◇指示
指定された喫茶店に、エルヴィンがいるとは限らない。
ユーリとしては、結局彼の姿を見つけることは適わずに「いませんでした、すみません!」と、書簡をナナバに返して終わりになるのが一番有難い未来予想図だった。
だが、その期待はあっさりと裏切られる。
(うおおおお………おおい…。いるよ…いるじゃん。最っ悪…………………。)
ユーリは……三つほど離れたテーブルに腰掛ける壮年の男性の姿を何度も確かめては、頭を抱えながら胸の内で盛大に唸り声を上げた。
(つーかおっさん、何サボってるんだよ…!貴方が大人しく団長室にいたら私がこんなところに寄越されることは無かったのに…!!ああー…嫌だ。話しかけたくない…うおー…嫌だ……!)
ひとしきり心中で悪態を吐き、机上にあった水を飲んだ。
…………どうせ、自分が話しかけたところでまたいつもの様に冷え冷えとした会話が繰り広げられるだけだろう。
傍目には普通に聞こえる応酬かもしれないが、エルヴィンがいかに自分に対して冷えた心情を持っているかが…ちょっとした仕草や言葉の隅々から嫌という程に伝わってくるのだ。
特に彼は周囲に人がいる状態でユーリと接点を持つことを嫌っていた。最悪無言で席を立たれてしまうかもしれない。
(傷付くんだよなー…。他の団員にはそこそこ優しいだけに………。)
ユーリは溜め息を大きく吐き、残りの水を飲み干す。ボーイがやってきてはそれに水を足し、「お客様、ご注文はお決まりですか。」と尋ねてくる。
「うーん…。紅茶をとりあえず一杯………。あそこに座ってる金髪刈り上げのおっさんにあげて下さい。」
「ストレートですか。」
「ええそうですね。タバスコとか入れても良いですけど。」
「………はい?」
「いーえ、なんでもございません。ストレートでよろしくお願いしまァす。」
もうこうなったら腹をくくるしかねえ、とユーリはヤケクソになりながらメニューもろくに見ずに注文をした。
初老のボーイは礼儀正しくお辞儀をしながら「かしこまりました。」とそれを承る。
彼が立ち去ってから、ユーリはエルヴィンのことを再び何とは無しに眺めた。
この喫茶店は、街の中心に据えられた広場を囲うようにして建つ建造物の回廊に面している。広くとられた窓からは、向かいに聳える時計塔や行政館、鐘楼などの洗練された建築美が臨めた。
いつも自分が利用する臭くて汚い呑屋や飲食店とはまるで異なる趣の店内を、ユーリは一通りぐるりと見回す。
(…………落ち着かねえー…。落書きひとつないじゃん、この店。)
広い窓にはたっぷりとドレープがかかった絹のカーテンが吊り下げられていた。その間から弱い光が、照明の落とされた店内へと緩く差し込んできている。
運河が近いので、空気が少し冷たかった。広場に面しているだけあって店内はやや混雑していたが、猥雑な雰囲気はまるで無い。
皆、話し声や仕草のひとつずつが落ち着いているのだ。きちんとテーブルごとに設けられた仕切りの中に収まって、優雅に会話を交わしたり、しめやかに一人の時間を過ごしている。静かな空気が室内を満たしていた。
その暗い景色の中に浮き彫りにされる体で、父親の白い肌と女の様に整った顔立ちは際立った。
赤いソファに身を預けている彼はやや目を伏せつつ、既に空となっているらしいカップを手持ち無沙汰に弄りながら、回廊の向こうの美しい広場を眺めていた。
やがて、先ほどのボーイがエルヴィンの元に白い磁器製のポットと揃いのカップを持ってやってくる。
………当然、彼は不思議そうな顔をした。ボーイが流れる様な仕草でユーリの方を掌で指す。彼女がいるテーブルから二人の会話を聞き取ることはできなかったが、あちら様からでございます、と言った様なところだろう。
エルヴィンが怪訝そうな顔をしてこちらを向いた。そしてユーリの姿を確認し、なんとも言えない表情をする。
ユーリは軽く片手を上げ、「どうも…」と呟いては愛想を入り混ぜた表情で笑った。
……………しばし、二人は見つめ合ったままでピクリとも動かずに時間が経過する。
分かりやすく空気が固まっているのをユーリは身に沁みて理解した。「はは…」ととりあえずヘラリと機嫌を伺うように笑ってみる。
