◇お別れ
亜麻色の髪をハラハラと舞わせながら、広い広い壁外へと彼女が置き去りにされてしまうのを…ただ、見ていた。
淡い陽の光が、甘い色をした彼女の髪を仄かに光らせている。その背景に控えた、どこまでも続くと思われる大地の碧さが眩しかった。
(こんな広いところに…たった、ひとりぼっちで……?)
それを思うと、胸が締め付けられた。
ひとりぼっちの寂しさは痛いほどに知っていた。こんな寒くてだだっ広くて、誰もいないところに友達を置いてけぼりにしてしまうなんて、ユーリには耐えることが出来なかった。
だが、公の規律を乱すまいとする中途半端な自覚と理性とが、彼女に馬の方向を転換させることを許してはくれなかった。手綱を握り直して、思わずユーリは眉根を寄せる。
……唇にピリとした痛みが走った。案の定、切れている。毎度のことながらここを噛んでしまう癖をどうにかしたいものだ。このままいったら、いつかは下唇の肉がなくなってしまいそうである。
(ペトラちゃん……)
最後に、もう一度だけ。と思った。…その身体に最早魂は宿っていないけれど。でも、彼女が自分を呼んでいるような気すらした。だから……もう一度だけ、その姿を見届けようとして…
「ユーリ。」
すぐ傍で名前を呼ばれたのでハッとした。
その方を見ると、馴染み深い上官の姿があった。
…………班長である彼は陣形の最前列にいる筈である。何故ここに?と思ったが…どうやらユーリの方がいつの間にやら馬を疾らせすぎてしまっていたらしい。
「はは、すみません。………うっかり。」
愛想を織り交ぜた笑い方をして、ユーリは速度を落として自分が定められた位置へと戻ろうとする。
「まだ壁内には戻っていない。気を散らすな。」
それに対してミケは端的に応えた。ユーリはそれに「はぁい」と気の抜けた返事をする。
「…………………。余計なことを考えるなよ。」
距離が隔たる中で、ミケがユーリのことを振り向いてそれだけ言い残す。
ユーリは…遠くなる上官の背中を眺めながら、「分かってますよぉ」と呟いては唇が痛むのを我慢して、笑った。
*
バケツからモップを持ち上げて、滴る水をよいしょ、と振り落とした。
……………一時期身を置かせてもらった班の長…兵士長の教育の賜物で、掃除の段取りは慣れたものである。
だからと言って自分の部屋をマメに掃除しようとは思わなかったけれど。
ユーリはそういうダメな性質の人間なのだ。…この部屋の主とは、大違いである。
「………毎度毎度さ、色んな人がいなくなって。結構寂しいけれど………」
床の、古びた板目に沿って丁寧にモップをかける。かけながら、少し前までここで生活をしていた友人のことを思い出す。可愛くて優しくて、自分の憧れをぎゅっと詰め込んだような人だった。
「今回は、ひときわ。結構キツかった気がするなぁ…………。」
誰に言うでもない言葉を紡ぎながら、ユーリはせっせと彼女の部屋を掃除した。
淡い水色の唐草模様が入った花瓶を雑巾で磨く。今は何も活けられていないが、いつかペトラが白色と桃色が入り混じった野花を摘んできてはこれに活けていた。
『私の家ではね、この花を摘むと貧乏になるって言われてたんだけど……』
『なにそれ?んじゃぁ私絶対摘まない。』
『………ただの迷信よ。そう言うどうでも良いことにやたら拘る家だったの。』
『へえ、そんな沢山摘んじゃって。まあペトラちゃんなら裸一文無しになっても面倒見てあげないこともない…。』
『いーえ、それは私の方からお断りさせてもらいます。』
『ええ』
『でもね、この花…。地域を変えれば悪いものから守ってくれるお守りにもなるんだって。』
『ふうん。ペトラちゃん物知りぃー。』
『興味ないことになるとすぐ反応が適当になるのよね。分かりやすくて助かるわ…。』「あの花……。なんて、名前だったのかなあ。」
ユーリはポツリと呟いた。
…………ここにきて、彼女は色々な花の名前が気になり始めていた。
