◇拒絶
「もうほんとに勘弁してくださいよって感じで…。臭いし汚いし……特別手当が欲しいくらいですよ…」
「そりゃーお疲れさん。本当に助かったよぉ。今度なんか奢るってば。」
「ハンジさんそう言っていっつもすっぽかすじゃ無いですか。具体的になにをいつ奢ってくれるか教えてくださいよ。」
「あぁー…。私のお話聞き放題大会を今夜にでも。」
「嫌っすよ、そんな有り難みが薄利なもん。もっと金の匂いがするものをください。」
「ユーリってほんとどこまでもユーリだよねぇ………。」
場違いに明るい笑い声を上げるユーリとハンジを眺めながら………ミケは「おい…………!」と怒鳴りかけたい気分だった。
ユーリが帰ってきていると聞いて、仕事を放り出しては今しがた全力で駆けつけたミケである。開けた扉の桟に手をかけて身体を支え、しばし息を整える。
そんな彼に気がついたらしく、室内の二人はその方を見ては「おおミケ、どうした。どっかしんどいの?」「きっと膝ですよ、膝。軟骨が少なくなるお年ですから。」と思い思い好きな感想を零す。
………………心配して心配して、もうこれ以上無いくらいに気を揉んだ自分がバカみたいだ、とミケは壁か何かをぶん殴りたい気分だった。
本当に今しがた帰ってきたばかりなのだろう。ユーリの髪や顔の所々にベタついた油汚れが目立った。
だが、流石と言うか。装置はキチンと持って帰ってきたらしい。
早速ハンジが傍にいたモブリットと何やかやと話をしてはそれをどこかに持って行かせている。ユーリは至極ケロリとしては笑顔でその様子を見守っていた。
「………………………。」
彼女がこちらの方へと顔を向けて、「ただいまです。」と挨拶をした。
ミケが何も言わずにいると、彼女は「………というわけで…。今日はもう疲れたので休みますね。それくらいは良いですよねぇ」と言っては彼の答えを待たずに椅子から立ち上がった。
ユーリにしては随分と淡白な応対を、ミケは些か疑問に思う。
自分に構われたくて仕様がない性質のユーリである。てっきり、もっと褒めろだなんだのとせびってくるものだと思っていたからだ。
「………………おい。」
呼び止めようと声をかけるが、彼女はそれが聞こえなかったのか聞こえないふりをしているのか…ミケの脇をするりと通り抜けて室内から立ち去ってしまう。
(…………………………!?)
その際にミケの敏感な鼻腔をひどい悪臭がついた。
地下街から帰ってきたことを差し引いても、この臭いはまるでひどすぎる。
「ユーリ。」
今一度呼びかけるが、彼女はさっさと歩いては廊下の向こうへと足を運んで行こうとする。
どうやら聞こえていないのではなく、聞こえているが無視しているようであった。
放っておいてやるのも手だろう。どう考えてもユーリは疲れている。だが今はそう言う訳にはいかないと思った。嫌な予感が胸の内を掠めて鼓動が浅くなっていく。自分の中からどんどんと冷静さが失われていくことを、ミケは実感を伴って感じていた。
「ユーリ………!」
少し語気を強めてもう一度呼び止めようと名前を呼ぶ。
予想通りに立ち止まらない彼女を追いかけ、追いつき、腕を掴む。ユーリがこちらを振り向いた。前髪の間から僅かに見える瞳がゆっくりと数回、瞬きをする。
彼女の傍で直にその悪臭を嗅ぎ……それが何の匂いなのか、ミケはついに確信を持ってしまった。
身体の奥で内臓が潰され、捻転するような痛みを感じる。そして次に覚えるのは、胸の内の激しい怒りだ。何に対して?それすらもよく分からなかった。
「ユーリ……………」
絞り出すようにして再び名前を呼んでやった声は、驚くほどに掠れていた。
腕を掴む力がひどく強くなっている。強すぎるくらいだ。恐らくユーリは痛いに違いない。だがそんな気遣いをしてやる余裕は今の彼にはなかった。
「お前、何て匂いをしてるんだ………っ!!!」
半ば怒鳴るようにすれば、緩慢な空気を纏っていたユーリが弾かれたように彼の腕を乱暴に振り払った。解放された彼女は、大きく一歩引いてミケから距離を取る。