……………伺わなくても分かった。めっちゃ御機嫌斜めである。めっちゃ眉間に皺が寄っている。
そして、エルヴィンは当然のように無言で席を立った。「うおっ…ちょいっ!」と思わずユーリは声を上げて立ち上がる。
「ヘイヘイヘイヘイヘイヘイ、待ってください。待ちましょう。お待ちくだされ。」
ユーリは歩き出してしまう彼を引き止めるようにして腕を掴み、再び椅子へと座らせた。
「向かい座っても良いですか?はい、どうもどうも。ありがとうございます。」
そして彼の答えを待たずに同じテーブルへと着席する。
「………急に話しかけてごめんなさいね。でも紅茶に罪はありませんよ。冷める前に飲んでいかれたらどうです。」
白い磁器製のカップに紅茶を注いでやりながら、ユーリは言葉を続けた。
当然のことながら、エルヴィンは未だに娘の突如とした出現に面食らっているようである。
だが勿論、ユーリの心中も穏やかではなかった。確実に父親は心象を悪くしている。エルヴィンの態度が現れた仕草のひとつひとつが、彼女の胸の奥をぎゅっと引き絞るような心地すらしていた。
「……………何故。ここにいる。」
父親の声は静かで低かった。ユーリはポットを机の上にゆっくりと戻しながら、彼の方をじっと見た。エルヴィンが瞳を伏せていた為に、視線は交わらなかったが。
「用事があるなら、公舎の方で済ませてもらいたい。こんなところにまで来られても、迷惑だ。」
「別にー…?私だってこんな息がつまるような場所に来たくて来た訳じゃないですよ。貴方のストーカーをしてるつもりもありません。なに?自意識過剰ですか。あは」
つい後先考えずに発言してしまった後、しまったとユーリは後悔した。またしても無言で席を立とうとするエルヴィンの腕を急いで掴み、再び着席させようと引っ張って寄せる。
「ごめんなさい。マジで嘘です、大嘘。二度と生意気な口を聞きません。すみません。話を聞いてください。」
半ばヤケクソになりながら早口で弁明の言葉を口にしつつ、ユーリはナナバから預かってきた書簡を「はい、これです。」とエルヴィンの目の前に差し出す。
「ナナバさんからの頼まれごとですよ。」
エルヴィンが受け取ろうとしないので、更に彼へと近づけるようにしながら手短に概要を述べる。
少しの沈黙。
後、ようやくエルヴィンが手を伸ばしてそれを受け取ってくれた。ユーリは安堵して溜め息を吐く。
「別に………貴方のこと、不機嫌にしたかった訳じゃないんですよ。」
ごめんなさい。
一言謝って、ユーリはまた曖昧に笑った。今度はエルヴィンとしっかりと視線が合う。緊張して、ユーリはテーブルの下でぎゅっと拳を握った。
「昨日、古城でリヴァイさんや皆に軽くお別れを言ってきましたよ。まあ…折角こうして偶然にも会えたんです。次の壁外調査についての話も詳しく聞かせてくださいよ。」
通りかかったボーイにカップをもうひとつ頼みながら、ユーリは話を続けた。
「理由があって、私をリヴァイさんの班から呼び戻したんでしょう。」
首を僅かに傾げながら、眼前の男性を見つめる。また、空気が沈黙した。周囲の客たちのさざめきのように静かな話し声が耳を滑っていくだけである。
やがてカップがやってきたので、ユーリはそれに紅茶を注ごうとポットに手を伸ばす。しかしそれが目的のものに触れることは無かった。
エルヴィンが、何故か彼女の掌をしっかりと捕まえている。ユーリは「………なんですか?」と訝しげに尋ねた。
彼は応えず、ユーリの指先を掴んだままで自分の方へと引き寄せる。引き寄せながら、「やはり…俺は今、ここでお前と話すことは何も無い。」と抑揚のない一定のトーンで発言した。
しかし話しながらも、引き寄せたユーリの掌中へと少ない動作で指をなぞらせて何事かを書いている。文字……どうやら、人の名前らしい。
(………うん?………誰の名前だ、これ。)
「呼び戻した理由など無い。単に、お前の実力が至っていないから編成を変えただけだ。」
中々辛辣な発言をエルヴィンはしているが、恐らくこれは聞かなくても良いのだろう。大切なのは、今掌に書かれている文言だ。
(それにしても、もう少し言葉を選んでくれても。私だって傷付きますよ………)
「…………へえ、そうですか。そりゃ結構」
