◇応酬
「ごめんねぇー。お茶無いから、水でも良い?」
そう言いながら、ユーリは縁が小さく欠けた磁器のティーカップに水を注いだ。
薄い作りの器らしく、窓から差し込む光が透けて見えた。その中に透明な水が小さく泡を飛ばしながら収まって行く。
(えーっと……。)
何なんだろう、これ。とエレンは思った。
テーブルの上には乱雑に物が散らかされている為に、椅子の上にどうにか二人分の皿とカップを並べているのが何とも涙ぐましかった。
その下にとりあえずと言った体で青と白の細いストライプのクロスが敷かれてるのも…一応、ユーリなりのもてなしのつもりなのだろう。
しかし椅子を使用している為に座るところが無い。仕方なく、エレンはユーリの隣…ベッドの上に腰かけた。
「昨日ね、ナナバさん…あ、分隊長の人ね。…に、すごくケーキが美味しいお店に連れてってもらってさ。そこのお土産。………良かった。一人じゃ食べ切れなかったから…」
そう言いながらユーリはクグロフにナイフを入れ、エレン用にひとつ分厚く切り取っては皿によそった。
「………なんでそんなに沢山買っちゃったんですか。」
エレンが呆れを交えて呟くと、ユーリはへへ…と照れたようなちょっと寂しがっているような、良く分からない笑い方をしてみせる。
「どうぞ、召し上がれ。」
彼女は遂にエレンの質問には答えず、食べるようにと笑顔で薦めてくる。
しっとりとしたクグロフの切り口には、イチジクの果肉が紅玉色に細かく光っていた。一口大に切って口の中に運ぶと、洋酒の上品な香りがする。
ユーリの出すものなのでエレンはそこまで期待をしていなかったのだが、良い意味で予想を裏切られた気分である。
ユーリは……結局自分の分のクグロフは切り分けず、立ち上がって閉め切られていた窓を開きに歩いた。
弱い風が吹き込み、埃っぽかった室内の空気が緩やかに冷やされて行くのが分かる。
白い光を浴びながら、ユーリは「うーん…良い天気だねぇ…」と独り言のように呟いた。
「………さっきから、気になっていたんですけど…」
エレンはクグロフをモソモソと水で流し込みながら、ユーリへと声をかける。
応えて、彼女はこちらを向いた。
「あの…あそこにある斧、なんですか?」
そして部屋の隅、壁に立てかけられていた両刃の斧を親指で指す。
正直あまりにも殺風景なこの部屋で、やたらと凝った装飾のアックスはひどくちぐはぐな印象を与えた。
おまけにどう贔屓目に見ても大事に扱われている風では無い。何の保護もされず抜き身ままの鈍い銀色の刃は、厚い埃を被り蜘蛛の巣まで張ってしまっている。
「あー…それ。昔の仕事で使っててねぇー。何となく、持ってくるだけ持って来ちゃったの。」
窓の桟に寄りかかりながら、ユーリは気の抜けたような声で応答する。
「昔の仕事?木こりでもしてたんですか。」
大きく切り取ったクグロフを一口に口内に放り込みながら、エレンは特に興味を抱かずに応えた。
しかし彼の発言を受けて、ユーリが勢いよく吹き出した。
何かと思ってエレンは彼女の方を見る。
どういう訳か…笑うポイントもとくに見当たらない今しがたの言葉は、ユーリの笑いのツボの深い場所にまで突き刺さってしまったらしい。
遂に笑いすぎて立っていられなくなったのか、ユーリはその場にしゃがみ込むようにして震える身体を支える。
「……………そこまで笑わなくても。」
やれやれと思いつつも、大丈夫ですかと声をかけて、エレンはユーリの為にカップに水を注いでやって渡した。
それを受け取って飲み干し、ようやく彼女の笑いの波は落ち着いたようだった。しかしまだ余韻を引きずっているらしく、ふふ…と不気味な笑みを漏らしている。
「そ…そうなんだよね………。斧って本当は、そう言う使い方するもんなんだよね。忘れてたよ……つい、うっかり。」
水、ありがとう。と言いながら、ユーリは笑い過ぎて涙が出て来ているらしい目元を擦った。
「私も木こりさんみたいに…人の役に立つ為に…この斧、使っていかないとねぇー…。」
ははは、とユーリは力無く笑った。
そして再びエレンの隣に腰を下ろし、残っていたクグロフを分厚く切って自分の皿の上に乗せた。
「はい、エレン。口開けて。あーん。」
そして実に上機嫌そうに、切り取った一切れをエレンの口元に持って行く。思わずエレンは「はあ…?」と心底呆れたような声を上げた。
