道化の唄 | ナノ

 ◇質問


夜も更けた時刻。自室に帰ろうと歩んでいたエルヴィンは、はた、と足を止めた。そして薄暗い進行方向を目を細めて見据える。

自分が戻るべき部屋の扉…その横の壁に何者かがもたれて立っているのだ。それが誰かを確認すると、彼は苦いような気持ちになって僅かに頭を左右に振った。


「遅くまで………お仕事、お疲れ様です」


ユーリはエルヴィンの方を見ないで、心がこもらないに違いない言葉を吐いた。

…………暫くの沈黙。ようやく彼女は父親の方を見て、「こんばんは。」と挨拶をして笑った。



「…………睨まないで下さいよ。こんな深夜です。きっと誰も見てませんよ。」

ユーリは笑顔のままで彼の方へとそっと足を踏み出してくる。床板が、僅かに軋んで鳴った。


「今夜は…呼んだ覚えは、無いが。」

「ええ、呼ばれてませんよ。でも私はお父さんに用事があるんです。」

「生憎だが、俺はお前に用事はない。」

「おや貴方、耳ついてます?私がお父さんに用事があって訪ねてきてるんですよ。貴方が私に用事があるかどうかの話は今してません。」


…………エルヴィンは溜め息を盛大に吐きたいのを我慢する。

数年ほど前までは、自分の強い言葉に萎縮して何も言えないくなる有様だったが…最近はもうここでの生き方を心得たらしい。とみにこの一年ほど、随分とユーリはエルヴィンにとってやり辛い存在となっていた。



「………では、何の用事だ。」


用件を聞こうと、エルヴィンは今一度娘の姿へと視線を移す。………そして、言葉に詰まった。

ユーリは彼の動揺に気がついたらしく、「ああ、これ。見覚えありますか。…覚えててくれて、複雑だけどちょっと嬉しいですよ。」と自身の首に巻いたマフラーの端をちょっと持ち上げてヒラヒラと宙に泳がせた。


「いえ、勘違いしないで下さいね。別に今更これを捨てたことに文句を言いにきたわけでもありません。むしろ謝りたかったんですよ、欲しくもないもの、もらって困っちゃったでしょう。」


ユーリは明るい声色で話しながら、深い緑色のマフラーの端の飾りを指で弄んだ。青色の瞳が同じ色をしたエルヴィンのものを捕らえてくる。……どこか申し訳なさそうに、笑いながら。


「だから、今夜は聞きにきたんですよ。何だったら受け取ってくれますか、って…。」

ユーリは、エルヴィンのすぐ前まで歩みながら言葉を続けた。そして立ち止まり、彼のことを見上げる。


「お父さん、何が欲しいですか。」


…彼女の声の背景では、冷たい風が外の木立を震わせる音がした。しかし、それだけである。静かで青い夜だった。


「……………………。」


エルヴィンは、黙って足を踏み出す。そして前に立つユーリの身体の脇を通り抜けた。

ユーリはそんな彼の動向を目で追っている。…扉の前に立ち、今一度彼女の方へと顔を向けた。そしてただ一言、「何も必要ない。」と言葉を放って部屋の中へ、扉を閉め、錠を下ろす。


下ろしたままで、エルヴィンはただただじっとして動けずにいた。胸の内で、心臓がゆっくりと波打つのが分かる。嫌な鼓動の感覚だった。胸の奥が痛むような。

やがて、その感覚も収まる。ようやくエルヴィンはその場から身体の硬直を解き、ジャケットを脱いで大きく息を吐いた。


(……………………。)


彼は、暗闇の中で何かを考える。最近は、毎日がそんな夜だった。考えることも、やることも多過ぎる。


(だから、迷ってはいけない。)


彼は自分に再三そう言い聞かせた。…………どうやら今夜も眠りが浅くなりそうである。ひどく、うんざりとした気持ちになった。







青い闇の中、ユーリは扉の外にポツンと取り残されていた。

そのまま、壁にもたれてずるりと座り込む。


(うーん…………。ダメかあ。)


そして、首をひねって芳しくない結果に終わった父への接触を思い返す。


(何がお気に召さなかったんだろう)


深緑色のマフラーを巻き直しながら、ユーリは首を傾げた。


(まあ良いけどね…。予想の内の反応だったし。)


エルヴィンは、ユーリが必要以上に干渉するのを嫌っていた。関わり過ぎないことは、彼女が守るべき父親との約束のひとつである。

……別に、その関係に不都合があったわけでもない。時々強い言葉で叱責を受けることもあるが、それくらいである。真っ当な教育、衣食住、そして生きる術を与えてくれた。充分過ぎるほどである。

だが………


(私はね………。昔と違って、貴方が怖いから命令に従っている訳じゃないんだよ。)

(お父さんの願いや望みは何なのかな。それを叶えれば…………)


…………父親に出会ってから、辛いのは自分ばかりだと思っていた。だが、最近ユーリは感じるのだ。


(なんで貴方、そんなに寂しそうなの。)


固く閉ざされた扉へと、ユーリは問いかけるような視線を送る。黒い塗装がされた重そうな扉は何の返事も寄越さなかった。当たり前だが。


「どうすれば、笑ってくれるかな。」


呟いて、ユーリは立ち上がった。そして、その場から立ち去る。時刻に配慮して、なるべく足音を立てないようにしながら。

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