◆暗唱
『女神の百合』摘発から――――――数年後
「主席だそうだな。」
エルヴィンはユーリへと視線すら寄越さず、一言そう述べた。ぺら、と手元の書類をめくるらしい音がする。彼女は窓の外、なにか猛禽の黒々とした影を眺めながらそれを聞いていた。
「ええ……まあ。」
気の抜けた返事である。
…現在、エルヴィンとどう接して良いのか分からないのが彼女の正直なところであった。唐突に現れた、自身の父親と名乗る人物。金糸の髪に碧眼、なるほど目立つ外見的特徴は似通っていると言えるだろう。しかし………本当に、彼が。そして、何故今更。
(いや………今だからこそなのだろう)
訳が分からないまま兵士としての教育を受ける為に訓練兵団に放り込まれたユーリだが、少しずつ彼がどういう人物なのか知るようになった。
調査兵団の分隊長で、とても優秀な兵士であったこと。次期団長候補として着実に足場を固めつつあったこと。そうして、皆の予想を裏切らずに団長に指名されたこと。
(そして、私を使ってこの兵団の安寧を計っている)
ひと月に一度ほどの会合。そこでユーリは彼から命を受け、翌晩に実行する。綿密な計画と徹底した秘密主義。直前まで狙いを漏らさないのがエルヴィンのやり方だった。遂行するユーリにすら。
故にユーリはどんな命令がきても柔軟に対応できるように勉強する必要があった。しかし、ノウハウは分かっていたから難しいことではない。10才にも満たない小さな頃から、繁雑な地下街でそれだけを生きる術として、糧としてやってきたから。
(私は強い≠ゥら)
地下街から、『女神の百合』から抜け出しても、それだけがユーリの財産だった。相も変わらず愛情家庭友人すら持たず、持てない彼女の……。
そして今日、ユーリは三年の訓練期間を終えて調査兵団に入団する。入団志願者はその期彼女ひとりだった。簡易な手続き後、入団式も無く、とてもひっそりとユーリは兵団に加えられた。彼女もまたなんの感慨も抱かずに自由の翼の紋章の入った制服に腕を通した。
(入る兵団は最初から決まっていたしね)
窓の外の猛禽が飛び去ってしまったので、ユーリは再び父親…らしい男のほうに視線を戻した。ちょうど、その日はひと月に一度のいつもの%だった。
ユーリは黙って、エルヴィンの言葉と命令を待つ。
「………今日は、やってもらうことは何も無い。」
「そうですか。」
こういう日も、珍しくはない。そう毎月毎月人死にがでるのも穏やかは話ではないから。しかし、なにも用事は無くてもどういう訳か二人はひと月に一度必ず会った。十分にも満たない会合のときもある。けれど、顔だけは合わせた。…………ユーリは、それが嫌ではない。好きでもなかったけれど。
「だがお前が俺たちの兵団に入るうえで、今一度約束事を確認しようと思う。」
エルヴィンはようやく顔をあげる。(綺麗な顔だなあ)とユーリは思った。
(…この男が父親だとして、私も大人になったらこういう綺麗な人になれるのかな)とも。
彼女自身、自分の容姿にそこそこ自信があった。見せ物≠ニして望まれた一要因がそれであったし、人気が無くなれば用済みとばかりにショーの道化役として殺されてしまう世界だ。身成には気を遣っていた。
(まあ、もうそういうのも関係ないんだけどね。)
出来るだけ、顔立ちを隠すことがユーリとエルヴィンが約束したひとつだった。故に現在彼女の顔の上半分…目の下辺りまでは長い前髪ですっかり見えなくなっていた。前が見えにくいかと聞かれればそういうことはなく、かえって周りが見えすぎず快適だった。
ユーリはふう、と息を吐いてからこっくりと頷く。それから「私と貴方の関係を決して漏らしてはいけない?」と確認するように言った。
エルヴィンはじっと自分の娘を見つめる。無言のうちに、続きを促しているのだろう。
「あと……私は貴方にとって『戸籍の無い人間/いなくなっても構わない人間/不自由な仕事を頼める人間』という便利な仕事道具でしかないから…それ以上踏み入った関係は望まない。」
エルヴィンがそっと目を伏せて同意してくる。……ユーリは浅く笑って、(言われなくてもそうするよ)と心の中で毒吐いてみた。
「貴方の命令すべてに従うこと。交換条件として、最低限の幸福を保証してくれる。」
もう耳にたこが出来るくらい聞いていたので、彼女はそれらを諳んじることができた。「以上ですよね?」と尋ねると、エルヴィンはもう行って良い、というように書類へと視線を戻す。
「………………。おやすみなさい、お父さん。」
ユーリは笑ったままでそう言って、扉のほうへと向かう。『お父さん』の響きに一瞬、エルヴィンの眉が不快そうにぴくりとしたことが彼女には愉快だった。もうなにも言わず、振り返らずにドアのノブに手をかけ、父親の部屋をあとにする。
ユーリはエルヴィンに興味が無かった。エルヴィンもまたユーリに興味は無いのだろう。
(それで良い。)
二人の間には利害関係しか存在しなかった。
(それで良い。)
出会ってから三年以上経つのに、何よりも濃い血で繋がれているのに、それを確認する術を二人とも持たないまま。
ユーリは慣れない調査兵団の公舎をゆっくりと歩んだ。外はすっかり夜である。窓ガラスには彼女のくたびれた姿がはっきりと映り込んでいた。
彼女はそっと長い前髪を分けて、随分と久しぶりに自分の顔を眺めてみる。
(……………………。)
不快になって、戻す。
やはり、二人は似ていた。それは動かしようの無い事実であった。
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