◇静寂
「ねえ団長。」
また、ユーリがエルヴィンへと呼びかける。
相変わらずその瞳は長く垂れた前髪に隠れて確認することは出来ない。だが、口元は笑っていた。
…………最近のユーリの大抵は、笑顔である。明らかに良くない心象を抱いているであろう時も含めて。
瞳が見えない故の表情の不鮮明さに加えてこれだ。エルヴィンは正直なところ、その思考を読むのにそれなりの苦労を要するようになっていた。
地下街からこちらに連れて来たばかりの頃は、まだその抜き身な感情を晒すことが多かった。故にそれなりの対応を講じることが出来たというのに…近頃はどうなのだろう。
(いや………どうと言うよりは。分からなくなっているだけかもしれない。)
何を言われるのか、僅かに身構える。その緊張が伝わったのかユーリは些か不思議そうにするが、すぐに気を取り直したようにいつもの笑顔に戻った。
「私に話すことが何も無いって言っても…それは仕事のことでしょう?偶には普通の雑談でもしませんか。」
「……………は?」
しかし彼女が発したのは、想像以上に和やかな提案だった。思わず一瞬間抜けな声を漏らしてしまう。
………いつの間に注文されていたのか、白い泡がこんもりと盛られた紅茶のカップがふたつ、二人が着席するテーブルに到着した。
そのうちのひとつをこちらに寄越しながら、ユーリは「どうぞ」と言う。
「時間の無駄とは言わせませんよ。貴方だってここでサボってただけでしょう。偶には部下とのコミュニケーションも取って頂かないとねー…」
ね、そうでしょ。とユーリはこちらに同意を促す。
どう反応して良いか分からず黙っていると、彼女は「あ、すいません。サンドイッチも頼んで良いですか。ご飯食べてなくて。」と言いながらこちらの答えも待たずに傍のボーイに注文する。
(いや……というか。今の話の流れからすると………)
「…………おい。俺は奢るとは一言も言ってないが。」
努めて冷静を装って言葉を選ぶが、それはユーリの「貴方私の兆倍稼いでるクセに何ケチ臭いこと言ってるんですかァ」という主張に一蹴される。
「良いです、金使って経済回してこそ国の為じゃ無いですか。それでこそ王に仕える立派な兵士でしょうが。」
「い、いや………。流石に兆倍は稼いでないと思う…。」
国家予算かよ、とエルヴィンは小さくぼやく。
ひとつ、溜め息を吐いた。すっかりとペースを奪われてしまった心地である。
…………長年の自身の考えの確信に近付いている実感の所為だろうか。今の彼は妙に浮き足立って、気持ちが緩んでいた。
そして同時に、様々なことに疲れてもいた。流されるように、ユーリの言葉を受け入れるような気持ちになってしまう。
「…………団長も最近お疲れな感じがしたので。ここいらで、私に付き合う体で休まれては如何です。」
そしてそれはユーリにも伝わっていたことらしい。とりあえず、「疲れてなどいない」と否定してはみる。
「…………………。疲れているでしょう。そんなベロンベッロンになったボタンのコート着ている人が言っても説得力ないですよ。」
直す暇も無かったんですか、とユーリは半ば呆れたような声を上げた。
指摘されて肘掛に置いていた薄手のコートに視線を落とす。………確かにボタンがふたつほど、細い糸によって辛うじて繋ぎとめられてはぶら下がっている、実にもの哀しい状態となっていた。
「今気が付いたんですか。よっぽどですねえー。貸してくださいよ、直しちゃいましょう。」
はははと愉快そうに笑いながら、ユーリはこちらに掌を差し出す。
コートを渡せ、とのことなのだろう。その行為には少しの害心も無く、むしろ親しみがこもっているように思える。
素直に渡すと、ユーリは粗末で薄いアルミ製の小さな箱を取り出した。中には簡単な裁縫道具が収まっているらしい。
「裁縫道具を持ち歩いているのか?」
何とはなしに尋ねると、「いつもって訳じゃありませんけどねー。最近はやたらと編んだり縫ったりする機会が多くて。内職の量も増やしましたし。」と答えられた。
………窓から、斜めに白い光が差し込んでいる。それがユーリの髪を淡く光らせていた。彼女が指を動かすたびに、白い手の甲に影を伴った細い筋が浮かび上がる。
「…………内職?」
