◇憶測
珍しく、エルヴィンとユーリが廊下で立ち止まっては言葉を交わしていた。
ミケが立つ場所からは、二人の会話の詳細を聞き取ることは出来ない。
ただ時折エルヴィンの言葉に相槌を打つ彼女の僅かな仕草に、今までと微妙に異なる落ち着いたものが混ざる。
やがてこちらに気が付いたエルヴィンが彼へと片手を上げて軽く笑いかける。それに応じて、ユーリもこちらを振り向いて緩い笑顔を作った。
彼女は一度ミケに対して敬礼し、父親の脇から離れては廊下の向こうへとゆっくりと立ち去る。
(………………………。)
その後ろ姿が突き当たりを右に折れて見えなくなるのを見送っては、ミケは留めていた歩みを今一度再開した。
そしてエルヴィンの近くにまで至ると、彼が「何か用事か?」と尋ねてくるので、「いや…?特には。」と答える。
「そうか。何か言いたそうな顔をしている…と思ったんだが。」
「…………………。気の所為じゃないのか。」
「そうみたいだな。」
悪かった、とエルヴィンは目を細めて快活に笑った。
その様子をやや訝しげに眺めるミケの肩を軽く叩きながら、彼は「足を止めたな、すまない。」と言う。
「気にするな。」
と呟き、ミケはエルヴィンの傍を通り過ぎた。そして先ほどのユーリと同様に突き当たりを右に折れる。当たり前だが、曲がった先に彼女の姿は既に見当たらなかった。
*
「………………なんだ。お前か。」
部屋に入って開口一番に言われた言葉に、ナナバはその細い眉をぴくりと一瞬動かす。
「なに。私じゃ悪かった?」
「………………………。」
ミケが口を噤むので、ナナバはひとつ溜め息を吐いた。…………都合が悪いか面倒な事態に直面するとだんまりになるんだな、この人は。と考えながら。
「そう言えばユーリ、折角こっちに帰ってきたのにあんまりミケのとこ遊びに来てないみたいだね。…前は懐いた野良猫みたいに暇を見つけちゃ傍にいたのに。」
書類を渡してサインを記す箇所を示しながら、ナナバはどこか探るようなことを言ってみる。
……ミケは所在無さげに、「そうだな。」とぼんやりした口調で応えた。
「寂しいんでしょ。」
更にナナバが言葉を重ねると、ミケはようやくこちらを見てはゆっくりと溜め息を吐いた。
「…………憶測でものを言うな。」
「別に憶測じゃないでしょうが…。」
「………………………。」
再び無言になったミケを眺めて、ナナバは(うわ…分かりやす…)と半ば呆れた気持ちになった。
「ユーリなら、さっき団長室に呼ばれてるの見たけど。」
何とは無しにそう言ってやれば、顎髭の辺りを触りながら窓の外を眺めてたミケの指の動きが止まり、瞳だけ動かしてナナバの方を見てくる。
「ユーリが…?」
「そうそう。何でもエルヴィンがご指名らしいよ。」
ユーリにやってもらいたいことがあるみたい。又聞きだけどね。とナナバは付け加える。
「馬鹿な。あいつは一番の新人だぞ。……わざわざ指名される理由が見当たらない。」
「………もう一番の新人じゃないでしょ。21人も新兵が入ったんだよ。」
「そういうことはどうでも良い…。」
明らかにミケの挙動は不自然だった。ナナバはその様を興味深そうに眺めた後、ちょっと肩を竦めてから「……じゃミケも行ったら、団長室。」と薦めてみる。
「心配ならユーリの仕事手伝ってあげれば良いんじゃない。………あ、でも壁外調査直前だしそんな余裕も…っておい!」
ナナバの言葉が終わる前に、ミケはその脇を通り過ぎて行く。
先ほどの緩慢な雰囲気が嘘のような彼の自然な動きに、ナナバは完全にそれを留めるタイミングを見失ってしまっていた。
(…………。ほんと、しょーもない…)
あっという間に扉の外へと出て行ってしまった同僚を見送りつつ、「もう…」と呆れを表現しては声を上げた。
「せめて持って来たこの書類にサインしてから行けよ…」
ぼやくように言葉を漏らしつつ、ナナバは誰もいなくなった部屋の空気をゆっくりと吸い込む。
(あの年にして…ねえ。分かんないもんだね。)
そしてなんだか可笑しくなって、「はは…」と声を上げて笑った。
*
正直、ユーリからは父親の代わりにされているのだろうという自覚はあった。
まあ…それで良いとも思っていた。事実年もその位離れているのだし。今更一人の男性として見てくれというのも酷である。
父性を求められるならば、出来るだけ応えてやろう。それで彼女が満足するならば。そう、良いと思っていたのだ。
だが………その後のことを、彼はあまり考えていなかった。満足した後、彼女はどうするのか。また自分はどうするのか。
今時の若者の生態や性質をミケは良く理解していなかったし然程の興味も無かったが、彼らがそのフットワークの軽さ故に熱しやすく冷めやすいことは知っていた。
彼女は若く…自分は反対に若くないのだ。ユーリが自分を忘れることは苦も無いだろうが、こちらはそう簡単に思い出や心の在処を疎かには出来ない年に達してしまっている。
(ユーリが………)
自分から離れていく未来は、容易に想像できた。その時に自分はどうする。
別に…その背中を見送ってやれば良い話だ。そんな風に軽く考えていたし、それが出来ると根拠もなく思っていた。
(だが………。)
どうなのだろうか。今はよく分からない。
情の薄い女だとは思わない。だが、もし実父から充分に愛情を得られる様になった時…自分は、未だ彼女に必要とされる存在でいられるのだろうか。
それを考えれば、ユーリに対して仄かな苛立ちが募る。
ユーリが人間らしさを手に入れる為の一端を大きく担ったと言う自負が、身勝手な想いを胸の内で育ててしまったらしい。
そしてそう言った思考を持つ、自分の器の小ささを彼女に気付かれたくは無かった。が………
……事実…エルヴィンとの関係が最近やや良好なものになったのだろうか。今までは全く見かけなかった、二人が言葉を交わす場面を何度か目撃するようになった。そしてそれに反比例するように、彼女は自分の元に訪れなくなった。
エルヴィンの方にしてもそうだ。周知の状態でユーリに任務を任せるなど。
段々と気持ちが憤って来て、ミケは自分の歩幅が大きくなっていくのを感じた。
気持ちもどこか逸り、階段も幾年ぶりかに二段ほど飛ばして登る。そして目当ての部屋の前に来た。重たそうな扉の前に立ち、しばし思案する。真鍮製のノブに一度触れ、躊躇い、ようやく意を決して彼はそれに手をかけた。
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