◇恋バナ
「ユーリ」
呼びかけると、ユーリは「ああ…はい。」と散漫な返事をした。「どれが良い、選んで。」と促せば、「ええと………。ナナバさんのオススメのもので…。」とこれもまたふわっとした物言いをされる。
「そっか…。じゃあケーキはスミレのを。紅茶は渋すぎない葉っぱで…赤ワインも少し加えてもらえますか。そうですね…、それを上の階のテラスまで持ってきてください。」
もう喫茶店が繁忙する時刻はとうに過ぎてしまったので、店内はガランとして静かだった。客はナナバとユーリの二人だけである。
「大丈夫だよ。お店はもうすぐ閉まっちゃうけど、ここの上階がホテルになってるんだ。そこのテラスは大分遅い時間まで使って良いから…ちょっと寒いけど、外で食べよう。風に当たると結構気持ち良いよ。………ね。」
囁きかけるようにして、言う。しかしユーリは黙っていた。
「おいで。」と手を引いてやって、店内の奥でぽっかりと口を開けたホテルへと通じる扉へと彼女を導く。
その際、服の袖から白い包帯が巻かれた腕が覗いていることに気が付いた。随分と、雑な仕事で処置されいる。
「………怪我したの?」
そう尋ねれば、「ええ、まあ。」と彼女はちょっとだけ笑って答えた。
「ふーん、地下街ではやっぱり…色々大変だった?」
階段を昇る途中の踊り場で立ち止まり、包帯を巻き直してやりながら質問する。
ユーリはまた「ははは…」とひどく空虚に笑ってみせた。
外の街灯で燃えているオレンジ色の光が窓から差し込み、その髪を飴色に光らせている。どうやらシャワーを浴びたばかりらしく、清潔な石鹸の匂いがそこから心地良く香っていた。
「…………何笑ってるの。」
「いえ…。なんか、いっつも腕の怪我は人に包帯巻いてもらってるなあって…。」
「だってユーリの処置、雑だからさ…。こう言うの苦手?」
「ええ、まあ…。腕に巻くのはやっぱり難しいです。」
「ちゃんと練習しなよ、いっつも人に巻いてもらうんじゃ世話ないでしょ。」
「そうですねえー…。」
きちんと包帯が整えられるのを確認すると、ナナバはまたユーリの手を引いてやりながら歩き出した。
…………巻き直す際、チラと覗いた彼女の皮膚はやはりいつか見たときと同じような白い傷痕に加え、新しい赤い傷口が走っていた。嫌なものを見たと思う。その印象通りの、嫌な気持ちになった。
階段は赤い絨毯が敷かれていた。歩く度に靴の裏に柔らかい感触が伝わる。二人の足音はまるでしなかった。
香が焚かれているらしく、ムスク系の上品な匂いが漂っている。階段を昇り続けるうちに、徐々に窓から覗く街の景色が下の方に移動していった。
「こんな綺麗なホテル、初めて入りました…。」
テラスに出て、視界の下に広がる景色の明かりを眺めながら…ユーリが呟くようにして言った。
「私もあんまり入ったことないんだけどね。誘う人がいないからさ…。エルヴィンは忙しいだろ、ハンジは落ち着きがなくてこっちが恥ずかしくなるし、リヴァイは紅茶にうるさすぎ。ミケはこう言うところは鼻が痒くなるから嫌だって言うしね…。」
「…………そうですかぁ。」
ユーリは笑い方はずっと空虚だった。まるで心がこもっていない。
適当なテーブルに着席し、向かいを示して座るように促す。
弱い風が吹いて彼女の長い前髪を揺らすので、彩度の高い青色の瞳を臨むことができた。
優しく細められた形をしている。虹彩の中には、オレンジ色の街の明かりが細かい光になって映り込んでいた。
店と同じようにテラスは無人だった。昼はまだしも、日が沈んで真っ暗になった現在ここを利用する客はいないらしい。
やがて……注文したケーキと白いポット、それに揃いのカップふたつが二人のテーブルに運ばれてくる。