「………いや。まだ自分の残ってますし。一人で食べれますし。」
何やってるんだ、この人。と思いながら、エレンは淡々と拒否の意思を示す。
「ええー。借りを返してくれるんでしょ?これくらいやってよねえー。」
「嫌です。」
「ふーん…。………………。……あ、もしかして…エレンって恋人いる?」
「………………いや?いませんけど。」
「そっかあ………。良かった。いたら、悪いことしちゃうところだったよねえー。」
ごめんね、もう変なちょっかい出さないよ。
そう言って、ユーリは穏やかに笑った。
エレンは、別に…嫌なわけではない、と言いかけて口を噤んだ。どうにも彼女には素直に接する気になれないのだ。
なんとなくこの感覚には覚えがある。そうだ………確か、
(………母さん。)いつも自分のことを思いやってくれていた彼女に対して、自分はひどく悪い息子だった気がする。
こんなことになるなら…もっと、…………
「………ねえエレン。このケーキが売ってる喫茶店はさあ、すごく綺麗でお洒落なんだよ。特にテラスは本当に見晴らしが良くて……エレンにも、見せてあげたかったなあ。」
黙るエレンの傍らで、ユーリはゆっくりとした調子で語りかける。
そしてエレンに拒否されたクグロフを口に運びつつ、「美味しい。」と満足そうに呟いた。
「エレンはそう言うところ、興味無いかもしれないけど…今度は一緒に行こう。何なら貴方のお友達も一緒で良いよ。その時に奢れるように、私もお金貯めておくからさ。」
明るい声で話しながら、ユーリはすっかりと空になった皿を椅子の上に置き、エレンの頭にぽんと掌を乗せた。
「だから、元気だしなよお。」
エレンは……ユーリの方へと顔を向ける。昼下がりの強い光が、彼女の髪に反射して眩しかった。
それを眺めながら、エレンは「なんで…元気ない、って分かったんですか…。」と、ぽつりと呟いた。
「そりゃァ、分かるよ。」
ユーリは嬉しいような寂しいような、またよく分からない笑い方をしながらエレンの髪をクシャクシャと少し乱雑にしながら撫でた。
「だって私は貴方の先輩だもの。それ位分からなくっちゃあ。」
ちょっとだけ首を傾げてみせるユーリの頬は、薄く紅色に色付いている風にも見えた。
その様子がやはり幼く見えて、エレンはどういう訳かひどく懐かしくて、堪らない気持ちになった。
*
リヴァイと共に古城に帰還した後………、班員たちと最後の壁外調査の打ち合わせを終えてようやくエレンが解放されたのは、とっぷりと日も暮れて良い時間になった頃だった。
軽くシャワーを浴びて、地下の自室に戻る間に緊張を解すために軽く腕を回す。
しかし強張りの原因はどうやら肉体ではなく、精神的なところにあるようだった。
中々軽くならない気持ちを身体の外側に追い出す為に、彼は深く息を吐いてみる。……しかし、残念ながら効果はあまり無かった。
水が滴って来る髪をごわごわとしたタオルで適当に拭く。
その際に指先が自身の髪に少しだけ、触った。
(………………。あの人って…本当によく、人の髪撫でるよな。)
その時の感覚が蘇って、エレンは溜め息を吐く。
ひどく子供扱い且つ馬鹿にされているようで、最初はあまりその行為と彼女が好きになれなかった。
でも……今はどうなのだろう。エレンには良く分からなかった。未だにムカつく気分にもなる時も勿論ある。…………あるのだが。
(でも………。そうだな。結局礼も詫びも、何も出来なかった………。)
今日がきっと、最後のチャンスだった。
この壁外調査で例え両者とも生き残ったとしても、何かが変わってしまう。
あの白い光に包まれて二人で過ごした昼下がりの優しい時間は、二度と巡って来ないのだろう。それ位はなんとなく、エレンにも予想することが出来た。
(……………………………。)
頭の中にふと、彼女のひどく愉快そうな…それでいてあと少しで泣いてしまいそうな笑顔が、浮かんで来る。
やはり、ひどく堪らなかった。もしこれで最後の別れになってしまったらと思うと辛くて、無意識に唇の端からなんとも形容し難い音が漏れる。
また………自分は母親の時と同じ過ちを繰り返してしまうのかと………
そう考えながら、自室の扉を開けた。
「おおエレン、おかえり。遅かったね。」
そして室内に、当たり前のような顔をしてクマのぬいぐるみを抱いてはベッドの上に腰掛ける人物の姿を認めて……エレンは、勢いよく開けた扉を閉めた。