花だけではない。この世界にある沢山の綺麗なもの。その名前を自分は知らなさすぎる。…彼女が自分に向けてくれた優しい瞳の色だって、なんと言うものなのか的確な形容が思い浮かばずにいる。
(友達が、減っちゃった…。)
一通り室内を綺麗にし終え…そして、ユーリは後悔した。
綺麗にしすぎたのだ。清潔で整頓が行き届いた室内では、一人でいることの孤独が一層身に沁みてくる。
(……………。寂しい。)
だが、壁の外でひとりぽっちの彼女はもっと寂しい筈だ。
連れて帰ってあげたかった。せめて、彼女が大好きで彼女を大好きな家族のところに、帰してあげたかった。
ユーリは三角巾を頭から外して、ボスリと友達が使っていたベッドへと身を投げる。…懐かしいような甘い匂いがした。彼女の性質を表すような、清廉で優しい香りである。
(でも、この匂いもすぐに消えちゃうんだね。)
それを思うと、やはり切なかった。
しかし慣れないことではない。悲しさや寂しさの感慨も、それなりにして立ち直る術はもう心得ている。………が、やはり辛いことに変わりはないのだ。
ふ、と寝そべったままで机の上を見上げると、折り目正しくキチンと畳まれた衣服が目に入る。
制服ではない。淡い色彩と薄い造りの繊細な生地から察するに、よそ行きの洋服だろう。
そして、本当に今更ながらだが……ユーリは、その上に自分が作ったマフラーが重ねて置かれていることに気が付いた。
それもまた、ペトラの性格を表すように丁寧に畳まれているのが微笑ましい。
きっと彼女はこの壁外調査が終わったら…これを着て、ユーリのマフラーを付けて。どこかにお出かけする予定があったらしい。
「ははぁん」
ユーリは頭の後ろで掌を組み合わせながら、一人で楽しそうな声をあげた。
「分かった。デートだ。さしずめオルオと…ってところ?」
ちょっとだけ瞳を閉じると、耳を真っ赤に、瞳は吊り上げながら反論してくる友人の可愛い姿がありありと思い浮かんだ。そして今にもそれが、自分に対してなされるのを期待してみる。
勿論期待が叶えられることはないのだが。室内は相変わらず静かなものだった。
「んふ。」
瞳を閉じたままで、ユーリは短く笑い声を上げた。自然と微笑んでしまうようで、口角がちょっとだけ上がっていくのを感覚した。
「好きだなあ。私、ペトラちゃんのこと大好き。」
私の憧れだったんだよ。
可愛くて、綺麗で、ちょっと気が強くて意地っ張りだけどすごく優しくて。
貴方みたいに素直になれたら、もっと色んな話が出来たのにね。「……それで、もっと色んなことを一緒にしたかったな。もっと甘えたかったよぉ、私は。……なーんて。年上なのにこんなので…ほんと、ごめんねぇ…」
そう呟きながら、ユーリはよっこらしょと身体を起こして立ち上がる。
そしてまた三角巾で髪をまとめ、掃除道具の一式を手にして扉へと向かった。
木の扉を開けて寒々しい廊下へと出る前に……今一度室内を一瞥する。あの時にできなかったお別れを、きちんとしたかったのだ。
ディアマントの形に鉛桟で組まれた窓から、暖色の光が室内へと投げ込まれている。
床にぶつかる光の像もやはり菱形だった。薄い緑色のシーツ、年月に洗われて飴色になった木の机、小鳥の小さな焼き物。全部が可愛らしくて、愛おしい。
「さよなら。」
軽い木の扉を、パタリと閉めた。
廊下はやはり寒々しく、歩くと自分の靴音が大きく反響して後ろからついてくる。
暖色の鈍い光は、やはりここにも差し込んでいた。乾いた光の中を泳ぐようにして歩き、ユーリは次の部屋へと移動する。
自分の為の掃除はまるでしないままだけれど、他人の為なら多少は出来るようになったよ、と誰かに心の中で語りかけながら。
最も、その他人はもう全員この世にいないのだけれど。
いつもいつも、遅すぎるのだ。
いつも、ずっと……そうやって。無くしてから、手が届かなくなってから。
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