ナナバはやってきたものをユーリに薦めてやる。彼女は白いクリームの上に、紫色のスミレの砂糖漬けが可愛らしく収まっている様をしげしげと眺めては、「綺麗ですねー…。食べるのがもったいない。」と感心したように言った。
「でも食べなきゃ腐っちゃうからね。目でよくよく楽しんだら、美味しく頂いてあげるのがケーキへの礼儀だよ。」
「確かに……。でも、本当に綺麗。……………やっぱり食べるのは、勿体ないなあ……。」
困ったように、ユーリは微笑んだ。
ナナバはそれには応えず、白いふたつのカップへゆっくりと紅茶を注いだ。深い赤色が、街の明かりをキラキラと反射して器に収まっていく。
そこから湯気が静かに昇っていく様を眺めながら……ユーリは、「ナナバさんって……優しいですよねー。」とぼんやりとした口調で呟いた。
「別に優しかないよ。……単純に、上官だからさ。」
「………そうですか。」
「そう…。部下にしてあげれることも、一緒にいる時間も…私たち、すごく限られてるから。だから、なるべく優しく出来る時にしてあげようと思ってる。…いなくなってから後悔するのも、されるのも嫌なんだよね。」
「……………………。」
「だから…。話したいことがあれば、聞こうと思うよ。」
ねえ、ユーリ。
呼びかけながら、ナナバは銀色のフォークで白いクリームに包まれたスポンジをさっくりと割る。その際に、紫色のスミレの花弁がよく磨かれた皿の上へと溢れた。
色濃い花の香りが自分の中に広がっていくのを感じつつ、ナナバはユーリにも食べたら、と促す。しかし彼女はフォークを手にしようとはしなかった。
代わりに、頬杖をついては「そうですね……。」と何か思案するようにする。
「…………。ナナバさん、初恋がいつだったか…覚えてますか?」
「……………………?」
ポツリと彼女から零された質問の内容にやや首を傾げながら…とりあえずナナバは、「さあ…?私も結構ませてたからね、10歳とかそこらへんじゃないかな。」と正直なところを答えた。
「…………その初恋、叶いましたか?」
ユーリはナナバの方は見ずに、テラスの向こう側、下の方に広がる街を眺めながら質問を重ねる。運河が近いので、その淡白な声の背景で静かに水音がしているのが印象的だった。
「いや…?叶ってたらこんなところにいないでしょ。」
はは、と笑ってナナバはちょっとだけ肩を竦める。
ユーリはまた、何かを考えるようにしていた。それから「ナナバさんでも、失恋すること…あるんですねえ。」と、ゆっくり呟く。
「そりゃあるよ。今までだって何人かとお付き合いしたけど…。まあ、うまく行ったり行かなかったり。でも皆良い人たちだったよ。会えて良かったと胸を張って言えるくらいにね。」
…………まるで十代の少女のような浮き足立った話を振られるので、ナナバはなんだか照れてしまいながらも真摯に答えてやった。今日はユーリに付き合うと決めたのだ。これで彼女の気が済むのならそれで良いと思う。
そして……ユーリはこういう少女らしい会話の応酬も今までしたことが無かったのかもしれない、ということに思い当たった。………いたたまれない気持ちになる。
「ふーん…。なんか良いですね。ナナバさんはやっぱり……、素敵な大人って感じがして。」
ようやくユーリの表情が少し柔らかな雰囲気になる。それを見て、(…良かった。)とナナバもようやく安堵した気持ちになった。
ユーリは…少しひねくれたところもあるが、根は人間が好きで素直な子だと勝手ながら思っている。こちらが愛情を持って接すればちゃんと応えてくれるのが、ナナバには嬉しかった。
そして遠く街の方を眺めていたユーリが、ナナバの方へと視線を戻しては…「あのですねぇー…」と切り出してくる。
「私……どうやら、その…おそばせながらの初恋?じみたものが散ってしまったようで。結構キツいもんですね。あ…いや、壁外調査直前の大事な時期に、こんな下らない会話に付き合わせてしまってすいません。」