「……………………。えっ?」
思わず声を上げる。目を一度擦って、深呼吸をひとつ。気持ちがしっかりと落ち着いたのを確認してから、もう一度…今度は慎重に、ゆっくりと木製の扉を開けた。
「なんで急に閉めちゃうのよお。」
しかし今度は、開けた扉のすぐそばにユーリが立って不満そうに声をかけて来る。
「おかえりー、エレン。一日忙しかったねえ、お疲れ様。」
そう言って、ユーリは笑いながらゆっくりと…また、エレンの頭髪の方へと掌を伸ばして来た。
「………………ん、……あ?…………う、うわあああああああああ!!!!!!」
しかし、半ばパニックを起こしたエレンは悲鳴に似た叫び声を上げて一目散にそこから駆け出した。
その様子に驚いたように、「…………ちょっ、んなっ、逃げることないじゃない!!!!」とユーリもまた叫び声を上げて背後から追いかけて来る。
「ちょっと!!!追いかけて来ないでくださいよ!!!!」
「追いかけるに決まってんじゃん!!!なにさ貴方、私のこと嫌いなの!!?????」
「別に嫌いじゃありませんったら!!!!!」
廊下をドタバタと走りながら、二人は互いに怒鳴り合って言葉の応酬を交わす。
………とにかく、エレンは逃げた。
(だって、まるで心を見透かされたみたいじゃないか……!)
咄嗟に、片手で顔を覆う。
身体中の熱がそこに集中して脈を刻み始めている様な気分になる。認めたくはないが、自分はひどく情けない顔をしているに違いがない。
この様をよりによってユーリには、ユーリにだけは見られたくなかった。
(………、でも…………!!)
………本当は、会いたいと思っていた。
伝えたいことや、逆に言って欲しいことも一杯あった。
(そうなんだ……。嫌いじゃないんだよ……!!!)
でも、そんなことを思ってしまった自分が嫌だった。
母親が自分の眼の前で死んだ。蹂躙される側の人間でいることの惨めさを嫌という程思い知った。
(だから、この三年間…死ぬ思いで訓練したんだ。巨人を一匹残らず駆逐する為に…!)
廊下の端、ついに行き止まりに突き当たってしまった。
ユーリが息を切らせつつも、「はは、捕まえた。」と言っては立ち止まったエレンの傍にやって来る。
「なんで……ここにいるんですか。」
彼女の方を見ずに、エレンは吐き捨てるように言った。
……しかしユーリは特に気にした様子も無く、「いや、さあ。エレンの目…隈がさ。ちょっとひどくなってたのが気がかりだったから。」と言って、持ってきたらしい金色の毛並みのぬいぐるみの腕で、もふもふとエレンの頬を触る。
「余計なお節介だから…まあ、悪いことしてるとは思うんだけど。でもさあ、なんていうか…私の母性が黙っていられないんだよぉ、貴方を見てると。」
ごめんね、とユーリは笑って謝った。
「今夜はこの子を抱っこして寝てね。すごく良く寝れるのは、私が実証済みだからさ。」
そしてそう言って熊をそっと手渡して来る。
エレンは何も応えなかった。しかし、抵抗せずにそれを受け取る。毛足が長く柔らかな縫いぐるみは、手触り良く掌中にすっぽりと収まってきた。
「エレン、部屋に帰ろう。このままじゃ湯冷めして風邪をひいちゃうよお。」
ユーリはエレンの空いている方の手を取って、のんびりと元来た道を辿って長い廊下を歩き始める。
やはりエレンは何を言わずに…けれど素直に、彼女に従った。
そして彼女の背中を眺めながら、その肩に醜く広がっていた痕を思い出す。
息を吐いて、無意識に縫いぐるみを抱き寄せた。
古いものの割に、清潔な石鹸の匂いがする。眼前の女性は、自室の掃除はほとんどおざなりな癖に…この縫いぐるみだけはひどく大切にして手入れをしていたらしい。
(やっぱり…これ、大切なものだったんだろうな……。)
つぶらなガラスの瞳の持ち主を抱きしめる力が自然と強くなるのを感じながら、エレンはそろりと目を伏せた。
………人の温かさなんて別にいらないと思っていた。
ミカサとアルミン、この二人の仲間がいればそれなりに満たされると思っていた。
だってそれどころじゃないんだ。自分の弱いところなんて認めたくもない。
それなのに、もう全然分からない。
自分のことも、きっと今も笑っているであろう、自分の掌としっかり繋がった人物のことも。
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