◇呟き
ユーリのことを考えながら、エルヴィンは暗く長い廊下を歩いていた。
薄い服から露出されていた肌は極めて白く、赤黒く溜まった傷口がよく目立っていた。
古い傷跡もあった。すでに塞がってはいたが、肉が斑らに描く痕は恐らく一生消えることはないのだろう。
(こんな仕打ちを………)
自虐的な気持ちになって笑う。ここ最近著しく感じるようになった何かが体の内側で蠢くのを感じた。
(だが……それでも、お前は俺を憎めずにいるんだな。)
冷たくして、徹底的に避けた。時には敢えて傷付ける言葉を選んだ。恨まれるくらいが丁度良いと思ったからだ。情は、彼女にとっても自分にとっても良い結果を導かないと分かっていた。
(幾年経ってもまだお前はこれだ……。)
エルヴィンは、例のマフラーの色を思い出そうとして頭の中に図像を結んでみる。確か、深い緑色をしていた。
(まるで成長していない。)
一体彼女は、どんな気持ちであれを購入したのだろうか。そして、何を考えながら自分に贈ったのだろうか。与えられる愛情は無いと、繰り返し告げてきたのにも関わらず。
(それとも……見返りすら求めていないのか…)
いや、それはありえない。ユーリはそう言った出来た人間の類では無い。
彼女は未だに求め続けているのだ。
ああ、とエルヴィンは小さく声を上げた。
最早執念だ。やめて欲しいと思った。
そして危惧すべき事案は、変わらない彼女だけでは無い。彼女へと向かう自分自身の気持ちの形が変わっていくこと。
それが今の彼にとっては一番の恐怖だった。
(捨ててしまったものは…戻らない……)
今まで切り捨てた膨大なものを、頭の中に描く。その中には、勿論例のマフラーも含まれていた。
(今更………)
考えながらも、エルヴィンは歩みを止めなかった。
やがて暗い廊下の最奥、自分の部屋の前へと辿り着く。室内は掃き清められ、静謐な空気が漂っていた。先ほどまでいたユーリの埃に塗れた部屋とはまるで違う。
冷えた夜の空気を吸い込み、エルヴィンは、「ああ」と微かに声を上げた。
*
ごろりといつもの尖塔の屋根の下で横になり、ユーリは空を見上げていた。
白々と明け始めた空の中を泳ぐようにして大きめの鳥が羽を広げる。薄濁った形の崩れた雲が狂うようにささくれだって、澄み切った空のここかしこに屯していた。
深い緑色から透明な青色と薔薇色とを混ぜたような色へと変わりいく空を、ただ彼女は先ほどから長い間ぼんやりと眺めていた。
腹の上には一冊の本があった。数少ない、ユーリが父親から与えられたもののひとつである。
もう幾年前になるだろうか、彼女が薄暗い地下からこの地上に訪れてほどない頃である。それは主に道徳の指導の為に使われていた。
読み書きもままならなかったユーリにとって、頭の固い文章で構成されたこの書籍に殊更の思い入れを抱くのは難しいことであった。
内容としても愚にもつかないようなつまらないものだったし、正直この本が言いたいことの大半を彼女は小馬鹿にしていた。
(……………。)
寝そべったままでパラパラとページをめくる。いつの間にか年月の洗礼を受けた深い赤色の本は、ユーリの掌によく馴染むものとなっていた。
「愛は寛容であり……」
道徳の教育に使用されていたこともあり、この本は愛や義について説く文言が多かった。
行き当たりばったりに目に入った節を、ユーリはぼんやりとした気持ちで音読した。
「愛は親切です。………また人を妬みません。」
ひどく心のこもらない声で文字をなぞってはいたが、その言葉が真理とは言えずとも……間違ってはいないことが、今の彼女には少しだけ分かる気持ちがした。
(愛か……)
過去に自分がいた場所では、愛とは性欲に少しの肉付けを加える程度のものだった。また、その感情は利用される為に存在していた。
だからユーリは愛情の行為を警戒して、忌避していた。自分を守ってきた薄っぺらい信念が否定されることが恐ろしかったのだ。
「自分の利益を求めず……不正を喜ばず………」
だが……ここではどうだろう。
それだけが愛の形ではないことを、ユーリはここで様々な人間から教えてもらうことが出来た。
それを理解した今だからこそ、いかに自分が愛情の理解から程遠い場所にいるか思い知らされる。それはユーリを心の底から濁らせていくような気分にさせた。
「すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます…………。」
どんどんと声は小さくなっていったが、そこでユーリは「………いつまで?」と一段声色を張り上げて自らの言葉を打ち消した。
「いつまで………いつまで我慢すれば良いの?」
言っていて、ユーリはひどく虚しい気分になった。
「無償の愛なんて……私には、無理だよ。」
(好きになれば、好きになってもらいたくなる)
「お父さん…………。」
何度も嫌いになろうと試みて、やっぱり無理だった人物を呼んでみるように呟いて、ユーリは大きく大きく溜め息を吐いた。
空は青く澄んだ色へと変わり、切れ味の鋭い刃のように真っ白な太陽が辺りを照らし始める。しかし彼女は長い間そこから動けずにいた。死体のように、じっとして。
道化の唄 第二章 Scherzo
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