………ほとんど反射的な行動だったようで、我に帰った彼女が「すみません……。失礼を…」と散漫な詫びを述べてきた。
振り払われた掌で、ミケは口元を覆って胃の奥からこみ上げてくる嘔吐感を抑えようとする。
………が、逆効果だった。ユーリの身体を直に触ったことにより、知らない男の精液の臭いがそのまま指先に染み付いては直に鼻腔へと伝わった。堪えきれない不快感である。
呼吸がどんどんと浅くなる。頭が痛くなった。それを抑えようと奥歯を激しく噛み締めた。こめかみが釣って激しく痛む。
「ミケさん……、顔色…が。」
ユーリが焦ったように言葉をかけてくる。躊躇った後、彼女は「だ…大丈夫ですか…………。」とひどく心配そうに言った。
大丈夫なわけが無かった。そして…如何に自分を気遣う言葉とはいえ、ユーリの声を今は聞いていたく無かった。
「それ以上、………喋るな。」
その思いを、そのまま口にする。ユーリがミケに触れようと伸ばしていた手がピタリと止まり、中空で行き場をなくして固まった。
「……………………。しばらく………俺の前に、現れてくれるな…。」
吐き出すように、それだけ言った。そして彼女の方を三度見ることはせず、踵を返して手水場を目指す。
……………とにかく、洗い流さなくては。この汚らわしい臭いと彼女の皮膚の感触を。
*
(………………あー…。)
自分からどんどんと離れていくミケの背中を見つめながら、ユーリは今更ながら自分の腕が中空に留まったままだったことに気がついた。
それを下ろし、彼女はちょっとだけ肩を竦める。
(ミケさんは滅茶苦茶鼻が利くからなァ……。会う前にシャワー浴びたかったんだけど。参ったな。)
やっちゃった…。とユーリは後頭部を掻いて呟く。得体の知れない安酒を頭からかぶった所為で、髪がベタついてひどく不快だった。
(ミケさん……怒ってたなぁ。不機嫌になっちゃった。嫌だなあ……。怒られるの、嫌い。)
恐らく…これでもう、嫌われてしまったのだろう。軽蔑されてしまったのだ。それはとても辛いことである。選ばれた一人にはなれなくても、彼に可愛がってもらっては注がれた愛情はユーリにとって掛け替えのないものだったからだ。
(私のことで…誰かが嫌な思いをするのはもう嫌なんだよなあ。ミケさんも、早く私のことなんか忘れてくれると良いんだけど。)
何だかそこから歩き出すのも怠くなって、ユーリは傍の壁にもたれてしばし立ち止まる。西へ沈む太陽の真っ赤な光が、窓から斜めに廊下に差し込んでいた。まるで呪われたような色である。
(まあでも……。大丈夫。すぐに忘れてくれるよ。)
(ミケさんにとって……私は、まあ。)
何なのだろう?
恋人ではない。
好きと言われたことも無い気がする。愛しているとも。あるのは合わせてもらった唇の感覚だけである。それがとても懐かしく思い出されて、ユーリは自分の口元に指を持って言った。
………寒くも無いのに、指先がひどく震えている。そのことに初めて気が付いて、ユーリは驚いた。
(…………………………。)
ぶるぶるとしている自分の掌をしばらく眺めて、それを留めるようにユーリは強く強く拳を握った。目を固く閉じる。そして初めて見た心優しい上官からの蔑むような視線を忘れようと努めた。
胸元が強く痛んで、ユーリは小さく喘いで目を開けた。廊下には誰もいなかったので、マントのボタンを外してひどい有様になっていた衣服と共に露わになった自分の皮膚に視線を落とす。
…………胸部の傷がやはり、一番深かった。早く手当てをしないと化膿してしまいそうだ。
指先で、傷口の付近で固まり始めた血液の凹凸をなぞる。褐色の粘液が皮膚を引きずった。そして別の痕が作り出す窪みにこびりついては溜まる。
「……………きったな。」
心底嫌な気持ちになって、ユーリは一言そう呟いた。
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