まるで他人事のように、ユーリは淡白な口調で事の顛末を告げた。
「私もナナバさんみたいに…スマートな考え方が出来る人間になれれば良いんですけど…。」
緊張が解けてリラックスした様子になったユーリがようやく銀色のフォークを手に取り、三角に切られたケーキの角を小さく切り落とす。
その様を眺めながら、ナナバは「別に私はスマートじゃないよ。」と目を細めながら応えた。
「皆そういうもんだよ。初恋に限らず…そういう関係がずっとうまくいく人は一握りなんだからさ。別れたり離れたりなんて珍しいことじゃ無し……。良い思い出に昇華していかないと、やっていけないよ。」
微かで穏やかな水音で満たされていた空間に、突然金属の不協な音が混ざる。
何かと思って、ナナバはその方を見た。
ユーリが、フォークを床に落とした音だった。
銀色の細いすくいには白いクリームが僅かに付着している。その様を落とした本人はぼうっと見ていたが、やがて「あ、すみません…。私、うっかり………」と言いながら拾おうと手を伸ばす。
しかしながら、色の蒼白さが目立つ彼女の指はどう言う訳かひどく震えてフォークを拾うことすら覚束なかった。
…………明らかに普通ではないユーリの様子に、ナナバは心中に焦りが湧いてくるのを感じる。…声をかけようとした。しかし言葉が見当たらない。
ユーリはうまく働いてくれない掌をそろそろと口元に持って行っては唇を覆うように触る。相変わらず乾燥して艶のないその場所から、「そ、そんな……嘘………。」と信じられないというような声が溢れた。
「み、皆………、こ…んな、こんな……」
震えが止まない曲げた指の関節に、ユーリは無意識に歯を立てるようだった。震えは指先だけに留まらず、その声も喘ぐような音とともに不安定に揺らぎ始める。
一際強い風が吹く。それに煽られて、ユーリの瞳が再び露わになった。子供のように素直な色をして透き通った虹彩には、純粋な驚きと聳動とで満ち満ちていた。
「皆……こ、こんなしんどい思いを、何回も繰り返してきたの……………!!?」
押し殺すような言葉と共に、堰を切ったようにユーリの瞳から涙が溢れてぼたぼたと落ちていく。
「私には…そんなの無理…………。もう一度こんな思いを、…あ、ぅ………む、むり……です…っ…むりです………!!」
あまりにも強く噛みすぎた指からは血が滴って垂れた。ほとんど悲鳴に近いような声をあげて、言葉になり切らない気持ちを漏らして、ユーリは自分を抱きしめるようにしながら顔を抑えて蹲った。
………かける言葉がどうしても見当たらなくて、ナナバはただ指先が真っ白になるまで自分の服を握り締める部下の様子を見守った。
(ミ、ミケ………。)
そして心中で、いつも誰よりも彼女の身を案じていた同僚の名前を呼ぶ。胸中はひどく焦燥していた。
(お前…どこで何してるの………。ユーリが、こんな…………。)
しかし心の中で呼びかけても勿論のこと返事はない。
ユーリが無理に泣き声を殺すので、再び辺りは静かな水音が揺らぐだけになった。儚いその音に揺られて、彼女はこのまま消えて行ってしまうのではないかと言う気持ちにすらさせられる。
「うん………。」
手を伸ばして、弱い風に揺らされるユーリの髪を撫でた。彼女は顔を伏せたまま、それに反応することはない。
「……………辛いね。」
今は、それだけしか言うことが見当たらなかった。
それでも、ただその細い金色の髪へと繰り返し繰り返し、指を通し続ける。どうか、彼女の心に渦巻く悲しみが少しでも取り除かれますように。
そして、願わくば…………
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