「ええ、こう言った手芸なら兵役の合間にできますからね。」
「充分な衣食住は保証している筈だが。」
足りていないのか、と呟くようにした。ユーリは少しの間黙る。…何か思案しているらしい。
そして小さな銀色の鋏で、余った糸をプツリと断った。直し終わったひとつ目のボタンが、きちんと元の位置へと収まっている。
「いいえ、別に足りなくありませんが。貯金しているんですよ。」
手際良く、くるくると糸を指先で巻き取って処理しながらユーリは応えた。
「貯金?何のために。」
「………まあ、私も年頃ですからねえー…。欲しいものも色々あるんです。」
何を、と尋ねそうになってエルヴィン口を噤む。…………これ以上の質問は深入りになるなと思った。
だが、(参ったな)と彼は思った。今日…今は、明らかに気を許しすぎている。
それを僅かに心地良いと感じてしまっていることも、憂慮すべき事態だった。
「何見てるんです。針仕事がそんなに珍しいですか。」
少しくすぐったそうな声で言いながら、ユーリはまたぷつり、と糸を切る。あっという間にふたつ目のボタンも綺麗に直されていくらしい。思いがけず、ユーリは手先が器用なようだった。
「いや…こういう細かい仕事ができたのか、と…。」
「ふふ、皆にも良く意外って言われるんですよ。まあー…前の職場では自分で衣装直したり作ったりしてましたからね。得意ですしそれなりに好きですよ、手芸は。」
後処理を綺麗に済まされた紅茶色のコートが、再びこちらに渡される。受け取りながら、「……知らなかったな。」と漏らせば、「そりゃあ…話しませんでしたからね。」と返される。
(………俺たちは、お互いに知らないことばかりだな。)
元の肘掛に、コートをかける。
当たり前だと思った。そして、これから知るつもりも知らせるつもりもない。その行為に、殊更の興味も感慨も持ち合わせない。
いつか自分はユーリの命を踏み台にする時が来る。その時に、決してお互い後悔しない為に。
冷静に、感情的にならず、合理的で、管理された関係。それが必要なことだった。
彼女もその意図は汲んで、自覚を持っては仕事をこなしてくれている。
だが………それでもなお、ユーリは自分への情が捨てきれないらしい。
煩わしかった。追い払っても追い払ってもついてくる捨て犬のような。
嫌悪だ。
誰に?勿論ユーリに。いや違うな、もしかすると…………
(……………何が正解なのか…)
分からなくなる時がある。自分は選択を誤っているのだろうか。違う未来の可能性も………どこかに、あるいは
「はい、おひとつどうぞ。」
エルヴィンの思考を打ち切るように、ユーリが声をかけてくる。その方に視線を向けると、半分に切り割られていたサンドイッチのうち一つがこちらに差し出されていた。
パンの表面はよく焼けた小麦色である。斜めにカットされた切り口からは、青い葉や卵の黄色、そして燻製した肉の赤色などが覗いていて、薄暗い店内で一際鮮やかに思えた。
「いや………。」
朝からあまり食べていなかったのでやや空腹ではあったが、反射で断わりの言葉を口にしてしまう。
だが、ユーリは「まあまあ…。」とそれをやんわりと遮る。
「今お腹が減っていなかったら、持ち帰りにしてもらいましょうか。…………貴方最近あんまり食べてないでしょう。ちょっとやつれた気がしますよ。」
その声の背景で、ピアノがいくつかの弦楽器を伴って単調な曲を奏でているのが聞こえた。
この喫茶店は、こうして日に何度か簡単な室内楽で客を楽しませてくれる。だが…いつから始まっていたのだろう。この唄のない、静かすぎる音楽は。
ユーリの掌から、差し出されていたサンドイッチを受け取った。
その際僅かに触れた指は、血色が悪く爪色がへんに白い。………栄養状態が良くないのは、むしろ彼女の方だろう。兵服のジャケットから覗いたシャツの袖を留めるボタンも、ひとつは無くなってそのままになってしまっている。
(人のことをとやかく言う割に…………)
呆れた気持ちになって、思わず溜め息を吐く。言いたいことと言ってやりたいことが、ゆっくりと胸の内側で浮かんでは消えた。
「なんか思った以上に豪華なサンドイッチですね。」
もそもそと早速それを口にしながら、ユーリは感動したように声を漏らした。