「余計なことはしなくても良い。いつも通りミケに従え。」
「はァい、仰せのままに。」
(この名前、覚えがあるな………。)
今度はユーリが父親の手の中に数文字ほどのスペルを書き付けた。最後に疑問符をつけ、質問の体を取る。
掌の中に記しされたいくつかの名前を、どこで見たのか思い出したのだ。
………今朝。ナナバの書類を運ぶのを手伝った際に軽く目を滑らせた一覧だ。調査兵団への入団を志願する今期の訓練兵たちのリストに含まれていた名と一致している。
父親はゆっくりと瞬きをしていた。どうやらそれを肯定しているらしい。
(……………名前の指定だけだから、身辺を洗うだけで良いんだよね。くわばらくわばら…ですなあ。壁内も安全じゃ無いってことかあ。)
ユーリはちょっとだけ笑ってから、父親の掌中から自分の手を引き抜いた。
その意図を汲んでも、殊更の感慨が湧くことはなかった。父親が自分を求めたこと、巨人と人間がエレンの存在によってイコールで結ばれたこと、これらを鑑みても彼の行動は妥当だと言えるだろう。
エルヴィンはひとつ頷いてから、テーブルの脇に据えられた窓の外へと視線を戻す。
…………どこかぼんやりとした表情だった。何かを考えているような、何も考えていないような。
「団長。」
白い光に照らされ、大理石の彫刻のように深い影が落とされていた彼の横顔に向かって、ユーリは話しかけた。
反応して、彼は瞳だけこちらに向ける。
「何考えてるんですか………。」
頬杖をついて尋ねると、「肘をつくな。」と小さく窘められた。大人しく腕を下ろす。
「……………そうだな…。ずっと思い描いていた景色が、すぐ近くにあるかもしれない可能性を…ここ最近、折に触れて感じる時がある。」
てっきり無視されるか適当にあしらわれると思っていた質問だが、思いの外エルヴィンはきちんと答えてくれるらしい。「へえ」と相槌を打ち、ユーリは続きを促した。
「次の壁外調査は、調査兵団にとっても…そして俺にとっても、非常に重要な一手になる。」
しかしながらエルヴィンの発言は、ユーリへと語りかけるというよりは独り言のような雰囲気を持っていた。ユーリはそれを話半分に聞きながら、通りかかったボーイに「紅茶のおかわりくださいな。泡立てた生クリームとラム酒入れて。」と追加の注文をする。
「もしかすると、この時のために自分が生きていたかと思えるほどに………」
エルヴィンの表情は珍しく恍惚としていた。ユーリは少しの間訝しげにその様を見守っていたが、やがて「そうですか。」と呟く。
「団長なら…その、思い描いていた景色にきっと至れますよ。」
愛想の良さを心がけて、そう言った。だがエルヴィンからの反応はない。彼は今、目の前にいる娘の存在はほとんど忘れて自分の世界にいるらしい。
いや、それはいつものことである。ユーリばかりが彼の意識や行動を慮って、無益な空回りを繰り返している。
「私も出来る限り協力しますよ。」
とりあえずは彼を肯定してやる言葉を投げかけつつ、ユーリは(というか、どうやっても至るでしょうよ。貴方なら。)と冷えていく胸中の温度を身に沁みて実感しながら考える。
(………また、この人は滞りなく目的を達成させる為に、要領よく大切なものを切り捨てるんだろうな。)
(彼に罪悪感が無いだなんて思っていないよ。辛い時もあるでしょうし。私にそれを否定する資格も無し…。ある種の才能だもの。人の上に立つ人間の。)
どこかで低く単調な音楽が演奏されている。ちら、と音がする方を見れば店内に据えられているピアノが黒い胴を光らせているのが目に入った。絃楽器を弾く人間も幾人かいる。
唄のない、静かな音楽である。
(でも………切り捨てられる方の立場は?)
(私は人類の未来とか存続とか興味ないし。調査兵団の為に喜んで死ねるほど立派な兵士でも無し。)
(地下街で嬲られ続けて殺される運命だった人間が、こんなことを思ってしまうのは烏滸がましいのだろうけれど。)
はは、とユーリが僅かに声を上げて笑うので、エルヴィンが「どうした」と尋ねてくる。ユーリはゆるゆると首を振り、「何でも無いですよ。」と答えた。
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