはあの時と変わらない匂いを纏っていた。
それはミケにしか分からない程の微か、そして巧妙に隠された匂いであったが……色濃く、どす黒く。血と、臓物と、溝を混ぜ合わせたような不吉な匂いが、確かにその身体からは匂うのであった。
*
「あれ、今年の新入りは一人かあ。」
ユーリが、初めて訪れる調査兵団の宿舎で少ない荷物を解いていると、ふと背後からそんな言葉をかけられる。
二段ベッドの上からその方を見下ろすと、なんとも優美な見た目の薄い色素の髪をした女性…?が一人。
「まあ、仕様が無い、か。最近調査兵団の業績は奮わないし……シガンシナの悲劇から月日もそんなに経ってないものねえ。巨人へ立ち向かう自殺行為をする人間なんて今じゃ滅多にいないもんね。」
その人物は話しながら、二段ベッドを上がってユーリの隣に腰掛けて来る。
………初対面ながら、近過ぎる距離感にユーリは少々戸惑う。少し、身体を性別不詳の美しい人物から離すようにするが、その分と同じくらい詰められてしまう。仕方が無いので、彼女はひとつ溜め息を吐いて諦めるようにした。
「私はナナバっていうんだ。……君はなんで調査兵団に来たの?」
銀紙に包まれたチョコレートを渡してきながら、ナナバは馴れた口調でユーリに話かける。
ユーリはチョコレートを受け取りつつ、「いえ……。とくに意味は無いです……。」と零した。
「意味無く?そんなことは無いだろう。下手すれば死んじゃうような兵団だよ?」
ナナバからもらったチョコレートの包みを遠慮なく開けて、中身を口に押し込みながら、ユーリは少々考えるようにした。そうしてふと……「父が………」と零した。
「父が………。調査兵団でしたので。」
たったそれだけの一言で、ナナバは何かを察した様に苦笑した。心優しい性格の人物のようで、「悪いこと聞いちゃったね。」と謝られる。
「そう……じゃあ、貴方は……」
「ユーリです。」
「そう、ユーリは……お父さんの為にここに……?」
「平たく言えば……そうですね。私がここに来るのも、父の望みでしたから。」
(嘘は吐いていない。)
喋りながら、ユーリはどこか冷めた気持ちで自分の発言を聞いていた。
そう……。父は確かに調査兵団だし、自分がここにいるのは父親の命令だ。嘘は吐いていない……そう。
「ユーリは偉いね……。ユーリのお父さんはきっと喜んでいるよ。」
「そんなことないですよ……。」
これも、嘘では無い。ユーリの父親は…エルヴィンは、彼女を傍に置いて喜ぶような人物では無い。
むしろ彼からの嫌悪を、ユーリは常日頃ひしひしと感じていた。……それ位、分かっていると言うのに……。ユーリには、ナナバの言葉を否定するのが随分ためらわれた。………理由は、分からなかったが。
「何か分からないことがあったら、いつでも私に聞いてね。」
これでも、ちょっとは偉い立場にいるんだからね。と言ってナナバはユーリの頭をそっと撫でた。
…………その行為は、ユーリをひどく驚かせた。
頭を撫でられる。………一体、いつぶりだろう。物心がついてからは初めてだったかもしれない。
思いがけずフリーズしてしまったユーリの肩を、ナナバは何を勘違いしているのか「緊張しているの?無理もないね、」と笑いながら抱き寄せる。
これもまた、彼女を驚かせる行為だった。
今まで自身に、こうも優しく触れてくれる人がいただろうか。……慣れない触れ合いは、ユーリを非常に戸惑わせた。しかし同時に………
(何故だろう………)
胸が、強く締め付けられるような気持ちになった。
「ねえ………。君のお父さんのこと、教えてよ。どんな兵士だったのか。……私は彼の事、知ってるかな。」
ナナバは、眼前のいたいけな親孝行者(今のナナバの目にはそう見えた)の新米兵士に優しく声をかける。
ユーリは未だ緊張しているのか、口を開いたり閉じたりしていたが………やがて、意を決した様に喋り始めた。
「きっと、ナナバさんは私の父を知りませんよ………。彼は、随分と昔に、死にましたから。」
「そう……それで?君は調査兵団の事を、お父さんからどう聞かされていたの。」
「父………からは。」
そこで、またユーリは逡巡した。しかしすぐに気を取り直した様に話を再会させる。
「父からは……勿論、調査兵団は素晴らしいところだったと聞いています……。仲間内で時々諍いがあっても、結果的にはそれが団結に繋がり………。各々、人類を守る志の元協力し合っていて………」
これは、嘘だった。
ユーリはエルヴィンから兵団が素晴らしいところだという話など、一度として聞かされたことはない。
あくまで、事務的な事柄だけ。ユーリが将来心臓を捧げ、必要最低限の幸福を与えられる見返りとして働く場所であるという説明がなされただけだった。
…………ナナバは優しい表情で続きを促す。
ユーリもそれに応えるように続きを話した。
「父は……優しくて、温かい人間でした。私は………きっと、父に憧れてここにいるんだと……思います。」
ユーリの声は徐々に消えていく。ナナバはそれを彼女が感極まっているのだと勘違いして、その華奢な背中を撫でてやった。
………………やはり、嘘だった。
ユーリは一度としてエルヴィンを優しいとも、温かいとも思ったことは無い。彼はどこまでも冷たく、合理主義な人間だった。温かさなど一欠片も無い。……… もしあっても、それは自分に向けられる事は未来永劫無い。
(けれど、私は求めてしまっているのだろうか。)
ナナバとの会話は、別の事に移り変わって行く。
…………ユーリは、頷きながら会話に興じるふりをする。その脳裏には、どういう訳か自身と良く似た色彩の持ち主の男性が描かれていた。
…………彼に、憧れて兵士になる事が出来れば良かったのに。
心から尊敬して、彼の為なら命も惜しくないと思える程、愛してもらえれば良かったのに。
ユーリは軽くかぶりを振った。そうして、適わない幻想を頭のうちから追い出そうとした。
ナナバとの会話は続いていく。
その中で、ユーリは不思議と自然に笑う事が出来た。………優しく兵団に迎えてもらえた事が、本当は嬉しかったのだろう。
(でも、一番に優しくしてもらいたいのは……………。……ねえ、)
いつからか、ユーリは胸の内の思いを自覚していた。
どんなに冷たくされても、エルヴィンはユーリにとってただ一人の父親だった。
希望が全く失わされた世界から救い出してくれた、ただ一人の家族だった。
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