「そうか。」
エルヴィンは適当に相槌を打つ。………食べてみると、乾燥したパンの不自然な食感と肉の油臭さが気になった。
この店は、紅茶は確かに一流ではあるが食べ物の方はあまり気を回していないらしい。
「おおー美味しい…。これ、玉ねぎちゃんと下処理してますね。全然辛くない。」
だが、ユーリは非常に満足そうにして食べている。
「そうだろうか…。」とまた適当に応えれば、「いや、時々あるじゃないですかァ。」とユーリが会話を続ける。
「食べた瞬間ハぅあァ!みたいになるまじヤバい玉ねぎ。」
(…………………。)
笑いそうになるのを寸でのところで堪えた。何故この女は言葉の選び方がいちいち馬鹿っぽいのだろうか。
「あれ、団長もう食べ終わったんですか。」
いけないけない、私も喋ってないで早く食べますね。とユーリは少し焦ったようにする。…………ユーリなりにこちらに気を使ってはいるのだろう。
「いや……。」
両手を使ってサンドイッチを持つ彼女のことを眺めながら、声をかける。
「ゆっくりで良い。」
そして傍にあった先ほどのクリームが入った紅茶を飲み、顔をしかめた。些か甘過ぎる。
「ゆっくり、食べなさい。」
それだけ呟いて…口を噤んだ。
……………ユーリが少し首を傾げたので、前髪の間から青い瞳がこちらを探るように見ているのが分かった。
「…………………うん。」
エルヴィンの言葉に応えながら、彼女の眉が少し苦しそうな形を描いた。
「ゆっくり、食べるね。」
敬語を忘れたユーリの言葉を、嗜める気は何故か起きなかった。
窓の外からは相変わらず弱い光が差し込んで、それが彼女の頬に深い影を落とし込んでいる。
そして音楽は、いつの間にか止んでいた。
*
エルヴィンが行政館の方に用事があったので、二人の帰りは別々だった。
…………用事を済ませて公舎へと帰る前に、彼はふと思い立って街の中でも商店が多い通りへと立ち寄った。
平日だと言うのに通りは込み合い、賑やかな雰囲気に包まれている。
最近めっきりとこの通りには訪れていなかったので、自分の記憶していた景色よりもガラス張りのショーウィンドウを据えた新しい商店が増えているのが目新しかった。
そして店内に入るでもなく、石畳の通りをゆっくりとした足取りで辿りながら、店先に並べられたものを物色する。
(シャツ………か?)
トルソーに着せられていた白い婦人用のシャツを見ながら、ユーリの袖がほつれた安っぽい作りのシャツを思い出して首をひねる。
(だが…シャツ一枚を購入するために、そこまで懸命に貯金する必要はあるだろうか。)
洋服一枚ならば、少し節制をすれば普段の給料で充分購入できるだろう。そこまでの高級品でなければ。
ユーリとエルヴィンの付き合いはなんだかんだで五年ほどになるが、その間彼女は高価な品や贅沢な嗜好に殊更の興味を示すことは無かった。そのことから考えても、恐らくそう言った類のものでは無いのだろう。…………彼女の欲しいものは。
それにも関わらず、この一年ほど金銭に拘る発言が増えた気がする。一体、何をそこまで求めているのだろか。
(まあ…ユーリの洋服の好みは知らないし、勝手に選んで『まじダサっ!』みたいな反応をされても困る。)
と言うか、よしんばそんなことを言われたら割と辛い。
……………何を買っても、渡してやることは実際には適わないのだが。考えるだけだ。考えるだけなら自由だ。ひどく無益な行為ではあるが。
『………まあ、私も年頃ですからねえー…。欲しいものも色々あるんです。』あの時に、うまく言葉を飲み込めたことにホッとした。
『何が欲しいんだ。言ってみてごらん。』
『あまり高価じゃなければ、考えても良いだろう。』
『そうだな、それなら次の誕生日のお祝いにでもしようか。』ユーリの誕生日も知らない癖に?
聞けば良いじゃないか。もしくは与えてやれば良いじゃないか。
良い訳があるか。
愛情を与えないことが、自分を慕う娘にしてやれる唯一のことだ。
リクエストBOXより
エルヴィンとただ単に過ごしてほしい で追加させて頂きました。
素敵なネタ、どうもありがとうございます。
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